和田塚

江ノ電和田塚駅を降りて少し海側に歩くと左手に小高い塚がある。一度前の道を歩いたことがあるが2007年の暮れも押し迫ったとき途中下車して訪れた。いまでは塚の回りは石垣で固められている。

鎌倉に残る唯一の高塚式古墳で明治中期までは「無常堂塚」と呼ばれていたそうだ。道路工事の際に、土器や埴輪の断片、人骨が発掘され、この塚が和田合戦で敗れた和田義盛一族の戦死者を弔ったものと推定された。その後「和田塚」といわれるようになった。 たしかにこの付近から琵琶橋にかけて和田合戦の戦場となったが、ここから埴輪が出土していることからもっと古代の古墳であることは明らかである。

和田塚 2007/12/25

鎌倉幕府創業の功臣であった和田義盛は第2代執権北条義時に度重なる挑発を受けていた。源頼家の遺児の栄実(頼家の三男で幼名を千寿丸)を担いで将軍とし、執権の北条義時を倒そうとの陰謀が発覚した。1213年同族の三浦義村と結んで北条氏を打倒するための挙兵をした。だが、土壇場で三浦義村は北条方に与し、兵力不足のまま和田一族は鎌倉で2日間にわたり市街戦を展開するが、将軍実朝を擁し、兵力に勝る幕府軍が圧倒し、和田一族は力尽き、義盛は敗死した。これを「和田合戦」という。この合戦の勝利により、北条氏の執権体制はより強固なものとなった。

第5代執権時頼のときには三浦泰村(やすむら)も滅ぼし、執権はゆるぎないものになったが、第14代執権北条高時の時に北条氏も滅ぶのだ。

鎌倉の地図

December 26, 2007

Rev. January 21, 2008


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