いつもの朝のように、未だ明けやらぬ杜の中を歩いている。
薄墨の闇はゆるりと流れ
やがて風がしずかに生まれてきた
名も知らぬ鳥のしきりに鳴く声がする
西の宙に浮かんでいた下弦の月はいつしか雲間に隠れてしまったようだ
ぽとっ、
ふいに背後で湿った淋しい音がする
榧の実の落ちる土庭に野花の一叢
ほとんど葉を落としてしまった桜の老木に色づいた蔦葉が絡みついている
枯れ葉を踏む跫音は右左
互いに響き合い
乾燥した波紋が四方に散ってゆく
美術館の暗がり
噴水のある公園を巡り
博物館の裏道へと
古の大寺の閉じられた門前を過ぎる頃になると
ようやく東の方から樹木を吹いて
路地へと曲がってくるうす明かり
幽かな匂いやうつつの彩りが歩一歩と充ちてくる
ひょいと気がつくと
人の世と呼べる位置のあいまいな一瞬がその角にも
あの角にも立ち止まって
怪しげな眼差しを私に向けている
ああ、でも、もう少しの辛抱だ
あの廃屋の角を曲がると
呼吸を始めた樹木の狭間から
崖下に広がる
目覚めはじめた街や赤紫色に染め上がってくる空を
思い存分眺めることができるのだから
いつの頃からか廃屋の風景を楽しむようになってきました。
廃線跡、廃墟と化した学校や病院、集落などというもののもつ独特の雰囲気、匂い、陰翳に少なからずの魅力を感じてはいるのですが、私が一等心惹かれるのは、何といっても、ただひとつの家族が暮らした家の跡形、「ものがたり」のおわり。それぞれの時代や季節、鼓動、夢や哲学を語りかけてくれる廃屋なのです。墓原にひそむ「ものがたり」に旅するのも、あるいは同じ匂いであるからかもしれません。「掃苔録」の旅のまにまに、何とはなしにその匂いを嗅ぎとろうとして路地から路地へと迷路を彷徨ってみるのです。ときおり、予感が的中したかのように、崩れた土塀や寒椿の咲く生け垣の向こうに暮れゆく陽を映して、ひょっこりと現れた廃屋、土蔵の白壁、赤錆たブリキ板の波壁に、庭の欅や銀杏の古木、楓や柿の木の樹影がちらちら遊泳したりしているのを目にすると、時間を忘れて息をのむように見とれてしまうのです。
そんなとき、私は、この廃屋だけがただ唯一、永劫の時間を得ることのできた美の象徴ではないかという気さえしてくるのです。
二十数年前に購った丸谷才一の「樹影譚」、トレシングペーパーをカバーにした薄くて地味、本棚にあってはほとんど目立たない本なのですが、エッセー風な文章の樹影に惹かれる奇妙な感覚が心の奥底にしみ込んでくるようで、迷わず買ってしまったのでした。私の廃屋好きは、思えばその頃からの性癖であるのかも知れません。今回の更新で掲載した「丸谷才一」の頁を編集しているうちに、とりとめのないことを思ったりしていました。
ある日は立ち、ある日は去り、せせらぎの流れは絶え間なく、空を吹く風は昨日も今日も、それからまた日は立ち、日は去っていった。
寒風に晒された垣根に咲く朝顔の淋しさに、半欠けの硝子窓、黒く滲み朽ちた下見板、たくらみをひそめて路地のどん詰まりに立ち尽くす一軒の廃屋。石柱門の奥に、何処かの誰かが忘れていった古鞄が転がっている。
ここに終わった「ものがたり」。
ここに始まった「ものがたり」。
繰り返す四季の巡りの、崩れ去ろうとするものに幸いあれ!
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