☆ 樋口範子のモノローグ(2005年版) ☆ |
更新日: 2005年11月27日
TOPページへ
=>2006年版 | ||||
2005年12月 |
先月、母校立教女学院の短大で、一時間の講演をさせていただきました。立教女学院の中学・高校時代は学校の勉強にはちっとも身の入らない劣等生だったのに、卒業後38年目に大勢の短大の学生さんたちの前で、しかも礼拝堂の説教台に立つことになろうとは、ほんとうに思いもかけないご依頼でした。同窓会やクラス会は、店の営業日と重なるため、いつも欠席ですから、立教女学院はわたしにとって、実は縁のうすい母校だったのです。 わたしは常日頃から口下手ですので、講演の原稿を書き、なんども練習をして当日にのぞみました。高校を卒業してからキブツで働き、そのあとどうやってキブツ・イスラエルを今の生活につなげてきたかという話を、経験談などをおりまぜて話しました。このモノローグの7月号、11月号に、重複した内容であったかもしれません。ただひとつの誤算は、キブツの説明にプロジェクターを使ったのですが、そのときに礼拝堂が暗くなり、同時に手元の原稿が読めなくなってしまいました。読めないと話せないので、一瞬とほうにくれて、キブツの説明はほとんどスキップせざるをえなく、冷や汗ものでした。 でも、母校というのはなぜか、自分の失敗談や素直な気持ちが、すっと口から出るので、不思議な安堵感もありました。母校の人事課で働いておられるRさんと、38年ぶりになつかしい再会もしました。 東京に住む母も聴きに来たいと申しましたが、母の前ではきっと涙がでそうなので、断りました。そもそも、わたしに立教女学院を受験させたかったのは母であったし、わたしはその意に素直にそって猛受験勉強をしたものの、入学してからは母のその意に反抗しつくして、可愛げのない娘でしたので、今になって母校の礼拝堂で、母 と笑顔で面と向かう自信がありませんでした。 母のかわりに、息子夫婦と姪夫婦が礼拝堂の最後列で耳をかたむけてくれて、講演の一時間のあいだ、わたしには力強いささえになってくれました。こういうのを、今どきはサポーターと呼ぶのかしらと、若い彼らとの帰り道にふと思いました。 |
2005年11月 |
今から29年前に、東京の目黒から縁あって山中湖に越してきました。忘れもしない昭和51年(1976年)10月25日です。秋から冬にむかって寒冷地に引っ越してくるなんて、ほんとうに無謀としかいいようがないのですが、若気の至りで、気温などなにも考慮にいれず、ただただ都会から逃げたかった一心だったのを憶えています。 主人は東京でサラリーマンをして週末だけ山中湖に帰宅し、ふたりの息子(長男4歳、次男1歳)とわたしはこの山中湖に留まる生活を、以来20数年つづけました。現在息子たちは自立して都会に住み、主人とわたしのふたりが山中湖に住んでいるというわけです。 わたしたちが最初に借りて住んだ家は、偶然にも山中湖畔文学の森に「風生庵」として移築され、俳句の館となっています。この大きな家を20数年たって、あらためて訪れると、万感の思いに胸がしめつけられます。 その家はすでに築100年以上もたつ由緒ある旧家で、関東大震災にも倒壊をまぬがれたとういう頑丈な造りですが、ガラス戸はなく、雨戸からいきなり障子、そして部屋という寒々しい邸宅でした。けやきの一枚板や大黒柱、天井の梁など、すばらしい造りなのですが、やはり住むとなると、たいへん忍耐のいる家でした。朝起きると、掛け布団の上に、うっすら雪がかかっていることもありました。慣れない寒冷地での生活は、失敗ばかりで、わたしは食料だけでなく、洗濯機まで凍らしてしまい、そのたびに途方にくれて往生しました。 4歳の長男は寒いので家の中でよく走っていましたし、1歳になったばかりの次男は、まだ口がきけないので、耳や手にできたしもやけが痛いのか、一日中泣いていました。東京からもちこんだわずか一台の石油ストーブでは、まったく暖がとれなくて、近所の方のご厚意で田んぼのビニールをいただき、天井に張って、まるで水族館の魚になったような生活がはじまりました。 当時の冬は湖が全面結氷する寒さで、次男はけっきょく発育が止まってしまい、2歳近くなるまで歩くことができず、ほとんど背中におぶって春を迎えました。でも、東京に帰ることは、まったく考えませんでした。どんなに不便でも、寒くても、山中湖に住んでいたかったのです。 やがて自分たちの家をたて、今ではそこで喫茶店をしているのですが、たまたまその開店日も偶然10月25日なのです。そして今年の10月25日に、森の喫茶室あみん開店9周年をむかえました。わたしは、店の9周年をみなさんに感謝するとともに、移り住んでの29年をひしひしと胸にきざみ、しばし感無量でした。 |
2005年10月 |
学校時代、わたしは決して文学少女ではありませんでした。母がさかんに、本を読むと国語の長文読解が楽になるというようなニュアンスで読書をすすめたので、あえて読むことを拒んだ記憶があります。家に書棚はありませんでしたが、学校の図書室にはたいそうな蔵書があり、読もうと思えばいくらでも読める環境にありました。 中高時代、クラスにはかならず本の虫みたいな文学少女がいて(少女というのは、女子校だったからです)、わたしは彼女たちに畏敬の視線をなげかけながらも、自分自身は縄文土器に夢中になり、休日は博物館めぐりや発掘見学ばかりにうつつをぬかす、変てこりんな少女でした。 でも、ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」に出逢ったときだけは別で、読後しばし感動で動けなかったのを憶えています。あと、宮沢賢治だけは全集のほとんどを読みました。そんなわけでしたから、とうぜん国語の成績は悪く、長文読解はとくに苦手でした。将来はぜったいに考古学者になると、夢みていました。 それが、25歳のとき、いきなり本の魅力にとりつかれてしまい、こうして30年たった今も、暇さえあれば本を開いている、おばさんになってしまったのです。きっかけになった具体的な本はありません。ただ当時、3歳と生後まもない乳児のふたりの男の子の母親であったわたしが、育児の不安や退屈さから逃れるために、しがみつくようにして読書をしたことは、たしかです。いつ寝入るかわからない乳児を背負いながら、本を片手に部屋中を歩き回っていたら、背中の子どもはいつのまにか眠ってしまっていた。それに本にも夢中になれた。 読書って、こんなにおもしろい! これが、本との出逢いでした。 山中湖村には長年図書館がなかったので(なんと2004年に創立)、友人や富士吉田図書館から借りたりして読んでいたのですが、 とにかく雑誌でも新聞でも、活字とあらば、もったいなくて端から端まで読んだ記憶があります。小説では、里見惇や武田泰淳など大好きでした。ですから、子どもに絵本を読んでやる時間はありませんでした。 今は主に児童文学が好きで、特にYAと呼ばれる思春期文学を中心に読んでいますが、ファンタジーだけは苦手で、やはり歴史的、社会背景のはっきりしている少年ものに共感があります。とにかく今は、活字や本のない生活は考えられないくらいになりました。 息子たちも子どものころ、野球中心の毎日でしたから、特に長男は漫画も読まないほど本には縁遠い生活でした。ところがいつ目ざめたのか、学生時代に必要にせまられたのか、先日息子の家に行きましたら、結構な量の蔵書が天井から床までの書棚にぎっしりつまっていたので、ついにこっとしてしまいました。 |
2005年9月 |
ミニシアター系の映画ファンのわたしには、いくつものおすすめ映画があるのですが、中でも「蝶の舌」(スペイン)、「友だちのうちはどこ」「運動靴と赤い金魚」(イラン)「初恋のきた道」(中国)などは、若い方々にぜひとも観てもらいたいと常に口コミしています。 一方、あえて人にすすめる分野ではなく、自分自身がくり返し観て、そのたびに自分の胸に深く刻み込みたい映画もあります。「セプテンバー」「わたしの中のもうひとりのわたし」(米・ウディ・アレン監督)と、「愛の嵐」(ドイツ)「鉄道員」(1951年・イタリア)は、どれもユダヤ人としての心理描写がするどく描かれ、何度観てもこころをうたれます。特に成人映画でもある「愛の嵐」は、戦争に翻弄された人間の性を深くえぐり、愛欲とはこんなにも哀しいものなのかと、毎回泣いてしまいます。 ハリウッド系の中でも、ジャック・ニコルソンだけは大好きで、シャリーマックレーンとの共演でアカデミー賞に輝いた「愛と追憶の日々」やヘレン・ハントとの「恋愛小説家」、また「アバウト・シュミット」など、いつもほのぼのさせられます。 邦画では、この7月に観たばかりの「いつか読書する日」の完成度に、思わずうなりました。追分プロデューサーの奥さまが、うちの店のお客さまであったためにご紹介くださった映画なのですが、主演の田中裕子がすばらしく、またロケ地の長崎の街が圧巻です。映画の醍醐味満点でした。 年間、ビデオを含めて約60本の映画を観るわたしには、8月は店に専念するために、映画を一本も観られない、うらめしい一ヶ月です。ですから、秋の気配を感じて、いよいよ8月のカレンダーをめくると、そこに映画の画面が待っていそうな、そんな期待感さえあります。 もちろん、1週間後の9月に借りるビデオリストは、とっくにできあがっているので、ついつい顔が笑ってしまいそうです。 |
2005年8月 |
山中湖という観光地で、小さいながらも喫茶店稼業をしていると、時には日本語だけではすまないことがあります。さいわいアメリカ人たいてい日本語が堪能で、薔薇とか蝋燭とかの漢字さえ書けてしまう人も多く、日本語でじゅうぶんオーダーがとれるのですが、日本語も英語もあやしい中国人、フランス人、韓国人、耳の不自由な日本人カップルなどのために、それぞれの言語や手話で、簡単な挨拶、オーダーをとる必要がでてきました。それで一応はメモ書きを壁に貼ってあるのですが、やはり当座になると、身ぶり手ぶりが先に出てしまいます。でも、手話をふくめて、言語はやはり大事な道具だなと痛感しています。 わたしは18歳でヘブライ語の生活にはいったため、会話は英語よりヘブライ語のほうがずっと楽で、自分の身についていると思います。今でもときどきヘブライ語で夢をみます。でも、ヘブライ語や英語を話すときの自分は、日本的な温暖湿潤的発想はあまりしないように思います。言語はたしかに道具のひとつなのですが、その言語背景にある風俗や文化の色が、どうしても濃くにじんでしまい、ときには性格が乾燥型に変わります。 世界を放浪してきたユダヤ人は、たいてい数ヶ国語を話しますが、中にはそれを恥ずかしいと隠す人もいます。つまり、母国をもたずに、数ヶ国語を使わなければならなかった人生は、文字通り放浪の連続で、つらい過去をともなっているからでしょう。 日本人は、英語習得をまるでお飾りか教養のひとつのように考えている人が多いねと、日本に長く住む外国人が言っているのを聞き、道具をもつ必要に迫られていないのも、理由にふくまれると思いました。 さて、今年こそは中国からみえるお客さまと、筆談以外で少しは話ができるように、自分を追いつめたいと・・・・夜になると決心するのですが、朝になると・・・・目に見える多くの道具に追いかけられて、そのうちまた夜になってしまうのです。 |
2005年7月 |
このごろ、若者と仕事についての記事や企画が目につき、自分にとって仕事とはなにか、あらためて考えてみました。 家事、育児やボランティアは別として、わたしの場合の仕事は現在、喫茶店業と翻訳業ということになりますが、どちらも見た目ほど、愉快で恰好のいいものではありません。 喫茶店で焼くパンの焼け具合は、毎日の気候に大きく左右されますし、接客がうまくいかずに、後味の悪い晩を迎えることもたびたびです。ああすればよかった、こうすればよかったと反省して、次回は、今度こそうまくいったかと思うと、別の箇所がほころんでしまいます。毎夕、店を閉めるときに、きょうは満点だったなどという日はまずありません。 翻訳の仕事も、優れた編集者あればこそ、活字になって、読んでいただけるまでになるのですが、それまでの校正は、ほんとうにつらい作業です。自分のバカさかげんを編集者にさらして、それでも投げ出さずに、ほころびた箇所は繕っていかなくてはなりません。ほとんどの本には、編集者の名前がありませんが、本づくりは著者と編集者のまさに共同作業なのです。本ができあがると、今度は社会的な評価もさけて通れません。そのうち慣れて、楽になるかもしれないと密かに願っていましたが、何回でもきびしさには変わりありません。 二十数年前に児童養護施設で保母をしていたときも、失敗ばかりして足が仕事場に向かない朝がいくつもありました。 おそらくどの仕事にも、そうしたきびしさやむづかしさがついて回るのだと、今ではあえて、あの仕事は楽しそうだなと、羨ましがることはなくなりましたが。 仕事を通して自分の欠点がよくわかり、等身大の自分を見ることができる。他人の苦労も少しは推し量れるようになれる。その意味では、仕事は修行のようにつらいけれど、大事にしたいと、思うようにもなりました。 ですから、若者にも、自分に合った仕事などまずは皆無だと覚悟してもらって、不恰好でもいいから、失敗してもいいから、結論を急がずに、何かにしがみついてほしいと思っています。 |
2005年6月 |
皆さんは、イスラエルに関する映像や情報を、どれくらいご存知なのでしょう?。 とても不思議な経験をしました。 というのは、ほとんどの日本人が、新聞やテレビの映像で、パレスチナに対して、同情的な認識をもっていると、樋口は思っていました。パレスチナ・アラブ人の住居を、ブルドーザーで強引につぶしていくイスラエル軍の兵士たち。あるいは、検問所で長時間待たされたあげくに、自治区を出られないパレスチナ・アラブ人たち。イスラエル兵に撃たれるインティファーダの子どもたち。新聞記事についても、パレスチナ側の被害のほうが、多く書かれていると思います。 ところが、友人の日本人M氏によれば、イスラエル側の被害のほうが、日本では強調されて書かれているというのです。まず、その人の言い分をきいてみました。M氏は、うまれながらにカトリックの洗礼を受け、イスラエルは即聖地エルサレムの象徴として、幼いころからの憧れの地であったといいます。ですから、第二次世界大戦でホロコーストの虐殺を受けた生き残りのユダヤ人たちが、パレスチナという中東の地にまさに栄光への脱出をして、多くの苦難を乗り越えて、イスラエルという国をつくったことは、不屈の精神以外のなにものでもないと絶賛していました。ところが、独立後55年の間に、ユダヤ人はアラブ人を追いやり、痛めつける立場になってしまったというのに、自爆テロでもあれば、ユダヤ人の被害が新聞記事に大きく取り上げられて、その反面パレスチナ人の被害は、めったに取り上げられていないというのです。したがって、日本のメディアは、イスラエルよりだと、M氏は言います。 ほとんど同じ新聞記事やテレビのニュースを見ていても、とり方がこうもちがうものかと、おどろく次第です。 自分というフィルターを通して、それぞれの見識があるのでしょうが、それにしても白と黒がこれほどはっきりしているというのも、奇異な感じがしました。 では、同じ番組をみての感想は、どうなるのでしょう。来る6月26日(日)の夜10時10分より、BS1で、イスラエルについての特集番組があるようです。どういう意図の編集の仕方か、わかりませんが、とにかく観てみようと思っています。みなさんもぜひ、ごらんになって、なにか感想がありましたら、樋口までお知らせください。 参考にさせていただきたいと思います。 |
2005年5月 |
5月25日(水)のきょうは店の定休日。湖畔の銀行に行く途中、ライラック、つつじ、ズミの木の花が新緑に映えてとても美しく、感動しました。いい環境にかこまれて暮らしていても、週のうち5日間はほとんど店の中で過ごし、買い物は夜が多く、2日間の定休日も洗濯などの家事や、机にむかう仕事に時間をとってしまうので、こうして明るいうちに湖畔の樹木や花々をながめることが、残念ながらありません。 銀行からもどって、きょうは締め切りをかかえた仕事があったので、すぐに机の前にすわりました。ところが、今回パソコン上で校正をすることになっていたその肝心のパソコンが、はじめて2時間もしないうちにフリーズしてしまいました。わたしは、機能しているメカにも弱いのに、故障してしまったメカにはどうしようもありません。たまたま主人がいたので、修理を頼んだのですが、そのあいだは、いくら捻り鉢巻をしめていても仕事ができないので、こうなったら腹をくくって普段手をぬいている家事をするしかないと腰をあげました。しなくてはいけない家事が、きりなく、山ほどありますから。でも、家事を長時間つづける根気がなく、途中で家の回りを散歩することにしました。 草花や土の香りにさそわれて、とっても気持ちの良い時間をすごすことができ、自分はなんて素敵なところに住んでいるのかと、思いがけない発見をしたわけです。こうなったら、もう締め切りに間に合わなくてもいいとまで思ってしまい、校正のことは頭からはずしました。そのうえ、ふだんは一汁一菜の夕食なのに、きょうはめずらしく三菜もつくってしまい(それも鼻歌まじりで)、時間にしばられずに暮らすって、こんなにこころよいものかと、心身ともにリフレッシュできたしだいです。 おかげで、夕食後にはパソコンもリフレッシュして、こうしてまた机にむかっていますが、気持ちが5時間前とはまったくちがって、おだやかです。いい仕事ができればいいなと願いつつ。 今さらながら再認識したのですが、どこに住むかではなくて、どのように暮らすか なのですね! |