読書録

シリアル番号 1199

書名

信濃古代史考

著者

大和岩雄

出版社

大和書房

ジャンル

歴史

発行日

2013/11/24

購入日

2014/06/07

評価



山口氏から大和氏の著書に積石古墳とか高句麗系渡来人について書いてあると教えてもらった。「信濃と古代ヤマト王権」「信濃と渡来人」「信濃の神と神社」 の三つの視点から、現代の長野県人の原点である“古代の信濃”を俯瞰し、探求する。秦氏・秦の民と信濃国の関連に言及した論考を加えた新版とある。しか し高価な本である。早速鎌倉図書館でさがしたが無いというので平塚図書館から取り寄せてもらった。6/9に申込み、6/19に手に入った。1990 年に名著出版から1000部出版されたものである。著者は1928年、伊那の生れ。長野師範学校卒(信州大学教育学部)後、長らく編集者として寄稿していたものをまとめたもので、繰り返しが多い。

早速読み始めるが、考古学資料や専門家が書いたものを膨大に引用している。膨大な遺跡や文献が薮から棒にでてくるのでかなり難解。知っているのもあるし、全く知らないのもある。いままで読んだ中丸薫のインチキ古代史は 長野に多い積石古墳は直接日本海をわたってきたという荒っぽいものだったが、本著は5世紀ころは日本海経由かどうかは不明だが、大和朝廷の関与がな く、直接信州にはいったもの(須坂の鎧塚1号墳)もあるようだが、7世紀になると明確に大和朝廷の命令で入った部族もいたというのが結論。いずれも馬の飼 育に関係して いることと、移動してきった人々はほとんど男で土着の女を娶ってそこで死んだという形をとっただろうとする。大和朝廷が関係した場合は高句麗、百済系、扶 余系の渡来人が まず河内長野界隈に住みそこで馬の飼育に従事した、飼育した馬を大和朝廷に提供していた。この部族名は河内多氏で名前を科野国造と呼ばれた。河内では扇状 地をシナと呼んだ。そこでみずからを科野国造をよんだ。大和朝廷が東国平定のため、まず伊勢にぬけ、天竜川と木曽川を遡上して伊那に入った。伊那には元善 光寺が ある。そこに馬の飼育のために送り込まれたのが科野国造。長野市の箱清水界隈に長野族が定住した。その東には尾張部などの地名が残るが、これももともと河 内長野にいた部族が定住したのだろう。この部族名は百済まで遡る。 芋井も古い地名だ。天武天皇は信濃に興味をもっていて「壬申の乱」には騎馬戦が使われている。

河内長野にある元善光寺は百済寺とも呼ばれ、長野に移って 善光寺となった。これを運んだのが百済系や高句麗系の支配階級である扶余属である。

阿蘇も馬の放牧には適しており、ここにはやはり馬の飼育に係わった多氏系の阿曽君が馬の生産をしていた。
そのまえの縄文時代の諏訪はいままで知っていることと大差ないようだ。

実は私は日本の古代史に関する歴史書なるものは 買って読んだことはあまりない。古田史観なるものに入れ込んだのもインターネットでタダという理由だ。それでも最近、八幡和郎という人の書いた「本当は 謎がない『古代史』」というソフトバンク新書760円を買ってちびちびと読んでいるが結構説得力がある。

Rev. June 20, 2014


同志社の中世考古学とGISの研究室 鋤柄(すきがら)俊夫氏のブログにこの本について言及あるというので図書館に注文するかちがあるか、読んでみた。とりあえずそっくり引用させてもらいあとで差し替えるつもりであったが、鋤柄氏の内容が優れていたためそのままにさせてもらっている。

物部氏と長野氏と金刺氏と信濃

善光寺門前の遺跡についていろいろ調べていて非常に興味深いレポートに出会った。大和岩雄さんの「善光寺と渡来人」『信濃古代史考』名著出版1990である。

善光寺がおかれる現在の行政地域名は長野市であるが、関西の人にとって長野と言えば河内長野のことになる。大学へ入るために長野県から出てきて、大学を出 た後に大阪で働くことになって初めて河内長野という場所を知り、珍しい偶然か、何か関係があるのだろうかと思いながら今日まで生きて来た。

大和さんの説明によれば、河内長野の起源は『日本書紀』雄略13年3月に見える「餌我の長野邑をもって、物部目大連にたまう」に遡るもので、その周辺にあ たる藤井寺市国府には、式内大社の志貴(紀)県主神社があって(土師ノ里駅北東約500m」)、その南西1キロに式内社の長野神社があるという(藤井寺の 長野神社は明治に藤井寺駅南の辛国神社に合祀されたというが、このことだろうか)。

ちなみに辛国神社のすぐ南に仲哀天皇陵とされている岡ミサンザイ古墳があり、その正式陵名が惠我長野西陵で、志紀県主神社のすぐ南にある市野山古墳(允恭 天皇陵)は恵我長野北陵なので、ちょうど誉田御廟山古墳(応神天皇陵)のあるあたりが「長野」の中心地だったことになる。

つまり河内長野の源流とされる藤井寺市の一角は、物部目大連の土地でかつ志紀県主がおさめていた場所だったということになる。

そしてこの志紀氏が信濃国造家につながる多(おお)氏の関係になるというが、詳細はまだ確かめていない。ちなみに多氏は神武天皇の子の神八井耳(かむやいみみ)命を祖と伝える氏族で、表記には「太」や「意富」なども見られ、森先生の言葉をひけば出雲との関わりも推定される。大物主神の子孫で和泉の陶邑に関わる大田田根子を神主として祀った大神神社や太安万侶もその流れだろうし、本拠地は多神社のある大和国十市郡飫富(おふ)郷(現在の田原本町多字宮ノ内)とされている。

なお、奈良盆地中南部は十市郡(田原本・橿原など)と式上郡(三輪・纏向・柳本)と式下郡(三宅・川西・田原本)が再編されて現在の磯城郡と各市になっているもので、それゆえ河内の志紀と多氏の関係は大和の磯城(城)と多氏の関係から来ているとの見方もある。

補足すれば倭の六県(やまとのむつのあがた)の1つの磯城県には、崇神天皇の磯城瑞籬(みずがき)宮と欽明天皇の磯城嶋金刺宮などが伝えられると言うが、この金刺宮と信濃国造家の金刺氏がどのように関係するかも興味深いところである。

そしてその河内の長野氏が信濃へ移住したとするのが、大和さんのレポートの骨子となっている。

まず大和さんによれば、河内の長野連は『新撰姓氏録』の「河内国諸蕃」にみられ、魏の司空王(永辺に日)を祖とする忠意の後裔とする渡来人で、右京諸蕃の 長野連も周霊王(東周の第10代王で在位は紀元前571〜545))の太子晋を祖とする忠意の後裔とする渡来人でおそらく朝鮮半島を出自とするものとさ れ、なかでも司空王(永辺に日)は、水工事を司り、城を営み溝を掘り邑を起こした伝説をもっており、河川工事の技術集団だったと言う。

一方河内の長野氏が本拠とした藤井寺から羽曳野周辺には、仁徳紀に科野国造と同祖の紺口県主が感玖(紺口)に大溝を掘って石川の水をひいたという伝承がある。

また、信濃の長野は和名抄の水内郡芋井郷にみられるが、芋井郷の東の尾張郷は、河内の志紀郡と石川を挟んである安宿郡の尾張郷から移住したものと思われ、 その尾張部氏も多氏系で本来は渡来氏族、また芹田も『旧事本紀』の物部氏の始祖に随行した芹田物部に関係しているという。(この芹田という地名は現在の長野 駅の南東にあり、鋤柄が飯田から転校して長野で最初に学んだ芹田小学校に残っている)

さらに『新撰姓氏録』の肩野連・物部肩野連は肩野物部の伴造だが、その神社は式内社の片野神社で、それを分けてできたのが枚方市山田の山田神社とされている。

ところがこの地名は石川郡の山田から移住したのではないかということで、安閑天皇の皇女の春日山田が現在の太子町の石川郡山田村春日のことを指し、蘇我倉山田石川麻呂は河内国石川郡山田郷からきているとのことをふまえれば、 「五天皇略年譜」に登場する「川内志奈我山田」が南河内郡太子町山田におかれる科長(しなが)神社に関連し、磯長谷とあわせてそれがシナノへつながるとい うことも考えられると言う。

ところで枚方を中心とする北河内と善光寺平で共通する要素に「馬」の存在と渡来系の古墳があるという。河内牧は「河内馬飼首(おびと)」や「河内国更荒(さらら)郡馬甘(うまかい)里」という史料や四条畷市の蔀屋北遺跡から5世紀の馬の骨が見つかっている。

一方善光寺平の南の丘陵には大室古墳群という渡来系の特徴をもつ積石塚があり、長野市の長原7号墳からは7世紀代の百済系土器がみつかっているというが、それぞれ近くに大室牧と高井牧がある。そして柏原市の茶臼山古墳は渡来系の特徴をもっているといわれる。

話しが非常に込み入ってはいるが、朝鮮半島から渡来した忠意を祖とする河川工事に長けた一族が藤井寺に住み、そこは物部氏の所領で、かつ河内多氏の志紀県 主・紺口県主の本貫地であったが、物部・蘇我勢力による権力の拡大強化のための馬の増産を目的とした政策の下、多氏に関わる金刺氏が、伊那における猪名部 志・弖良氏の場合と同様に、芋井郷を本拠に(裾花川の)灌漑で芹田・尾張・古野をおさめるために、河川工事に秀でた長野氏を率いて水内郡に移住し、居住地 を長野としたとされるのである。

いろいろ確かめてみたいことはあるが、朝鮮半島から大和と河内と出雲と伊勢と信濃をむすんで古代史と考古学を組み合わせた非常に勉強になるレポートだと思う。

加えて色々なことを調べていくと色々なことに出会い、頭の中の引出に入れておいたさまざまな疑問や見方に新しい手がかりを与えてくれる体験が愉快でまたまた時間を忘れてしまった。


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