「若宮大路」の「若宮」は由比若宮(元八幡)に由来する。
若宮大路は今は幅25mであるが、元来は幅30mあり、両側は馬も越えられない溝が掘ってあった。そして今でも下馬と呼ばれているところには升形(ますがた)があり、池と太鼓橋、裏山の石垣などと組み合わせ、鶴岡八幡宮は城の機能を兼ねたものであったそうである。鎌倉五山も全て八幡宮と同じ山城の構造をもっている。また鎌倉を取り巻く稜線には馬1匹しか通さない切通しをもうけて交通路とし、それ以外は人工的断崖をもうけ、侵入者が稜線を横断出来ないようにして、鎌倉全体が山城の構造を持つようにしてある。
明治初頭の若宮大路を撮影した写真をみると両側に並ぶ茅葺の民家と若宮大路の間には川が流れ、両側に並ぶ民家にはそれぞれ橋がかかっている。段葛の両側は版築で造った土手のようになっており、そこには現在のような桜の木は植えてなく、草が生えているスッキリした風景である。八幡宮のある山は松がところどころ生えている程度の禿山でいまのような鬱蒼とした森ではない。
明治15年頃の段葛
段葛は八幡宮に近い方の幅を狭くして奥行きを長くみせているという説を友人のK.T.から確認を求められた。いままで気にもしていなかったが調べてみようと思いたった。2007年4月12日に確認すると、入り口の内側の幅は7歩(約5m)。出口の内側の幅は4歩(約3m)であった。
二の鳥居と段蔓 2007/4/3撮影
内海氏によると段葛は現在は二の鳥居で終わっているが江戸時代までは砂丘の一番高いところに設置された一の鳥居まであったようである。現在は海岸から数えて一、二、三と番号が付いているが昔は神社側から一、二、三と番号がついていた。明治37年に特別保護建造物指定の際、申請書に間違って書いてそのまま固まったというのが真相。
一の鳥居は今は砂丘の一番高いところにある。しかし昔からここにあったというわけでもないようだ。六地蔵から来る大路との交差点(下馬)付近に「浜の鳥居」というものがあった。その礎石も見つかっている。由比の浜の海中にも頼朝建造の大鳥居があったようだが、まだ確認されていない。段葛は昔は一の鳥居まで続いていたようです。 下馬では元治元年(西暦1864年)に英人殺人事件が起きている。
一の鳥居は石でできている。石の鳥居は寛文八年(1668年)に四代将軍家綱が八幡宮を修復したとき、他の3つの鳥居と共に石造りになった。それまでは木製であった。家綱が造った3つの鳥居の石材は備前国犬島(現岡山市犬島)の花崗岩である。犬島は花崗岩の産地で大阪城の蛸石も犬島産である。3つの鳥居は関東大震災で皆倒壊したが、一の鳥居だけは篤志家の寄付で犬島の石を取り寄せて再建された。しかし他の鳥居はコンクリート造りとなってしまった。二の鳥居の旧石材は最近まで近くの寺に残っていたがそれも処分されてなくなってしまった。
伊勢神宮など古い鳥居の笠木は真っ直ぐである。神社の屋根が真っ直ぐな線で出来ているからだ。これを神明鳥居という。建物の屋根が曲線をもって反るようになってから鳥居の笠木も反るようになった。これを明神鳥居という。八幡神社はこれ。鳥居はサンスクリットで塔門を意味するトラナという言葉が仏教と共に渡来したとする説や天照大神の伝説から始まるという説があるが渡来説がただしいのでは。
鎌倉は若宮大路を中心にして古来その西側には今大路、東側には小町大路が平行して三本の川の字のように主要道路が走っている。昔ながらの狭い道幅であるが、片側交通規制もせず、車が走り回り、歩行者は電柱に守られながら歩くことになる。
若宮大路は世界遺産登録をめざしている国指定史跡の一つである。
黒文字は世界遺産登録をめざしている国指定史跡
April 13, 2007
Rev. November 3, 2009