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荘子の部屋】ChuangtseWorld
[荘子外篇第十一 在宥(ざいゆう)篇]あるがままについて(2)

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あるがままについて[荘子外篇第十一 在宥(ざいゆう)篇](その2)

 雲将軍が東方へ行き,扶揺(ふよう)(神木)の枝を通っていくと,ばったりと大雲霞(だいうんか)に出会った。大雲霞は太ももをぴしゃりぴしゃりと叩きながら飛び跳ねていた。雲将軍はそれを見て,思わず立ち止まって言った,「どなたですか,ご老人よ。何をなさっておいでです?」
 「ぶらついているんだよ」と大雲霞は答えて,なおももを叩いて飛び回ることを止めなかった。
 「お尋ねしたいんですが」と雲将軍。
 「おう」と大雲霞。

 雲将軍は続けた,「天の気は調和を失い,地の気は息もきれぎれです。六気(天候の六因;陰・陽・風・雨・明・暗)は協調しては動かず,四季はもはや正常ではありません。私は六気の精髄を調和させて生けるものを養いたいと願っています。どうすればよいのでしょうか。」 
 「知らないよ,わしは,何にもな」と大雲霞は叫び,首を振りながら,なおももをぴしゃぴしゃ叩いて飛び回ることを止めなかった。

 そこで雲将軍は質問が続けられなかった。三年後東方へ行き,宋国の野原を通ってると,彼は再び大雲霞にばったり出会った。大いに喜びせきこんで言った,「聖なる方(天)よ,私をお忘れですか。お忘れでいらっしゃいますか。」
 彼は頓首再拝,大雲霞に質問をすることを許して欲しいと述べた。しかし大雲霞は言う,「わしは求めるものが何だか知らないで,ぶらつき回っている。どこへ行こうとしているのか知らないで駆け回っている。わしはただぶらつき回って,別に当てもなく出来事を見ている。わしに何がわかろうか。」

 雲将軍は答えた,「私の方だって,ただ駆けずり回っているだけなんです。しかし民衆は私の後からついてくるんです。私は民衆から逃げられず,私のすることについてきます。何か助言をいただけたらとてもうれしいのです。」
 大雲霞は言う,「世界の仕組みが混乱の中にあること,生きる条件が壊されてしまっていること,暗黒天の意志が成就されないこと,野の獣たちがちりぢりにされてしまっていること,空飛ぶ鳥たちが夜中に叫ぶこと,木枯れ病が樹木や草本を襲っていること,破壊がはいずり回る虫らにも広がっていること,‥‥こうしたことは‥‥ああなんたることだ!‥‥他のものを治めてやろうとする者たちの罪なのだよ。」

 「仰せの通りです,が」と雲将軍が答えた,「わたしはどうすればよいのでしょう。」
 「ああ!」と大雲霞は叫んだ,「落ち着いて,そして,おだやかに帰って行きなさい。」
 雲将軍はせきこんで言った,「尊いあなた様に,あまりお目にかかれません。何とか助言をいただけたらとてもうれしいのですが‥‥」

 「ああ」と大雲霞は言う,「あなたの気持を慈しむことだ。無為にして憩えば,世界は自ずから改まってくるだろう。その肉体を忘れ,知性を吐き出してしまえ。あらゆるちがいを無視して,無窮と一体となれ。心を解き放って,精神を自由にしてやれ。空っぽになって,魂をもぬけのからにせよ。そうすることで,物は成長し,繁茂し,その本源に立ち返るだろう。(自然が)自分では気がつかないでその本源に立ち返ること,その結果はけっして根絶やしにされることのない無定型の全体(混沌として秩序ある大自然)としてあるだろう。それをよく見極めようとすれば,それは根絶やしとなる。その名を問うな,その本性をのぞき込むな,そうしてはじめて万物は自ずから繁茂しゆくことだろう。」

 「尊いあなた様よ」と雲将軍は言った,「あなたは私に力を与えてくださり,沈黙を教えてくださった。長い間探し求めてきましたことを,私はいま発見したのです。」それから彼は頓首再拝して,辞去した。

 世間の人々は誰でも,他人が自分と同じようであるのを喜び,自分たちと似ていないといやがる。自分の好みで友だちを作り,好みが合わないと友だちにならない,そういう人々は他人の上に出たいとの望みに左右されている。しかし他人の上に出たいと望む人たちは他人の上に位置を占めたことがあっただろうか。個人の判断を大勢の人の意見に置くのよりは,自分のことにかまけよう。しかし(これとは立場が違って)王国を治めようと望む人は,三王(夏殷周)の政治システムの良さだけを手に入れようとして,発生していた不具合さを見ようとしない。実際に彼らは国の運命を運不運に委ねているのだ。しかし一体,滅亡から逃れ得るほどに幸運だった国があっただろか。王たちが国を護り得る機会は,一万分の一にも達しない。むしろ,国を破滅させる機会は万を超える,いやそれ以上にも達し得よう。これが,ああ! 為政者の無知の実態だ。

 領土を所有することは大きなものを持っていることである。大きなものを所有している者は,物質的な物を物質的な物として扱ってはならない。物質的な物を物質的な物として扱わないことによってのみ,人は物の主宰者(主人)であることができる。物質的な物を現実でない物として見る(取り扱う)考え方は,全土(帝国)の単なる政府に閉じこめられない。このような人は,天地の空間の六極の間を意のままに逍遙し,九大陸(中国全土)にわたって無制約に自由に旅し行けるのだ。この境地は唯一者のものだ。唯一者は人類最高の人である。

 偉大なる人の教えは,形に添う影,響きに応じる反響(こだま)のように柔軟である(無碍である)。問われれば答え,人類の相談相手として持てる能力いっぱいに尽くす。彼は応答には音を立てず,動きに目的はなく,あなたを歩き来たり歩き去るときの妨げなしに,無窮の境に連れて行く。その動きに形はなく,彼は太陽と共に永遠である。その肉体的存在という点では,普遍的標準に順応する(やはり寿命が来れば死ぬ定めがある)。その普遍的標準への順応を通して,彼は自分の個別性を忘れる。しかし,自分の個別性を忘れるのなら,如何にして自分の所有物を所有物と考えられるのだろうか。所有物の中に所有物を認めるのは古代の賢人たちであり,非所有を所有物と認めるのが天と地(の神々)の友である。

 つまらないものであるが,そのまま置いておかなくてはならないものは,物体である。貧しい,しかしなおついていかねばならないのが,民衆である。いつもそこにあって,しかしなお注意を払わなければならないのが,職務である。不十分ではあるが,しかしなお公布されねばならないのが,法律である。それらは道(タオ)からは離れているが,しかしなおわれわれの注意を引きつけるのが義(義務)である。偏ってはいるが,しかし広げねばならないのが,仁(慈愛)である。つまらないことにこだわり,しかし内側からこまごまと強化されねばならないもの,それが礼(儀式)である。内に備わってはいるが,しかし内側から向上されなければならないもの,それが徳である。
 一者であって修正変更なしではありえないもの,それが道(タオ)である。精神的であって,しかし行為がまったく欠けているのではないもの,それが神である。だから聖人は神を敬うが,助けることを申し出ない。彼は徳を完成させるが,それに熱中することはない。彼は道(タオ)に導かれるが,しかしそれは計画してするのではない。彼は仁によって自分を特徴づけるが,それを頼みとはしない。彼は隣人に義務を果たすが,隣人を特別に重んじるというのでもない。彼は礼式に従事して,それを避けることはない。彼は依頼されれば断らないで,事件の処理を引き受け,そして混乱なしに法律を適用する。彼は民衆を頼りにするが,光で指し示し導くのでもない。彼は問題に適応するが,それを否定するのではない。物事は気を配るほどのものではないが,といって気にしないわけにもいかない。
 神を理解しない者は,性格が純粋になれないだろう。道(タオ)をよく理解しない者は,始まりを知らない。そして,道(タオ)によって照らされない,‥‥ああ,彼は如何にあるか。そのとき道(タオ)とは何か。 神の道(タオ)があり,人の道(タオ)がある。栄光は無為の神の道(タオ)からやって来る。行為を通して発生する人の間のもつれは,人の道(タオ)からやって来る。神の道(タオ)は根源的である。人の道(タオ)は偶発的である。
 皆でよく考えてみようではないか。


■[荘子外篇第十七 秋水篇]秋の洪水(1)