ここでは、秩父屋台囃子(以下「屋台囃子」といいます。)に関して、今までに公表された論稿の系譜とその背景、研究の現状とその要因について説明します。


 
 屋台囃子に関して、これまでに多少の論稿が公表されてきました。しかし、伝承の実際との間には、著しい乖離が存在しています。
「秩父市誌 その起源は、地元自治体がかつて発行した公的な印刷物にまで辿ることが出来ます。

 屋台囃子が昭和30(1955)年に埼玉県指定無形文化財に指定されたことを受けて、『秩父屋台ばやし』という小冊子が発行されました(昭和33年2月1日秩父市教育委員会・秩父市文化財保護委員会)。これが屋台囃子に関して初めて活字で著された印刷物となりました。

しかし、この冊子は、「高野右吉氏は昭和30年11月1日無形文化財秩父屋台ばやしの保持者として県から認定せられた。」とし、埼玉県指定無形文化財の指定で告示された「保持者代表」を、特定の人物に対する「個人指定」と取り違えるという致命的な誤りを犯したのでした。

『沿革』と『秩父祭屋台』 さらに、「所謂まつり囃子は秩父郡内各所にあってこれらのすべてが指定文化財というわけではなく正しくは技能保持者たる高野氏が加わって演奏される囃子のみが指定無形文化財秩父屋台ばやしということになるのである。」と、何とも奇想天外な論理を展開した上で、「保持者」が「如何にしてこの卓越した技能を修練したか」や「正確な技能者の養成に努力を続けている」ことへの賛辞に多くの分量を費やしています。

 ここには、文化財指定の趣旨に対する認識もなければ、屋台囃子が屋台町で継承されている事実への関心もありません。この流れは、その後刊行された『秩父神社例大祭屋台とその沿革』(昭和35年11月20日)、『秩父市誌』(昭和37年5月3日)、『秩父祭屋台』(昭和38年3月25日)へと受け継がれていきました。



『秩父祭』 このような流れに歯止めをかける機会が実は到来していたのです。

 昭和54(1979)年2月3日、屋台囃子を含む「秩父祭の屋台行事と神楽」が国の重要無形民俗文化財に指定されました。しかし、指定後も屋台囃子に対する調査・研究が行われることはありませんでした。「夜祭の起源と祭礼文化の諸相」(「秩父祭の屋台行事と神楽」重要無形民俗文化財指定記念写真集『秩父祭』(昭和54年11月15日)所収)では、「屋台囃子については『沿革』・『市誌』その他の資料が公表されているので敢えて述べる必要もない」と、屋台囃子に関する記述そのものを放棄しているのです。

 さて、屋台囃子に関する論稿と伝承の実際との著しい乖離は、一体どこから来ているのでしょうか。

 これらの刊行物の編纂に当たったのは、秩父市内の教養ある人々、例えば、現役を引退して時間に余裕のある歴史に関心を持つ者、小学校・中学校の教員、図書館の職員といった人々でした。しかし、これらの人々にとって、屋台囃子は地元にありながら、近いようで実は遠い存在であり、屋台囃子の伝承の現場と彼らの生活領域との間には大きな隔たりがありました。

明治12年新調の大太鼓(2尺) また、彼らに芸能、風俗・習慣、言語などの文化的事象の伝播に関する認識が不足していたこと。当時、「アカデミズム」との接点を持たず、学術的・組織的な実地調査が行われなかったことも、その後の屋台囃子研究を後退させる大きな原因となったと考えられます。

 昭和30年代であれば、明治生まれの伝承者が健在であり、大祭の日には、笠鉾・屋台に乗って屋台囃子の演奏に第一線で携わっていました。この時、伝承者に対する聞き取り調査を行うべき絶好の機会を逸してしまったのでした。

 このようにして自治体が編纂した公的な報告書の類が、いったん活字になって公にされると、これが後の研究者にとっての有力な第1次史料となり、無批判に継ぎはぎされながら、さらに新たな素材となって拡大再生産されていったのでした。




屋台の曳行(上町) 秩父屋台囃子の研究は、その後どうなったのか。依然として、屋台町で伝承されている屋台囃子に関心を示すものは殆どなく、一部の例外(1)を除けば、「無形文化財」や「家元」を看板に掲げる太鼓演奏グループを扱うこととなっています。結果的に、屋台町における屋台囃子の伝承の実態からかけ離れた論考が民俗芸能研究家から公表されるに留まっています。

 一例を挙げましょう。小野寺節子「秩父ばやしの多面性」(『日本民俗学』第196号所収)。「「秩父屋台囃子」の躍進ぶり」として、東京都内のイベントでの家元を名乗るグループによる組太鼓を取り上げ、「観客は秩父祭りにかり立てられ、祭りの体験者は冬の夜に充満する独自の雰囲気、きわめて綿密に組織された人々の機敏な行動で曳行される屋台のはやしに思いをはせる。ここでは、はやしが秩父祭りを具現化し、象徴的役割も果たしている。」と組太鼓による太鼓ショーを絶賛しています。

 この論者は、屋台町で継承され、大祭の当日、笠鉾・屋台の中で演奏される屋台囃子と、「秩父屋台囃子」という名のステージ上の太鼓ショーとを見事に混同しています。
 
 秩父屋台囃子を屋台行事の中で捉えようとする時、笠鉾・屋台の曳行を見ても、屋台囃子の囃子方のほかに、100人を超す曳き手、下方に上方、消防団、行事に町会役員など様々な役割を担った人々によって運行され、さらに、それらを陰で支える町会の構成世帯があります。屋台行事はこのような人達が力を合わせて毎年繰り返しながら、次の世代に引き継いできたのであって、傑出した特定の者によって行われるものではありません。仮に、これらの中に屋台曳きの「家元」や「無形文化財」が現れ、屋台を曳く様子をステージ上で演じ、これを研究者が賞賛すれば、嘲笑の対象にしかなりません。

埼玉の文化財 近年に至ってもこの状況に進歩はなく、「保護や継承を見守る点から楽曲の視覚化という方法で、譜例を用いた例」として、小西吉久氏「秩父屋台囃子について」(昭和35年発行『沿革』所収)を持ち出す始末です(小野寺節子「埼玉県内のお囃子」(『埼玉の文化財』第58号(平成30年3月30日))。古民家の解体現場から希に出る程度の書籍に載った譜例など、屋台囃子の「保護や継承」に役立たない。それどころか、過去に継承の阻害要因となり、伝承者から拒否された事実認識もない。伝承の現場との接点を欠き、僅かな考証すら怠り60年前の誤謬にすがる姿は哀れです。
 残念ながらこれが屋台囃子研究の現状です(2)。


1 秩父屋台囃子の伝承の現場に密着し、詳細な実地調査の上で分析・考察を行った優れた研究事例として、次の二つを挙げることができます。
・埼玉民俗音楽調査会「秩父地方における民俗芸能実態調査報告書−中近における秩父屋台囃子の現況−」(平成3年12月)
・神木律子「秩父屋台囃子から見る秩父の文化と人間形成」(『埼玉民俗』第30号(平成17年3月))
 前者は、屋台囃子の演奏内容を音楽的に解析し、詳細に解き明かした画期的な報告書。後者は、「地域の教育力」の視点から、屋台囃子が地域で果たす人間形成の役割について、綿密に調査し、考察した論稿です。


2 既存の論稿を無定見に継ぎ接ぎした例として、浅賀ひろみ「秩父の祭りと秩父屋台囃子の歴史に関する研究」(『白鴎大学論集』第23巻第2号2009年3月)。論評に値しない、「研究」という表題にもかかわらず、研究成果のないこの論文がWikipediaの「秩父夜祭」唯一の参考文献となっています。




秩父夜祭書籍 これから屋台囃子について何らかの調査・研究をしようとするとき、その端緒となるのは、やはり、書店に並ぶ書籍でしょう。そこで、現在、書店で扱われている出版物の内、屋台囃子に触れているものについて、その内容を検証します。「研究成果」も、研究誌の枠を超えて一般書籍として書店に並ぶ。それはまた、「研究成果」が屋台囃子に直接携わる伝承者の目に晒されることを意味します。

 ここでは、『秩父夜祭』(2005年12月3日さきたま出版会)と『やさしいみんなの秩父学 ちちぶ学検定公式テキスト』(2007年3月31日秩父市・秩父商工会議所編集)の2点を見ていきます。

 まずは『秩父夜祭』。屋台囃子の成立に関して「秩父鉄道の建設に伴い、大正の初めころから屋台、笠鉾はだんご坂を登るようになった。これにより、それまでの流暢なお囃子から大太鼓をメインとする勇壮なお囃子へと変わっていったのである。」(88ページ・当書籍全般で執筆分担不明)と記します。伝承の実体験から考えて、祭りの長い1日から見れば、団子坂曳き上げという一瞬のために、屋台囃子の奏法が大幅に変化することなどありません。屋台囃子の成立をもたらす契機は明治初期にあり、物的証拠も存在します。にもかかわらず、満足な調査や考証を欠いた貧しい想像がこのように活字となったことで「定説」として一人歩きを始めています。活字文化の怖さです。

 次に、『秩父学』の記述の中から「研究成果」の例を挙げてみます。

埼玉の祭り囃子U・報告書 屋台芝居が「秩父祭りの4台の屋台では、年番で「秩父正和会」による歌舞伎が上演され」(239ページ)るものでないことは、当番年に小鹿野町津谷木に上演を依頼している中町会以外の人でも知っています。また、神幸祭の順路変更が「昭和51年」(197ページ)でなく昭和52年であることは、例えば自分が囃子手に乗り昭和51年に最後の番場通りを通ったというように実体験として鮮明に記憶しています。


 さらに、「中近の山車も、昭和初期まで、団子坂曳き上げ後に「鎌倉」「昇殿」などを奏していたといわれている。」(239ページ)という件は、執筆者の「研究成果」ではなく、埼玉県の報告書()の受け売りですが、中近で演奏されていた「鎌倉」、「昇殿」とは、秩父神社神楽の曲目であって、「「屋台囃子」以外の囃子が移入された証」にはなりません。

 「研究成果」が一般書籍として書棚に並ぶことで、おざなりの調査による認識の欠如や過去の文章の安易な継ぎ接ぎは、研究者同士のお友達内部ならともかく、屋台囃子に携わる人達に容易に露見します。研究者を名乗れば、取り敢えず伝承者は快く受け入れるでしょう。しかし、後日、活字になった「研究成果」を受け取り、内容も理解出来ないまま無邪気に喜ぶステレオタイプの田舎者ばかりではない。伝承者を甘く見るべきではありません。

 ※ 「埼玉の祭り囃子U(秩父地方)」(埼玉県立民俗文化センター 平成元年)この報告書の中で鎌倉、昇殿が「江戸囃子」という記述は誤りです。記述を誤った本人が言うのですから間違いありません。




こうした秩父屋台囃子研究の閉塞をもたらした要因とは一体何でしょうか。

川越まつり  平成17(2005)年2月21日、川越まつりが「川越氷川祭の山車行事」として国の重要無形民俗文化財に指定され、それまで民俗行事を地道に守ってきた人々に大きな衝撃を与えました。

 国の重要無形民俗文化財の指定は、祭りの当事者にとって大きな誇りであり、精神的な拠り所でした。川越まつりは、元々、川越氷川神社の例大祭でありながら、日程を土・日に変更するなど、祭りの実態が民俗行事から観光まつり、市民まつりへと変貌していました。「川越のようにしてはならない」との信念で行事の執行に当たっていた当事者にとって、川越まつりが重要指定を受けたことは、心の支えを喪失させるのに十分な、悪夢のような事件でした。 

 確かに川越氷川祭の実態を失った川越まつりですが、にもかかわらず「川越氷川祭の山車行事」として国の重要指定を受けるに至った背景には、川越市当局の並々ならぬ取り組みがあったことを看過すべきではありません。
 平成2(1990)年、川越市立博物館が開設されました。その後、ここを拠点に川越市教育委員会によって、平成11年度の予備調査を経て、平成12年度から14年度にかけて山車行事に対する組織的な調査が行われ、その成果が平成15年3月、『川越氷川祭りの山車行事調査報告書』として発行されたのでした。

川越氷川祭りの山車行事調査報告書  報告書は、本文編、資料編、音声・映像資料編(CD5枚・DVD1枚)から構成され、祭礼の歴史や組織と行事、囃子などに関する膨大な報告書となっています()。

 見方によっては、祭りに保護すべき民俗行事の実態がなくても、重要無形民俗文化財の指定を受けるに値する「英知」が川越に存在していることが認められたと捉えることも出来るのです。
 翻って秩父では、昭和54(1979)年2月3日に「秩父祭の屋台行事と神楽」が国の重要無形民俗文化財に指定されたものの、それ以降、屋台行事に対する組織的な調査は行われず、秩父市が編纂した報告書は存在しません。

 本来であれば、資料の収集・記録・保存やそれに携わる人材の確保・育成の拠点となるべき秩父市立民俗博物館は既になく、秩父市は屋台行事の記録・保存・公表に手が出せないのが実情です。
 『埼玉の文化財』第58号(平成30年3月30日埼玉県文化財保護協会)の特集は「ユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事と民俗芸能」」でした。川越氷川祭の山車行事について、川越市教育委員会の田中敦子氏による詳細な報告が掲載されたのに対して、秩父市からは秩父祭の屋台行事について1行もない。文章が書けない。人材を育てない。これが秩父市の実情です。

 川越まつりの在り方に秩父が学ぶべき点は確かにないでしょう。しかし、川越市には職員の資質の豊富な蓄積があります。川越市の10分の1でも秩父市にそれがあれば、多少は明るい展望も開けますが、現実は望むべくもありません。

 秩父屋台囃子研究の閉塞した現状をもたらした最大の要因は、ここにあります。

 ※ 「川越氷川祭りの山車行事調査報告書」の中で、祭り囃子を担当された大島久氏が平成21年5月11日、ご病気のため逝去されました。享年58歳でした。  大島氏は、報告書の編纂に当たり、祭り囃子を組曲として捉えた上でその構造を音楽的に分析するとともに、祭り囃子が伝承団体においてどのように伝承されているのか、伝承団体の類型によって伝承方法や演奏内容にどのような特徴があるかなどを精力的に解明されました。  また、日頃、教職という多忙な職務をこなしながら、民俗芸能研究にも尽力され、とりわけ、打楽器の専門知識を活かして、祭り囃子を自ら演奏しながら採譜し、分析できる数少ない研究者でした。次は秩父屋台囃子をと期待していた矢先でした。大島氏を失ったことで、秩父屋台囃子の音楽面における研究の可能性は、人材の点から壊滅的な事態となりました。まさにこれからという時に、余りに早い旅立ちでした。  心から御冥福をお祈り申し上げます。



 
秩父屋台囃子の研究は、今後どうなるのか。閉塞状況を打開することは、不可能なのでしょうか。

ならし これから秩父屋台囃子をテーマに調査・研究を始めようとするとき、立ちはだかる障壁は、まずは、現状を把握した既存の文献がないこと。そして、本来であれば、研究の先頭に立ち、また研究者の窓口となって適切に助言・指導出来る人材が地元行政に存在しないことです。それでも、十分な覚悟を持って困難に立ち向かおうとする有能な人材の出現を待つほかありません。

 大学の卒業論文のテーマに秩父屋台囃子(若しくは秩父夜祭)を選ぼうとしている皆さんに予め覚悟して貰いたいことがあります。それは、秩父屋台囃子について考察しようにも、既存の役に立たない文書に振り回され、街の知ったかぶりに翻弄されて、結果として伝承の実態からかけ離れた、学問的成果からほど遠い論文を提出して誤魔化さざるを得なくなるということです。そこでお奨めしたいのは、卒業単位の取得を目的とするのであれば、秩父屋台囃子を卒論のテーマにしないことです。それでもという気骨の持ち主には、卒業した後に改めて、このテーマに取り組まれることをお奨めします。

秩父大祭 下郷笠鉾と祭礼行事概説 秩父屋台囃子には研究の蓄積がない。それだけにやりがいがあります。困難な現状を厭わず、現地に腰を落ち着けて密着し、一から真摯に取り組む姿勢を持った優秀な研究者の現れるのが待たれます。


 そして、ここに来て、秩父屋台囃子や秩父夜祭を研究しようとする者にとって外せない「参考文献」となる優れた書籍が世に出ました。

秩父大祭 下郷笠鉾と祭礼行事概説』(発行 下郷笠鉾保存会 淺見佳久会長)です。
概略は→こちら

 本書は、地元自治体が過去に編纂した公的な報告書の類いの継ぎ接ぎでは全くない。町会が所有する文書を丁寧に当たるとともに、祭礼行事を取り巻く現状までが的確に分析されています。
 
 これから研究を志す者にとって、道しるべとなるに違いありません。

(2020年 7月18日  中村 知夫)
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