■セブンアイ
 
「ミセス谷」


 努力でかなわないことなんてないと思います。

 入学式直前、桜の咲く校舎の片隅で、まだ15歳の少女がそう言い切った言葉と、力強さというものに、私はしばらくあ然としていたと思う。あの日から、田村亮子(トヨタ自動車)は「YAWARA」となり、今はミセス谷として柔の道を走り続け、10日、ついに体重別選手権(横浜)で大会の半分にあたる14回目の優勝を果たすことになった。

 インフルエンザによる高熱、練習中に指のじん帯を痛め練習ができなかったこと、何よりもアテネ五輪を終えた今、勝利への意欲さえ消えかけていたとしても、何の不思議もない。谷本人が言う「どん底の状態」で、指導で何とか逃げ切った優勝は、衰えや限界、と捉えることもできるであろうし、その中でも勝利をつかんだ巧者ぶりを際立たせるものであったかもしれない。しかし、私には少し違った。彼女が初めて何かを諦め、張り詰めた力をふと抜いて手にした勝利のように見えたから。何かを受け入れる優しさや、自分の努力だけではどうにもならない困難をかみ締めているようにも見えたから。

「自分のことだけならどんな痛みや苦しさにも耐えられたんですが、今回は、彼もケガをして苦しんでいた。五輪であんなに支えてもらったのだから、今度は私の番のはずなのに……。そばにいて助けられないまま畳に上がることを決断するのは辛かった。今ある力で負けたら、それも仕方がないと諦めました」

 試合を終え、V7がかかる世界選手権(9月、カイロ)代表に選ばれた後、私たちは彼女の迎えの車へとゆっくり歩きながら話をした。体調が上がらなかった本当の理由は、もしかするともうひとつの「ケガ」にあった。夫・谷 佳知(オリックス)が脇腹を痛めて欠場していたことである。競技に打ち込むゆえ、離れて暮す時間の長い夫婦にとって、ケガは互いを思いやる深い絆でもある。

 女性として、本当は自分の柔道よりも、ケガに苦しむ夫の近くで支えになりたかった、でももうそれはできない立場ですから、と谷が話すのを隣で聞きながら、鮮やかな一本勝ちはなかったが、なぜかどんな勝利よりも深く心を打たれたように思った。
「苦しい中、7連覇へつないだね」私は言った。
「畳に立たせてくれる彼のために、もっと強く……」。谷の目は真っ赤だった。

(東京中日スポーツ・2005.4.15より再録)

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