夜のガスパール〜ルイ・ベルトランの詩にもとづく幻想曲

 

まず結論から開始する。序なのに(笑)。
ラヴェル作曲「夜のガスパール」は、ルイ・ベルトランの同名の詩集から選ばれた三篇を、イメージを拡大しつつ忠実に音世界へと翻訳したピアノ曲である。原作は幻覚や幻影を客観視する、いわゆるシュルレアリスムのさきがけであり、さらには散文詩というジャンルを確立した作品である。ラヴェルはベルトランの作った世界に敬意を持って、なおかつ情熱的な精力を注いでこの曲を作り上げた。
クラシック音楽をやっている人は誰でもこの曲に興味をそそられるようだ。だから音楽学的な解説はたくさんある。そして、みんなそれで満足しているようである。なぜベルトランなのか、ベルトランがどういう時代を生きていたのか。ベルトランの詩にはどのような意味があるのか。そして、なぜ詩が音楽になり、音楽が詩になるのか。聴衆が進んでこの世界に入ることを拒むような難解さの原因はどこにあるのか。
ラヴェルついて勉強するうちに、この世界を深く味わうためには、どうしてもベルトランの詩の理解が必要ということがわかった。なので今回は主にベルトランの詩について自分なりに謎解きしてみた。例によって自分流なので、気軽に読んでいただきたい。

1.ルイ・ベルトラン(雅号アロイジウス)について

序でも述べたように、この曲を理解するにはベルトランの詩について知っている必要がある。世の中のあらゆる解説は、ベルトランを軽視しすぎていると思う。
ベルトランの生涯は、ひとことでいうなら病と貧困に苦しめられ続けた34年である。いろいろな伝記を読んでいると本当にかわいそうで、おもわず胸がしめつけられる。詳しくは及川茂の訳著「夜のガスパール〜レンブラント、カロー風の幻想曲」のあとがきに詳しく書かれているので、ぜひ読んでいただきたい。

ベルトランは子供の頃から作文に才能を見せ、成人してからも自分の作品をあちこちに売り込もうとしたが、残念ながらまったく成功しなかったようである。「夜のガスパール」の着想はかなり早く、20代の前半にはすでにいくつかの詩が書かれていた。少しずつ書き足し、改訂を重ね、ある程度まとまったところで出版を考えていたようだが、残念なことにその前に寿命が尽きてしまった。自らの命の終焉を予感したベルトランは、なんとかして出版できる形にしようと病床においても努力をつづけ、残された人に出版に際する指示を行い、その後のすべてを託して亡くなった。病床の枕の下にはおびただしい量の遺稿が残されており、その中にはラヴェルが音楽にした「絞首台」や「スカルボ」も入っていたそうである。貧しくあっても、病に倒れても、理想とする芸術を追求しつづけたベルトランには心から敬意を表したい。
ベルトランが亡くなった翌年に刊行された詩集「夜のガスパール」は、しかし世間的にはまったく評価されなかった。初版は21冊しか売れなかったそうである。出版を託されたわずかな友人のみが、この詩集のもつ可能性を理解していた。あとで解説するが、ありていに言えば、この詩集は時代を先取りしすぎていたのだ。死後しばらく経って19世紀半ばを過ぎたころにボードレールが発見したとき、ようやく時代の流れが追いついた。ボードレールやマラルメが賞賛したことにより徐々にフランス文学界に浸透し、再版を重ねるごとに評価が高まり、ラヴェルの音楽によってついに世界的な成功を得る。初版の表紙写真がWikipediaにあったのでここに掲載する。この美しい緑色の装丁も、ベルトラン自身が指示したものである。

<年表>

1841年

ルイ・ベルトラン死去

1842年

初版発行。21部しか売れなかったと言われている。ボードレールやマラルメはこれを書店から発掘している。

1868年

再版。402部。ボードレールやマラルメが絶賛したが、知識人の間にしか広まらなかった。しかしこの部数でも大したものである(当時の詩集の需要は200〜300部)。この後95年まで再版されず入手困難になったため、伝説の傑作的な扱いをされる。

1895年

再版。かなりの部数が再版され一般にも広がり始める。

1902年

以降、多数の出版社より刊行。ベルトランの評価はゆるぎないものとなる。

1908年

ラヴェル、「夜のガスパール」発表。音楽を通してフランス以外でも広まる

 
2.アロイジウス・ベルトラン著 「夜のガスパール〜レンブラントあるいはカロの印象にもとづく幻想曲(Gaspard de la Nuit - Fantaisies a la memoire de Rembrandt et de Carrot -」について

標題を見て愕然とした人もいるだろうが、この詩集は幻想曲、すなわち音楽である。通常は「夜のガスパール」と記述されるが、その後に重要な文言が付記されていることを知る人は少ないと思う。なぜ音楽なのか。この標題を掘り下げることで、謎めいた詩の意味するところが解明できる。

(1)詩集の構成

「夜のガスパール」と名乗る人物からベルトランが受け取った詩集、という体裁を取っている。ベルトランがディジョン(ベルトランが住んでいたブルゴーニュ地方の中核都市)でひとり詩的な物思いに耽っていると、そこに貧困と苦悩と身に纏ったような哀れな、ぼろぼろの服装をした不幸そうな男が現れ、自分の苦しみに満ちた芸術探求の旅について語りだす。そして男は最後に、「自分の労苦が得た唯一の成果、唯一の報いとして、調和と色彩の様々な、恐らく新しい技法が収められている」という書物をベルトランに手渡し、姿を消す。そしてベルトランがその書物を出版した、という形である。この男がベルトラン自身の投影ということは明らかだ。ドッペルゲンガーに自らの作品を語らせるのはロマン派作家の常套手段である。
詩集は6章+遺稿で構成される。それぞれ「フランドル派」「古きパリ」「夜とその魅惑」「年代記」「スペインとイタリア」、そして遺稿「作者の草稿より抜粋した断章」となっている。日本語訳は散文詩の形態になっており(韻文を翻訳できなかったため)、ひとつひとつを読んでも「だからなんなの?」としか言いようがない、茫漠とした印象しか残さない。つまり、日本語訳を読んでもなにが言いたいのかよくわからない。そこで、ベルトランが生きていた当時の事情を考えていくことにした。

(2)18世紀前半の文化事情と「夜のガスパール」という標題に込められたもの

ベルトランが文学上のロマン主義の真っ只中に活動していたことは間違いない。同世代にはヴィクトル・ユゴーやショパンの愛人ジョルジュ・サンドといった、作品も作家当人も強烈な個性をもっていた人が多い。実際に夜のガスパールにはユーゴーの作品からの引用もある。さらに、この時代はまだ霊的なものが実在すると信じられており−そんなものは実在しないとうすうすは感じていたが信じたかった−、伝奇的あるいは怪奇的な詩や小説が多かった。というか、ほとんどそういう題材ばかりである。もちろん作者たちはオカルティズムに夢中でそういう作品を生んでいたわけではなく、純粋に幻想性を追及したら怪奇趣味になってしまった、という時代である。同世代のアンデルセンがその典型で、悲劇性や怪奇性をもった、複雑でいくらでも深読みできるおとぎ話を量産したが、作品の放つ圧倒的な幻想性で大人気となった。つまり魑魅魍魎は文学の題材として大流行だった。この詩集に出てくる精霊や悪魔は、その時代性を反映している。
そしてロマンティックな「夜」。夜はロマン派の作家や作曲家には大人気の題材である。ではなぜ夜がロマンティックなのか。19世紀前半の夜は20世紀以降の夜とはまったく違うことに着目したい。白熱電灯の発明は19世紀末であり、それ以前は都市でもせいぜいガス灯がほの暗くともされる程度だ。市外では月夜を除いてまったくの闇だし、室内はランプに頼るしかなかった。とにかく暗い。だから当時の人が暗闇の中にうごめく「なにか」を見ても不思議なことではない。
さらにガスパールである。これが何を意味するかご存知だろうか。エヴァンゲリオンをご存知の方はメルキオール、バルタザール、カスパーという名前を当然知っていると思うが、そのカスパーのことである。つまりキリスト誕生を予見し駆けつけた東方三賢人のひとり。しかしベルトランはあえて悪魔の名前として扱っている(あべこべの美学)。これらのことから夜のガスパールとは「暗闇でうごめくよからぬもの(を見た私)」と捉えてもよいと思われる。魔の中のかすかな美を愛で、美の中に潜む魔に耽溺する。まさにロマン派の思想である

ベルトランも当初はそういうロマン的で人間味のつよい作風で書いていた(だから着想は「夜のガスパール」)。しかし徐々に批判的な傾向を強めて客観性を重視するようになった。つまり幻影や幻覚を客観視し、日常より上位の現実として描写する手法である。この姿勢はシュルレアリスムそのものであり、これでは19世紀中盤の人々に受け入れられるはずもない。つまりベルトランはロマン派が隆盛を極めた時代に背を向け、現実と向き合う道を選択したのだ。死の直前には初期に書いたロマン風の作品をすべて破棄するように指示していたというから、その姿勢の厳しさはすさまじい。初版を出版するときに遺作を含め初期作品も掲載され、消失をのがれた。20世紀に入りベルトランがシュルレアリストの先駆者としても評価されたのは当然といえる。

(3)標題に添えられた「幻想曲」

標題に添えられた文言は、とても重要である。19世紀前半は「音楽こそが詩であり絵画であり、音楽こそが最高の芸術である」と作家や画家がこぞって音楽を崇めていた。たとえば、ハイネはショパンの即興演奏を聴いて非常な感銘をうけ、ショパンこそが詩人であると絶賛した。これが現在まで伝わるピアノの詩人ショパンの発端である。
さて、ベルトランがインスピレーションを受けたレンブラントの絵画はほとんど陰影を描いているといってよく、画面は全体的に暗い。闇と光の二面性を的確に表現している。レンブラントは光と影の魔術師とよく言われるが、ベルトランは明らかに影のほうに着目して、夜のガスパールへと反映させている。あの黒い空間に、なにか潜んでいるように見えたのだ。そのレンブラントが熱心に追いかけたのがカロである。カロは「戦争の惨禍」が最も有名だが、それ以外にもおびただしい量のエッチングを残している。現代でもおとぎ話の挿画によく見られるちょっと不気味な小人像などは、どれもカロのエッチングが影響を及ぼしている。つまり、ベルトランはは二人の画家から得た印象を拡大し、幻影や幻想を音楽のように詩に紡いだのだ。さらに重要なことはシュルレアリスティックに、つまり客観的に突き放したような視点で幻想を描くことで、しょせん幻想は幻想でしかない、ということを知らしめている点にある。だから個々の詩はどれも決して自己を投影しない。この姿勢はロマン派にあっては異端である。ふつうのロマン派詩人であれば、自らの苦しみや思想を存分に作品に反映させるはずだが、ベルトランにはそれがない(加えて言うならショパンにもそれがない)。つまり、この詩集は幻想的でロマンティックな雰囲気に見せかけて、実は幻想を否定して現実を肯定をしている。巧妙な二重構成になっているのだ。ただでさえ理解しがたい幻想と妄想の産物を、さりげなく第三者に否定させる巧妙な構成を読み解くのは、当時の人だけでなく現代の人間にも困難な仕事である。しかし客観的な幻想曲など、存在するのだろうか。

もちろん、存在する。
わたしたちは、フレデリック・ショパンの幻想曲Op.49と幻想ポロネーズOp.61を知っている。Op.49は各部が明確に区切られていながらも構成面での自由度が高く、とらえどころのな不思議なイメージを抱かせる。Op.61に至ってはもはや明確な区切りもなく、調性はつぎつぎと移ろい、さまざまな楽想がとりとめもなく生まれては消え、また生まれては消える。そんな支離滅裂に思える構成でありながら、実は細部まで綿密に拵えられた音楽。あれこそが客観的な幻想曲である。Op.49はベルトランが死去した年に発表されており、音楽と文学という違いはあるものの、両者とも同じようなことをやっているのは興味深い。

(4)音韻による独特な音楽性

この詩集にある独特な音楽性は、フランス語であるところが大きい。よどまず流れるフランス語が、汲めども尽きぬ幻想を喚起する。残念なことに、最も広まっている及川氏の日本語訳はフランス語の音韻を無視している。わかりやすい和訳のために音韻を捨ててしまった、と及川氏自身が訳書の中で後悔の念をまじえて述懐している。だから日本語では本来の魅力が伝わらないのも当然である。インターネットを見ても、この詩集は「つまらない」「なにを言っているのかわからない」という感想を抱く人ばかりだ。それは当たり前だ。フランス語で読んで初めて音楽になるのだから。ベルトランはイタリア出身であり、イタリアといえば歌の国で、歌うように話すのがレチタティーヴォである。この詩集をフランス語によるレチタティーヴォと捉えることで、言葉や音韻に関する謎がすべて氷解する。
ミシェル・ダルベルトが日本において詩の朗読を挿入しつつ演奏したのは、彼自身がこのことを十分に理解しており、日本人にもその素晴らしさを感じ取って欲しいと願ったからにほかならない。

 
3.日本におけるベルトランの詩の解釈

音楽の解説に入る前に、日本での詩の解釈に関して書いておきたい。
夜のガスパールはフランスの古典詩であり、しかもハイネなどのロマン派詩人とは異なった表現を使っているため、現代フランス文学を勉強した人ですら解釈に困窮するようである。オンディーヌの冒頭を「聞いてください!聞いてください!」とセンス皆無な翻訳をしたのは何度も出てくる及川茂氏だが、残念なことにこの訳が広まって、多くの人、特にピアノを弾く人を混乱に陥れたまま21世紀になってしまった。これは由々しき事態である。いろいろな人がもっとよい訳を作ろうと努力しているが、ネット上でこれこそが名訳と思われるものを発見したので紹介する。こちらのホームページで閲覧可能である。

http://hw001.spaaqs.ne.jp/leavesoftales/cont_6.htm
  聞いて、聞いて
  私よ、オンディーヌよ
  やさしい月の光がさす窓を
  月光に輝く飾り硝子を
  夜露のようにそっとたたくのは私・・・

これが幻想性である。いままで及川氏の訳に不満だった人は、この人のすばらしい日本語訳で溜飲を下げるだろう。
このほかにわかりやすい翻訳として、全音から出版されたラヴェルのピアノ曲全集に収録された訳が上げられる。こうしたわかりやすい日本語訳があるとはいえ、残念ながらこれだけでは理解できないと思う。以下にラヴェルがもちいた三篇の詩の標題が示す情景の説明を記しておく。

(1)オンディーヌ

オンディーヌ(ウンディーネともいう)は魂のない水の精霊である。魂がない精霊なので性別もない。しかしたいていは美しい女性の姿で泉や湖に現れるとされる。その美しさに幻惑された男性と結婚することにより、魂を得ることができる。しかしこれは諸刃の剣で、水の傍で夫に罵倒されるとスネて水に帰ってしまったり、夫が不倫した場合は夫を呪い殺さなければならないとされている。そして夫を失うと魂は消えてしまい、ふたたび水の中に帰るしかなくなる。ベルトランの詩は、この伝説に基づいているが、やはり場面が夜(月夜)であることに着目したい。最後は嘲笑を浴びせながら水の中にに消えてしまう。さんざん幻惑を振りまいておいて、「飽きちゃったわ。アデュー!」とでも言っているような態度だ。このように、唐突に幻想を打ち切るのが「夜のガスパール」に引用された詩の特徴である。

(2)絞首台

これも夜(夕闇)の情景である。絞首台は当然ながら罪人が処刑される場所であり、ロマン派文化人たちはこれを題材にさまざまな空想をめぐらして詩や小説を書いた。葬送行進曲が実は葬式とは無関係で、葬送の気分を象徴する曲だったように、文学作品にでてくる絞首台も罪人の気分を勝手に推測してどうこうという、なかなか不謹慎な振る舞いである。ベルトランの「絞首台」も当然実物ではなく、心の中の幻想風景を詩的に描いたものであることは言うまでもない。この一篇は特に客観的に書かれていることにも着目したい。これは〜か?と自問自答を繰り広げながら(幻覚)、最後は突き放したような描写で終わる(幻覚の否定)。

(3)スカルボ

スカルボはいたずら好きな小悪魔(実は妖精)である。いたずら好きの小さな妖精は欧州においてはおなじみの存在で、「真夏の夜の夢」のパックがその典型だが、ベルトランの夢の中に出てきたスカルボは悪霊で、だいぶ苦しめられたようである。ベルトランはその悪夢の様子を客観的に描写している。さんざん悪さをしておいて、あっというまに消えてゆくスカルボは、幻覚がしょせん人の心が生んだ架空の存在でしかないことを暗示しているようにも思える。

 
4.ラヴェルが作曲に至る経緯

ここでようやくモーリス・ラヴェルの話になる。作曲当時のフランスはロマン主義はとうに終焉を迎え、文化人の間では象徴主義がもてはやされるようになる。ヴェルレーヌやランボー、マラルメなどの諸作品や、リヒャルト・ワーグナーの音楽が象徴主義の極致として讃えられた。19世紀終盤のフランスではワーグナー楽劇が本国以上に大人気だった。しかしワーグナー自身は1883年に亡くなっており、教祖を失ったワグネリアンたちが右往左往していた時代である。他の方向性を目指したい思いと、ずっとワーグナーの世界に耽溺したい思いが、文化人たちを引き裂いていた。ドビュッシーなどはその典型である。一方でラヴェルにとってワーグナーは嫌悪の対象であった。そういった混沌とした文化背景があり、さらに産業革命により機械文明が礼賛され、古き時代に人々の間で信じられてきたもの−精霊や妖精など−が実在性を失ってしまうなかで、どうにかして幻想性のある作品を生もうとしたフランスの文化人たちが、自国の先輩であるベルトランの詩集をよりどころにしたのは想像に難くない。夜のガスパールは彼らがあこがれたデカダン的な幻想美の表象として最適だった。しかも単純な幻想伝奇の賛美ではなく、それに対して客観的なニュアンスを交えて書かれている。これこそが当時の知識人に強い親和性を与えた理由である。感性は幻想に憧憬を抱きつつ、理性がそれを否定する。アンビバレンツなフランス人にはぴったりだ。
ラヴェルはアパッシュのビニェスからこの詩集を紹介され、強い関心を抱いた。機械文明が大好きだったラヴェルは、終生古典に対する憧憬も持ち続けた。そんな彼がこれほど知的興味を呼び起こされる題材を放っておくわけはなく、「ベルトランが幻想曲風の詩を書いたなら、自分は本当に幻想曲を書いてしまおう」とあえて伝奇性のつよい三篇を選んでピアノ曲を作り始めた。


5.ピアノ曲「夜のガスパール」

最後に、ラヴェルが作ったピアノ曲、「夜のガスパール」である。ここまでの長い前置きでほとんど説明してしまったので、表面的なこととラヴェルの心情についてのみ、コメントしていく。

この曲は「マ・メール・ロワ」と並行して作られた。マ・メール・ロワは1910年に行われた、ラヴェル自身が創立した独立音楽教会の第1回演奏会で初演されることが決まっていたため完成が先延ばしされ、夜のガスパールは1908年に完成した。2曲同時進行はラヴェルの得意技である。子供向け・おとぎ話・低難度のマ・メール・ロワ、大人向け・難解な詩・超絶難度のガスパール、この対比もラヴェルにおいてはしばしば見られる状況である。夜のガスパールを書きながら、息抜き気分でマ・メール・ロワを書いたと思うが、前者の全力投球と比較し後者の肩の力の抜けようはまことに清々しい。
ところで詩集からなぜこの三篇を選んだのか。これは簡単で、三楽章形式の古きピアノソナタへの挑戦にほかならない。また、曲を聴いてすぐわかる特徴は、ラヴェルがベルトランの詩をそのまま音楽にしていることである。構成はもちろん、詳細に書かれた情景も漏らさず音楽に反映している。暗闇に潜む魔の、客観的な描写。これはラヴェルの音楽にぴったりな世界である。詩がすでに完成された幻想曲なのだから、作曲者の主観を入れずに音楽として定着させるべきであり、これもラヴェルの性格によく合っている。しかも驚くことにラヴェルは詩の世界に一歩踏み込んで、客観的でありならが内部からの視点を取って描写した。「ミラージュ、または鏡」までのラヴェルからは考えられない姿勢である。これによって表現はいっそう拡大し、詩の世界が格段にわかりやすく、映像的なものとなって、聴覚に、視覚に、そして「ココロに」、訴えかけてくる。しかも心憎いことに、作曲者はそれを計算して作っている。こういった職人的な技はまさにラヴェルの独擅場である。それゆえ完成された曲は、まるっきり音絵巻の世界となった。これが最も重要であり、だからこそラヴェルは出版された楽譜にベルトランの詩を載せたのだ。詩の世界をたっぷりと味わいながらBGMのように聴いて(弾いて)ください、という意味であろう。「夜のガスパール」は、その中で描かれたさまざまな魔のイメージ、そしてそれがあっけなく消え去ってしまうエスプリ−日本的にいうならば侘び寂び−を味わうことで、はじめて「なにがいいたいのかわかる」のだ。

モーリス・ラヴェルはクールな皮肉屋を装って、ベルトランの芸術に対する愛情をあらゆる手段を講じて注ぎ込んでしまう、熱くそして優しい心をもった人間だ。しかも彼はクロード・ドビュッシーがいうように、いつも一切の仕掛けを見せない稀代の魔術師なのだ。出来上がった作品はどんなときでも気高く、美しい。しかし私は楽譜という城壁からこの曲を開放し、仕掛けを解いてしまった。シャイなラヴェルには申し訳ないが、これほどまでに美しい感情を隠しておく必要などないのだ。
この曲における高度なピアノ技巧の表出はただ表面的な事象にすぎず、ラヴェルが作った生垣にすぎない。よくもまあ、ここまで手の込んだ生垣を作るものだと感心する。しかし一歩その中に足を踏み込んでいけば、幻想世界と暗闇の織りなす妖しい魅力とともに、深い共感と感動に満たされる世界が広がっていることがわかるだろう。そしておそらく、ラヴェルも入ってきて欲しいと願って、壁の入り口としてベルトランの詩を掲載している。こうしてベルトランの詩はラヴェルによって新たな生命を吹き込まれ、異国であっても、時代が変わっても、人々の心を捉えつづける生命を得た。

別のページにベルトランの原語詩、日本語訳、詩の朗読、ピアノ演奏の動画を紹介します。ぜひともご覧ください。
なお、ActiveXコントロールの制限が表示される場合はクリックして解除して下さい。また、うまく再生できない場合は「再生できない場合はこちらをクリック」をクリックしてください。新たにウインドウが開いて再生が行われます。


<改訂履歴>
2011/12/25 初稿掲載。

→ 音楽図鑑CLASSICのINDEXへ戻る