太宰 治 だざい・おさむ(1909—1948)                      


 

本名=津島修治(つしま・しゅうじ)
明治42年6月19日—昭和23年6月13日
享年38歳(文綵院大猷治通居士)❖桜桃忌 
東京都三鷹市下連雀4丁目18–20 禅林寺(黄檗宗)




小説家。青森県生。東京帝国大学中退。昭和10年『逆行』で芥川賞次席となり、同年『ダスーゲマイネ』を発表。翌年第一創作集『晩年』が作家として認められた。終戦までには『走れメロス』『富獄百景』『お伽草紙』など、戦後は『晩年』『斜陽』『桜桃』『人間失格』などの佳作を書いた。




 以前の墓

 平成10年以降



 私は散歩の途中、その道場の窓の下に立ちどまり、背伸びしてそっと道場の内部を覗いてみる。実に壮烈なものである。私は若い頑強の肉体を、生れてはじめて、胸の焦げる程うらやましく思った。うなだれて、そのすぐ近くに禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、森鴎外の墓がある。どういふわけで、鴎外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救ひがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持が畏縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した。私には、そんな資格がない。立派な口髭を生やしながら、酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と、同じ墓地に眠る資格は私に無い。お前なんかは、墓地の択り好みなんて出来る身分ではないのだ。はっきりと、身の程を知らねばならぬ。私はその日、鴎外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで、あわてて帰宅したのである。 

(花吹雪)    



 

 昭和23年6月13日雨の深夜、愛人山崎富栄の部屋に二人の写真を飾って間に合わせの仏壇をしつらえ、遺書数通と『グッド・バイ』草稿を遺して、連日の雨で水かさの増した玉川上水に入水した。遺体はなかなか見つからずようやく6日後の19日早朝、入水推定箇所より2キロほど下流で二人の遺体は発見された。奇しくも太宰治39歳の誕生日であったが、その口元に細い麻縄がくわえられていたのが印象的であったという。事件後に様々な憶測、流言飛語が四方八方からとびかったが、50回忌直前の平成10年5月23日に遺族から公開されたワラ半紙に毛筆清書の9枚の遺書には〈小説を書くのがいやになったから死ぬのです〉とあった。



 

 本人の希望通り森鴎外の墓と向き合ってあるその墓は井伏鱒二筆による「太宰治」の文字のみが凛として刻まれていた。以前は碑の両側に柘植が植え込まれていたのだが、平成10年、左隣に「津島家之墓」が建てられ、美知子夫人が葬られた。かつて森鴎外の墓前に密かに佇んだ太宰だが、時を経て今、同じ墓地の土の下に作家は眠る。多くの訪問者が、武蔵野の臭いを嗅いで過ぎ去っていく。私の影も寄る辺ない風となって、この寺の松木を巡り、やがてはその空に消えるのだろう。——〈生きていたい人だけは、生きるがよい。人間には生きる権利があると同様に、死ぬ権利がある筈です。〉、桜桃忌6月19日、禅林寺は人であふれる。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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文学散歩 :住まいの軌跡


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