昭和63年に掲載された投稿

 

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このページでは、昭和63年
(1988年)に北海道新聞などに掲載された Yoko Amakata の
投稿記事を紹介します。各タイトルの一覧に引き続き、その内容全体をご覧いただけます。
文責:Yoko Amakata、 代筆:Kazuki Amakata

●昭和63年(1988年)の投稿は、計17件が新聞などに採用・掲載されました●

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遅れたが大感激幼き日のサンタ(昭和63年12月26日 北海道新聞「読者の声」より)
英語劇/AN ENGLISH PLAY(昭和63年12月25日 北海道新聞「いずみ」より)
十代の投書増え読むのが楽しみ(昭和63年12月3日 北海道新聞「読者の声」より)
外国人呼ぶ時は姓と名の両方を(昭和63年12月21日 北海道新聞「読者の声」より)
異様な不気味さ黒い家具の流行(昭和63年11月10日 北海道新聞「読者の声」より)
都市開発の犠牲姿消す緑に憤り(昭和63年10月30日 北海道新聞「読者の声」より)
頭の体操に最適「高校進学教室」(昭和63年10月19日 北海道新聞「読者の声」より)
金髪の美少女が教えてくれた味(昭和63年9月11日 北海道新聞 読者の声テーマ:「私の手料理」より)
南アに帰国した友人一家を思う(昭和63年8月26日 北海道新聞「読者の声」より)
「イガー、イガー」イカ売り懐かし(昭和63年8月11日 北海道新聞「読者の声」より)
中国女子留学生家族として歓待(昭和63年7月6日 北海道新聞「読者の声」より)
見習ってほしい京都のタクシー(昭和63年5月17日 北海道新聞「読者の声」より)
思いやりの心にただ涙    (昭和63年5月6日 北海道新聞「放送みてきいて」より)
朝寝坊に気を付ける     (昭和63年4月6日 北海道新聞「いずみ」より)
横断終えるまで待った運転手ら(昭和63年3月29日 北海道新聞「読者の声」より)
ムツゴロウさんに脱帽   (昭和63年1月16日 北海道新聞「放送みてきいて」より)
声の初便り         (昭和63年1月4日 北海道新聞「いずみ」より)

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遅れたが大感激幼き日のサンタ(北海道新聞 昭和63年12月26日「読者の声」に掲載)

クリスマスが過ぎたがサンタクロースが忙しくてプレゼントが翌日になった人もいたであろう。また、かなりの遅れでくる家があるかもしれない。私が幼いころ、大きな煙突がなくて困ったと本気で心配し、母に打ちあけると「煙突がない家は窓からだってちゃーんと入ってきてくれるんだよ」。そんな母の言葉にとても安心した。

クリスマスの夜、窓の下にひそかに靴下を置いて寝たが、翌朝は何も無かった。がっかりしたが「サンタは忙しかったのだ。子供が多いから一晩では無理だけど、いつかきっときてくれるに違いない」と自分に言い聞かせた。サンタはかなり遅れたがちゃんとやってきた。

ある朝、明るい母の声で四人の子供は次々と起こされ、ねぼけた目を開けるとまくら元にすてきなプレゼントがあるではないか。美しい絵本にアメや洋服もあった。その時「あっ、これがサンタクロースからのプレゼントかもしれない」と思って、うれしくて天にも昇る気持ちだった。当時、中国の鉄道に単身赴任していた父が突然に帰国したのであった。

たとえどんなに遅れようとも、サンタクロースの限りなく優しい心に変わりはないと思った。

英語劇/AN ENGLISH PLAY(北海道新聞 昭和63年12月25日「いずみ」に掲載)

早いものであれからもう一年が過ぎた。アルバムを広げ、昨年のクリスマスの楽しかったことを思いだすと、ひとりでに顔がほころんでくる。何しろ教会の英語劇で私がマリアを演じたのだ。

五十歳を過ぎたマリアなんて、本当の聖母に申し訳ないが、でもヨゼフ役のSさんだって六十代のお父さんだった。高校生のTちゃんやMちゃんはエンゼル役にぴったり。ナレーターは若者のTさんで、旅館の主人役のOさんと羊飼い役のKさんはOLの若い女性だった。小さな教会でひっそりと英語の勉強をしていた性別も年齢もさまざまの仲間たちが、クリスマスの夜にイエス・キリストの降誕を祝って英語劇でハッスルした。

このすばらしい聖夜の劇も観客なしでは始まらない。その夜、各自が先生のお達しで観客用の友達を連れてきて興奮のうちに開幕した。白いシーツや唐草模様のふろしきをかぶったり、頭に輪を乗せたり、ロングスカートやナイトガウンまで使って当時の服装を再現し、首尾は上々。家事の合間に一人ひそかに暗記したかいがあった。

処女マリアの「アイアム・バージン」というセリフは、二人の子持ちの私には少し厚かましかったが仕方がなかった。精いっぱい頑張ったあの時、感動でむかえた閉幕の瞬間。打ち込んで一つのことをなし得たこころよさ。写真を見ていると感動が再びよみがえってくる。あのクリスマスの夜は平凡な日々の中でもっとも満ち足りたすてきなものだった。

How quickly time passes! One year has passed since last Christmas. When I opened my album, I remembered the pleasant time and I began to smile to myself. I smiled to think that I at over 50 years old should play the part of the Virgin Mary.

But Kindergarten Principal Mr. Shimizu played Joseph and he is a father in his 60's. Miss T. and Miss M. played the part of angels perfectly. They are high school students. The narrator was young Mr. T., and the parts of the shepherd and innkeeper were played by two young ladies, Miss O. and Miss K.. They are office workers. We have been studying English together in the small church. Although male and female and so different in age, etc. we took part together in this English play celebrating the birth of Christ.

It was made a sacred and wonderful evening by the presence of the audience who gathered. Our teacher had gone to much trouble to inviting many friends to come and see the play. And with great excitement the play commenced. We used while sheets, "furoshikis", ties around our heads, long skirts, nightgowns, etc. - all to dress like the people of long ago.

I had memorized well my part while doing my housework. To say, "I am a virgin" did not seem appropriate as I have 2 children of my own. I was filled with emotion as I tried hard to do my part well. And in recalling that time, I still have deep feelings of emotion as I remember how wonderfull the experience was.

The memory of that Christmas has stayed with me during the year in my everyday life, and was truly a beautyfull and fulfilling experience for me.

十代の投書増え読むのが楽しみ(北海道新聞 昭和63年12月3日「読者の声」に掲載)

最近この欄を広げて目を見張るのは、中学生、高校生をはじめ十代の人たちの投書が増えてきたことである。これは若い人たちいかに毎日の新聞をしっかりと読み、世の中の出来事に良く目を向けているかという表れであり、非常に喜ばしいと思っている。

ちょうど二年前、この欄が十代の投書でいっぱいになることを望んだ若者からの文が載り、私もいっぱいとまでいかなくても、もう少し増えてほしいと書いた。あのころ、時折見つける十代の投稿は、きらめく星のように素晴らしく思った。胸にひびき心に残った。その星たちが輝きも光も大きくなって、ほとんど毎日この欄に登場し、多い時は一日に三人も四人も座を占めている。

政治や教育問題、高齢化社会や障害者問題、それに自然の大切さや人間らしさについてなど、若い新鮮な頭で素直に考え、活発に意見を発表している。そんな文を何度も読み、味わって、感心したり驚いたり。これからの日本を背負って立つ若者たちの前進を見る思いである。十代の皆さん! 大いに羽ばたき、健やかにたくましく伸びて下さい。

外国人呼ぶ時は姓と名の両方を(北海道新聞 昭和63年12月21日「読者の声」に掲載)

以前銀行で、近くに住む外人の友達に会った。順番を待っている間に彼女はこんな話をしてくれた。「時々銀行に来るけどね。とても恥ずかしい時があるの。」どんなことかと思ったら、大勢の客の前でファーストネームだけで多いからだそうだ。日本人でも例えば、「花子さーん」などと名字なしの名だけを呼ばれたとしたら嫌ではないかしら、とも言っていた。

しかし外人の場合は、日本人とは逆に名が先にきて名字が後にくるから区別がつきにくい点を挙げると、「それなら全部つないで呼んでほしい」と言って、仕方がないという表情で苦笑した。たいした問題ではないような小さなことだけど、外国の人によっては不愉快なこともあるのだと初めて知った。

そんな不快感は国に持ち帰ってほしくない。日本が住み良い国であるように、良き隣人として出来るだけのことをして挙げたい。国際化社会の架け橋にもなるように、銀行や役所その他の窓口の係りの人は人の名前をフルネームで呼んであげ、日本のイメージアップにつなげたい。

異様な不気味さ黒い家具の流行(昭和63年11月10日 北海道新聞「読者の声」に掲載

今年流行したものと言えば、真っ先に思い浮かぶのが黒い色の家具である。半年ほど前、テレビに次から次へと映し出される黒い洋服ダンスや和ダンスを始めてみたとき、あまりの黒さに何やら異様な不気味さを感じて、ドキッとしてしまった。「今、黒い家具が静かなブームを呼んでいます」と説明が流れたが、私は正直いってあまり好きにはなれなかった。

ところがその後も新聞のちらしなどを注意してみると、黒いのは家具ばかりか冷蔵庫、炊飯器からふろや台所の小物に至るまで、まさに黒のオンパレードである。これらを眺めながらふと考えてしまった。もし、黒ずくめの家庭で子供が育ったとして、自然の美しい色や優しい色とともに成長した子供と比べて、性格その他にどんな違いが
現れるであろうか・・・と。

家庭には明るい色、暖かい色が似合い、人間には美しい色、優しい色がふさわしい気がする。そんな中で人々の心も優しくはぐくまれ、血なまぐさい事件も起きないのではないだろうか。「病気には必ず前ぶれがあるのです」と言った医者の言葉を思うにつけ、昔はとうてい考えられなかった範囲の黒の流行に、社会の病気を憂えるのは考え過ぎであろうか。

都市開発の犠牲姿消す緑に憤り(昭和63年10月30日 北海道新聞「読者の声」に掲載)

「緑は一体だれのものなのでしょうか」という十四日のこの欄の伊藤さんの考えに、私も全く同感です。伊藤さんは、河川改修工事のために見慣れたシラカバやコブシの大木が次々といとも簡単に切り倒され、姿を消していくのを見て、悲しみと同時に大きな憤りと悔しさを覚えたそうですが、私も読んでいくうちに人間の都合で犠牲になった木々の悲しみの声が聞こえてくるようで胸が痛みました。いくら都市開発が進んでも、同時にどんどん緑が失われ殺伐とした世の中になったかと思うとぞっとします。

ところで、札幌の姉妹都市ポートランドは緑多い美しい街で知られています。全アメリカのアンケートで、「住んで
みたい街のナンバーワン」に選ばれたのもうなずけます。日本も命ある緑を愛し、いたわり、うるおいのある街づくりを心がけ、どの街も人々から「住んでみたい街のナンバーワン」と言われるようになったら素晴らしいな、と思います。

頭の体操に最適「高校進学教室」(昭和63年10月19日 北海道新聞「読者の声」に掲載)

新聞といえば楽しみなのが夕刊の「高校進学教室」である。金曜日が待ち遠しいくらいだ。少々さびついてきた私の頭には難しすぎるが、頭の体操にと休まず頑張っている。

先日の理科は複雑な電流や電圧の問題。社会は年表について。数学はxとyが交じった方程式や不等式。好きな国語は志賀直哉の「暗夜行路」からの長文であった。結婚以来30年が過ぎ、はるか忘却の彼方へと埋もれてしまった英語は家の商売のかたわらABCからやり直した。

そして今年の夏、生まれて初めての英検に挑戦し三級に合格した。年を取ってからの合格は何とうれしいものだろう。家族や私の姉妹たちも心から喜んでくれた。これも継続してきたお陰と、送られてきた合格証書を見ながらしみじみと喜びをかみしめた。今度は漢字検定をもと闘志を燃やしている。戦中戦後のどさくさ時代にやり残したような気がする勉強を新聞の「高校進学教室」で頑張っている今が、私の青春である。

金髪の美少女が教えてくれた味
(昭和63年9月11日 北海道新聞 読者の声テーマ:「私の手料理」
に掲載)

あれほどに燃えた夏があっただろうか。何しろ姉妹都市ポートランドから高校生が我が家に民泊することになったのだ。前代未聞のことに家族一同、不安と期待の入り交じった複雑な気持ちでその日を迎えた。金髪の美少女キャサリンが家族の一員になった時、一番心配したのが食事であった。喜んでもらえるようにと献立に苦心したが、「日本食に挑戦するのが楽しみ」と、何でも興味を持って残さず食べてくれたからうれしかった。

ある朝、彼女は笑いながら言った。「今日は私が手料理を作るわ。皆はお客さんよ」。たまごを割って牛乳でのばし、それに食パンを浸してバターでこんがり焼いたフレンチトースト。これが青い目のキャサリンの手料理であった。シロップをかけ、少し気取ってナイフとフォークで食べたが、アメリカ仕込みだけあってそのおいしかったこと。今も忘れられない。以来みんなの好物になった。もう、あれから七年も過ぎてしまったなんて、夢のような気がする。

南アに帰国した友人一家を思う(昭和63年8月26日 北海道新聞「読者の声」に掲載)

宣教師をしている南アフリカの友人一家が五日、彼らの母国へと旅立った。アパルトヘイト(人種隔離政策)で揺れるまっただ中への帰国である。出発の直前、我が家でジンギスカンなべを囲み心ばかりの別れの会をしたが、話題はやっぱりそのことにも及んだ。その日、テレビのニュースでも南アの動乱があったことを告げると、顔をくもらせていた。

友人は、こんな話をした。「心配なのは子供たちのことです。平和な日本に住み、毎日大勢の優しい人々、心温かい人々の中で心配なく幸せに暮らしてきました。今、南アでは一歩家を出ると、自分の荷物は決して手から離すことはできません。ほんの数分でも離したとたん、アッという間に無くなります。大人は気を付ければ大丈夫ですが、人を疑うことを知らずに成長してきた純真な子供たちに、人を信じられないことも教えなければなりません。私たちにとって、それが問題です。」

とても考えさせられる話であった。やっと物が分かりかけてきた四歳と六歳の二人の子供。汚れのない小さな目で見た自分たちの母国南アの印象はどんなであろうか。布教のため長年過ごした日本のすばらしさをいつまでも忘れないでね、いや忘れるはずはないだろう、と心の中で言いながら見送ったが、今どうしているだろうかと思い出している。

「イガー、イガー」イカ売り懐かし(昭和63年8月11日 北海道新聞「読者の声」に掲載)

最近イカが出回ってきた。スーパーに行くと、黒く光って生きの良いのが売場に並んでいる。最近は近海物も捕れ始めて、値段も去年より二割ほど安くなったとのこと、うれしくなる。函館で生まれ育ったせいか私はイカが大好きで「今日も刺し身に」と、つい手が伸びてしまう。

お金を払えば食べたい物が食べられる現在を幸せでありがたいことだと思いながら買って帰る。手早く皮をむき紙タオルできれいにふきとった透明な身を刻む。わさびよりしょうがじょうゆが一番おいしい。イカ刺し作りの秘けつは水洗いしないことと、よく母から聞かされた。

子供のころに街の裏々に響いたイカ売りのふれ声を今懐かしく思い出す。朝の静寂を破って「イガー、イガー」と、はじけるように元気な売り声が近づいてくると、イカが好物の父のために母が急いでザルを持って外に出て待つ。呼び止められたおじさんが木箱のふたを開けると、捕れたてのイカが生きて並んでいる。「けさはなんぼしてるの?」と母の声が今でも耳に聞こえて、ふと遠い国の両親を思い出した。また函館を訪ねる機会があったら、まず生きのいい”イカ刺し”を食べてみたい。

中国女子留学生家族として歓待(昭和63年7月6日 北海道新聞「読者の声」に掲載)

「オカアサン」と電話口から遠慮がちの声が聞こえた。聞き慣れぬ女性の声にはて? と思った。家族以外にお母さんと呼んでくれる人がいたかしらと、頭の中でめまぐるしく考えた末にやっと気がついた。昨夜あるパーティーで偶然隣り合わせた中国の女子留学生Sさんであった。

「奥さん」と呼んだ方がいいよと教えたけれど、彼女は呼び方を変えなかった。私も、お母さんと呼ばれても結構だ、と思い直した。「実は用事はありません。お会いしたいのです」と、はじめてわが家を訪ねてきた彼女。夫は笑いながら「今日からあんたはうちの娘だ。いつでも遠慮なく遊びにおいで」と歓迎した。

「日本のお父さんとお母さんに中国の料理を作ってあげたい」と、彼女もうちの娘になり切っている。解放したわが家の台所で、新米の娘は喜々として粉をこね、器用にギョウザを作った。次は何を作ろうかと、うれしそうに帰って行った姿を見送りながら、遠い中国で案じているであろう彼女の両親や家族を思い浮かべた。子を思う気持ちは皆同じだ。北大での三年間の勉強を頑張ってほしい、と祈っている。

見習ってほしい京都のタクシー(昭和63年5月17日 北海道新聞「読者の声」に掲載)

タクシーを利用するたびに思うことがある。それは、行き先さえ聞かない無言の運転手が多いことである。これを嘆いたら先日、息子が興味深い話を聞かせてくれた。彼の住んでいる京都市内のあるタクシー会社では、客を乗せたら必ず「毎度ご乗車ありがとうございます。こちらは○○タクシーです」と言うそうである。運転手が、もしこれを言い忘れた場合には、何とタクシー代が無料になるとのこと。

ユニークなPRに、思わず笑ってしまった。しかし考えてみると、無料になるチャンスはないように思われる。心から感謝の気持ちで客に接すれば、あいさつは自然に出てくるものではないだろうか。客を大切にしているからこそ言い忘れはあり得ない。そんな気持ちを込めて、このタクシー会社は胸を張ってPRしているように思った。

これからのシーズンは観光客も増えてくる。百六十万都市札幌のイメージアップにつながるように、明るくさわやかなタクシーが行き交う街にしたい。

思いやりの心にただ涙(昭和63年5月6日 北海道新聞「放送みてきいて」に掲載)

四月二十五日夜のNHK特集「かぎりなくやさしい日々のために」を見た。不慮の事故で手足の自由を失ってしまった星野さんが、口に筆をくわえて詩や絵をかいていた。そして「もし神様が一度だけこの腕を動かしてくれたなら、お母さんの肩をたたこう」との場面では、涙があふれてテレビがかすんでしまった。車いすでの彼の努力の姿に感動したが、一から十まで笑顔で介助する奥さんの姿も神様のように神々しく見えた。

朝寝坊に気を付ける(昭和63年4月6日 北海道新聞「いずみ」に掲載)

「もう主人も年ですからね。朝いつもの時間に起きてこないと、本当に心配になるんですよ」と、得意先の奥さんが電話口で言うのを聞いて全く同感だった。ひどく疲れて眠り込んだ夫が、いつもの時間になっても起きてくる気配がない時など、とても心配になる。

そっと様子を見に行き、寝息を確かめるとホッとする。年を重ねるごとに心配度はつのる。一番大切な人だからこそ、妻としては何かと気にかかるのである。「たばこは控えめにね」とか、「運転には十分気をつけてね」と、毎朝夫を見送るのだが、いつも大切な人の答えは同じ。まるで物まねオームのように、「おれは大丈夫だ」と言って笑う。

夕食後のひととき、妻が案じる夫の健康について話がはずんだ。「父さんにはいつまでも、健康で長生きしてほしいから心配するのよ」と、大まじめで言うと、そばで聞いていた娘が笑いながら言った。「朝いつもの時間に母さんが起きてこない時、心配でたまらなかったよ」。時たま朝寝坊する私のことを、娘が心配していたのだと知り、ハッとした。

考えてみると、心配してくれる人が居るということは、何と素晴らしいことだろう。「さあ、明日は朝寝坊しないように気を付けなくちゃ」と、腰を上げたら、「おれは大丈夫だ!」と、またわが家のオームの声が聞こえた。

横断終えるまで待った運転手ら(昭和63年3月29日 北海道新聞「読者の声」に掲載)

過日、買い物帰りで急いでいると、横断歩道を渡ろうとしているお年寄りが目に入った。つえにすがりながら必死に渡り始めた姿を見ると、足が不自由な様子で歩行がなかなかはかどらない。両側には二、三台ずつの車が青信号に変わるのを今や遅しと待ち構えている。この光景にハラハラして、思わず「早く!」と心の中で叫んだが、無情にも信号は、その人が横断歩道の中ほどまでたどり着いた時に青に変わってしまった。

危ない! と思った瞬間、予期せぬことが起こった。どの車も全く動き出す気配がない。静かだった。みんな車の窓から、その人が渡り終わるのをジッと見守っているではないか。こんな時には、早く行けとばかりクラクションを鳴らされるのが常だから「待ってくれたのだ」と思ったら、ホッとして全身の力が抜けた。そのお年寄りが渡り終わったのを見届け、車は安心したように次々と走り去った。

先を争って追い越していく車が多い中で、心温まる光景を目にし、何ともさわやかだった。帰宅後夫に話したら、「もしも片側の車が待ちきれずに発車すれば、渡り終わるのを待っている側の車はイライラするし、事故が起きやすい」と運転者の心理を説明してくれた。一歩間違えば事故にもなりかねないあの場面。運転者たちの思いやりとマナーの立派さに心から拍手を送りたい。

息子の背中(昭和63年2月11日 北海道新聞「いずみ」に掲載)

遠い昔、私の背中でかわいく眠っていた息子も、見上げるほどに成長した。昨年の夏以来まだ会っていないが、大学の休みに帰省したあの日、何を思ったか背中を向け「おんぶしよう」と言った。

私は彼の申し出を素直に受けて、ひょいとおぶさった。体操クラブで鍛えただけあって、ポパイのように筋肉たくましくなった息子。私の方はだんだん縮んでいくような気がして、寂しさが脳裏をかすめた。毎朝ラジオ体操に精を出しているが、枯れ木は若木にかなうはずがない。そんな枯れ木の心も知らずに、彼は大笑いで私を背に乗せたまま「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」と口ずさみながら部屋の中を回り歩いた。

親を背に息子は何を思ったのだろうか。石川啄木の歌に事寄せて、久しぶりに会った母の身を案じてくれたに違いない。私は一瞬の幸せの中に身をゆだね、そっと目をとじた。幼いころのさまざまな思い出が走馬燈のように頭の中を駆け巡り、月日の流れの速さに感無量だった。

この若木もいつか社会に根を下ろし、枝を広げる日がくるだろう。何事にもくじけず、たくさんの人生経験を糧として、立派な大樹になるよう努力してほしい。私も今年はあることに挑戦しようと年頭に誓いをたて、今勉強中である。母さんも将来、おまえの背中で本当のお荷物とならぬよう頑張るつもりだよ。三歩で泣かせないようにね。

ムツゴロウさんに脱帽(昭和63年1月16日 北海道新聞「放送みてきいて」に掲載)

七日夜の「新春ムツゴロウとゆかいな仲間」を見た。未知の民族と言葉が通じなくても似顔絵や物まねで仲良しになったり、自分の乗馬靴と相手の古い靴とを交換して心を分かち合ったり、そんなムツゴロウさんの姿に感心した。常に好奇心をもって何事にも挑戦する心の若々しさ。珍種の馬に乗せてもらった時の興奮ぶりを見ていて胸が熱くなった。動物の身になって愛情を注ぐムツゴロウさんに脱帽した。

声の初便り(昭和63年1月4日 北海道新聞「いずみ」に掲載)

遠くに住む妹に、新春初便りをつくった。正確に言うと、初便りを録音したということになる。十二月初めのいずみ欄で「声の手紙」を読んで以来、電話代不要のテープの便りに初挑戦とあいなった。テープレコーダーの前に座り、さて録音となると、おかしなもので少々緊張する。

話したいことが山ほどあったはずなのに、ハテ何を話そうかとつまってしまったが、お正月らしく大いに笑って楽しんでもらえるよう気配りした。はじめはわが家で大笑いした出来事の数々を、中村メイコの七色の声よろしく、一人何役もの声色でコメント風に吹き込んだ。次は、最近読んで感動した本「鈴の鳴る道」の一部を少しきどって朗読。そのあとは、覚えたばかりの歌を三曲歌った。何しろ、ぶっつけ本番の独唱だったから、途中で声が上ずってせきが出たが「アーラ、失礼」と言ってそのまま続けて歌った。

最後は、あれこれと思いつくがまま楽しい一人おしゃべり。一方通行だが、とっておきの話題で結構楽しかった。巻き戻して聞いてみると、なかなかの出来栄えで、ところどころ、とてもおかしかった。それと、妹の声にもそっ
くりなのにも、改めて驚いた。家事の合間に、少しずつ吹き込んだこのテープを聞いて、笑って
いる妹一家のだんらんぶりを想像しながら、弾む心で荷づくりをした。

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