事 件




安政の大獄

1858(安政5年)幕府が尊王攘夷運動に対して行った弾圧。

 将軍継承問題と日米就航通商条約という2つの問題に、独断専行で決着をつけた大老井伊直弼は、強引なやり方で尊王攘夷派及び一橋慶喜擁立派の一掃に乗り出した。
 将軍継承問題では徳川家茂を擁す井伊直弼、譜代諸侯と、一橋慶喜を推す島津斉彬、松平慶永、老中阿部正弘、慶喜の父水戸斉昭、将軍のリーダーシップを求める幕府官僚が対立した。 一橋派の松平慶永は橋本左内を京都に送り朝廷から幕府に圧力をかけるように働きかけ、島津斉彬も西郷隆盛を京都へ派遣したが、結果として実質的な内勅を受けるにいたらなかった。そして大老に就いた井伊直弼は徳川慶福を将軍後継者に内定した。
 条約調印問題では、海外の情勢により朝廷の勅許を待つことが出来ず安政5年、条約に調印した。井伊直弼が勅許を受けず条約に調印したことは、一橋派の憤慨を受けたが、直弼は一橋派を断罪し、徳川家定の死により、慶福(家茂)を将軍につけた。
 しかし、攘夷派の志士や尊王派の学者たちは朝廷を動かし井伊ら幕府の決定に対し異論を出させしめ、京都では、尊攘派の勢いが増し幕府としては看過できない状態となった。
 安政5年9月にはいって、幕府は老中間部詮勝を上洛させ朝廷工作に当たらせたが、情勢が好転せず苛立った井伊は、反幕の志士や公卿、学者に弾圧を加えだした。
 弾圧は梅田雲浜の逮捕から始まり吉田松陰、橋本左内らも捕らえられ、その他の志士達にも及んだ。朝廷でも反幕側のものは、退けられたが西郷隆盛を含む志士達は京都を逃げのびた。。
 結果として、一時的に井伊は一橋派の大名、幕臣らを退け、尊王攘夷の志士達を断罪したが、意に反し、水戸藩、薩摩藩を攘夷へ、尊王派の志士達を討幕の道へと駆り立てた。