土井晩翠 どい・ばんすい(1871—1952)                  


 

本名=土井林吉(どい・りんきち)
明治4年10月23日(新暦12月5日)—昭和27年10月19日 
享年80歳(詩宝院殿希翁晩翠清居士)
宮城県仙台市若林区新寺4丁目7–6 大林寺(浄土宗)




詩人・英文学者。仙台県(現・宮城県)生。東京帝国大学卒。明治27年東京帝国大学入学、「帝国文学」編集委員となり、詩を発表。31年東京音楽学校(現・東京藝術大学)の依頼で「荒城の月」を書いた。32年第一詩集『天地有情』刊行。35年渡欧、ロンドンで滝廉太郎と対面する。ほかに『天地有情』『曙光』『天馬の道に』などがある。





 


春高楼の花の宴
めぐる盃影さして
千代の松が枝わけ出でし
むかしの光いまいずこ。

秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁の数見せて
植うるつるぎに照りそひし
むかしの光いまいずこ。

いま荒城のよはの月
変らぬ光たがためぞ
垣に残るはただかづら
松に歌うはただあらし

天上影は変らねど
栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなお
あゝ荒城の夜半の月。

(荒城の月)

 


 

 質屋を営んでいた裕福な父の援助を受け、欧州諸国を外遊、ロンドンでは夏目漱石の下宿に同居したこともあった。その男性的な詩は女性的資質の島崎藤村と並び〈藤晩時代〉と称された時もあった。
 昭和20年7月10日未明、仙台市空襲によって、住居や万巻の蔵書は焼失してしまった。60歳を過ぎると次々と三人の子供たちを失い、23年には妻八枝も逝って、心身の気力も消え失せた。  
 24年、仙台市名誉市民に推挙され、以前の住居に建てられた「晩翠草堂」を贈られた。翌年には文化勲章も授与されたが、孤身が癒やされることもなく、昭和27年10月19日午後9時25分、急性肺炎のため80年の生涯を閉じた。



 

 仙台三十三観音の14番礼所である大林寺、山門を入ってすぐ、観音堂脇にある墓域は、かつては仙台市内外に土地や貸家、朝鮮には広大な山林を所有していたという富裕な土井家墓所らしく、大小それぞれ、十数基もの墓石がぐるりと建ち並んだ広々としたものであった。
 数年前に訪れたとき、そこには市から贈られた「晩翠草堂」敷地譲渡をめぐる紛争とかで、遺族と仙台市側の意思疎通がうまく運ばなかった由、墓碑が取り外されて台石のみが空しく残っており、呆然としたものだったが、どうやらその関係も正常に戻ったらしく晩翠自身の筆になる「土井晩翠之墓/八枝之墓」は観音堂を背に緑陰を映し、何事もなかったかのように閑かに建っていた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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文学散歩 :住まいの軌跡


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