New York七転八倒顛末記その4


ニューヨークに自分の会社が誕生!!

銀行融資も決まり、現地法人の設立の手続きも着々と進んでいく。
約款の内容はどうするのか。役員はどうするのか。所在地はどこにするのか。会社名はどうするのか。ニューヨークの弁護士から続々と航空宅配便で書類が送られてくる。必要事項を書き込み、該当する個所にはサインをして送り返す。アパートの購入手続きも並行して進められていった。

アパートの購入代金の50%は、とりあえず、ドルで手当ができたので、為替リスクを減少させる目的もあって、残りの50%は日本から円をドルに換えて送金することにした。とは言っても、このお金も日本の銀行から融資を受けたお金である。要するに、購入金額のほぼ全額が借金なのである。借金も資産の内などというけれど、自宅は当然のことながら、仕事場も借金で買ったばかりという時に、よくよく思い切ったものである。

1989年2月2日、とうとう自分の会社がニューヨークに設立された。米国ID番号も取得した。資本金は10万ドル。当面は運転資金も必要ないので、アパートの買い付け資金とする。余りにも簡単にニューヨークに自分の会社が出来てしまったことにびっくりしてしまった。アパートを買ったことよりも、会社ができたことのほうに感動した。設立のために要した弁護士の費用は約2,000ドル。これで、今後のニューヨークでの足掛かりになるのであれば、案外と安いものだと思った。

会社ができてしまうと、なんとなく、自分がニューヨーカーの仲間入りをしたような気分になった。どこまで行っても単細胞で浮かれている男には、この後に待ち受ける事件などは、当然ながらこの時点では全く視野に入っていなかった。

アパートの工事も進み、春には竣工の予定と業者は伝えてきた。一度、弁護士とも会っておきたかったので、再度、ニューヨークへ行くことにした。
春休みを利用して長男を連れていった。当時、長男は高校入学を前に、一番のんびりとしていた時期で、多感な年頃の彼にニューヨークがどう映るのかにも大いに興味があった。

結果として、彼はニューヨークに余り良い印象を持たなかった。確かに、それまでの息子の人生で、皮膚の色が違う、目の色が違う、髪の色が違う、話す言葉が違うという、様々な人種の存在する環境の中に身を置いた経験が全く無かったのに加え、当時のニューヨークは治安ももうひとつというところだったから、当然の結果と言えば言えたし、仕方のないことだったのかもしれない。
ただ、せっかくの機会だったにもかかわらず、
そのような恐怖感を拭い去って、その街が持つ特有の魅力を感じる環境を与えてやれなかったことは、その時の息子の年齢を考えると、親としての私の責任が果たせていなかったのかも知れない。このことでは、今も、心のどこかに息子に対しての後ろめたさとして残っている。申し訳なかったな、という気持ちが拭えない。

パークアベニューにあるM弁護士事務所へは、今回は現地側の提携販売会社から、日本人の代表者Yさんが同行してくれた。
今回の設立の手続きをしてくれた担当弁護士は、まだ若手ではあるが、アメリカで生まれ、ご両親の教育方針もあって中学・高校は親元から離れて日本で学び、再びアメリカへ戻りハーバード大学を卒業して、その後、大学院で法学博士の課程を修了したという輝かしい経歴を持つ。彼のこの経験は、今後の弁護士活動の中で、日米の双方の考え方の違いなどが心情的にあるいは論理的にも理解しやすいということなどを考えると、とてもプラスに作用するのではないだろうか。ちなみに、この弁護士事務所のマネージング・パートナーは、彼の父君でもある。

弁護士事務所を訪ねて、いろいろと話をしているうちに、不思議な感覚にとらわれた。窓の外には、ニューヨークのミッドタウンの高層ビルが見えている。
「ここはニューヨークなんだ。自分は、今、ニューヨークに会社を持ち、アパートまで手に入れた。いったい、どこで、どうなってしまったんだろう。こんなに簡単に夢がかなってしまっていいんだろうか」

何もわかっていないうちに、事だけがどんどんと進んでいく。不安が頭をよぎる。そんな心とは裏腹に、笑みだけがひとりでに次から次へとわき出てきて、表情だけはデレ〜と緩みっぱなしとなってしまう。
「至福のひととき、とはこういう瞬間をいうんだろうなあ。違いのわかる男、とは今の自分なんだろうなあ」
のんきに、そんなアホなことを考えながら、バブリーな夢の中にいた。
1週間のニューヨークの旅もアッという間に終わってしまった。



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