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[荘子内篇第六 大宗師篇]至高の存在(その2)

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至高の存在[荘子内篇第六 大宗師篇](その2)

 南伯子葵(なんぱくしき)は女※(じょう)に言った,「あなたはたいへんなお年ですが,顔の色つやはまるで子どものようです。どうしてなんでしょう」
 ※(う)は答えた,「私が道(タオ)を学んだからだよ」
 「私も道(タオ)を学べるでしょうか」と子葵。
 「いや,だめだよ!」と※(う)。
 「あんたはそのタイプではないね。卜梁倚(ぼくりょうき)という人がいてね,その人は聖人になる素質は充分だったが聖人に必要な道(タオ)を学んでいなかった。この私の方は,道(タオ)は体得しているが,聖人の素質がないんだ。でも,私は彼が実際に聖人になるように,彼に教えることはできるんだよね。もしそうであるなら,聖人になる素質がある人に道(タオ)を教えることはたやすいはずだ。
 でも(彼に教えてみて,それは)たやすいことではなかったんだよ。彼に教えてから効果が現れるまで,辛抱強く待たねばならなかったんだ。三日間経って,彼はこの現世の俗世界を超えることができた。再び私はさらに七日間待つと,彼はこの現実の物質世界を超えることができた。彼が物質界を超越できて後,私はさらに九日間待つと,彼は人生を超越できたんだ。人生を超越できて後に,朝の澄み切った気分を得,その後に“超絶者(一者)”を見ることができた。“超絶者”を見ることができて後,過去と現在の差異を取り払うことができた。過去と現在の垣根が消えた後,彼は生と死の差がもはやない世界に入ることができた。そこでは,人殺しの行為も生命を奪うことはできず,生誕も新しく付け加えることはない。彼はその如何なる環境の激変をもそのままに受け入れ,如何なる事態も受け入れ,歓迎し,破壊はそのままに,完全なものは完全なままに受け入れる。
 これをすなわち“混乱のただ中の安定”といい,混沌を通って安定に至るということなのだ」

 「あなたはどこでそれを学んだのですか」と南伯子葵(なんぱくしき)が問うと,女※(じょう)が答えた,「私はそれを副墨(ふくぼく)(インキ;墨汁)の子(すなわち書物)から学んだよ。副墨の子はそれを洛誦(らくしょう)(学習)の孫から学び,洛誦の孫は贍明(せんめい)(理解)から,贍明は聶許(じょうきょ)(洞察)から,聶許は需役(じゅえき)(実践)から,需役は於謳(おおう)(民謡)から,於謳は玄冥(げんめい)(沈黙)から,玄冥は参寥(さんりょう)(虚無)から,参寥は疑始(ぎし)(仮の始源)から学んだんだよ」 

 子祀(しし),子輿(しよ),子犁(しり),子来(しらい)の四人が語り合っていて,「だれか,“無”を頭となし,“生”を背骨となし,“死”を尻となすことができ,そして死と生と存在と無は一体であると理解する人がいるなら,その人はわれわれの友人になってよいのだがね」と言った。四人はお互いに見つめ合い,ほほえみ,すっかりうちとけあって,お互いに友だちになった。

 やがて,子輿が病気になって,子祀が見舞いに行った。「創造主は実に偉大なものだね」と病人が言った,「見ろよ,俺のからだを二重に折り曲げちゃってさ」彼の背はひどく弓なりに曲がって,内蔵部がからだの頂点にきていた。その頬はへそと同じ高さで,また肩ときたら首より高かった。首の骨は空の方に突き出ていた。諸器官の全機能はすっかり狂っていたが,心はいつものように冷静だった。彼はからだを引きずって井戸のところに行き(水にからだを映して)「何とまあ,神はよくもこんなに俺のからだをひん曲げてしまったものだわい」と言った。
 子祀が訊いた,「不愉快かね」子輿が答える,「いや,どうして不愉快なものかね。仮にこの左の腕がおんどりにでもなれば,明け方のときを告げられるというものさ。もしさ,この右腕がパチンコにでもなれば,鳥を射落として焼き鳥にでもするよ。この尻がさ,車輪になればよ,気分は馬となって,車を御して行ける‥‥まあ,馬車要らずってところだね。
 私が生を得たのはその時に巡り会ったからであり,生と別れるのは道(タオ)の働きに一致するということだ。来るべき時の成り行きに安んじて,道(タオ)に調和して生きれば,喜びや悲しみとは縁なしさ。こうした生き方は,古人によれば,束縛からの自由ということだ。束縛から自由になれない者は,その心が物質的存在の網の目に絡め取られているからなんだ。人なんてものは,神様に任せっきりなんだから,どうして(自分のいまの境遇を)いやがるなんてことがあるものか」

 ほどなく,子来が病気になって,息も絶え絶えに病床に伏し,家族の者たちがそのまわりで泣き声を上げていた。子犁は見舞いに訪れて,その妻や子どもに向かって叫んだ,「出て行きなさい。臨終を邪魔していはいけないぞ」それから,戸に寄りかかって言った,「誠に,神(造物主)は偉大だな。いま君を何に変えようとし,どこへ連れて行こうとするのだろう。君をネズミの肝に変え,それとも虫の脚にでも変えようというのだろうか」
 子来が答えて言う,「子というのは親が命じる所なら,東・西・北・南のどこへでも行かねばならん。陰陽の(命じる)ことなら,親の命令どころの話しではない。もしも陰陽がすぐ死ねと命じたのに,俺が異議を唱えるなんてことをしたら,悪いのは俺の方で,向こう様ではないね。造物主は俺にこのからだを与え,人間として労働をさせ,老人になって楽をさせ,死ですっかり休ませるということだな。確かにな,それ(造物主)は俺の人生のよい審判者であるのだから,俺の死のよい審判者でもあるんだよな」  

 「仮にだよ,るつぼの中でどろどろに熔けた金属が飛び出してきて,“私を莫邪(ばくや)の名剣にしてください”と言ったら,鋳物師の親方は異常なことだとその金属(の言い分)を拒絶するだろう。同様に,この俺が人間の形に生まれたんだからと,“人間のままでいたい,人間のままでいたいよう”と言ったとしても,創造主もこいつは異常だぞと拒絶することだろうよ。この宇宙が溶融炉そして,創造主が鋳物師の親方だと考えたら,どこに送られようとかまったことではないね。そこで,平安な眠りに就き,生きいきと目覚めるのさ」

 子桑戸(しそうこ),孟子反(もうしはん),子琴張(しきんちょう)が語り合っていて,言う,「無関係であるかのようにして関係を保ち合う人,助け合うことがないかのようにして互いに助け合うた人はいるだろうか。天に昇り,雲の中を歩き回り,無窮の果てに跳び,生きていることなどすっかり忘れて,永遠そして無窮に遊ぶ人はいるだろうか」三人はお互いに顔を見合って完全な了解の中で微笑み,お互いに友となった。
 しばらく経って,子桑戸が死んだ。そこで孔子は子貢を弔問に行かせた。しかし子貢がそこで見たのは,故人の友人の一人は繭のシーツを整えており,もう一人が弦楽器を奏でて,二人で唄を唄っているところだった;

   「おお,帰り来たれよ,わが桑戸
    おお,帰り来たれよ,わが桑戸,
    汝(なれ)ぞ 真実(まこと)の郷(さと)に行きし者よ,
    我らのみ 人の業(さが)にて留まるままに,おお」

 子貢は小走りに走り寄って,「亡きがらの前で唄うというのは,どうしてですか。それはよい作法でしょうかね」と言った。

  二人は互いに顔を見合わせて言った,「この者はよい作法の意味が分かっているのかね,まったく」

 子貢は帰って孔子に報告して,問うた「あんな作法ってありますかね。彼らの意図はまるでナンセンスですし,身なりなどちっともかまっちゃいません。亡きがらの近くで唄い,何もしないままなんですよ。あんな礼儀作法ってありますかね,まったく」

 孔子は答えた,「彼らはね,この世俗の世界の外に遊んでおり,私の方は世俗の中で振る舞っているんだ。だから二つの道(生き方)は交わることがない。君を弔問にやるなんて,私が愚かだった。彼らは自分たちを創造主の仲間として,天地の“一気”と交わっているんだ。彼らはこの人生を首のはれ物(るいれき)やからだのできものみたいに,また死を腫瘍がつぶれたくらいに考えている。このような人たちが生や死やその生起といったことに関心を示すものかね。彼らはいろんな材料で人の形を身にまとい,ありふれた形の住まいに仮住まいし,からだの器官がどうであろうと関心が無く,視力や聴覚などに頓着しない。彼らは人生を始めも終わりもない円環を行ったり来たりして過ごし,生存界の塵埃の巷の彼方に茫然自失の態でぶらつき無為を相手に戯れているのだ。こんな彼らがどうして,世間の人には関心があるそんな俗世間の因習などにかかずらわっているものかね」

 子貢は言う,「そうだとしましたら,先生は現実世界と精神世界のどちらによられるのでしょうか」

 孔子は答える,「私は天に罰された者だ。そうではあるが,私は知っていることを君に伝えよう」

 子貢は質問する,「先生の方法をお聞きしてよいですか」
 孔子は答える,「魚は水の中でその生を全うし,人は道(タオ)の中でその生を全うする。水中で生を全うできる魚は,池の中で生き生きと生きる。道(タオ)の中で生を全うできる人は,無為の内にその本性を全うする。このことから,“魚は水の中でお互いに忘れて(夢中に生きて)幸せであり,人は道(タオ)の中でお互いに忘れて(夢中に生きて)幸せである”と言われるのだよ」
 「あの奇人(変わり者)たちについてはどでしょう」と子貢が言う。

 孔子は答えて言う,「奇人というのは人間の目から見れば変わり者だが,神の目から見ればごく普通の人なんだよ。このことから,“天上で最低のことは地上では最も大事なことであり,地上で最上のことが天上では最低のことだ”と言われるのだ」


[荘子内篇第六 大宗師篇]至高の存在(その3)