白夜書房刊「僕にはわからない」のP99、「十年後のお楽しみ」の、神戸で占星術師をやっている女の子からのファンレターより、らもさんは金星に魚座を持っているらしい。
情熱的でテレ屋。ロマンチストでもなかなか表現できないタイプで、かなり気が多い面もある、とのこと。
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らもさんのお父さんは歯医者さんでしたが、今の歯医者さんとは違って、キャベツひとつで治療代がわりにするようなことも多く、生活は結構きびしかったらしい。 「愛をひっかけるための釘」の文庫本P193、淡交社版P201「27年以後の光景」より。らもさんは赤ちゃん時代の記憶があるらしい。ダリ画伯も赤ちゃんの記憶があった、という。
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ガロとは、いわずと知れた、青林堂から出ているマンガ雑誌で、原稿料がないことでも有名。「愛をひっかけるための釘」の「神田神保町のこと」によると、氏は小学校にあがる前から漫画を書いていた程のマンガ少年で、白土三平さんをはじめ、ガロにのっているような漫画の作風に憧れ、ガロに投稿をはじめたといいます。

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らもさんが中学の同級生Y君と結成したバンド、ごねさらせ。
「ごねさらせ」とは関西弁で「しんでしまえ」という意味の、最高に悪意をこめた意味なのだそうだ。

キーワード辞典の「ごねさらせ」にジャンプ
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「バンビ」というジャズ喫茶は、PHP研究所版「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」のP146,152-157に登場します。

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「マムシ注意」という看板があるらしい。PHP研究所版「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」のP225に登場します。大阪芸大出身の著名人は他にキッチュこと松尾貴史、世良正則、南河内万歳一座の人々などなど。

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「頭の中がカユいんだ」では、赤ちゃんだったあの子が…とあったこともないのに感慨にふけってしまう私である。「僕にはわからない」の61ページにでてくる、軽トラックに引き込まれたのに奇蹟的に無事だった子もこの子?男の子は23か24才になっているはず。
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文庫本「頭の中がカユいんだ」108ページ、文庫本「中島らものたまらん人々」26ページ、JICC出版局版「獏の食べのこし」185、235ページなどに登場。西川峰子と同じ故郷出身。

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らもさんがレポート用に書いた蚊の目玉に関する文章が気にいられ、その後、お世話になることに。文庫本「ネリモノ広告大全、ちくわ編」P39、「アマニタパンセリナ」P214、双葉社版「変」P11などに登場。

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日広エージェンシー社長
の宮前氏はボクシングで世界大会までいった強者。 (ちなみに私の現在勤めている会社は「○広エージェンシー」)
経理は藤井芙美さん。文庫本「ネリモノ広告大全、ちくわ編」P39、「アマニタパンセリナ」P216、徳間文庫版「頭の中がカユいんだ」P17、「逢う」P46などに登場。

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しかし、丹後半島の久美浜で死にかけたことをきっかけにやめたらしい。
(淡交社版「愛をひっかけるための釘」(生還の味)P75、訊くP160、文庫版「頭の中がカユいんだ」P157、JICC出版局「恋は底ぢから」P78)


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氏がわかぎさんと旗揚げした劇団名。氏は先ごろ座長の座を降りたという。
ガリバー旅行記にでてくる小人の軍隊のことで、
わかぎえふ嬢が小さくて暴力をふるうから付けたらしい
(リリパット・アーミーP156)。

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アル中体験については今夜すべてのバーで--講談社文庫(第13回吉川英治文学新人賞受賞作品)にくわしく描かれています。ちなみにこの入院は50日間続き、ガンマGTPが1000を超え、黄だんがでていたらしい。

氏の生まれて初めての二日酔いは高校の修学旅行、九州の島原のホテルで。
(PHP研究所「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」P78、JICC出版局「獏の食べのこし」P128)

氏はビールはあまり飲まないらしい。日本酒、ウイスキーをよく飲むとみられる。

95年集英社発行「アマニタ・パンセリナ」では「幅五メートル、長さ七メートル、深さ一メートルのプール」(ビールに換算)分の酒を飲んだとあるが、87年から88年に書いたと思われる「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」では「縦三メートル、横幅二メートル、深さ一メートルの水槽一杯分」とある。
つまり、単純に考えると7〜8年間で飲んだ酒の量は29立法メートル?
(それって一升瓶でいうと何本?誰か教えて。)

ちなみに95年から断酒を続けているらしい。 「水に似た感情」P225では「縦七メートル、横五メートル、深さ一メートルのプール」の酒を飲んだとある。


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双葉社版「空からぎろちん」(コピーライター・平賀源内)のP134より。「微笑家族」のあとがきによると、氏が最後にコピーを作ったのは、単行本『オバタリアン』のポスターコピー「おばんです」だと思われる。
「微笑家族」のあとがきは1991年7月に書かれたものであるが、氏はこのときにはまだ看板をおろす決意はしていない。「ザ・ビッグマン」という雑誌の、同年11月号に掲載された「コピーライター・平賀源内」(『空からぎろちん』に収録)というエッセイの中で、「この夏から僕はコピーライターの看板をおろすことにした。」と書いているので、「微笑家族」のあとがきを書いた後1か月くらいで決意したと思われる。
*しかし、その後こんなメールをいただいたので、ここに紹介します。
--------------------------引用---------------------------
「2、3年前に映画「キャプテン・スーパーマーケット」の新聞広告でらも氏のコピーを見ました。この映画は(既にご存知かも知れませんが)らも氏の好きなサム・ライミ監督の「死霊のはらわた」の3作目にあたる作品です。その新聞を保管してませんが、”プッ”と笑った記憶があるので、まず間違い無いと思います。
「ライミちゃん!またこんなもの作って。お母さんはもう許しませんからね!」 というものです。」
-------------------------引用終わり------------------------
と、いうわけで、最後の仕事はおそらくこの映画のコピーということになりますね。(もし、ほかにも知ってる方がおりましたらメールください)


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講談社版「ビジネス・ナンセンス事典」P22にも鬱病について書かれているところをみると、これがはじめてではないらしい。


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講談社版「訊く」で先生と対談しています。集英社「アマニタ・パンセリナ」でもこのときのことが書かれています。P221)


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たぶんこのころゴンチチのチチ松村さんと(小説「水に似た感情」の取材も兼ねて?)バリ島旅行に行って、チチさんに大分迷惑をかけたようなことをチチさんのエッセイ(日本信販の会報での連載)で読んだ記憶があるが、さだかではない。


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