2003年1月、グリーンウッド夫妻はスペインとポルトガルの旅に出かけた。冬の最中でもあり、土地感もないので、コストパーフォーマンスの良いパッケージツーアに参加した。お目当てはロカ号の由来となったロカ岬とカトリックの3大聖地の一つ、サンチャゴ・デ・コンポステーラとその巡礼道であった。 1971年にガウディ設計のサクラダ・ファミリア教会も訪れずに去ったバルセロナから時計回りで旅を始め、巡礼道を逆行し、マドリッドで旅を終えた。
出発に先立ち、スペインの歴史を学ぶために、図書館で「レパントの海戦」、「アルマダの戦い スペイン無敵艦隊の悲劇」、「スペイン帝国の興亡 1469-1716」 の3冊を借りてきて2週間で読破した。「スペイン帝国の興亡」で「コロンブスを送り出したフェルディナンドとイザベルの時代の開かれたスペインは17世紀 に入ると閉ざされた社会になってしまった。内部抗争によって疲弊し、未来に対する信頼のおける指針としてもはや役に立たない過去を断ち切るような、広い展 望と性格の強さをもった人材はでてこなかった。ますますみすぼらしくなってはいたが、まだ残っている遺産に囲まれていたために、危機が訪れている時期に、 自分達の思い出を捨てることも、自分達の時代遅れの生活形態を変えることもできなかったのである」と書かれると、どの国のことかという思いがよぎる。オー ストリア王家のスペインの墓碑銘、「カスティーリアはスペインを創った。だが同時に、カスティーリアはスペインを滅ぼした」というオルテガ・イ・ガセットが書いた言葉をかみしめつつ、スペインの栄光と挫折、その栄光の香りを嗅いで帰れれば幸せと思って出発した。
グラナダ、コルドバ、セビリアの回教の文化遺産は感心はしたが、事前情報に慣らされていて深い感動はなかった。意外に印 象深かったのは大土地所有制度のために際限なく広がるアンダルシア地方のブドウ、オレンジ、オリーブ、コルク樫の畑、ポルトガルのオビドスの城壁、古く風 情のあるポルトの河畔、スペインのセゴビアと古都トレドとプラド美術館であった。
イベリア半島は一辺約1,000kmの正方形である。スペインとポルトガルあわせて日本の1.5倍の国土を持つ。その 60%は耕作可能とし、日本のそれを16%とすれば、耕作可能面積は日本の6倍となる。スペインとポルトガルあわせた総人口は約5,000万人なので人口 一人当たりの耕作面積は約12倍となる。カスティーリア地方やアンダルシア地方は少雨で乾燥しているが、今日の技術でつくられた灌漑用のダムのおかげで かって、乾燥した土地であったラ・マンチャもほとんど無人の広大な耕作地と化している。この広大な耕作可能な国土はたった6-7%の農業就業人口にもかか わらず、有力な農業国としての基盤が備わっている。大西洋の影響で雨の多いポルトガルとスペインのガリシア地方は、山がちで日本のように森林に覆われてい るが、樹種は土着の松と5年でパルプ材となるという外来のユーカリの植林で、多様性の失われ人工林で生産性は良いだろうが延々と続く一様な風景は風情がな い。
人口減少に悩ませれていたスペインは移民を受け入れて、その活力で社会保障制度を維持していると聞いた。住宅建設も盛んで、移民受け入れに伴う治安の悪化もあるが、刑法の改正などで乗り切ってゆく方針のようである。
グラナダで30年ぶりに雪が降ったと報じられているなかでの出発であったが、滞在中は暖かく、前半は曇り、後半は晴天が 続き、同時期の日本よりは暖かかった。1日当たり400km、全行程4,000kmをバスで正味10日間で走破し、48箇所の観光スポットを訪れる強行軍 であった。4時間を超えるビデオ記録と440枚の写真が残った。
バルセロナ
ガウディ設計のグエル公園を訪れる。グエル公園はグエル氏が住宅地として開発したのだが売れないので中断した後、公園に したものという。そのグロテスクぎりぎりの意匠デザインはディズニーに影響を与えたのではと思う。しかしさりげない円柱列の下部スカート部の高さを気付か れない程度少しずつ変えて遠近の錯覚を使い、狭い地下空間を広く見せるなど建築家として見えないところにも目配りしていたのだと感心する。
グエル 公園から真っ直ぐ海に向かって緩やかな坂を下り、オリンピック用に作られたマリーナにゆく。途中交差するのがディアゴナルというアベニューである。この デァゴナルのロータリーの一つフランシスコ・マシア広場に面したビルのバルコニーでペイン内戦に駆け付けた国際義勇軍と共和国軍との別れの儀式が1939年におこなわ れ、キャパがカメラに収めている。キャパはフィゲラスからフランスに渡り、以後二度とスペインの地を踏むことはなかった。パッケージツーアには入っていなかったが、時間を割いて、1971年に訪れたゴシック様式のカテドラルを再訪。丁度日曜日で司教さんがミサをしていた。
サクラダ・ファミリア教会を訪問。入場料を徴収するこにして資金源を確保し、伝統的石積み工法を止めて躯体をコンクリー ト製にして、薄い石を表面に張りつける工法にしたため、20年以内に完成できそうだという。13年後の2016年の現状をオフィシャルサイトで見ると雑然としていた内部も完成し、いよいよ主塔にかかっているようだ。
ガウディが造ったのはイエスの生誕を表す門である東北ファサー ドのみだが、2003年当時イエスの受難を表す西南ファサードや内陣、身廊などはほぼ完成した。イエスの栄光を表すメインファサード(北西)はまだ未着手である。ガ ウディが造った東北ファサードの未完の石像は日本人の石工外尾悦郎氏が伝統に 従い完成させた。イエスの誕生を象徴するようにこの東北ファサードは女陰の隠喩だ。西ファサードはスペイン人が担当し、かなり前衛的に仕上がった。
サクラダ・ファミリア教会は2021に完成しウィーンフィルがブルックナーの交響曲4番を演奏した。サクラダ・ファミリア教会の東北ファサード
サクラダ・ファミリア教会を遠望するマリーナで昼食後、バスで海岸沿いにルートA4をバレンシアに向かって南下開始。海岸沿いには家屋はほぼ絶えなく続く。ドンキホーテの終焉の地とされるバルセロナの南の保養地シッチェス (Sitges)など瞬く間に通過する。
タラゴナ
タラゴナで休憩し、ローマ時代の水道橋(アクアダクト)を見学。タラゴナにはアウグストウスやハドリアヌスが滞在したこともあるという。アウグストウスはいざ知らず、一生旅に明け暮れてローマの辺境の守りを固めたハドリアヌスならさもありなんと思う。
タラゴナのローマ水道橋
海岸沿いの山から流れ出る川は水がなく干上がっていたが、ピレネーの水を集めて地中海にそそぐエブロ河のみは水を満々とたたえていた。河が押し出す土砂が河口に三角州を作っている。エブロ河は カエサルが「内乱記」で活写したポンペイウス勢の7万の軍団を2万5000人で追い詰め、解体したあのヒベルス河ではないかと思って調べるとやはりそうであった。
バレンシア
道中ところどころマッシュルームのようなローマ松が生えている。バレンシア市に近づくに従い、オレンジ畑が増す。夕刻、バレンシア市に到着。ホテルに入る前にパエリャの夕食をとる。
ホテルに到着直後、チェックイン待ちの間、ロビーで参加者のカメラ入りのバッグが置引きされた。一味の女性がエレベータ から出てきて携帯を派手に落とし、それに気に取られている隙にソファーにおいてあったバックを一味の別の男が持ち逃げしたのである。心臓手術を受けたシニ ア夫婦であったが、気が着いてすぐ夫婦で追いかけ、犯人の車に乗り込み、取り返してきた。運転手も含め、4人組であったという。あっぱれな勇気であった。 いつもあきらめの良い日本人の中にも馬鹿にできない人もいると思い知らせたことだろうと思うが、今後、凶悪にならないように祈る。車は急発進して逃走した が、添乗員が車の登録番号を記録していて警察に届けた。マドリッドの治安が悪いと聞いていたがさすがスペイン第3の大都市と変なところで感心する。
バレンシア市はオレンジの産地の中心にある。ロココ様式のファサードを持つカテドラル、ラ・ロンハ・デ・ラ・セダ(La Lonja)、現在の市場等を見学。現存の市場ではスライスされる前の生ハムが1本足の塊として売られている。家庭で1本買うそうである。かってバルセロナで兎が丸ごと売られていたので探したがさすが時代が変わったのかなかった。
カスティーリア・ラマンチャ地方に向け出発。山越えにルートA3を西方に向けゆく。山頂付近には近代的風車発電機が多数 設置されている。山は分水嶺になっており、水はここより西に向かって流れている。トレドを流れるタホ河はテジョ河となってリスボンで大西洋にそそぎ、ラマ ンチャ地方に降る、ひそやかな水はグアディアナ河となってこれも大西洋にそそぐ。更に南のアンダルシア地方に降る雨はグアダルキビル河となってコルドバと セビリアを潤し、これも大西洋にそそいでいる。リスボンとセビリアが大航海時代の基地となった所以である。リスボンのテジョ河が現役の貿易港であるの対 し、すこし小さいグアダルキビル河のそれもかなり上流にあるセビリアまでは現代の大型船はさかのぼれなくなっている。
ラ・マンチャ地方
「ピレネーを越えるとアフリカだ」とナポレオンが 言ったそうであるが、まさにそのとおり。カスティ−リア・イ・レオン、カスティ−リア・ラ・マンチャ、エストレマドゥーラ地方は雨量の少ない台地で寒暖の 差が激しく、耕作に適さず、アフリカの砂漠のように荒涼としている。名言であると感ずる。そもそもラ・マンチャとはドライ・ランドの意味だそうである。
今では少ない降雨をダムで堰きとめ、ポンプで灌漑をしてブドウ畑にしている。一望千里民家も人影も見えない。ここで生産 されるワインは銘柄品ではないが、生産量は大きいという。ブドウ畑のほかに鋤を入れた広大な畑と灌漑スプレー装置が散見されるが、麦、ヒマワリ、牧草など を育てるのだろうか。牧草の山がシートもなく裸で山積みとなっているのも散見されるが、牧舎も羊も全く見えない。無人の地である。ルートA3よりルート N420に入り、カンポ・デ・クリプターナで白い風車を見学。牧童が羊の群れを追い。村の子供達は人懐こい。
カンポ・デ・クリプターナの白い風車
ルートA5に入り、アンダルシアに向かって南下せんとするプエルト・ラピス村で昔、セルバンテスが旅の途中宿泊して当時の騎士道物語のパロディー「ドン・キホーテ」 のモデルとしたというヴェンタ・デル・キホーテで昼食をとる。ヴェンタとは旅籠の意味だから、「キホーテの旅籠」とでも言えるのだろう。ドン・キホーテの 巻頭にロシナンテ(前の駄馬)に打ち跨り、颯爽と到着する宿のモデルに使ったのだろう。ここの中庭で宿主から騎士に叙せられたドン・キホーテが撃ちかかる 風車が近くのカンポ・デ・クリプターナに残っている当時の風車であったのだろう。ドン・キホーテはここからバルセロナまでの内陸の旅をすることになる。セ ルバンテスは若きころレパントの戦いにも参戦したスペイン海軍の仕官で、ずっと海軍で働き晩年、この小説を書いたと伝えられている。
ヴェンタ・デル・キホーテの入り口から中庭を望む
昼食後はルートA5をひたすら南下する。ルートA5沿いにマドリードとセビリア結ぶ鉄道が走っている。分水嶺を越えてグ アダルキビル河の谷に入るとオリーブ林が延々と続くようになる。アンダルシア地方は大土地所有制度が温存されているそうで、オリーブ林はとにかく広大であ る。ハエンの白い街並みを右手に見ながら山峡を抜けると遠くに雪をいただくシエラ・ネバダ山脈が見え始め、その懐に抱かれるようにグラナダの町のナトリウ ムランプの外灯のきらめきが夕闇の中に見えてくる。シエラ・ネバダ山脈は3,482mのスペインの最高峰を要する山塊でその向こうは地中海である。
紀元700年にはじまった回教徒の支配から独立するレコンキスタがこの町でイザベ ラとフェルディナンド両王により1492年に達成された歴史的な町だ。またグラナダが開放された3ヵ月後の4月17日グラナダ攻略のために作ったサンタフェの幕舎でイザベ ラとジェノバ人クリストバールが契約を結び、新世界発見の端緒が作られた町でもある。
グラナダ
昨夜宿泊したアルハンブラ宮殿裏手のホテルから徒歩でグラナダのアルハンブラ宮殿とヘネラリーフェ庭園 (Generalife)を訪問。アルハンブラとはアラビア語で「赤い城」という意味だそうである。鍾乳洞を模したという複雑な三次元紋様の天井はしっく いを型押しして作ったという。カルロスV世宮殿はアルハンブラ落城後建設された未完の建物であるが外部が矩形、内部が円形の奇妙な建物であった。
アルハンブラ宮殿
コルドバ
グラナダの中華料理屋で昼食をとった後、オリーブ林が延々と続く丘越えのN432経由、コルドバに移動する。遠くの丘の上にコルドバ攻めに使われたのであろうか古城が見える。
オリーブオイルには2種類あり、エキストラ・バージンオイルはオリーブの一番絞りで薄緑色をしている。空気、熱、光で酸 化すると味が落ちるのでフタを開けたら早く使いきれるように小ビンに詰めて売られている。大量なものは四角いブリキ缶入りである。サラダなど生食に使う。 エキストラ・バージンオイルでない琥珀色のオリーブ油は二番絞りであるという。揚げ物などに使う。
ここではパエリャに使うサフランも特産という。グリーンウッド夫人は両方とも仕入れた。
N432沿いのオリーブ林と古城
コルドバの回教寺院メスキータ(Mezquita)は約700本ある柱列が圧倒的であった。
メスキータの柱列
コルドバからセビリアまでは丘の上を走るルートA5を行く、はるか谷底をグアダルキビル河が並行して流れていることが地形から分かる。街道筋には次第に牧草地が多くなり、羊、牛、馬の放牧が見える。
セビリア
セビリアは運転手のパコにの自宅がある。ここで運転手はパコからホアンに交代する。パコの機転でマドリードとセビリアを結ぶ鉄道のターミナルを見学。夜はフラメンコのディナー・ショーを楽しむ。
翌朝の午前中はカルメンの舞台となった旧タバコ工場(工場とは思えない立派な建物で今は大学の校舎)、1929年に開催 された万博会場のスペインパビリオンに使われた豪壮な建物(世界大恐慌で建築家は破産)、大航海時代の船の航行のコントロールに使われ、今も残るグアダル キビル河畔の黄金の塔、ゴシック様式のカテドラルとアルカサル(Reales Alcazares)を訪問。アルカサルの三次元紋様の天井は手彫りとのこと。いまでも宮殿として使われるとのことである。アルカサルの隣にあるカテドラ ルは時間がなく内部には入らなかった。
アルカサルの中庭
昼食後、ルートN433経由でポルトガルの国境を越え、ローマ人が拓いたエボラに向かう。路傍の土地はオリーブ林からコ ルク樫林に変わる。世界のコルクの需要を満たす生産量とのこと。コルク樫林に混じってパルプ原料のユーカリ林が増え始める。コルク樫林には羊や牛が放牧さ れている。ドングリは家畜のえさになるのだ。そのなかに異様な樹形をした林が時々現れるようになる。どうもスズカケ(プラタナス)の 林らしい。3メートル位の幹の上に小さな枝がちょうどクワの木のように伸びている。そこで毎年剪定をしているらしい。エネルギー作物として利用しているよ うだ。バルセロナよりずっと曇りであったが国境ではついに雨になる。国境は今では古い建物がのこっているだけで、役人はおらずノンストップで通過。
エボラ
国境からエボラに至る地方は森もないほぼ平坦な農業の中心地である。コルク樫林の他はとうもろこし畑である。
エボラは小高い丘の上にある。ローマ人は小高い丘の上に軍団基地を建設したためである。ロマネスク様式のカテドラル、 ローマ時代の神殿の遺跡、ジラルド広場(Praca Gerardo)を訪問。ロマネスク様式のカテドラルは珍しく、新鮮な気持ちで参観できた。ジラルド広場にはハンチングを被った熟年の男たちが何をするこ ともなく時間をつぶしており、女たちは焼き栗を売っている。TVの無かった時代は人々は日本でも東南アジアでも露地でボーッとして時間をつぶしたものであ る。ここでは古きよき時代の風習が残っている。
ジラルド広場
リスボン
リスボンにはサンフランシスコの金門橋をデザインした人が設計したという、金門橋そっくりの2,300mの吊り橋を南側 からテージョ河を渡って入る。1966年の開通である。橋の南岸の川上側に高さ100mのキリスト像が立っている。橋を渡ると道はリスボンを2つの地区に 分断する谷間に入る。谷の下流部が旧市街、上流が新市街だ。
この谷間に1748年完成のゴシック式アーチで作られた水道橋がかかっているのが見える。この橋は1755年11月(フ ランス革命前、アメリカ独立前)に大西洋ポルトガル沖のM=8.5~9の大地震「1755年リスボン地震」でも破壊されることはなかった。津波で1万人、 震災合計死者6万人、地震後の火災でリスボンは壊滅し、ポルトガル経済は大打撃を受けた。国内の政治的緊張が高まり、海外植民地拡大の勢力がそがれること になった。この地震を契機にポルトガルの国力は徐々に衰退し、今日まで回復することがなかった。
発見のモニュメント
翌朝、旧市街にあるベレンの塔、発見のモニュメントとジェロニモス修道院(Mosteiro dos Jeronimos)を訪問する。
発見のモニュメントにはエンリケ航海王を先頭に立ち並ぶ32名の群像の中に16世紀のポルトガルの詩人ルイス・デ・カモインシスの像も描かれている。
ジェロニモス修道院はポルトガルが中国の絹と交換に石見銀山の銀をマカオに運んで蓄えた富で建設されたと言われる修道院だ。修道院内にはカモインシスの棺があった。(中味は空とのこと)
ジェロニモス修道院内に安置されたルイス・デ・カモインシスの棺
昔ポルトの北30kmにあるバルセロス(Barcelos)という小さな町で犯人を見つけられずこまっていた判事がたま たま通りかかった外国人を逮捕して死刑を宣告してしまった。無実を訴えたいこの外国人は判事に面会を求め、たまたま食事中の部屋に通された。彼は突然ひら めいてテーブルの上にある。丸焼きの鶏を指差して「私が無実ならこの焼き鳥が立ち上がって時を告げるでしょう」といってしまった。おどろくことになんとこ のその通りになってしまった。以後バルセロスの雄鶏は正義と幸運のシンボルとして人々に語り継がれているという。グリーンウッド氏はテージョ河沿いの傾き かけた家が軒を連ねる昔ユダヤ人街であったという町で雄鶏の絵を焼き付けた飾りタイルをみつけ記念に買った。グリーンウッド夫人は黒い雄鶏の飾りのついた コルク栓を買った。
ロカ岬
午後はバスで1時間のところにあるユーラシア大陸最西端のロカ岬を訪れる。灯台とルイス・デ・カモインシスの歌碑を確認する。ここを訪れることがこの旅の目的の一つであった。 冷たい風が吹き抜ける高台にオキザリスの黄色の花が一面に咲いていた。後年、オキザリスを一鉢いただいたところ、数年にして、鉢を飛び出し、強い潮風が吹き渡る我が家の庭を埋め尽くし、強い西風が吹き上がる街路樹の下まで雑草として勢力を伸ばしつつある。
ロカ岬の灯台とルイス・デ・カモインシスの歌碑
観光局の事務所でロカ岬訪問証明書を発行してもらった。ルジアダスの有名な1節・・・ここに地果て、海始まる・・・を引用した文と読める。
ロカ岬訪問証明書
NHK記録映画でウラ ジオストックから出発しヨーロッパに向かう鉄道の旅や、トラ密猟監視人の話を時々楽しんでいるが。最大の話は会社の後輩で大学教授に転出した男は引退後バ イクで単身ウラジオストックから出発しロカ岬まで1月ちょっとで走破したという話だ。モスコウまではロシア。それからポーランド、ドイツ、スイス、スイ ス、フランス、スペインと進んだ。シントラ
ロカ岬からリスボンへの帰路、シントラの王宮に 立ち寄る。どういう理由なのか王宮のキッチンが巨大な2本の円錐形の巨大なエントツの中に造られているのは面白かった。外から見るとこの巨大なエントツが 白く塗装されて屋根の上に突き出ていてすぐそれとわかる。途中、とある日本の土建会社がバブルに踊って開発したゴルフ場があった。管財人が売りに出してい て、アラブの金持ちが買い取る商談が進行中と聞く。
オビドス
リスボンからナザレに移動中にオビドスという城壁に守られたケルト時代にさかのぼれる小さな町を訪れ城壁を半周する。高 所恐怖症の人には向かない。この街にも16世紀に建設されたローマ式水道橋が備わっている。ところでポルトガルの風車は三角のカンバス布をロープで、ヨッ トのように張る方式でスペイン式の木枠を帆布で覆う方式に比べ優雅に見える。ここで32名の参加者のうち1名が集合時刻に集まらないという事件が生じた。 グリーンウッド夫妻の前を城壁を歩いていた人なのでグリーンウッド夫妻が途中で降りた先で城壁から落ちたのかもしれないと彼は捜索隊を買って出て添乗員の 坂本さんと3名で城壁を中心に捜索したが発見できなかった。しかしその人はひょっこり返ってきた。集合時間を勘違いして買い物にうつつを抜かしていたらし い。
オビドスの街
オビドスの城壁より南側を望む
ナザレ
ナザレの漁村で昼食。ここの既婚夫人はスカートの重ね着と寡婦は黒の喪服という伝統に従った服の掟を守っていた。黒の喪服を着た寡婦2名が栗の焼き物を作って売っていた。
バターリア
バターリアとは戦場という意味で、侵略してきたスペイン軍を少ない戦力でやぶった時の王が戦勝に感謝して建設した美しい、ゴシック様式のバターリア修道院(Mosteiro da Batalha)がある。無名戦士の墓もここにあり、ポルトガル軍兵士が不動の姿勢でガードしている。
バターリア修道院の回廊
ポルト
ポルトガル北部は次第に森林が増えてくる。日本のような多様性はなく、すべて松かユーカリの植林である。バレンシアにあったローマ松はここにはない。大西洋の影響で日本のように雨が多いことと山岳地帯であるためと思われる。
スペインはカスティリア・レオン地方に源を発する、ドウロ川の河口に発達したポルト(Oporto)に黄昏時に到着。坂の多い、道路の狭い古い家並みを残した街である。ポルトはポルトガルという国名の発生となった町である。Portocale(New Oporto)がポルトガルになまったのである。Oportoとは花崗岩でできた町という意味で、この町の建物は主として花崗岩で建設されているからである。
この町には壁面をアズレージョというタイルで装飾した教会が多い。タイルはモスレムが持ち込んだものだが、描かれている絵は幾何学模様ではなく具象画である。翌朝目がさめるとホテル前の広場には全面アズレージョ張りのサント・イデフォンソ教会(Igreja Santo Idefonso)がある。バロック様式という。すぐそばのカテドラルはロマネスク様式の古いものだ。バロック様式のクレリハス教会の塔(torre da Igreja dos Clerigos)を見る。サン・フランチェスコ教会(Igreja de Sao Francisco)の内部は金箔の仏壇の化け物と思えばよい。
最後にポルトワイン工場を訪れる。ポルトワインはドウロ川の上流100kmの両岸の急斜面で生育するブドウを原料に作ら れる。ワインの発酵途中にブランデーを加えて発酵を止めるため、甘くてアルコール度19%の強い酒である。食前、食後酒として英国などで愛飲されており、 英王室御用達のマーク使用許可を受けている。ブランドのサンデマンはもともと英国人が経営しており、ジェリーも作っている。土産にするには重すぎるし、危 険。試飲用のミニュチュアボトルセットで妥協する。サンデマンの商標は黒いハットに黒いマントにワイングラスの男のシルエットで印象的である。スペイン国 内のいたるところにある黒い雄牛のシルエットの広告はスペイン産のワインの商標とのことだが、広告としては効果的である。
ドウロ川にはエッフェル塔のデザイナーのエッフェル氏の弟子が設計したという鉄橋がかかっている。
ドウロ川にもやうサンデマンが昔ワインを運んだ船とポルトの街
サンチアゴ・デ・コンポステーラ
ポルトから更に北上し、国境のシル川の橋を渡ればアッというまに再びスペインに入る。シル川はサンチアゴの巡礼道が越す セルベイロ峠の東西両側に降る雨を水源としている。ポルトガルでは緑のなかに白壁に赤屋根に統一された景観であったが、スペインもここガリシア地方の家は ブロック壁に灰色のセメント瓦の家も混じって、雑然とした印象を受ける。また工業化していて工場も多く、道路の舗装も悪くなる。とはいえ気候と地形は変わ らず、文化の違いのためであろう。ただポルトガル語はガリシアの方言と親類とのことで、政治的に国境が出来る前は差はなかったのだろう。
サンチアゴの街に南側からアプローチしてもやがて3つの尖塔が見えてくる。昔の巡礼者のように歩いたわけではないが、バ スでとはいえもう7日間、3,000kmもはるばるやってきたのだ。フランスからの巡礼者がピレネーから1ヶ月も歩いてきてサンディアゴのカテドラルを遠 望できる「よろこびの丘」、モンテ・ド・ゴッソではじめてこの3つの尖塔を見ると同様の喜びを感じる。
到着したのは夕刻。100室位の小さなホテルに阪急旅行社が2つのグループを詰め込んだので80名の風呂好き日本人が一 斉に風呂をつかうのでたちまち湯がでなくなる。100%占拠は無謀な企画である。一泊して翌早朝カテドラルを参観する。ここはスペイン一雨の多いところ、 しっとりと濡れている。プラザ・デ・オブラドリオを囲んでカテドラル、その正面に市庁舎、北面に元王立救護院を改装したパラドール(Paradores) がある。このパラドールはイザベルとフェルニナンドのカトリック両王が1497年に建設し、サンチャゴ騎士団に贈った由緒あるものだ。ローマ法王も泊まる 国営の最高級五つ星のホテルである。301号室のスイートが貴賓室で、プラザ・デ・オブラドリオを見下ろす角部屋とのことだ。カテドラルのファサードは花 崗岩を彫ったものだという。早朝なので人気のないカテドラルでゴタク・メイロの懸垂装置など興味深く見学。
スペイン人のガイドがロマネスク、ゴシック、バロック様式の説明をしているのを聞いていると、ゴシックのことをゴチコといっている。ゴート族の様式という意味か質問したところ、ローマ人から見てゴート族は野蛮人なのでルネッサンス時代の人がさげすんでそう呼んだのだという。
カテドラル脇で一人の巡礼者に会う。頬が寒風と日差しに焼かれてかさぶたになった50才台のご婦人だったが、実にいい顔をしていた。その至福をすこし分けてもらった。
サンチアゴ・デ・コンポステーラのカテドラル
巡礼道(カミーノ)
我々はポルトガルからの巡礼道をなぞったのだが、巡礼者のほとんどはフランス経由だった。ピレネーを越えてスペインに入りブルゴス、レオン、アストルガを経由し、セルベイロ峠を越えてモンテ・ド・ゴッソにたどりつく。詳しくはhttp://www.humnet.ucla.edu/santiago/iagohome.htmlを参照。カテドラル裏の店で1648年発行のフランスからの巡礼道の復元図を手に入れる。(下がその一部)
巡礼道沿いのシロス修道院のグレゴリア聖歌のトラック1, "ノス・オーテム" (EMI Classics: CDZ 7 62735 2)
我々はセルベイロ峠、アストルガを経由してレオンまで巡礼道を逆行した。とはいえ高速道路が昔の巡礼道と並行するのはセ ルベイロ峠からビリャフランカ・デル・ビエルソ町までと、アストルガからレオンまでのルートN120である。とくにN120は完全に並走していて巡礼が歩 いた未舗装の道や休んだ村の教会が見える。
セルベイロ峠を越えて雪をいただく峰がすこしなだらかな丘に変わる所では遠くの丘の上にバレンシアで見たと同じ近代的風車発電機の群れが見えた。
フランスからの巡礼道図
アストルガ
昔の巡礼道にある街である。ここにガウディ設計の司教館がある。あまりに奇抜な設計をきらって司教様は住まなかったとい うが、コウノトリの夫婦がお気に召したらしく、煙突の上に巣を作っていた。ほかでもポルトガルの南部でコウノトリが田園地帯の電柱の上に巣を作っているの をいくつかみかけた。司教館に隣接してカテドラルがある。小さな町ながらなかなか立派である。両者ともくずれかかった城壁の上に建っていた。
アストルガの司教館の煙突に巣を造ったコウノトリ
レオン
1936 年7 月〜39 年4 月のスペイン内乱はカスティーリア王国とアンダルシア地方の地主、教会がフランコ率いる反乱軍につき、ピレネーのバスク地方、旧アラゴン王国とバルセロナ を中心とするカタルーニア地方の労働者、共和主義者、共産主義者が共和国側についた。反乱軍側にはドイツ、イタリアと日本がつき 、ドイツ空軍がバスク地方、ゲルニカを爆撃した。画家ピカソがえがいた「ゲルニカ」はここを舞台にしている。共和国側はソ連が中心となって アメリカ、イギリス、フランスなど各国の国民が義勇兵として参加したが、結局共和国側が敗北した。ヘミングウェイは従軍記者としてこの内乱を取材して、マ ルローと共に小説を書いた。この小説ではフランコはガリシア地方の出身だと書いてある。ゲーリー・クーパー、イングリッド・バーグマン 主演の1943年の米映画「誰がために鐘はなる」のジョン・ダンの詩を思いだしながら、またその背景となるスペインの歴史に思いをいたしながら、たそがれ時、レオン到着。
今回のコースにはレオンの東方にあるパンプローナは入っていない。このパンプローナはフランスからのピレネーのイパニエタ峠経由の巡礼道にある。 旅のガイドブックにヘミングウェイの小説「誰がために鐘はなる」にパンプローナが出てくるとあったので、小説を読んでみるとパンプローナのフェリアについてたった2行の回想場面だけであるDVDで映画 をチェックしても全くでてこない。著者はどうも「日はまた昇る」と混同したようだ。 パンプローナはバスクのナバラ王国の首都でザビエルの父がナバラ王国の宰相であったことが司馬遼太郎の「南蛮のみち I」に書いてある。
レオンとはライオンの意味だそうである。かってのレオン王国の首都でレコンキスタ活動の拠点となったところである。ただ ちにカテドラルを訪れる。翌朝は市庁舎、ガウディがボディネスのために設計した住宅カサ・デ・ロス。ボディネス(現在はレオンの貯蓄銀行)とその前のベン チに座ったガウディの像を見てからサン・イシドロ教会を訪問し、カテドラルも再訪した。ステンドグラスが驚くほど多い。サン・イシドロ教会はレコンキスタ に尽力し、12世紀グラナダで死亡したイシドロ聖人の遺骸を当時の政治の中心であるここレオンに運んで葬ったところだそうである。レオン王家の墓所でもあ る。レオンのカテドラルは6大ゴシック建築の一つといわれている。
レオンのカテドラル
サラマンカ
レオンからカスティリア・レオン地方の緩やかな丘陵地帯を南下する。途中、丘の斜面に登り窯のような炉が沢山見られた。 南下する道は緩やかなアンジュレーションのあるカスティーリアの高原を少しずつ下り、低地を流れる川は周辺の水を集めて緩やかに南下し、やがて西のポルト ガルとの国境に雪をいただいて聳える山の間に深い谷を作ってポルトガル領内に流れ込んでいる。冬の晴天の下、すべてが雄大なスケールで見える。この川はポ ルトワインの産地となる谷を作っているドウロ川となるのである。
3時間も南下するとスペイン最古の大学都市サラマンカに着く。この町のマヨール広場は気持ちの良いところである。いまでも大学都市として機能しており、世界中から留学生が集まり、若者が多い活気ある街である。
マヨール広場
アビラ
サラマンカからルートN501を南東に1時間走るとアビラに着く。この街を囲む城壁の保存状態はもとも良いと言われてい るのでそれを見学するために小休止。アビラの全ぼうを見渡せるというクワトル・ポステ(四本柱)というところから遠望する。オドビスのようなかわいらしさ がない大きな町だ。町すべてが確かに保存状態のよい城壁で囲まれている。城壁の下の緑の斜面と城壁の対比が見事だ。城壁の長さは2.6kmで88本の円筒 状の見張り塔が25m間隔で規則正しく設けられている。トレド奪回のためにこの城壁は築かれたという。現在約3,000人が城内に居住しているという。
アビラ
セゴビア
アビラから丘越えでルートN110を東北に古都セゴビア行に向かう。途中、セゴビアからポルトガルに向かう途中見たと同じ異様な樹形をした プラタナスの林があった。右手にポルトガルのポルトとリスボンを流れる大河の水源を分ける分水嶺となっているシエラ・デ・フアダラマ山系が峰を雲の中に隠している。緩やかに起伏する大地にするどい谷が侵食で食い込んでいるのが見える。
ローマ水道
夕刻セゴビア着。紀元前1-2世紀に建設されたという巨大なローマ水道が健在である。15世紀に建設された城、アルカサルはディズニー映画、白雪姫の城のモデルになったと言われている。 しかしここはイザベルとフェルディナンド両王がスペインをキリスト教の元に統一するための出発点となった城である。
アルカサル
マドリッド
夕闇せまるセゴビアからシエラ・デ・フアダラマ山系の山越えで、マドリッドに向かう。シエラ・デ・フアダラマ山系ですっ かり日が落ちた。シエラ・デ・フアダラマ山系を巻いて道路がつけられているので遠くの町の灯が下界に見える。日が暮れて視界も悪くなったのでマドリッドま では寝てしまった。帰国してヘミングウェイの小説「誰がために鐘はなる」 を紐解くとセゴビアからシエラ・デ・フアダラマ山系へまっすぐ10数キロ入ったところにラ・グランハというところがある。ヘミングウェイはここを小説の舞 台に選んだのだった。マドリッドからラ・グランハ経由セゴビアに攻め込もうという共和国軍のために主人公がラ・グランハ手前の橋を爆破しようという作戦遂 行の任務を背負ったロベルトの3日間の苦悩を描いた忘れ得ぬ物語だ。たしかにセゴビアに行く途中、緩やかに起伏する大地にするどい谷が侵食で食い込んでい るところがあった。ゲーリー・クーパーとイングリッド・バーグマンの顔が橋の爆破シーンとダブル。
すっかり暗くなったマドリッドに到着。さすが大都市、立派な道路も渋滞している。道路から丘の上に照明で浮かび上がる王宮(Palacio Real)とカテドラルがよく見える。
翌朝プラド美術館と王宮を訪れる。プラド美術館はベラスケス、ゴヤ、エル・グレコ3巨匠の圧倒的な数の絵画で一杯になっている。グリーンウッド氏の好きなブリューゲルの絵も一部屋ある。ベラスケスの 「宮廷の侍女たち(ラス・メニーナス)」は複製画を毎日みているので実物との対面は感銘深い。他のヨーロッパの美術館は戦勝の略奪品だが、ここはスペイン 王室お抱えの画家の絵と王室が買い集めたものだけで展示できないほどあるそうである。エル・グレコは前衛過ぎてフィリペII世には評価されず、お抱え画家 にはなれなかったが、後世に最もインパクトのある画家として評価されるようになったと説明がある。ベラスケスはもっとも王様に愛された画家であるが、ゴヤ は貧しい育ちながら王室画家となり、その批判精神と「裸のマハ」を描いたというスキャンダルもあり晩年は不遇であったなど、ガイドさんの面白い話を楽しん だ。ところでマハとは「良い女」という意味の一般名詞で日本の一部美術評論家が誤解しているような人名ではないそうである。ちなみにマホは「良い男」とな る。ゴヤの描いた胸に手を当てている男の肖像画の中で、中指と薬指だけを付けいる絵があったが、これは注文主が非ユダヤ人であることを示したかったからと の説明があった。ユダヤ人のサインは人差指と中指および薬指と小指をつけるのだという。
王宮の正面地下は駐車場になり、道路が地下を貫通し、王宮の裏側に広がる1,700ヘクタールの庭園は市民に開放され、王宮と庭園は昨夜通過した6レーンの高速道路で分断されている。一時王制が無かったこともあるのだろうが日本よりよほど開明的である。
トレド
マドリッドの日本食レストランで久しぶりに日本食を取る。(Restaurant Serial No.200) 昼食後、マドリッドから南西に1時間走って古都トレドに着く。対岸の絶壁につけられた山道を登りきり、その山腹から見る、トレドの景観はよく知られているが、実際に見る光景は訪れた価値があると実感させるものがあった。3方をタホ河で囲まれたこの地に首都を置いた 西ゴート族の人の意図は明白である。残りの巾着の首に相当する一辺は城壁で守っている。タホ河の水はしかし大都市マドリッドの負荷を背負って褐色となり、匂いたつようでいたいたしい。
迷路のような市中をある く。このときは気がつかなかったが、この町はユダヤ人、キリスト教徒、イスラム教徒が区画を別にしながら共生していた町という。ユダヤ人がアレクサンドリ アの文献を翻訳してくれたからギリシアの古典が今に伝わるという。レコンキスタでスペインがキリスト教に統一されてから、トレドは寂れた。
カテドラルでエル・グレコの多数の聖人画を鑑賞した。エル・グレコは王室画家に採用されなかったのでここトレドで沢山の 宗教画を残した。彼の描く聖人の肖像で二つの鍵を手に持った人物は天国への入口を守る聖ペテロ(シモン)とのこと。12使徒の他の聖人もそれぞれそれと分 かるサインが描かれているそうである。ここでガイドからカテドラルとは司教座(カテドラ)のある教会と教わる。サント・トメー教会で三大絵画の一つとされるエル・グレコの 「オーガス伯爵の埋葬」(The Burial of Count Orgaz)を参観する。この教会の牧師が領民にしたわれ、この教会を財政的に助けてしてくれたオーガス伯爵の記録を残そうとエル・グレコに依頼したのだ という。伯爵はこの画の前に葬られている。この画の中には参列者としてエル・グレコの自画像と彼を宮廷画家として採用しなかった当時まだ生存していたフィ リッペII世をなぜか天国にいる人として描いているという。ここでも二つの鍵を手に持った天国への入口を守る聖ペテロが聖母マリアの左側におり、天使に よって今まさにオーガス伯爵の魂が天国の門を通過する様はなにか非常に具象的だ。エル・グレコの才能のおかげで、この小さな教会は今でも財政的に困ること はない。
トレドの街
トレドの最高地点にあるアルカサルはフランコが共和国軍に反旗を翻して立ち上がった拠点となった。このときフランコ側に寝返った守備隊長の息子が共和国軍 の人質となった。そして父親に「もし降伏しなければぼくを殺すといっているよ」と電話をかけた。しかし父は、「死を覚悟しなさい。私は決して降伏はしな い」と答えたという逸話が残っている。アルカサルは砲撃で廃墟となったが後にフランコが復興したという。
マドリッドに取って返し、最後の晩餐はセルバンテスを記念したスペイン広場近くのレストラン、デュデュアでセゴビア名物 のコチニーロという子豚の丸焼きを食す。子豚の丸焼きが柔らかいことを示すため、お皿で叩き切ってみせ、そのお皿を床に投げ捨てて粉みじんにするショー付 きであった。(Restaurant Serial No.199)名物に美味い物なしではあった。
スペインではかなり小さな町にも闘牛場がある。ヘミングウェイのような血の気の多い人は好んだようだが、しょせん牛のな ぶり殺し、腕のよいマタドールなら一突きで神経を切って倒せるが、下手な人にかかっては牛の苦しむ様子にたえられなく、大部分の日本人は途中で退場したい と言い出すとガイドさんが言っていた。
スペイン語はフランス語につぐメジャーな言語なのでスペイン人は英語が下手であるそれに引き換えポルトガル人は英語がうまい。
帰路も同じアムステルダム経由だ。日航が提携して共同運航しているイベリア航空はアムステルダムが多い。ハプスブルグ家 がかってスペインとオランダを領地にしていたよしみだろうか。スキポール空港への着陸時は夜になって街路灯が道路を縁取り、チューリップ用グリーンハウス の照明が野球場の照明のように空を焦がしているのがみえる。いずれもナトリウムランプのあの橙色一色である。そういえばスペインの夜景は日本とおなじ水銀 灯の白色光だったと気がつく。ナトリウムランプは >発光効率が高く、スペクトル光のため、眼球の色収差がなく夜良く見えるのが採用理由だと聞いたが、チューリップは春が来たとだまされるのか。ある いはオランダが日本では駆逐されてしまったこの色の見分けのつかないナトリウムランプを使い続けるのは省エネと産業廃棄物の汚染が少ないためなのかと興味 を持って帰路につく。
帰国して3年経過した2006年8月、スペインはレコンキスタばかり宣伝するが、スペインの歴史から抹殺されたアンダルスが実はギリシアの文明をヨーロッパに伝える役割を果たしたことを知った。そしてアンダルス時代のトレドがアレクサンドリアの文献をボローニャ大、パリ大、オックスフォード大に伝える重要な役割を担ったということを知ることになる。
February 1, 2003
Rev. July 25 2022