1995年のゴールデンウィークの10日間、トスカーナ地方の中世の都市国家を歴訪した。いずれも小高い丘の上の 城壁に守られた城砦都市で、現在も生きた状態で良く保存されていた。ヨーロッパの中世が暗黒の時代ではなく、豊かな文化を育んでいたことが、圧倒的な迫力 で納得できた。更に歴史を遡ればローマ帝国に先立つ紀元前8世紀頃、トスカーナ地方にはエトルリア人が住んでいたという。
歴訪先はジェノア、ボローニャ、フィレンツェ、サン・ジミニャーノ、シエーナ、ピサ、ビンチ村、ペルージャ、アッシジ、ウルビーノ、サンマリーノ、リミニ、ベネツィア、ベローナ、ミラーノの15都市であった。帰って和辻哲郎の「イタリア古寺巡礼」を読んだ。あの世界である。
イタリアに今でも残る中世の都市国家は封建制と都市の自治制という2つの政治原理のなごりだという。現代は国民国家の時代だが、未来は再び都市国家に戻るだろうとの予測を1997年のシカゴのPMI大会の基調講演で聞いた。兵器の研究者、フリードマン夫妻の本「戦場の未来」でも都市国家が未来の社会を暗示しているという。都市国家の実物を見るという意味でも興味深い旅であった。
ちょうど、木々の芽が出る時期と重なり、ビンチ村を訪れた時、イギリス人がトスカーナ地方に憧れる理由がわかった。後日(1998年4月)木曽の馬篭宿を訪問して、南面する斜面などの様子がビンチ村に似ていることを発見し、我が郷里もまんざらでもないと再認識した次第。
アッシジからウルビーノに抜けるアペニン山脈の優しくも、雄大な自然と、ウルビーノからサンマリノへ抜ける花々の溢れる丘の上のドライブは我々だけが独占して良いのかと疑うほどの美くしい自然であった。
一方、スーツ姿で高級犬を連れて散歩したり、ワイシャツを着てハーレーに着飾った彼女をのせて近代都市ミラーノ一 番のファッション・ストリート、モンテ・ナポレオーネ通に乗り入れ、ブティックで買い物をする粋な人を発見。米国流と違うファッション文化を創造するヨー ロッパの奥の深さを知らされた。
ベネツィアは2度目であったが、朝日と潮風をあびてのダニエリ屋上のレストランの朝食は快適。朝日の移動に伴い巨大なサンシェードをこまめに調節してくれる心使いも王侯貴族の気分にしてくれる。
楽士を伴ったゴンドラは他国の観光客の視線を集め、にわか成り金のようで恥ずかしい。
このような豪華な団体旅行は2度とすることは無いであろう。
その後、アッシジは1997年の地震で大損害をこうむった。アッシジの上下2層の聖堂の上部聖堂の天井の壁画が崩落し、ジオットの壁画が損傷した。神父さんが4名亡くなった。ビデオで神父さまが落下物が発生する土煙のなかに呑み込まれて行く様をみてしまった。
町もかなりの被害をこうむったとのこと。2層の聖堂そのものが、ヨーロッパ、中東の石の文化の積層を見る思いであった。
われわれの泊まったFontebel a Hotelはどうなったであろうか。あの石のアーチの天井は?
ジェノア (1995/4/29)
成田からルフトハンザ711便/3604便でフランクフルト経由、昼ジェノア着。ジェノアは地中海にのぞむ急斜面 にある町で平地はほとんどない。空港も海を埋め立てて作ってある。着陸する機は急斜面に林立するビル群を横目に見ながら降下する。ジェノア・ジブという帆 の形式があるくらいでベネツィアと並ぶ海洋都市だが通貨交換後、ジャノア市中を見ることなく、すぐバスでボローニャに向け出発。坂を登ったあとは平原をひ た走る。菜の花が点在。ボローニャではJolly Hotelに一泊。(Hotel Serial No.80)
2018/8/14 ジェノワの自動車専用のMorandi橋が落ちた。3本ある主柱の内、西側の主柱が崩壊した。1995年ジェノア空港に到着してすぐ この橋を渡り、ボローニャに向かったはず。女房の記憶ではやけに華奢な造りだと思ったそうだが、私は地震の無いヨーロッパで一般的な設計と思っていた。こ れはコンクリート製だが1960年に建設されたというから、メンテナンスが悪かったための経年劣化ではないかという感じがする。
ボローニャとフィレンツェ (1995/4/30)
マジョーレ広場では市民マラソンの日とか祭り気分がみなぎっていた。ビンテージバイクの集会も協賛として開催され ていた。見たことも無いイタリアクラシック車を堪能。ボローニャで最古の大学(アルキジンアージォ宮殿)、電気化学の祖Galvaniの像、町中に林立す る斜塔群を見る。アルキジンナージォは中世ヨーロッパの学問の中心であったとか。
ピレネー越えでルネッサンス都市フィレンツェに入る。終日フレンチェ見物。人であふれるポンテ・ベッキオ、サンタマリア・ノッベラ教会、洗礼堂、花のサンタマリア大聖堂(ドゥオーモ)、ジオットの鐘楼、シノーリア広場、ベッキオ宮殿訪問。 アルノ河にかかる橋、ポンテ・ベッキオの最上階にはバザーリ回廊がベッキオ宮殿とパラッツォ・ピッティを結んでいることは帰国後知った。
ドゥオーモの八角形のクーポラは直径が40mもあり、1420年の建設開始当時に一般的だった下から型枠を作ってその上にレンガを積む方式では重すぎて建 設不能であった。ブルネッレスキは40x4/5=32mの長さの紐をドーム内壁底部から1/5のところに固定して、その紐を対壁から上に回転させて作る円 弧にそって正確にレンガを積むという工法で15年の歳月をかけて完成させたという。クーポラは二重にし、中空部に階段を作り木製のタガをはめてテンション をかけ、倒壊しない工夫も用意した。しかし下部一層に設置しただけで不要とわかり、上部にはタガははめてない。クーポラの重量は37,000トンという。 見学者はこの中空部の階段を使って今でも内部を見学できる。
国立図書館前ホテル1泊、グランドホテル2泊。(Hotel Serial No.81) い ずれもアルノ河岸沿い。神権政治をしたサボナローラが処刑されたシノーリア広場にはミケランジェロの有名なダビデの像がベッキオ宮殿前の屋外に立ってい る。(広場のものはレプリカで本物は1873年以後アッカデミア美術館に保管されている)E.M.フォースターのA Room with aviewという小説を映画化した1986年の映画「眺めのいい部屋」はここが舞台になっていた。
400年間フィレンチェに君臨したメディチ家が残した美術品はその最後の継承者といわれるアンナ・マリアが残した遺言状をハプスブルグ家のマリア・テレザが守ったおかげで、全てフィレンツエに残っている。かって読んだフィレンツェの歴史を思い出しながら散策。
シノーリア広場にて
サン・ジミニャーノとシエーナ (1995/5/1)
フィレンツェの南の塔の町、サン・ジミニャーノと7つの丘の上に建てられたシエーナへの日帰りバス旅行。いずれも丘の上の城砦都市。
サンジミニャーノはシエナの北西約50kmの丘の上にある。城壁に囲まれた狭い町の中にはいくつもの塔がある。 12-13世紀にローマ法王と皇帝派が争っていた時代に見張りように作られたという。むしろ威圧のためにつくられたのだろう。かっては72基あったそうだ が、現在は15基のこっている。石畳でパレードを見る。サンジミニャーノは世界遺産に指定された。
シエーナはフィレンツェの南68kmにある3つの丘の上にある。フィレンツェとならぶ中世都市。横じまの強烈な柱を持つ大聖堂、ドゥオーモと毎年7月2日と8月16日に競馬(パーリオ)が行われる有名な市庁舎前カンポ広場を見る。カンポ広場が眼前に現れたときの感銘はわすれられない。カミユが 若きときの中部イタリアの遍歴を思い出して未完のノートに書き残した「泉のほとりで寝、棕櫚型のカンポ広場、まるでギリシア以来、人間がつくったもっとも 偉大なものを授ける掌のようなその広場」という言葉の意味が分かる。カンポ広場は中世の市政を担当した九人委員会を象徴して一番低い市庁舎プッブリコ宮前 を扇の要とするような放射状の線で9区画に分かれている。高さ102メートルの市庁舎の塔、トッレ・デル・マンジャの影が広場に投影されると丁度日時計の ように見える。市庁舎の正面反対側にはカミユがそのほとりで寝た泉、フォンテ・ガイアがある。
13世紀にできた建物の中にあるというレストランで昼食。キャンティを満喫。キャンティ1万種のワイン博物館訪問。
カンポ広場
ピサとビンチ村 (1995/5/2)
午前中はメジチ家のルネッサンス・コレクションを収蔵したウフィッツィー美術館でボッティチェリのビーナスの誕生とプリマヴェーラ(春)を見る。
午後、ルッカをパスして、かっての海洋国家ピサの訪問。ピサの斜塔と洗礼堂訪問。ピサの斜塔の基礎は掘り返され、 コンクリートで補強してその上に300トンの鉛のインゴットを載せて傾斜を直そうと試みていた。(その後、この方式が成功して補修は完了したのと新聞報道 をみる)
帰りがけ、トスカーナの田舎の典型のビンチ村を訪問しダ・ヴィンチの生家見学。
ピサの斜塔
ペルージャ、アッシジ (1995/5/3)
午前中フリータイム。フィレンチェの花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)のドームに登る。ブ ルネレスキが足場を組まずに造ったドームである。ミケランジェロの丘の中腹のLe Rampeで昼食後ペルージャ向け出発。長時間のバス旅行後ペルージャ着。このペルージャは南面するかなり高い丘の上にある。広場や広場地下道、カテドラ ル、北側のローマの門などを見る。このような高台の都市住民の生活用水はどうなっていたのか気になったが、丘といっても孤立したドーム状の丘ではなく、尾 根の末端にあるため、もっと高いところから水道を引いていたのだという。
夕刻には再度東に移動し、聖フランチェスコが開いたアッシジに到着。夕陽に栄える聖フランチェスコ大聖堂には感激。Fontebell a Hotelで1泊。(Hotel Serial No.84)中世の石造りのアーチ天井の部屋で窓小さく、壁厚く歴史を感じさせる。
聖フランチェスコ大聖堂
聖フランチェスコ大聖堂は二層の教会で中にはルネッサンスの先駆けとなったジョット(Giotto di Bondone)の作といわれる一連の壁画がある。なかでも「小鳥と語らう聖フランチェスコ」は有名。ジョットの名を初めて知ったのはNASAが彗星に送り込んだ人工衛星の名によってであることを思い出す。
ジョット描く聖フランチェスコ
アッシジ、ウルビーノ、サンマリノ、リミニ (1995/5/4)
午前は美しいフライイングバットレスを持つ聖キアラ大聖堂までガイドに従って歩く。
聖キアラ大聖堂前の噴水
聖キアラ大聖堂からさらに南東に下れば聖フランチェスコが初期に根拠地としたサンダミアーノ修道院がある。ここは後に聖キアラに譲っている。聖フランチェスコ大聖堂にかけてアッシジ縦断散歩。 聖フランチェスコ大聖堂では日本人の神父さんに案内をしていただく。
午前ウルビーノに向け出発、ピレネー越は結構険しい。ウルビーノにて昼食。ラファエロの生家を訪問。ウルビーノは 傭兵隊長の作った町。午後サンマリノ共和国へ向け出発。サンマリノへ至る丘の上の尾根道はお花畑の中をうねるどかな田舎道。サンマリノの断崖に肝を冷や す。夕刻アドリア海にのぞむリミニ着。一泊。
ベネツィア (1995/5/5)
早朝、アドリア海に望んで、いつか対岸の旧ユーゴの歴史ある場所を訪れたいと思う。ベネツィアに向け出発。
ベネツィアには1973年の大晦日に訪れており、今回は2回目である。須賀敦子(あつこ)さんは「地図のない道」 のなかで冬のベネツィアが好きだといっているが、1973年の大晦日に人気の無い路地、濡れたサンマルコ広場を経験してるからよくわかる。さて、今回はそ の正反対の陽光が燦燦と輝く6月である。ベネツィアの最高級ホテルの一つ、ダニエリの屋上のレストラン、ラ・テラッツァで朝日を浴び天覆の下の朝食はすば らしいの一言。(Hotel Serial No.82)キャノピーの下で海風にさらされながらサンジョルジョ島のマッジョーレ教会を眼前にみながらである。ダニエリは共和国のダンドロ総督が迎賓館として使っていた宮殿を19世紀にジュゼッペ・ダル・ニエル氏が買い取りホテルに改装したのでこう呼ばれるという。
ゴンドラで楽士付き運河の旅、ドゥカーレ宮殿、サンマルコ広場、サンマルコ寺院を訪問、サンマルコ寺院は今回が2回目だった。この寺院の黄金のモザイクは 圧巻である。2枚のガラスで金箔をサンドイッチにし、1cm角に切ったテッセラというものを張りつけて作る。もともとは500年頃ラベンナで始まったもの だという。グスタフ・クリムトはラベンナのサンビターレ聖堂で黄金のモザイクを見て感銘を受け、大きな影響を得たという。
溜息の橋、ベネチャングラス工房を訪問。工房でナイジェリアで墓から盗掘されたビーズのネックレスと同じガラス製品を発見。
ゴンドラ
ベネツィアは交易に従事した商人が作った共和国である。アラブの台頭で交易にかげりがでたとき、ムラーノ島でガラス細工製造業を興し、それも衰退したとき は大商人は本土に豪壮な別荘を建て、そこで農業経営をした。ヴィチェンツァ市街とヴェネト地方のパッラーディオのヴィッラ群がそれで、世界遺産に登録され ている。
ベローナとミラーノ (1995/5/6)
ベローナ経由ミラノに出る。ベローナではジュリエットの家を訪問。ミラーノではドゥオーモ(大聖堂)訪問。ビット リオ・エマヌエル2世アーケードで休憩。スカラ座訪問。ミラノの中でも、ファッション発信地とでも呼ぶべきモンテナポレオーネ通りでショッピングしていた とき、店から出てきた若い女性をハーレーの後部座席にのせて颯爽と走り去る姿を目撃。ATAHOTELS 1泊。(Hotel Serial No.83) Ristorante Il Cormorano (Restaurant Serial No.77)で最後の晩餐。
ビットリオ・エマヌエル2世アーケード
帰国の途 (1995/5/7)
ルフトハンザ3615/710便でハンブルグ経由帰国。1995/5/9成田着。
Rev. August 15, 2018