田丸謙二先生のこと

 

2010年6月30日、内田さんの卒論の指導教官であった田丸先生の鎌倉のお宅にお邪魔して、ご高説を賜ったのち、総合知学会機関誌の巻頭言の第二稿を一気に書き上げた。

先生は欧米ではeducationということで、自分で考え、自分の生来の能力を引き出す(educeする)伝統的な下地があるが、残念ながら、日本には「詰め込み教育」はあっても、本当のeducationは殆ど無いとなげく。先生自身が若いときプリンストンで教育を受けたから分かるのだ。

しかるに日本では教育はよい会社に就職するため、知識取得能力だけで選別している東大、慶応、早稲田というようなブランドのある学校に入るのが究極の目的となっている。企業もそのブランドに依存して人材を採用している。これが企業が国際競争に破れ、国家が破産する原因ではと考えたからである。ただ社会の慣性があるので是正は難しい。

さて88歳になる田丸謙二先生は日本の触媒の開祖で、先人のいない分野を考えながら開発し、東大教授7名、その他含めて40名育てた人である。私も千代田で先人の居ない天然ガス分野を開発した経験と重なるところがあるので、波長が合った。先生の鎌倉の扇ヶ谷の500坪の広大なお屋敷で内田さんと3人でワイン1本空けて盛り上がった。

田丸先生

先生のお宅は築後90年で関東大震災にも生き残った木造家屋で、田村先生のお父様節郎氏が設計したドイツ式の下見張りの建物で関東大震災にも持ちこたえたものである。2010年国の文化財審議委員が日陰茶屋などと一緒に登録有形文化財に指定するように文部科学相に答申したという。お父様は20世紀最大の発明という空中窒素固定法をベルリンのフリッツ・ハーバーの助手として1904-1912年にかけて開発し、帰国後は理研、学術振興会、東京工業大学の設立に奔走して亡くなった方だ。 熱力学的平衡定数測定をした田村なくしてハーバーなしと言われた人である。ノーベル賞をもらったハーバー夫妻もこの家を訪問しており、なかなか有名なお宅である。 隣は文芸評論家中村光夫(木庭一郎)のお屋敷であったという。中村光夫の姉、木庭志げ子は「日本百名山」の著者深田久弥の二番目の奥さんになった人だ。その隣が荒木大将の弟の邸宅だったとか。鎌倉の名士のお宅を垣間見ることができる。

東京工業大名誉教授の久保田宏先生にこの話をすると、1923年ハーバーが日本にやってきたのは第一次大戦後ドイツの賠償金返済のためにハーバーが海水から金を回収する研究をしていて日本の海水には金が多く含まれるのではないかと彼が考えたからだという。分析結果は世界のどこでも同じ濃度だったという。ハーバーはカイザー・ヴィルヘルム物理化学研究所長(現在のマックス・プランンク研究所)となり、第一次大戦中は毒ガスの研究をしたが第二次大戦ではナチのユダヤ人狩によりドイツを追われた。

田村先生には2人のお嬢さんが居て、そのうちの美子さんは「国家の品格」を書いた数学者藤原正彦氏の奥方である。 最近「夫の悪夢」という本を文芸春秋から出した。もう一人の秀子さんは米国で活躍している化学者の大山氏の奥方である。

October 7, 2010

Rev. December 11, 2010


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