わんだふる ネパールヒマラヤ (2)


  
1.プロローグ 
  2.ネパールへ向けて出発 : 12月26日(金)、27日(土) 
  3.クーンブ・ヒマール入口 ルクラ、パクディンへ : 12月28日(日) 
  4.シェルパの里 ナムチェ・バザールへ : 12月29日(月) 
  5.クーンブ・ヒマール展望1 クムジュンへ : 12月30日(火) 
  6.クーンブ・ヒマール展望2 ゴンゴ・リ登頂と帰路1 : 12月31日(水) 
  7.帰路2(モンジョからルクラへ) : 01月01日(木) 
  8.ルクラからカトマンズへ(市内観光) : 01月02日(金)、03日(土) 
  9.さよならネパール・ヒマラヤ : 01月04日(日)、05日(月) 
     *トレッキング留意事項(感想)*: 
 

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3.クーンブ・ヒマール入口 ルクラ、パクディンへ : 12月28日(日)

3.1 カトマンズからルクラへ(12月28日(日)その1)

 朝は4時過ぎには起きた。昨夜の雨が少し残り、今日は出発できるのか不安がいっぱいになった。というのも、今日ルクラへ行く飛行機は20人乗り位の飛行機で、有視界飛行のため、天候が悪いと飛びたてないとのことであった。また、カトマンズが雨では、標高2,850mのルクラでは雪ではないかといううわさもあった。もちろん、ルクラの飛行場自体が、山の中腹にある坂道の滑走路?1本から成る飛行場で、晴れていても離着陸が怖いといった話も事前に聞いていた。

とりあえず、5時半には朝食をとり、6時には迎えの車に乗り、カトマンズ空港へ出発した。6時半に飛行場到着。待合室は狭く、薄暗く、かつ寒々としており、大勢のツアー客や現地旅行会社のスタッフ等で混雑していた。更に、天候が悪く、飛行機がいつ飛び立つのかも分からず、ちょっといらだち気味であったが、ここはネパールだから当たり前だと考え直し、じっと耐えて、出発を待った。ちなみに、ここで空港税650ルピー支払う必要があった。
 7時くらいになると、雲はあるが、雨があがり、カトマンズからは離陸ができそうな感じであったが、ルクラの天候が心配であった。そうこうしている内に、いよいよ搭乗となった。厳重な荷物チェックを受けた後(ライターやマッチの持ち込みを気にしていた)、20人乗りくらいの小型プロペラ飛行機(Yeti Airlines:”Yeti”とは雪男という意味))に搭乗し、ちょうど8時半にルクラへ向けて飛び立った。ヤッターと言う感じであった。



空港待合室
飛行機の操縦席 ヒマラヤ山脈1 ヒマラヤ山脈2 Lukra Airport (2,850m)

  飛行機はプロペラを全力で?回転させ、どんどん高度を上げていった。次第にヒマラヤの神々しい山々(名前は一切わからない)が見え、感激で気持ちが高ぶり始めた(これからずーっと感激のしっぱなしとなる)。およそ40分で、ルクラの近くまで来て、飛行機は高度を下げ始めたが、飛行機は雲の中に入り、不安な気持ちになった。飛行機が左に旋回しながら高度を下げていくと、右にルクラ(Lukra:2,850m)の滑走路が見えた。飛行機は坂上がりの滑走路に向けて高度を下げ、無事に坂の勾配を利用して着陸した。ルクラの飛行場の周りは、昨夜の雪で白かった。滑走路は除雪されていたが、天気は曇りで、あやうく飛行中止となるところだったようだ。とにかく、ほっとした気分と、いよいよだなといった気持ちの高ぶり、これからどうなるのかなという不安などなど、頭の中がぐるぐる回る感じであった。

 飛行機から降り、すぐに近くのロッジへ移動した。そこで初めて、今回の我々のトレッキングを案内してくれるシェルパのリーダー(サーダーという)であるパサンさんを紹介された。40代か50代くらいで、浅黒い顔とがっちりした体格の人であったが、なんとなく日本人に似ており、親しみをもつことができた。ニュージーランドのMT.Cookの時のガイド、プリンジさんも同じような感じであったことを思い出した。それから到着荷物の確認をし(ゾッキョに運んでもらう荷物をここで預ける)、お茶(”お茶”というときは紅茶を指す)を飲んで小休止した。
 ここで初めてトイレを使ったが、東京で言われたとおり、ロッジの外の広場の片隅に小屋が建っており、内部は2、3畳分くらいの広さがあるトイレ(もちろん水洗はない。ひねると水が出る水道?もまだ充分に普及していないようだ?)であった。人糞は木の枯葉と混ぜて、堆肥に使われるとのことである(ちなみに、ゾッキョの糞は乾燥させて燃料としても使うとのことだった)。このため、使用したトイレットペーパーは別の箱に分別して入れるようにする。これから6日間、同じようなトイレにお世話になることになるが(一部、室内にあったり、ヒシャクで汲んだ水を流す形式のトイレもあった)、氷点下の真夜中も外へ出なくてはならない点を除けば、日本の山小屋のトイレと似たようなものといえる。


3.2 ルクラからパクディンへ(12月27日(土))

 シェルパの人々やゾッキョの準備が整ったようで、11時10分にルクラをようやく出発する。雪は降っていなかったが、どんよりと曇った天気であった。着ている衣類は充分なので、寒い感じはなかった。全員気を引き締めて、サーダーにしたがって”エヴェレスト街道”を歩き始めた。
 ルクラのメインストリート?は、両側に商店やロッジ(民宿)があり、こぎれいな感じの街であった。ルクラの街の終わりには仏塔が上に乗った門があった。そこを通りぬけると、深い渓谷(ドゥード・コシ川:Dudh Koshi)の傾斜地に作られた山道になった。パクディンはルクラより標高が低く(2,640m)、山道はほとんど下りとなる。

我らのゾッキョ君 LukraのMainStreet

 当初、トレッキング道(エヴェレスト街道)のイメージがわかなかったが、街道のあちこちに人家があり、トレッカー向けのロッジ(民宿、レストラン?)やバッティ(茶屋、休憩所)、おみやげ店なども多く、また観光シーズンの終わりに近いにもかかわらず、トレッカーも多く(日本人も白人も多い)、地元の人々やポーター、ゾッキョ等を含めてかなりの通行があった。登山道というよりは、地元の人々の生活道路といったほうが合うようで、道幅もかなり広く、傾斜もきつい所はほとんどなかった。日本の里山付近の村道を多くの人々が歩いているような感じともいえる(もちろん、高度や渓谷の険しさはまったく違うが)。
 時々道は渓谷の反対側にわたることになるが、長い鋼鉄あるいはアルミ製の立派な吊り橋がかかっており、ゾッキョも安心して?渡っていた(吊り橋は近年整備されてきたようだ)。また、道々には、仏塔(チョルテン)や仏塔門(カンニ)、経文が書かれた大きなマニ石、マニ車があり、あちこちにカラフルなのぼり(タルチョー)がはためいていた。シェルパ族の人々がチベット仏教を信仰しているのが伺われた(カトマンズではヒンズー教が主流です)。
 パクディンまでの道のりの中ごろから、時々小雪が舞うようになった。ただ大雪ではないので、ほとんど問題はなかった。途中、雪が止んだりすると、雲間から遠くに雪を頂く岩峰が望まれ(山の名前はいろいろと教わったが、よく分からなかった)、皆で度々歓声をあげた。
 2時ちょっと前に、タドコシ(Thado Koshi)部落に到着し、そこのロッジで簡単なランチを食べた(何を食べたかは忘れた)。

小雪舞う中つり橋を渡る 小雪舞う渓谷と対岸の村落 渓谷のタルチョーと岩峰

 ランチ後、パクディンに向かって出発し、3時45分頃、ようやく渓谷の対岸にパクディン(Phakudin:2,650m)の村が見えた。吊り橋をちょうど渡ったところが、我々の泊まるロッジであった。雪は止んでいたが、かなり冷え込んでおり、割り当てられた部屋に早速入り、着替え等をした。寒かったが時間が少しあったので、スケッチもトライした。
 夕方6時に夕食。メニューは忘れてしまったが、シェルパのコックが作る料理は、日本人向けに味付けされており、とてもおいしく食べることができた。また、食前、食後にシェルパのキッチン・ボーイがニコニコと笑いながら給仕してくれる(ミルク)紅茶もとてもおいしく飲めた。
 食後は、ちょっと談笑した後、テルモスにお湯を入れてもらい、湯たんぽを受け取り、部屋に戻った。初めてのロッジ泊で心配であったが、湯たんぽをシュラフの中に入れ、たくさん着込んで、シュラフ(インナーシート付きの冬用)にもぐり込んだ。


Phakudin(2,650m)


<シェルパとトレッキング> 
 今回のエヴェレスト街道のトレッキングは、日本からのツアーリーダーの他に、シェルパの人々(およそ8、9名)が我々をサポートしてくれました。シェルパのリーダー(頭)をサーダーといいます。今回のサーダーはパサンさん(44歳)でした。その他に、メンバーとして、ガイド(狭義のシェルパ)、コック、キッチンボーイ、ポーターがおります。サーダーとコック以外は皆20歳前後の若者に見えました。
 トレッキング中は、サーダーともう一人のシェルパ(ガイド)が我々の前と後ろに位置し、我々をガイドしてくれます。他のシェルパは、我々の個人の荷物や共同装備(シュラフ、調理道具、食料、食器、その他)を運びます(もちろん、ゾッキョも手伝います)。そして、朝、昼、晩の我々の食事や宿泊時の世話をしてくれます。食事は、ロッジが提供するのではなく、シェルパが食材を含めてすべて用意し、調理を行ない、サービスします。シュラフなどの寝具もシェルパが持ち運び、提供します。ロッジは、単なる場所貸しの役割しかもっていません(テントでもトレッキングも同様で、この場合はシェルパは宿泊用およびダイニング用テントを持ち運びます。トイレテント?も設営するようです)。
 朝は、まずモーニングコールを兼ねて、紅茶(ビスケット付き)と洗面用のお湯のサービスがあり、その後朝食となります。持ち運んでもらう荷物は、バッグにまとめてお願いします。ランチもロッジが用意するのではなく、シェルパが我々より先に行って、食事を準備する形式になっています。宿泊地に着くと、部屋の割り当てがあり(2人1部屋でベッドメイキング?されている)、その後夕食のサービスとなります。今回は寒いので、寝る時には湯タンポのサービスもありました。食事はコックの腕前次第です。今回は、日本人向けの味付けをした食事を提供してくれましたので、全般的に食べやすく、かつおいしい料理でした(コックはカトマンズで日本人向け料理の勉強をするのだそうです)。トレッカーの国が違えば、その国の人にあった料理を提供するそうです。
 このように、我々のトレッキングは、すぐれたシェルパのサポートシステムによって支援されていると言えます。

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