村上一郎 むらかみ・いちろう(1920—1975)


 

本名=村上一郎(むらかみ・いちろう)
大正9年9月24日—昭和50年3月29日 
享年54歳 
東京都東村山市萩山町1丁目6–1 小平霊園21区19側39番 



評論家・歌人。東京府生。東京商科大学(現・一橋大学)卒。海軍主計大尉で終戦。一時日本共産党に入党したが、のち離党。吉本隆明、谷川雁らと雑誌『試行』の編集をするが、昭和50年自刃した。『東国の人々』『北一輝論』『日本のロゴス』などがある。







  

 私は抒情というものを、むやみとやさしいものに考えない。それは、あわれすずやかにあらねばならぬが、かならずしも西欧のリリックにつきまとうような或る軽妙さによってはかられてはならないと思う。西欧におけるリリックの伝統について、私はけっしてくわしくはないけれども、それが負っている放心するほどの明快な透明度といったものは、日本人の歌にも詩にも句にも、あり得ないように思う。新古今集のような、或いは蕪村の句のような、けっして重たくない詩風であっても、それは西欧のリリックのような明快さや軽妙さはない。また、ただやさしいのでもないし、ただセンチメンタルなのでもない。日本の抒情はもっとそのようなやさしさや悲しさから自由であり、同時にもっと切ない囲繞をもつ。ことばの重畳、またそれらがつくりなす喩は、ねっとりとした、しかし油絵具をぬりかさねるようなのではない。魚鱗や薄いうるしの層のもっているような半透明性の性格をもち、それは人間のいとなみを軽やかに楽天的にとらえるのでもなければ、さりとてそれをまるで分裂的に非生命的に扱おうというのでもない。ヴオリンゲルT・E・ヒユームのいう、模倣衝動による自然主義(西欧的)か、或いは抽象衝動による幾何学的様式(東方的)か、という二つの分類は、日本人の抒情を支える芸術意欲とその生みだす形式とにはあてはめることができない。日本人には第三の道が(それのみが)あった。
                                              
(日本のロゴス)



 

 昭和50年、開花宣言のされた3月29日、躁鬱病なんぞという得体の知れない病から逃れ得ず、自らの手で頸動脈を切り果てた孤高の獅子あるいは絶望の歌びと村上一郎。
 歌人福島泰樹は〈絢爛と散りゆくものをあわれめば四月自刃の風の悲鳴よ〉と歌い、詩人清水昶は〈潔癖な死には重量がない…〉と。
 だが、なによりも私を肯かせたのは、『試行』同人としてともに心をつないだ吉本隆明の追悼にある。〈村上一郎さん。率直にいって、少しのすきがあれば押してくる貴方の鋭い切っ先は、心を休ませてくれなかったので、傍にいるのが辛かった日々もあった。貴方の孤独な営みの行方にはらはらさせられたこともあった。いま、また、たくさんの悔恨をわたしの心に落として貴方は去ったのである〉。



 

 〈文学をメシにかえることなく、そうなることをきびしく抑制しつつ、文学に生き死にを賭ける人たちを友とするし、それらの人たちの若干をえらび、ともに一つの運動をおこすことはあっても、それらの人と互いにプロテストしあうことは、けっしてやめない〉と文学の自滅、文学の売身をきびしく戒めた浪漫者の墓碑銘には清冽無比な「風」の碑。
昨夜来の暴風雨の名残をとどめた碑文字から浸みだした墨滴のような滲みにさえ文学者村上一郎の無念さが映されているのだろう。花はとおに散り去り、樹木の生い茂った霊域に押し込められた熱湿気は行き場を失って、ただただ翠なる爽風の吹き抜けるのを待っている。
 ——〈野のはてにわが葬棺を曳かしめて或る日は越えむかげろふの丘〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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