閣僚が逮捕された部屋


 10月革命の際、ケレンスキー内閣の閣僚が労働者・農民の部隊に逮捕された冬宮の一室。時計は逮捕の時刻を指している。 (1984年8月撮影)

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ラズリフ湖畔


 ペテルブルク市北西側の郊外にラズリフ湖という遠浅の湖(入り江)がある。1917年「七月事件」後レーニンはこの地に身を潜めていた。写真は『国家と革命』を書いたとされる“緑の書斎”。


 当時の隠れ家だったという藁小屋も復元されていた。

 全体をガラスのケースで覆われたこの建物は何? (いずれも1988年8月撮影) 







レーニンの母と姉妹の墓


 ペテルブルク市内のヴォルコヴォ墓地にある。ソ連崩壊後は、モスクワのレーニン廟にあるレーニン本人の遺体もあのように一般に公開するのではなくヴォルコヴォ墓地の家族の側で静かに眠ってもらうのがよいという意見も出ている。
 下段の写真は、左から順に、母マリヤ・アレクサンドロヴナ、姉アンナ、妹オリガ。  (上段:1995年8月,下段:2020年2月撮影)







ピスカリョフ墓地



 ペテルブルク市の北部にある広大な記念墓地。第二次世界大戦でレニングラード市は900日にわたってドイツ軍の包囲下に置かれ、ことに1941年から42年にかけての冬、食糧不足から市民に大量の犠牲者が出た。亡くなった市民をそれぞれの遺族が仮埋葬していたのがやがて墓地になったと言われる。ここに葬られている市民の数だけで大戦中に死亡した全米兵の数よりも多いとされる。  (最上段:2020年2月撮影)


 モニュメントの背後の壁には「誰一人忘れまい、何一つ忘れまい」のフレーズで有名な女流詩人オリガ・ベルゴーリツの鎮魂の詩が刻まれている。  (2段目:1985年12月,3-4段目:2020年2月撮影)

 多数の市民・兵士(墓標の★は兵士の墓であることを示す。)がまとめて葬られているため、墓標にはただ年が記されているだけである。   (5段目左・中:1985年12月,同右:1986年12月,6-8段目:2020年2月撮影)

 7段目中・右の写真のような特定の個人を示すプレートは非常に稀だが、おそらく遺族・親類縁者かあるいは親しかった人が後世に置いたものであろう。

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ターニャの日記


 

1941年秋からのレニングラード包囲で家族すべてを失い、やがて疎開先で自身も亡くなった少女ターニャ・サビチェワの残したメモ。ピスカリョフ墓地の資料室に展示されている。 (1986年12月撮影)

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砲撃の注意書き(ネフスキー通り)


 レニングラードがドイツ軍の包囲下にあった時、郊外にいるドイツ軍陣地からの絶え間ない砲撃にさらされていた。これはネフスキー通りにあった「通りのこちら側は最も危険」という注意書きを復元したもの。    (左:1985年8月,右:2020年2月撮影)






拡声器のあった所(ネフスキー通り)



 その当時、通りにはラウドスピーカーが置かれ、市民はそこで前線の戦況を聞いた。写真は、ここにそのスピーカーがあったというプレート。    (2005年8月撮影)

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イサク寺院に残る弾痕


 イサク寺院の柱や階段に、レニングラード封鎖当時、ドイツ軍から受けた攻撃の痕が今でも残っている。   (2011年12月撮影

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道路脇のトーチカ跡



 当時の最前線は現在のプルコヴォ空港のすぐ南側ぐらいのあたりにあった。写真はモスクワ街道沿い、ホテル「プルコフスカヤ」|(現「パーク・イン・バイ・ラディソン・プルコフスカヤ」)の近くに残されたトーチカ跡。    (1985年8月撮影)

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勝利の広場


 そのほぼ最前線だったプルコボ地区にレニングラード攻防戦の記念碑と資料館がある。ホテル「プルコフスカヤ」の前のロータリーの中央だが、交通量が多く地下道を渡って行くしかないので、意外に知られていない。 (1984年8月撮影)

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