湯島の聖堂、聖橋、ニコライ堂、鎌倉河岸
2012年8月20日に神田川が駿河台を横切っている運河沿いを探検した。伊達正宗が秀忠のために掘った人工運河だ。当時は超ド級の工事であったことがうかがわれる。今度は本郷台から駿河台に連なっていた尾根筋を歩いてみたくなった。ちょうど8月24日、二一会出
席後、まだ日が高いので炎天下ではあるが、御茶ノ水で下車、東口を出て聖橋の上に建つ。日本ではめずらしいアーチ橋だ。石造りではなく、コンクリート製だが、地震国だ
からやむを得ない。関東大震災のあとの復興として昭和2年に完成したそうだ。そもそも湯島の聖堂と駿河台のニコライ堂をつないでいるので聖橋と命名された
という。
聖橋
聖橋の上から東国武士のリーダー平将門を祭る神田明神の方角を見たが、ビルの陰に隠れて見えない。湯島の聖堂とは5代将軍徳川綱吉によって建てられた本来は孔子廟であるという。橋の上から覗いただけで踵をかえし、ニコライ堂に向かう。駿河台はニコライ堂の後ろが坂道になって南に急に下がる。
ニコライ堂
ニコライ堂の堂守りはロシア系のおばさんである。2009年に函館ハリストス正教会を訪問したがここは同じニコライ司祭が創建したという。ロウソクを1本献灯。
駿河台の坂を下って神田を横切って鎌倉河岸に向かう。鎌倉河岸と呼ばれるようになったのは家康が江戸城築城のために鎌倉の材木商遠藤家を
呼び寄せ、当時の平川(今の日本橋川)のほとりに住まわせたことにはじまる。鎌倉橋のたもとが鎌倉河岸だが、そこに看板があり、材木だけでなく、石が鎌倉か
ら送られてきたと書いてある。その石はどこで採取したものか興味がわく。三浦半島の鷹取山の凝灰岩は価値がないし。千葉の方から持ってきたのか。
鎌倉橋と鎌倉河岸
この下流すぐに日銀があり、更に下流に日本橋がある。1948年に三菱石油から独立して新橋に誕生した我が古巣、千代田化工建設が、1951年に移転した場所が鎌倉河岸であった。その後、1955年には丸の内東京ビルに移転した。その跡地には今は三菱総合研究所がある。
大手町を横切って東京駅に向かう。江戸時代の平川(今は日本橋川)はほとんど全て高架橋の下だ。これは地下道にして撤去しないと江戸の良いところは見えてこない。
大手町には随分とスカイスクレーパーが増えた。
August 24, 2012
Rev. September 9, 2012