小名木川・新川

海の塩の道

1590年頃、江戸城を居城に定めた徳川家康は、兵糧としての塩の確保のため、行徳塩田(現在の千葉県行徳で宮内庁新居浜鴨場近く)に目を付けた。しかし 江戸湊(当時は日比谷入江付近)までの東京湾北部は砂州や浅瀬が広がり、船がしばしば座礁するため、大きく沖合を迂回するしかなかった。そこで小名木四郎 兵衛に命じて、小名木川を開削させた。

その後は塩だけでなく、東北の米、醤油などあらゆる物資が房総半島を迂回して銚子から関宿まで利根川を遡 り、そこでUターンして江戸川を下り、新川(船堀川)と小名木運河経由でもたらされたのだ。明治期にはその中間点に利根川と江戸川を結ぶ利根川運河さえ建 設されたので ある。 かっての行徳塩田は今は宮内庁新浜鴨場、野鳥の楽園になっている。その先の埋め立て地のウォーターフロントにはリゾートホテルのパーム&ファウンテンテ ラス ホテルなどがある。

小名木川の中ほどの扇橋より東側は戦後の地下水くみ上げのための地盤沈下が激しく、ゼロメートル地帯になってしまった。やむを得ず、扇橋以東は水 位を1m下げてかさ上げした土手も撤去した。船の通過のために、ロック(閘門)が設けられている。

この海の道を散策するには小名木川に架けられた第一番の橋、万年橋から出発する。扇橋の閘門(ロック)をみてから東端の旧中川に向かう。そこで中川船番所 資料館を 見学してから中川と荒川を渡る。ここから新川(船堀川)沿いに旧江戸川まで歩く。浦安橋で旧江戸川を渡り、東京メトロ東西線の浦安駅まで 歩く全長12.7kmのコースである。標高差は1mもない。ここで扇橋の閘門構内にルート取りしたが実際には一般人は立ち入り禁止では入れない。迂回ルー トが必用。

決行日は2013/12/28。年末も押し迫っていたが、日本海に雪を降らせた寒冷な空気は乾燥して東京は快晴である。10:00時、最寄駅の都営大江 戸線清澄白河A1出口から歩きだし、途中昼食を含め15:00時に東京メトロ東西線の浦安駅で歩き終えた。

満年橋は、船の通行を妨げないように高く架けられていた。安藤広重は「名所江戸百景」のなかで「深川万年橋」としてとりあげ、葛飾北斎 は「冨嶽三十六景」のひとつに「深川万年橋下」として描いた。 深川界隈は「霧の果てー 神谷玄次郎捕り物控」の「針の光」などの藤沢周平の市井ものの舞台になっている。



冨嶽三十六景 深川万年橋下 wiki


満年橋の袂に芭蕉稲荷神社がある。ここは芭蕉が杉山杉風に草 庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠としたところだ。「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し ているが、古池ではなく、杉山杉風が所有する生簀であったという。草庵もその生簀の番小屋であったという。



満年橋 2013年11月21日撮影

清澄白河駅をでて高橋を渡り、小名木川北岸の遊歩道を新小名木川水門まで歩く。扉は常時開である。ここで反転し、北岸遊歩道を東に向かう。



新小名木川水門

遊歩道は整備されて自転車もOKのようだ。深川橋の下を通過できる。橋下のポンツーンを浮かべて水面すれすれで橋下を通過できる。



深川橋

深川橋の袂、南岸には「浦わさ」という名の屋形船が係留されている。



屋形船

4つばかり橋をくぐると小名木川と十字に交差する大横川に突き当たる。1659年徳山五兵衛重政らの本所奉行が深川を埋立したとき開削されたとある。南北 に流れる川だが、江戸城からみて横に流れるので大横川と名づけられた。北方にスカイツリーが見える。京葉道路より北側の大横川は埋め立てられ、大横川親水 公園に変貌している。



大横川とスカイツリー

小名木川に戻ってさらに橋を一つすぎると扇橋閘門(ロック)がある。船が隅田川に向かって出た後なのか前扉はちょうど開であった。英国ではロックには一般人も立ち入 りできるがここはお役所が威張っていて立ち入り禁止である。折角遊歩道を作ったのだからロック構内も通過できるようにすれば日本にも運河があると いうことを認識してもらえ、観光資源にもなると思うのだが、規制国家の体質が強く、気が遠くなるような前途がまっている。



常時開の前扉

ロック周辺は立ち入り禁止のため、源頼義の奥州征伐のとき頼義の臣「猿藤太」の屍を祀った猿江神社など大回りしてロック下流の遊歩道にでる。後ろ扉は閉 だったが、ロック内の水が激しく泡をたたて流出したあと少し引き上げられ。ロック内外の水位が一致した後、扉は完全に引き上げられた。多分このロックを迂 回している間に前扉は閉じられたにちがいない。小型ボートがロック内に 入った後、後扉は閉じた。アングラーに聞くと日に何回かボートを通すために 開けるという。おかげでハゼが釣れなくなって困るという。



常時閉の後扉がたまたま微開となり放水

更に横十間川との交差点にある十字歩道橋にむかって東進する。水辺の鉢にはわざわざ葦を植えてビオトープを作り昔の風情をだそうという努力が見える。



葦のビオトープと十字歩道橋

十字歩道橋の中央にたって南側をみると横十間川親水公園から水が泡をたたて流くだっている。かっての横十間川は閉鎖され親水公園となり、少量の水を公園内 をながしてここに放流しているのだ。



横十間川親水公園からの放水

十字歩道橋の中央にたって北側をみると横十間川が真すぐ北に向かって伸びその先にスカイツリーが見える。



横十間川とスカイツリー

小名木川の十字歩道橋下流の岸は目下散策路の整備中である。しばらく南岸をゆくとゼロメートル地帯になってから嵩上げした旧護岸の一部が記念のために残 されていた。水位を下げてから、護岸を撤去し、低い石積みの護岸にして水面をみることができるようになった。



旧護岸の記念

東京の西では北上していた環状8号線はUターンしてここでは南下して塩の道を横断する。その丸八橋をくぐり、更に東進して最後の番所橋をすぎると旧中川に 達する。旧中川の対岸の丘の上には大島小松川公園 「風の広場」が見える。丘の上にある黒いコンクリートの塊 は何だろうかと思ったが、後述するように旧中川と荒川の水位差のために必要となった旧小松川閘門(ロック)の頂部だという。手前の階段部分は船が通過する 掘割りとなり、荒川放水路に直接通じていたのだ。ところが今は小高い丘になっている。

2013年の8月、明治通りの開新橋と番所橋の間の小名木川で小形のハゼ類やボラなど数千匹の魚のへい死を確認してい る。多分酸欠なのだろうと思うが気になる。



旧中川に面する大島小松川公園 風の広場とその頂部に首を出した旧小松川閘門の頂 部

突き当りを左折すると中川大橋がみえ、その前にスカイダックという水陸両用バスがスロープから旧中川に入り、水の中を一周するトーキョー・スプラッ シュ・ツァーというサービスをしている。スカイツリーと亀戸にも乗り場がある。その乗り場の左手に中川船番所資料館がある。ちょうど12:00時のため、 資料館のま前の店でピラフとコーヒーの昼食をとる。



スカイダックという水陸両用バス

中川船番所資料館は土地所有者の東京化学工業が発掘調査してここが江戸時代の中川船番所であったことが分かっている。入場料200円だが、展示物は昔の写 真がほとんどで、酒樽を積んだジオラマの「べか伝馬」の実物大模型以外、興味を持ってみるべきものはなかった。



 酒樽を積んだジオラマの「べか伝馬」

歌川広重の名所江戸百景の「中川口」60番を見ると材木も筏にして運んでいたようだ。これが鎌倉河岸で水 揚げされたのだろう。

中川大橋を渡って旧中川の対岸の丘の上の大島小松川公園 風の広場に登る。一番高いところに古い遺物と思われる黒づんだコンクリートの構造物が鉄条網に囲 まれてある。なにやら中世のヨーロッパの城郭のような外見をしている。



風の広場に首を出したかっての小松川閘門の頂部

小名木川から遠くの丘の上に見えたものだ。脇にある説明版を読まなかったため、用途不明だったが、ネットでしらべると昭和初期に造られた旧小松川閘門の頂 部とのこと。

国土交通省のパネルの文面は:

この建物は、その昔、小松川閘門と呼ばれていました。閘門とは水位の異なる二つの水面 を調節して船を通行させる特殊な水門のことです。川は、現在のように車などの交通機関が普及するまでは、大量の物資(米、塩、醤油など)を効率よく運べる 船の通り道として頻繁に利用されました。ここは、その船の通り道である荒川と旧中川との合流地点でしたが、たび重なる水害を防ぐために明治44年、荒川の 改修工事が進められ、その結果、水位差が生じて舟の通行に大きな障害となりました。この水位差を解消させるために昭和5年、小松川閘門が完成し、その後、 車などの交通機関が発達して、舟の需要が減少し閉鎖に至るまでの間、需要な役割を果たしました。本来、この閘門は、二つの扉の開閉によって機能を果たして いましたが、この建物はそのうちの一つで、もう一つの扉は現在ありません。また、この建物も全体の約2/3程度が土の中に埋まっていて昔の面影が少ないの ですが、今後、この残された部分を大切に保存して周辺地域の移り変わりを伝えるのに役立てる予定です。

荒川放水路は、荒川のうち、岩淵水門から、江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された全長22km、幅約500mの人工河川だ。1913年 (大正2 年)から1930年(昭和5年)にかけて、17年がかりの難工事であった。旧小松川閘門は荒川放水路の完成にともなって必要となったもので、その前は塩の 道は小名木川→旧中川→新川と通じていたのだ。荒川放水路が昭和初期に完成すると、周辺の船便が増え、旧小松川閘門、旧小名木川関門、船堀閘門など沢山で きた。

パネルには昭和3年の旧小松川閘門の写真が添えられている。閘門は2基で対になっており、ロック周辺は工場群で煙突からもくもくと煙が出ている。



旧小松川閘門

旧小松川閘門が使われなくなってから日本化学工業小松川工場の鉱滓捨て場となり、この丘の下のロック内や周辺に 60年間、六価クロム鉱さいが投棄されつづけ、盛り上がって丘となったのだ。一応無害化対策をしたことになっているが、いまだに六価クロ ムがにじみ出てくる。小名木川出口から見えた旧中川の岸に積んである多数の袋は汚染された土壌を運びだすためのものか?更に南に向かって鉱滓捨て場だった 丘を下るとそこに高い塀で囲まれた廃棄物処理場がある。地中深く掘り下げたり巨大な水槽、サイクロンなどがあり、これは六価クロムの無害 化処理が続行中なのか。しかし排水路が荒川にむけてやけに巨大な口を開いている。排水処理場の放流口にするのだろうか?

六価クロムはボルト・ナット類の金属防錆処理剤として使われた。現在は三価クロムが使われる。従業員が鼻中隔穿孔や肺がんになってクロム職業病訴訟をおこ し10億円の賠償判決。無害化は酸性にして亜硫酸ナトリウムなどの還元剤で三価クロムに変換できる。土中の細菌も三価クロムにしてくれる。跡地を購入した 東京都はこの無害化費用を日本化学に請求せよとの訴訟を起こしたが、時効という理由で1,650万円で和解。



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廃水処理場を過ぎると古い閘門の代わりに造られた旧中川と荒川を連結するロックゲートがある。旧中川側の扉は中川側の水位をさげているため常時閉である。 国土交通省荒川下流河川事務所が管理者だ。



旧中川・荒川ロックゲート

その横には旧中川の水を荒川に排水する小名木川排水機場がある。これで江東区に降る雨水は小木川のロックを通過する船があるたびに生ずる隅田川からのロッ ク一杯分の水も含め、すべて汲み上げることになる。東京都の管理だ。ディーゼル駆動だから停電で困ることはないし、旧中川の上流にも木下川排水機場があ る。



小名木川排水機場

新荒川堤防を取って返し、船堀橋に向かって北上する。船堀橋より北側の大島小松川公園はかって日本化学工業小松川工場だったところを東京都が買収し、都営 地下鉄新宿線の大島車両検修場を地下に建設した。都営地下鉄は中川を橋で渡るが、車庫入りは旧中川の川底のトンネルを通過して地下車検場に引き込まれてい る。メンテナンス機材などは東側のトンネルから搬入うする設計だ。ここも工事中、六価 クロム汚染に苦しめられたところである。

船堀橋を渡って荒川の対岸に向かう。新中川は荒川と平行して流れ、それを隔てる土手の上に中央環状線が通っている。ここはバイクで北関東に向かう時、よく 通過する。それを今回は下から見上げる形になった。



中央環状線を挟んで右荒川、左中川そしてこれらと交差する都営新宿線

中川にそって南下し新川に向かう。東京都は新川の末端にある第一製薬の敷地を買収して排水機場を建設し、新川の水位を中川より低く維持している。そういえ ば製薬工場建設プロジェクト部長就 任の挨拶に顧客の第一製薬のこの地を訪問したことは覚えている。



新川の排水機場

新川は元々は、江戸時代に行徳塩田から江戸へ塩を運ぶために掘られた船堀川で、後に水運ルートが南側へと変更となった際、新しい運河を新川と呼ぶのに対し て、旧船堀川を古川と呼び残された。

古川は、江戸川や利根川からの物資を江戸へ運ぶ水運の役割を果たしてきたが、交通網が発達すると共にその役目は終わり、かわりに、人口の増加や産業の発展 に合わせて、周辺には住宅や工場が立ち並び、生活排水や工場排水が流れ込むようになっていった。そのため、1970年頃までには悪臭が漂ういわゆるドブ川 となっていた。

江戸川区は、周辺の下水道の整備を進めると共に、川を埋め立てる予定であったが、川を残してほしいという地元の要望を受け、水の流れる公園として再生させ ることとなった。 1973年7月にはその一部が完成し、日本初の親水公園となった。 こうして古川親水公園と呼ばれる。

新川は江戸時代、成田詣での人々をのせた行徳船でにぎわった。明治時代には通運丸などの定期蒸気船が就航している。陸上交通が盛んになり、昭和19年には 廃止された。1976年以降は両側の水門を閉鎖して排水機場を設置して水位を下げている。

新川と古川の分岐点は新川橋付近である。それまでに江戸時代の木製橋の復元橋もあった。



木製橋の復元橋

新川橋よりむこうは水路は直線となる。途中、東京の西では北上していた環状8号線がUターンして南下して新川を横断する。その先端に旧江戸川と新川を仕切 る新川東水門があった。この水門はひらいているが、内側に小さな水門があり、こちらは 閉鎖している。



新川東水門

水門から南下し、浦安橋を渡り、東西線浦安駅に向かう。大手門下車、東京駅から東海道で藤沢に向かう。

日本晴れのポパポカ日和の日に一人でゆったり、5時間かけて家康の遺産全ルートの遊歩道をあるけた。まだ扇橋閘門が立ち入り禁止で国際基準にたちおくれて はいるが、日本にも鉄道と自動車の発達前に運河という物流の動脈があったことを独自に開発していたということが学べるよい施設と感じたしだい。

のこるのは関宿城からの 江戸川下りである。

November 24, 2013
Rev. October 1, 2017

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