若杉鳥子 わかすぎ・とりこ(1892—1937)


 

本名=板倉とり(いたくら・とり)
明治25年12月25日(戸籍上は12月21日)—昭和12年12月18日 
享年44歳(普照院智法妙薫大姉)
東京都八王子市元八王子町3–2536 八王子霊園54区56側17番
 



小説家・歌人。東京都生。古河高等小学校卒。横瀬夜雨に師事。明治40年上京。中央新聞社の記者となる。『創作』に短歌を投稿、水野仙子、今井邦子らを知る。44年結婚。大正14年『文芸戦線』に『烈日』を発表、プロレタリア作家として認められる。遺稿集に『帰郷』がある。
 






 

今、今、牛も人も氣が狂つて、何ものにか突進してくるのではないか!
私は思はず何處かに遁げ場を求めやうとして周圍を見廻した。
巡査も群衆も皆ひとりでに逃げ道を用意しながら、凝とその光景を見つめてゐた。
よいつしよ、ほらつしよ、よいつしよお……牛方はやつぱり、唯是れ鬪爭——といふ氣勢で、愛情も生命も投げ出してしまつたものゝやうに、死力を盡して叫ぶ。
それでも牛は、つぶらな可愛い、體の割に小さい瞳を、無邪気に柔順みはり、咽喉のたるみをいよいよ急しくひこひこと波打たせ涎の絲を地にひきながら、疾う疾う坂を上り切つた。
それを見送つてゐると、私の眼からは熱いものが流れた。
しかも大きい牛の體は、更に大きい蒸汽氣罐の怪物の影に隱れて、乾いた長い路を、白い沙塵をあげながら、鋸の齒形のやうに、ギクギクと刻むでいつた。
あの努力! あの努力!
私は其處に人が見てゐなかつたら面を掩ふて泣いたろう。そして私は心の中でいつた。
安價なセンチメントだと嗤はないで下さい!!古くさい譬喩だと冷笑しないで下さい!
人々は、兄弟は、自分は、牛は牛方の男は、今皆苦しみ惱み、默々と喘いでゐる……。
人々も牛を見送つてしまふと、皆いひ合はしたやうにホツとして汗を拭いて、堰を切つたやうに急坂をなだれおちた。
私は人知れず、交番のプラタアヌの影で洋傘を翳して、自分の泣蟲を耻ぢながら涙を拭いた。

(烈日・急坂)


 


 

 東京下谷(現・台東区)で妾腹の子として生を受け、生後まもなく、茨城県古河町(現・古河市)の芸者置屋の養女とされ、なおかつ学齢期まで里子に出されるという薄縁の幼少期を過ごした彼女にとって、文学に寄せる切なく、愛おしい熱情は、自身をも輝かしく照らす限りなき光明であったことだろう。
 日本女子大学に入学した娘黎子に愛惜を込めて贈った「ある母のうたえる」の一節にこうある。〈としつきはめぐりきたり、母われは父母のなき さち薄き生れなりしが、よそ人のなさけのうちに讀み書きを僅か覺えて 言葉綴るわざを知れど、そは今も幼兒の片言に似てこゝろ悲し〉。
 プロレタリア文学と、外交官で華族出身の夫との家庭、ギャップの狭間にあって苦しんできた鳥子は昭和12年12月18日に死去する。



 

 鳥子の師横瀬夜雨宅で手にした彼女の写真に魅せられ、長塚節は歌二首を贈っている。
 〈まくらがの古河の桃の木ふゝめるをいまだ見ねどもわれこひにけり〉。
 〈紅のしたてりにほふもゝの樹の立ちたる姿おもかげに見ゆ〉。
 生涯、逢うことのなかった二人の遠い面影が立ちのぼってくるようだ。
 気管支喘息の持病を持つ鳥子は、発作に苦しみながら、虐げられ運命に翻弄される人間の姿を慈しむ如、掌編に書き写し、44年の生涯を閉じた。死後、巣鴨の八雲霊園に葬られたが、昭和49年、次女黎子によって改葬され、ここ高尾の山懐、八王子霊園にプロレタリア作家若杉鳥子は眠っている。「静」とのみ刻された碑の真向かう遙か彼方、渡良瀬の風は今日も故郷古河の町々に輝いてあると信じて。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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