堀口大學 ほりぐち・だいがく(1892—1981)


 

本名=堀口大學(ほりぐち・だいがく)
明治25年1月8日—昭和56年3月15日 
享年89歳 
神奈川県鎌倉市十二所512 鎌倉霊園5区0側89号 



詩人・翻訳家。東京府生。慶應義塾大学中退。明治40年与謝野鉄幹の新詩社に入り、『スバル』『三田文学』に短歌等を発表。四四年外交官の父に従い海外生活を送る。大正6年帰国、7年訳詩集『昨日の花』を刊行。8年処女詩集『月光とピエロ』を刊行。詩集『砂の枕』『人間の歌』『夕の虹』訳詩集『月下の一群』『海軟風』などがある。






 以前の墓


  

人間よ
知らうとするな、自分が、
幸か不幸だか、
問題は今そこにはない。

在、不在、
これが焦眉の間題だ、
灼きつくやうな緊念事。

生きて在る、死なずに在る、
感謝し給ヘ、今日も一日、
調和ある宇宙の一點、
生きものとして在つたこと。
神にでもよい、自然にでもよい、
君の信じ得るそのものに。

知らうとするな、
知るにはまだ時が早い、
人聞よ、
墜落途上の隕石よ。
                                                          
 (『人間の歌』隕石)



 

 18歳で新詩社に入り、与謝野鉄幹・晶子に師事した。そこには北原白秋や吉井勇、木下杢太郎、石川啄木らが集っており、同年の佐藤春夫とは生涯の友となった。
 300を超えるといわれる訳書・詩書がある堀口大學の詩は、人の世の愁いと一種の軽快さを漂わせ、多くの人々の青春を甘く、また苦く、哀しく掴んでは流れていった。〈水に浮んだ月かげです つかの間うかぶ魚影です 言葉の網でおいすがる 万に一つのチャンスです〉。先に逝った詩兄弟・佐藤春夫に胸の張れる詩ができたといっていた辞世の詩——。
 堀口大學は昭和56年、春一番の風雨が去った3月15日正午、急性肺炎により葉山の自宅で妻の手を握りながら、永い詩人生の最期を静かに迎えた。



 

 ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ われ等の恋が流れる わたしは思い出す 悩みのあとに楽みが来ると〉——堀口大學訳アポリネールの詩「ミラボー橋」。このあとにつづく〈日が暮れて鐘が鳴る 月日は流れわたしは残る〉の一節は幾年月をも経た今になっても、私の耳元に小波をうって渡ってくる。
 ——良く晴れた日には霊峰富士を望むことができるという鎌倉霊園の高台、川端康成墓所のすぐ傍に詩人の眠る「堀口家之墓」はあった。以前は墓の周りを囲んでいた生垣がすっかり取り払われ、見間違うほど広々と明るい塋域になっていた。広い谷から吹き上がってきた冷たい風が無防備な墓碑の廻りをひと巻きして、落ち着く間もなく彼方へ吹き抜けていった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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