七夕伝承・日本での起源


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日本への七夕説話の渡来(090219)

弥生時代の銅鐸に西王母が描かれていることから、前漢後期以降に西王母と七夕の説話が徐々に伝わったものと思われます。伝わった経路は、日本に残る七夕・羽衣・竜女説話の伝承経路からみて、「日本人は何処からきたのか?」と言う命題と同じような経路であろうと推測します。

日本で使われた七夕の文字は「たな」は棚、「はた」は機です。7月7日の夜に水上に棚作りをして乙女が機を織る行事があった(何と云うかわかりません)ようです。その乙女を棚機女(タナバタツメ)または乙棚機と云ったそうで、7月7日の夕べの行事であったために「たなばた」に「七夕」の字をあてたそうです。
万葉集では(2029)で初めて、七夕の歌が読まれているようです。

天漢(あまのがわ)梶音聞(かじおときこゆ)孫星(ひこぼしと)
与織女(たなばたつめと)今夕相霜(こよいあふらしも) 

万葉集でたなばたは他に「織女」と書かれておりますが、新古今和歌集では「七夕」となっています。このことから「七夕」の字は平安時代に当てられたものであることがわかります。もともと七夕は盆行事の一環として、祖先の霊を祀る前の禊(みそぎ)の行事でありました。人里離れた水辺の機屋に神の嫁となるべき処女が神を祭って一夜を過ごして、翌日七夕送りをして穢れを神に託して持ちさってもらう祓(はら)えの行事であった。盆に先立つ、物忌みのための祓えでありました。

古事記によりますと、天孫ニニギノミコトが笠沙の浜を歩いていたとき、海辺に八尋殿を建てて中で機を織る美しい機織女を見つけました。衣は魂を包むものとして神聖なもので、霊魂のシンボルとされていました。

また、畑作の収穫祭としてとして七夕を迎えること古来の信仰でもありました。それは麦を中心として粟・稗・芋・豆を主食としていた時代で、米中心の稲作より古く、日本固有の信仰として存在していました。麦の実りを祝い、キュウリやナスなどの成熟を神に感謝したのです。

この祭りのとき、人々は神野乗り物としてキュウリの馬、ナスの牛を七夕に供えました。それがまた盆行事として習合して盆飾りとなり、祖先の乗るキュウリの馬とナスの牛に引き継がれています。

日本固有の畑作の収穫祭と盆迎えの祓えの信仰が中国の星の伝説やキコウデンの風俗とまじり合って、現在のような七夕が成立したものと考えられます
「ねぶた祭り」も七夕の変形であると云われているようです。

参考引用:年中行事を科学する

鹿児島県喜界島での話(090219)

1人の若い牛飼いがいました。姉妹のアムリガー(天降子あむりこ)が天から降りて、泉の傍らの木に「飛羽(とびはね)」を掛けて、水浴をしているところを見つけて、その飛羽の1つを隠したのです。姉は驚いて飛んで天に帰りましたが、妹は牛飼いが飛羽をかえしてくれないので、困ってとうとうその牛飼いの嫁になりました。

数年後二人は、天とうへ親見参(おやけんざん)に行くことになりました。以前の飛羽をつけ夫を抱えて飛びながら「私といつまでも一緒にいたいなら親たちが縦に切れと言うのを横に切りなさい」と約束させました。

天とうではキュウリの季節で、二人にキュウリを取ってきて出したのです。牛飼いが包丁を持っているときに、不意に親が縦に切れと言ったので、うっかりキュウリを縦に切ってしまいました。すると二人の間に川が出来て、天女と牛飼は両岸に分かれてしまいました。その日が7月7日で、その日以来二人は1年に一度、この日ではなくては逢えなくなってしまいました。

    こと座の和名(090219)

琴座の和名は▼熊本地方ではタナバタのオコゲ▼瀬戸内海ではウリバタケ▼香川地方ではウリマナイタ と呼ばれているそうです。
「縦に切れ」の名残でしょうか?。七夕には畑に入ってはいけないと言う話も各地にあるのですが、星座の名称と説話地域が同一であるかの確認がなかなかとれません。

     ☆  タナバタ
    / \
      /   \
     *     *―――――*
        \     \ 
         \ウリバタケ\
          *――――――*

タナバタと有りますのが琴座のベガ、織女星です。その下の5等星の2つの星を合わせて、「織女3星」と言います。この下の2つの星が「タナバタノコドモ」と呼ばれています。更にこの3星にくっついて作れる菱形が「ウリバタケ」と呼ばれるものだそうです。

御伽草子の話の中で、「彦星が川向こうの女性から話を聞きなさい」と言う場面があります。その女性は2人の子供を連れています。


銅鐸に描かれた西王母又は織女(090219>

前述の通り今まで日本は古来から「七夕」に似た風習があったとする記述の本が多かったのですが、前漢後期から後漢前期の中国から、弥生時代の日本へ「七夕」の話が伝わったのではないか、と思わせる銅鐸を見つけました。年代は卑弥呼より200年以上前であると思われます。

桜ヶ丘四号銅鐸 桜ヶ丘五号銅鐸

桜ヶ丘銅鐸の人物が持つ物は「カセ」と呼ばれる糸を巻き取る道具であるそうです。そして、この銅鐸に描かれている人物こそ西王母なのですね。また一番右の図の5号銅鐸の下の部分は「魚」が描かれています。

この絵は当時日本にもたらされた「神獣鏡」に見られるそうです。また銅鐸の中には「カセ」のみが描かている例もあり西王母を象徴的に表しているそうです。また五号銅鐸には臼が描かれており、その右下には臼を搗く二人が描かれています。裏面左横には「ガマ」も描かれています。

この銅鐸を作った工人は恐らく神獣鏡等を見て、「西王母」や「西王母と兎やガマ」の事を理解して、西王母をデフォルメして銅鐸に彫ったのでしょう。また西王母が糸巻きを持っていることから「七夕伝承」も理解していたと思われます。

5号銅鐸の「魚」につきましても、七夕の織女が天の川の側で機織りをすることのデフォルメ(魚は水辺を表している)であろうと思われます。

日本にはもともと七夕の話があったとされている説が多いのですが、この銅鐸を見ると 七夕伝承はやはり伝来したと思いたくなります。


結び(090219)

以上は、私が七夕伝承をNIFTY-ServeのFSPACE16番会議室(星の民話の部屋)で3カ月に渡り調べたものを順番にまとめ直したものです。けして良い出来ではないのですが、七夕伝承の起源を知るには「何を調べれば良いか」の基礎調べ程度の出来だと思います。今までの調べの最大の欠点は、話が繋がっていない事と、機織りの歴史を調べるのを忘れていたことです、 致命的ですね!

(^^;;;

七夕の資料は未だ未だ有るようです。今年の七夕は晴れますように、でもカササギは雨じゃないと

・・(--)


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主な参考文献

★西王母と七夕伝承☆小南一郎著☆平凡社☆全般★

★稲と鳥と太陽の道☆萩原秀三郎著☆大修館書店☆第1部及び第3部

★日中文化研究第9号〜環東シナ海の比較文化☆勉誠社☆第1部

★日本民間伝承の源流「日本基層文化の探究」☆君島久子編☆第2部

★弥生人の鳥獣戯画☆香芝市二上博物館編☆雄山閣☆第4部

★年中行事を「科学」する☆永田久☆日本経済新聞社☆第4部

★中国の科学・世界の名著12☆藪内清著☆中央公論社

その他の参考文献

★楚辞・淮南子・史記・六とう・漢書など古代中国の書
●年中行事覚書○柳田國男著○講談社学術文庫
●昔話の民俗学○桜井徳太郎著○講談社学術文庫
●昔話のコスモロジー○小澤俊夫著○講談社学術文庫
●中国古代の民俗○白川静著○講談社学術文庫
●中国古代の文化○白川静著○講談社学術文庫
●淮南子の思想○金谷治著○講談社学術文庫
●神話の系譜○大林太良著○講談社学術文庫
●神話の話○大林太良著○講談社学術文庫
●星の民俗学○野尻抱影著○講談社学術文庫
●星の神話伝説集○草下英明著○教養文庫
●昔話の考古学○吉田敦彦著○中公新書

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