New York七転八倒顛末記その5


NYの不動産会社倒産!? そして日本の業者が消えた??

さて、すべての手続きが完了した時点で、新たに3つの問題が浮上してきた。
ひとつは、アパートを会社の事務所として使用することを前提に考えていたのに、それが駄目になったことだ。コンドミニアムという所有形態であれば、どういう使い方をしても問題はないのに、コープ形式では管理組合の決裁が必要になるという。基本的には住居としての使用に限られるということで、事務所使用はあきらめざるを得なくなった。となると、事務所をどこかに確保しなければならない。これについては、このアパートの購入資金調達の際にニューヨークの銀行に紹介の労をとってくれた不動産管理会社の社長の好意で、彼のオフィスの一角に机をひとつ借りることにして、一応の決着をみた。

こうなってくると、次の問題としてこのアパートの部屋をどう利用するのかということになってきた。住むためということになると、私自身が常時ニューヨークに居るというわけにもいかず、かといって、ビザの関係で経済活動をするわけにもいかず、空いた状態のままにするのも勿体ない。
考えたあげく、銀行への返済も結構重荷になってくることから、しぶしぶリースをすることにした。日本流にいえば大家さんとして部屋を貸すことにしたわけである。家具付きで貸すのか、家具無しで貸すのかと管理会社から問われて、なるほど、ニューヨークでは家具一式をレンタルする業者がいるのも、こういうことなのかと妙に納得した覚えがある。また、家具付きのほうが家賃が高く設定できるという話でもあったが、私の場合は「家具無し」でいくことにした。

ニューヨークでSOHOする夢は、もうこの時点で半分あきらめていた。今ではビザの法的な環境もずいぶんと変わったが、当時は移民専門の弁護士からの情報でも、フリーの立場で編集などの分野で永住権をとることはかなり難しいという情勢だった。現地法人をどう運営していくかもまだ手探りの状態だった。幸いにして、ニューヨーク・タイムズの日曜版に不動産の広告を出すと、テナントはすぐに見つかった。

ここで、またまた、アメリカの契約社会を垣間見ることになった。賃貸契約書は形式的なものではなく、取り決めの細かさには驚いた。
借り手側に子供がいる場合は、貸す側が窓に落下防止のための手すりをつけるかどうかとか、手すりをつけなくて良い場合は借り手の同意書を求めたり、借り手はフローリングの床の何パーセントをカーペットで覆わなければならないとか、とにかく後で問題が発生しないように、すべてを文書で取り決めていく。大型の冷蔵庫や、ガスレンジ、ヒーターなどは大家の責任で設置が義務付けられていた。

家賃は、1989年当時、月1400ドルで、2年毎に6%アップするという条件であった。その後、何人かのテナントの出入りがあったが、1997年には月2045ドルという家賃をいただいていたわけだから、マンハッタンの家賃の高騰ぶりには驚いた。
ちょうどアパートを購入した頃には、既にバブルの兆候があって、しばらくしたらジャパンマネーが怒濤の如くニューヨークの不動産に押し寄せ、あちこちのビルが日本の企業の手に渡り、報道も毎日のようにそれを伝えていた。今となっては夢というか、幻のような出来事でもあった。

次の問題は、経理処理である。現地法人がアパートを所有し、テナントからは家賃がはいってくる。誰か適切な会計処理をしてくれる人を探す必要が出てきた。当初は、サンワ等松青木やアーサーアンダーセンなどの国際的なネットワークを持つ会計法人などにあたってみたが、大企業ならいざ知らず、まだ産声をあげて間もない企業にとっては費用の面でも高く、向こうも商売にならないと思ったのか、応対にももうひとつ積極的ではなく、こちらもなんとなく敷居が高く感じられて、しばらく様子を見ることにして、気にはなりながら、そのまま、ほうりっぱなしにしてしまった。

それから1年を経過する頃になると、米国連邦およびニューヨーク州・ニューヨーク市法人税の申告書が仮の事務所に届き始めた。果てさて、どうしたものかと途方にくれているときに、悪いときには悪いことが重なるものである。バブルの弾ける音が、耳元で聞こえた。今回のアパートを建設したニューヨークの不動産会社が倒産、続いて日本の仲介業者が、突然に会社を整理・清算をしてしまったのだ。
これから、一体どうなっていくのだろう。誰に連絡をとったらいいのだろう。高額な物件を衝動買いしたことを、この時、初めて悔いた。


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