☆ 樋口範子のモノローグ(2006年版) ☆ |
更新日: 2006年12月29日
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2006年12月 |
山中湖に住んで31年目にはいりましたが、野鳥に目をとめるようになったのは、恥ずかしいかなここ10年くらいです。それまでは生活に追われていて、〈そういえば森には野鳥がいるな〉くらいの認識でした。10年前に喫茶店をはじめて、お客様から、いろいろな野鳥の名前と生態をきき、今では野鳥大好き、まるで長年野鳥とつきあっているみたいに、お客様に解説などしているのが、自分ながら可笑しいほどです。 富士山麓は軽井沢と奥日光とならび、日本三大野鳥生息地のひとつですから、実にさまざまな野鳥が姿をあらわしてくれます。実際旅に出ると、野鳥がまず気になるのですが、普段聞きなれているほどの種類と数の野鳥に出会うことは、なかなかありません。あらためて、富士山麓・山中湖は、野鳥にとってのサンクチュアリなのだなと再認識します。 ある自然映像カメラマンの方が、「鳥はほんとうにえらいですよ。人間がいかにおろかか、鳥を見ているとよくわかります」とぽつりとつぶやかれたことが、胸に落ちる昨今です。常に危険にさらされながら、少なくとも言語以外の伝達方法をもち、本能に忠実にしたがい、感情に左右されることなく、着実に種の保存だけに没頭して、必死に交尾、子育てをし、植物の交配にも役にたち、なんの見返りも求めないその一生(人生と言いたいところですが)に、教えられることが多くあります。 毎年4月に東南アジアから渡ってくるキビタキやオオルリが、はたして同じ個体なのか血縁なのかわかりませんが、桜の開花にあわせて、大海から本土をちゃんと渡ってくるのですから、それらの初声をきいたときは、もう言葉がでないほど感動します。 わたしたち人間は、森の中に野鳥を見ると、こころが穏やかになるとか、しばし都会の喧騒を忘れるとか、実に勝手なことを言いますが、野鳥にしてみれば危険か安全かのふたつのスイッチしかない厳しい日常をおくっているわけですから、わたしたち人間のくつろぐ姿を見ると、冗談じゃないあんたたちのほうがずっと穏やかで楽な毎日じゃないかと異議申し立てがあるかもしれません。 昨年は、ここ山中湖畔の野鳥の数が激減して、ヤマガラ・シジュウカラ・ゴジュウカラ・ケラ類の姿をほとんど目にすることができませんでした。正直なところ、店のお客さんが減るより、野鳥の数が減るほうが心配でした。このまま野鳥がいなくなってしまうのではないかと、不気味でさえありました。 そして心配していた今年は、幸いに留鳥も渡りもどちらも多く、ヤマガラなど二年分の数がきていると思われるほど、にぎやかです。 しかし全国でクマやイノシシが街に出没している原因、森の中にえさがなくなっていることがここ山中湖畔の森の中でも同じように起こり、これを書いている今も、近くでシカの鳴き声がします。去年は豊作でしたが、今年はクルミ・ドングリ・クリの結実がよくありません。ということは、淘汰がおこり、来年のリス・野鳥の数に変化が起こるかもしれないと、素人のわたしはつい考えてしまいます。 それが、素人の浅はかな推測であればどんなにいいか、入り混じった思いを胸に、きょうも野鳥をねぐらに見送りました。 |
2006年11月 |
以前、それもだいぶ前、NHKテレビで、「国際化とかなにか?」の討論会があり、そこでのマリー・クリスティーヌさんの発言が、今もって忘れられずにおります。 彼女は自身の体験から、日本の片田舎の道端で野菜を洗っているおばあさんに出会ったとき、そのおばあさんが、そのしわだらけの笑顔と方言丸出しで、いわゆる外人のマリーさんに話しかけたのだといいます。その感動が、彼女をして、ほんとうの国際化とは、なにも流暢な外国語で話しかけることではなく、自分の文化習慣に誇りをもって、よその文化をもつ人々と接することだと言い切ったのです。 マリーさんの出会ったそのおばあさんは、自分の肌の色や田舎の素朴な生活にけっして引け目を感じずに、ごく自然体で外国人と向かい合ったわけで、それは、実にすごいことだと、わたしも思います。そういうおばあさんを育てた要因がもともと、日本文化の中にあるのかもしれません。 アジア人には優越感を感じ、欧米人には劣等感を感じるのが日本人の恥みたいに言われますが、そうとはばかり言い切れないようです。 そして、そういうおばあさんに敬意をはらったマリーさんの感性も、すばらしいと思います。 日本では早期英語教育が叫ばれて、今では幼児から英語教室に通っている子どもたちも多いそうですが、風土があるからこそ言語が生き生きしてくるわけで、言語だけを切り離して教えるのは、大人の自己満足にすぎないとわたしは思います。 バイリンガルを余儀なくさせられる家庭環境なら別で、それはそこに育つ子どもにとって、かけがえのない両親のふたつの文化でしょうが、外国語をアクセサリーのように身につけて、なんの意味があるのでしょうか? 昨年8月のこのモノローグにも書かせていただきましたが、わたしは言語はあくまで道具であって、それは本人が必死になってはじめて身につくものだと信じています。 じっさい、わたしは自分の息子には、中学にはいるまで英語は教えませんでしたし、ヘブライ語も20歳になった本人が現地で身につけたものです。今年34歳になった長男はまがりなりにもトライリンガルですが、それは彼自身が身につけた、活きるための大切な道具だと尊重しています。 文部科学省の指針にそって、いずれ早期英語教育をうける孫が万が一、「ハーイ、グランマ」なんてわたしのことを呼んだら、たぶんぞっとするでしょうね。 しかし一方で、昨今のNHKの子ども番組では、能や狂言、落語や歌舞伎、茶道や作法をきめ細かくあつかっていて、思わず拍手したくなったこともあります。 子育てをしている若いお父さんやお母さんたちに、自国の文化を深く味わってもらい、英語教育はそのあとでもじゅうぶんに間に合うことを、ぜひとも知ってもらいたいです。 |
2006年10月 |
今から20年くらい前、中高時代の恩師とどこかの会場に向かう道々、わたしは自分の近況を報告した最後に、「なるようにしか、なりませんから」と、当然のような言い方をした。未だ30代半ばだったわたしには、辛い、苦しい人生経験が、片手で数えられるほどしかなく、その都度、強気でなんとか立ち直っていた。 その、ふた周りは年上だった恩師の女性は、わたしの顔をまじまじとながめて、首をかしげられた。わたしは内心、「えっ? なに? ならないものが、はたしてなるだろうか? そんな馬鹿な」と、恩師の反応に、無言の否定的な問いかけをした。恩師は、「あのね。同じことなんだけど、できれば、なるようにだけ、なる。という肯定的な言い方のほうが、望みがあって、いいじゃないの?」と、さらっと言い放って、そのあとは雑談に徹した。 あれから、この恩師の言葉を、わたしはどれほど反芻しただろう? 「なるようにしか、ならない」というつっぱった否定文より、「なるようにだけ、なる」というけなげな考え方、言い方、物事への肯定的な向かい方を、わたしはとても大事にするようになった。同じことをいっているのに、まったくちがう、このニュアンス。実際、不安の海におぼれた回数は片手では足りなくなり、強気だけでは簡単に立ち直れなくなった自分の正直な思いでもある。 先日、テレビに出ていたどこかの子どもが、それもまだ二歳半という幼い子が、まだ回らない口で、「ぼくは、泣いちゃったから、勇者にはなれないんだ」と小さな肩を落として言った。わたしは、この子の感情表現の豊かさにおどろいた。うちの孫はその子より二ヶ月も年長なのに、まだ二語文しか話せない。仮定法なんて、とんでもない高度な表現方法にちがいない。 その、すごい仮定法をつかった二歳半の子は、どういう言語環境に生活しているか知らないが、おそらく「泣いたら、たくましくなれない」とか、「泣いたら、男の子らしくない」とか、もしかしたら周りの大人から始終言われているのかもしれない。あるいは、幼児同士の会話で身につけた表現なのかもしれないが、とにかく否定的な仮定表現をいとも日常的に発言した。二歳半からこういう発想は、今後つらいだろうなと、わたしは余計な心配までしてしまった。 できれば早いうちに、肯定感情にスイッチしてあげたいと、お節介なおばさんは思った。「ぼくは、泣いちゃったけど、勇者になりたい!」って言ったほうが、ずっとずっと勇気が出そうだもの。「ない」とか「なりません」「だめだ」の否定語をあえて使わなくなったわたしの、大切な恩師は、すでにこの世には「いない」ではなくて、すでにあの世に「いる」。 |
2006年9月 |
この夏、BSテレビの番組で、国本武春の芸を目にして、息がとまるほど感動しました。彼の浪曲は、あの有名なアニメ映画「頭山あたまやま」のうなり声でかなり以前に知ってはいましたが、今回の「忠臣蔵」は、ロックとバラードをうまく取り入れた、凡人には考えられないほどのレベルの高い、優れた作品でした。 三味線の音色もつやがあり、自作のメロディも歌声も、また忠臣蔵の語りも見事で、深い研鑚のあとが察せられます。国本の芸を観て、わたしは自分の怠慢が恥ずかしく、しばらく口がきけませんでした。海外に進出してさらに芸を磨き、アメリカでもカナダでも、絶賛されるその内容は、いったい彼のなにをして練られたものなのか、たいへん興味をもちました。 両親とも浪曲師だったという家庭環境もおおいに関わってくるのでしょうが、その恵まれた素質にあぐらをかくことなく、常に努力を惜しまない姿勢に頭がさがります。 マジシャンの前田もそうですが、若い世代に突出した芸人が出るたび、思わず自分をふりかえって、ため息、そしてまた、ため息のくりかえし。 若いときに、毎日をもっと真剣に、厳しく生きていればよかった。国本武春さん、あなたの歌声を聞くたびに、わたしは、あてにならなくなった自分の体力、記憶力、持久力がうらめしく思えてなりません。 |
2006年8月 |
喫茶店やレストランでの店内BGMの意味というか、役目を考えたことがおありですか? 実際に自分で店を運営しはじめ、BGMとしてCDをかけるようになって、ようやくその意味がわかるようになりました。 ホテルや大型レストランではいざ知らず、うちの店のような15人で満席になってしまうような小規模な店では、とくにBGMは必需品(音)です。 というのは、客の話し声が別の客に筒抜けになるのを防ぐために、バックに音楽があれば好都合だというわけです。たとえ客が一組だったとしも、音楽があれば、カウンターの中にいる店の者は、話し声を聞かずにすみます。 たかが喫茶店といいますが、客はそこで、商談、打ち合わせ、うちあけ話、ないしょ話、相談事、思い出話など、実にさまざまな大事な話をします。ときには、わかれ話や出逢いなど、人生の節目の場になることさえあります。 となり合わせのテーブルで、明暗を分ける話がされていても、低く流れるBGMがうまく緩和できれば、店の者もいくらかほっとします。 BGMには、音楽のヒーリング効果以外に、そういう役目があるのです。 ちなみに、うちの喫茶店は、真夏の二ヶ月間はガラス戸を開けて、テラスと自由に行き来ができるようにしています。ということは、森をとびかう野鳥の声が大事なBGMになります。ときに気温が上昇すると、さわやかな野鳥の声ばかりでなく、にぎやかな蝉の声に、一日中追い立てられることもあります。 蝉の声は、ときには騒音にさえ感じられ、お客さんの「すみませーん、お水くださーい」の声もカウンターまで届かず、こまります。 しかし、にぎやかさの効用があるかもしれません。蝉しぐれをバックにわかれ話をしたら、きっと聞き違いが生じて、たがいの痛みも少なく、案外また再会の約束をしてしまうのではないかと、そんないたずらごころがわきました。 そう考えると、BGMの役目はもっと数多くありそうで、あれこれ想像力をはたらかせているきょうこのごろです。 蝉しぐれ 思考停止の昼さがり 範子 |
2006年7月 |
今さらながら、人はどうして(なぜ)旅にでるか? などと考えています。強いていえば滞在型、定着型の自分としての、数少ない旅をふりかえってみると、1970年にイスラエルより帰国して以来、20年間は子育てもあり、日本をはなれず、山中湖村での生活に根をはろうと、じっと動かずにいました。都会とは異なる異文化生活に慣れるのに必死で、旅どころではなかったというのが、実感です。 やがて、1990年にエジプトからイスラエルへの里帰り家族旅行をして、1999年に11日間の夫婦トルコ旅行、2004年に11日間の夫婦モロッコ旅行、そして2005年に7日間の夫婦マルタ島旅行、2006年に9日間の夫婦隠岐・山陰旅行と、このところは割と頻繁に出かけるようになりました。 どの旅も印象にのこっているのですが、なぜ旅にでるかと考えたときに、わたしの場合、”その土地での、人々のくらしを見たい、感じたい”というのが、共通一貫していることに気づきました。名所旧跡見学ももちろん魅力あるのですが、それより、例えば車窓から見る、羊の群れの脇を水くみに歩くアラブ人女性とか、カサブランカ郊外の電気もない家々が夕暮に黒く沈んでいく中で、ボールを蹴って遊んでいる子どもたちとか、サハラ砂漠の奥地の、とんでもない谷間で、洗濯物を岩に貼り付けて乾かしているおばあさんとか、そういう、当人達がまったく無防備に動くくらしの一部が、なんとも忘れられずに印象に残っています。 ですから逆に、例えば、外国人を乗せた観光バスが山中湖畔を通るとき、きっと中学生の自転車通学の列とか、ほっかぶりをした婆ちゃんが畑の帰りに大根片手に歩く姿とか、ボート業者のふかすタバコの煙とかが、案外日本の印象として、残るのではないかと思ってしまいます。 どの旅先でも、ああ人々はこうしてがんばって暮らしているのだなと、あらためて当たり前のことに気づき、元気をもらって旅を終え、またいつもの日常にもどります。 普通の朝と昼と夜がくりかえす日常を生きることが、実は一番むづかしく、勇気のいることなのですね。それを再認識するのが、旅に出る意味のひとつかもしれません。ということは、再認識の必要を感じたとき、きっと旅に出たいと思うのかもしれません。 |
2006年6月 |
今から約60年前〜50年前に、パレスチナの地に同時多発的に創設された”キブツ”。いわゆるシオニズムと原始共産主義思想、農本主義をもって造られた、集団農場の原型の生活の場を、みなさんは今、どう描いておられるでしょうか? たしかに、創設から20年まで(1980年代まで)は、その原型を少なからず保っていましたが、80年代の国内経済インフレと個人主義蔓延の文化によって、現在は残念ながら、すでに集団農場とは言い切れない生活状況をやむなくさせられています。 かつては給与がありませんでしたが、現在では労働時間によって算出された個人評価があり、それによって給与があります。 かつては村にひとつの食堂で毎回メンバー全員で食事をとっていましたが、現在ではほとんど各家庭で各食事をとっています。当然各家庭に、冷蔵庫、冷凍庫、調理器具の設備がされました。また業務連絡は、各家庭に配備された電話網、インターネットが活用されています。 また、かつては子どもの家で集団教育がなされていましたが、現在では個人の家を増築して、子どもを各家庭で、両親のもとで育てています。 かつては農業を基本に生業をたてていましたが、現在ではほとんどのキブツで工業なり、サーヴィス業(観光客相手のホテル、レストランなど)を副業に取り入れて、その収入の割合は多いようです。 かつては賃金労働者にたよらずに経済をたてていたのですが、現在はほとんどのキブツで、東南アジア(タイ・フィリッピン・中国などの)出かせぎ労働者を近隣に住まわせ、低賃金で雇用しています。 キブツはすでにキブツ(平等と自由の集団生活)ではないというのが、昨今のイスラエル人の意見ですので、当然わたしたち日本人もその意見にそうしかないでしょう。 わたしが今から40年前に二年間過ごしたキブツ・カブリも、かなりの修正・変革を重ねて、雇用者をかかえ、各食事はプリペイド・カードで計算するという、すでにキブツとは言いがたい形態をとる集団生活の場です。 先日、キブツ・カブリの旧友から、一通のメールを受信し、眠れない一晩を過ごしました。ダニー・ロザリオという60歳を過ぎたメンバーの死です。彼は、なかなかの人格者で優秀で、わたしがカブリにいたころは、中央の国会に勤務していました。ですから、ダニーの姿を見るのは、月に一回とか、季節ごとのイヴェントの晩なのですが、それでもわたしたち日本人にとって、ダニー・ロザリオはなにか特別のオーラを感じさせる人物でした。穏やかで、賢く、そしてすてきでした。息子が軍のパイロットになって、その後来日したときも、ダニーの息子ということで、わたしたち日本人は大歓迎した記憶があります。 そのダニーがアルツハイマー病に罹り、たまたま意識のはっきりした折に、拳銃自殺をはかって亡くなったという知らせでした。 わたしはショックで、眠れない一晩を過ごしました。キブツ・カブリの人々のショックも相当なもので、人々は「勇気があるわ。ダニーらしい」「自分が認知できなくなるのを、人々にさらすことができなかったんだ」とか、様々な反応がとびかったそうです。 結局は、「人の自死には、まったく答えはだせない」という、世界共通の結論でだまるしかなかったというのですが、斜陽のキブツにダニーの死が落とした陰はさらに重く感じ、キブツのメンバーと同様、わたしもおおいに哀しみました。 |
2006年5月 |
2月28日に、東京の日生劇場にて、「屋根のうえのヴァイオリン弾き」を母と妹とで観劇しました。たまたま千秋楽ということもあって、満席でした。 ご存知のとおり、これは帝政ロシア時代のユダヤ人迫害を、ある農村の一家族を軸に描いた、実話にもとずく小説から脚本化されたミュージカルです。長年森繁久弥がテヴィエ役を主演していましたが、何年か前に市村正親に代わりました。 わたしは森繁主演の舞台を観ていないので、このミュージカル自体はじめてでした。とにかくキャスト全員の歌唱力といい、ユダヤ人になりきろうと研鑚を重ねたその演技は、素晴らしいものでした。きっと、かなりきびしい演出がなされたのだと思います。 しかし一番意外で感動したのは、テヴィエ役の市村正親の演技に、森繁久弥が透けて見えるということで、これは意識的なのか無意識なのかわかりませんが、なんとも圧巻でした。わたしは森繁さんのテヴィエを観たことがないのに、森繁さんならこうだっただろうなとか、こういう声で唄われただろうなとか、常に常に、森繁さんの姿が見え隠れします。それがちっとも邪魔でなく、現在のテヴィエをさらに重厚に見せるのですから、いたく驚いたしだいです。 長年の当たり役をひきつぐ俳優さんは、なかなかやりにくいと察しますが、こうして先代を殺すことなく自分の役にうまく生かしていく方法は、思いがけず観客を魅了するものだと気づきました。そして、どんなに辛いことがふりかかっても、けっして希望を失わないテヴィエをとりまく家族の生き方に、たいへんはげまされた舞台でした。 今年は、そのもとになった小説を、ぜひとも読みたいと思っています。 |
2006年4月 |
二ヶ月間の冬眠をへて、3月4日に喫茶店あみんを再開することになりました。ところが前々日に、業務用オーブンを始動したところ、なんと温度が100度以上あがりません。これでは、パンどころかケーキも焼けないので、ベイカーとしてのわたしは、ほんとうに困りました。 パンが焼けないということは、店を開けられないということ。 キャアー。冬眠中に、あちこち遊びまわった罰がついにやってきた! 業務用オーブンの値段は、トヨタの乗用車新車と同じくらいなので、わたしは即座に店の再開をあきらめました。今、新しいオーブンを購入することは、とても無理です。よりによって、3月オープン早々、店のランチにはいくつか予約が入っています。ああ、どうしよう? 器用なうちのマスターが、オーブンの製造元の職人さんと、なんどか電話で質疑応答を繰り返し、修理を試みたり、部品を送ってもらったりしますが、臍を曲げたオーブンは、なかなか温度を上げてくれません。ついに、オーブン製造者の斉藤さん自らが、東京の荒川区から、みえてくださることになりました。 うちのオーブンは、今から約20年前に、パン屋になる決心をしたわたしが購入した、業務用大型オーブンです。動力電気を使って、一度に30個のバターロールが焼ける、本格的なオーブンで、今まで故障は一回しかない、なかなかの優れものであります。その一回の故障も、マスターが分解修理して、なんとか復活したのですが、今回ばかりは、どうにもうまく甦ってくれなかったのです。 御年72歳のオーブン製作者斉藤さんは、20年ぶりに再会するうちのオーブンを、「まあよく、今まで達者で働いてきたな」と言いたげな照れくさそうな視線でながめられて、すぐに修理に入りました。 修理開始三時間で、うちのオーブンは、製作者斉藤さんによって、みごとに甦りました。部品をいくつか換えて再び作動したオーブンが、こころよい音をたてて温度を上げています。 その間、斉藤さんとわたしたち夫婦は、店のテラスで、安堵のコーヒーを飲みました。オーブン造りの、さまざまな苦労話などをうかがいながら、わたしは斎藤さんの造られたオーブンで20年もパンを焼いて、そしてこれからも焼けることを、こころから至福だと実感しました。焼けむらがなく、窯伸びのするすぐれた国産オーブンを、あらためて誇りに思います。舶来オーブンだったら、制作者にはとても修理してもらえなかったでしょう。 どういうわけか、故障は休み明けに多発するそうです。 昨年の春のオープンには、26年も働きつづけた冷蔵庫がこわれ、買い換えることになりましたが、電化製品もまるで感情があるようにストライキを起こすので、二年続けての故障に、思わず苦笑してしまいます。やはり、家電化製品には、家族意識があるのかもしれません。「おい、おれがこれだけ働いているのを、忘れるなよ」 物言わぬ家電化製品の、ご機嫌が直ったときの喜びは、まさに言葉で表せないほどでした。毎日、当たり前のようにパンを焼いていましたが、これが実はどれほど恵まれたことか、よーくわかりました。 そして、3月も末になるきょうも、斉藤さんの造られたオーブンで、わたしはパンを焼きました。いつものパンですが、つくづく幸せな気持ちになりました。 |
2006年3月 |
映画「ミュンヘン」を観ました。この映画はご存知のとおり、スピルバーグ作で、今年度のアカデミー賞にノミネートされている大作です。ただ今都内でロードショウ中で、2時間45分という長編ですが、それを全く感じさせないほどの迫力がありました。迫力といっても、映画そのものの出来ではなく、スピルバーグ監督のユダヤ人としてのアイデンティティに対する真剣な姿勢に、観る者をゆさぶる力があったということでしょう 今から30年前の、イスラエル政府高官たち(映画では、俳優による演技)が、実名で発言していますので、当時のマスコミには現れなかった事実がわかり、わたしにはやはり観ておくべき映画でした。直接胸にとびこんでくるせりふが、いくつもありました。 わたしが一番印象的だったのは、ミュンヘン・オリンピックでのテロに対する報復グループのひとりが、「自分たちユダヤ人は、本来もっと高潔ではなかったか? アイヒマンだって裁判にかけたのに、有無も言わせずテロリストを抹殺するなんて、それでは自分たちもテロリストと同じじゃないか」という意味合いで、仲間に問い掛ける場面でした。しかし、すでに追跡と抹殺が日常化している時点で、その問いは虚しく聞き流されるだけでした。スピルバーグ自身の感じた虚しさが、痛いほど観る者に伝わってきました。スピルバーグ監督の作品は、ほとんど観ていますが、これほど勇気をもって、真正面からイスラエルに向けて発信された映画はないように思います。 映画の宣伝文言には、主人公の視点をして、「はたして自分のしていることは、正しいのか」とありましたが、わたしには「はたして自分にとっての祖国とはなにか?」が、強烈に残りました。 これはほとんど事実に元づいて造られた映画ですので、ビデオ化されたら、もう一度ゆっくり、検証の意味で観たいと思っています。 |
2006年2月 |
森の喫茶室あみんが3月3日まで冬眠なので、マスターとふたりで、念願の隠岐の島、津和野、萩を8泊9日で廻ってまいりました。マスターとふたりでというと、いかにもいかがわしいようですが、なんのことわない、50代夫婦のバックパッカーです。 隠岐の島では4泊して、5島をすべて歩きましたが、島後と呼ばれる一番大きな島は、ガイドさんをお願いして、中身の濃い2日間を過ごしました。冬季ということもあり、またわたしたちは観光客の行かないところばかり歩きたいということもあり、どこでも静かに、ゆっくり、じっくり、そこの場所の息づかいに、精一杯ふれることができたように思います。旅の収穫は、まずその味わいが一番で、ガイドさんあってこその本物の名所に足を踏み入れることができました。華やかさや流行はないけれど、自分たちの出会いたかったものに、出会えた感動。 雪の中を、山頂にある神社まで歩き、その素朴で真摯な先人達の思いに、少しでも近づけたらと、ほんとうによく歩きました。わたしたちは豪華ホテルにも泊まらないし、お土産も買わない、いわゆる金を落とさない観光客ですが、それに反比例して、味わいは絶品でした。この矛盾は、なんなのでしょう? しかし、どこの観光地も、客足の激減で街全体に元気がなく、あらためて観光とはなにか、おおいに考えさせられる旅でもありました。自分たちは、いつもお客さまを迎える立場にありますが、逆の立場になってみると、いろいろな発見もありました。 旅行ではなく、今回はじめて旅(たび)をしてきたという実感があります。時刻表と情報網に首っぴきになり、自分たちのスケジュールを組んで、独自の9日間を歩くことができました。もちろん、コミカルな突発事項もいくつかあって、それもまた旅の味わいでもあるのですが。旅の思い出が、時をへて次第に発酵していくだろう予感もまた、わくわくするものです。 山陰地図を広げて、隠岐の島、津和野、萩の付近を見ると、胸がじゅわーとしてきます。海辺でも、山中でも、山奥でも、人々が新に朝を迎え、いつもの昼を働き、きょうもまたと夕べになごむ姿にはげまされもしました。 明日からまた、互いにいい仕事ができるように。氷の国山中湖にもどり、また背筋に力をいれはじめた自分です。 |
2006年1月 |
山中湖村に図書館ができて、早一年と五ヶ月。生活が大きくかわった村民、別荘の人々がきっと多いと思います。わたしもそのひとりですから、よくわかるのです。 各種類の新聞、雑誌がいつでもそこに行けば読める。絵本から一般書まで、一回に何冊でも借りられる。夢のような話です。 じっさいにわたし自身が図書館(山中湖村では情報創造館という名称)に通いはじめたのは今年の夏ですが、この五ヶ月間に、かなりの本を借りて読みました。YAと呼ばれる翻訳物の思春期文学のほかに、川上弘美、川上健一、重松清、小川洋子、森絵都さんの著書に夢中になってしまい、特に小川洋子さんの「博士の愛した数式」には、声もでないほど感動しました。重松清さんの「疾走」上下巻も、迫力ありました。川上弘美さんの「センセイの鞄」もよかった! 森絵都さんの著書は、全部読破しました。 主に、店番をしている昼間のひまな時間に読むのですが、本の世界にあまり夢中になりすぎて、お客さまがみえたときにぼおーっとしてしまい、仕事の手順が狂うこともありました。ですから、土日の忙しい日には、夢中になれないような雑誌とか、新聞とか、すぐに正気にもどれるような読み物を選んでいます。 店をしめてから、夕飯の仕度の間も、つづきが読みたくて読みたくて、ついに右手で料理、左手で読書をしていて、主人に見つかってしまいました。「おまえ、二宮金次郎みたいだな」なんて、言われました。 図書館ができて、ほんとうに毎日が豊かになったような気がしてなりません。村民同士で、たがいの読後感を話題にしたりするのも、以前には考えられなかったことです。「図書館では、いったいいくら支払えば本を一冊貸してもらえるのですか?」ひとりの村民の、信じられないような純情な質問をきいたとき、その人の生活もきっとかわるだろうなと、肩をたたいてさしあげたい気持ちになりました。 |