読書録

シリアル番号 602

書名

真田太平記 全12巻

著者

池波正太郎

出版社

新潮社

ジャンル

小説

発行日

1997/12/15第31刷

購入日

2003/10/10

評価

原卓氏蔵書。全十二巻、週刊朝日に連載されたという長編歴史小説。郷里の俳人、小林一茶について書いた藤沢周一の小説を読もうと思っていたところ、原氏がこちらの方が楽しめると貸してくれたもの。

真田一族の群像をお江(こう)という架空の女忍びを軸に描く長編ロマン。

郷里が舞台であるが、殆ど知らないことばかりである。松代は真田昌幸(まさゆき)の長子の真田信之の領地だし、弟幸村は大阪夏の陣で有名だが、地元では佐助の人気が高い。上杉と武田の戦場となった川中島の古戦場を持つ善光寺平の農民にとっては戦国時代の領主など関心の対象ではなかったのかもしれない。高田の庄(先祖伝来の郷里)の実家に伝わる戦国時代の記憶は上杉と武田の戦いの時、檀家であった勝善寺の伽藍焼失が戦火で焼おち、再建された光蓮寺は隣村で不便だったので近くの西光寺に変えたというくらい。まあ戦国時代から同じ村に住んでいたわけで、自分は400年目にして初めて家を出た長子ということになる。徳川の平安な時代は 真田信之直系の松代の殿様(関が原の後は真田昌幸と幸村は上田から九度山に追放され、松平家が入る)に年貢を軽くしてくれと直訴して斬首刑になった義民助弥が三軒隣からでている。

真田昌幸は弱小ゆえ、農民には私有地を認め、武士だけでなく商人も町人も武勲を立てれば恩賞を与えると約束し、商人も農民も皆城内に保護する作戦で徳川の二度の攻撃から上田を守ったという。一度目は家康が1万の軍勢を八重原に布陣させた時。二度目は 関が原の直前、家康は若い秀忠に約4万の徳川の主力をつけて西軍に見方した真田の上田城を攻めさせ時である。秀忠は巧みな昌幸の戦略にはことごとくはめられた。 こうして上田や真田の庄の人々にとって真田は忘れがたい殿様として記憶されているという。かゆを煮てそれをひしゃくで徳川側に撒き散らす作戦は大分有効であったようだ。真田昌幸が4万の徳川主力軍をひきつけて関が原に到着させなかったが故に東軍が勝っても恩賞では秀吉温故の大名に西国の統治をゆだねざるを得ず、徳川幕府を倒した明治維新の西国大名の活躍を許すルーツとなったとみることも出来る。

母方の先祖は川中島古戦場の八幡原(はちまんはら)のすぐそばに営々と住んでおり、ここには今でも先祖の歌人、月亀(げっき)の弟子が建ててくれた歌碑がある。同じ祖先で画家となった月耕(げっこう)は歴代藩主の菩提寺、長国寺の本堂裏にある信之(のぶゆき)の廟、御霊屋(みたまや、重要文化財)の四壁に花鳥図を残したそうだが非公開でまだ見てない。知人を介してみせてもらおうかとも思っている。

信州の高遠城、伊那谷、地蔵峠、別所温泉、塩田平、上田平、真田の庄、砥石城、鳥居峠、須坂、菅平、川中島、小諸城、八重原台地、御牧ヶ原台地軽井沢碓氷峠、甲州の天目山、上州の岩櫃城(いわびつ)、沼田城、安中、厩橋(うまやばし、現前橋)、富士山の愛鷹山(あしたかやま)などほとんど最近訪れたところなので地形などおもいだしながら楽しく読める。高遠はまだ訪れてないが、中央アルプス縦走で伊那谷をたずねたばかりなので、今度はこの小説を思い出しながら訪ねてみようとおもう。

真田の庄はハイハイしながら母親の目を盗んで人生初の探検、すなわち道路を横断して前の家にでかけた地なので特に印象ふかい。

長野に多い海野と真田は同じ家系とはじめて知った。

全12巻を完読したのは2004/7/9の9ヶ月後であった。読むスピードが落ちたのは関が原の戦いから冬の陣までである。この間、別の本41冊読んだ。

関が原後、真田幸村が幽閉された地、高野山の麓の九度山(くどやま)の屋敷は今も真田庵として残っているそうだ。

関連情報:「豊臣秀頼、真田幸村、真田大助は生きていた

Rev. June 28, 2007


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