.


1996年7月20日

過去の雑誌をひっくり返してきて、スキャナで読みとりました。ソフトのレベルがあがってきましたね。実質で9割以上は読んで
くれますね。
1987年の作品です。今読み返してみると、法律行政関係は本当にいっぱい改正されましたね。
もし、現在版に書き直すとしたら一から書き直さなければならないほど状況が変わったですね。
ただし、考え方はある程度生きている気はしますけど...
いかがですか

 障害者の自立生活について一特に重度精神薄弱者等に焦点を当てて一

1.はじめに

 1981年の国際障害者年と、それに続く「障害者の10年」という一連の流れの
中で、障害者福祉に関する理念や施策は大きく展開しつつあるといわれる。
 しかし、その内容を見たとき 「障害者の福祉」という言葉が、実質的には
「身体障害者の福祉」のことを指している場合が多いように思われる。
 国際障害者年行動計画(1980)では、「今日、多くの人々は、障害とは『人
体の物理的動作の支障』と等しいと考えている。」が、それは誤りであり精神
薄弱者や精神病者その他を含むものであると指摘している。その上で、「国際
障害者年の重要目的の一つは障害とは何か、それはどのような問題をもたらす
かについての公衆の理解を促進するものでなけれぱならない。」と述べている。
この伏況は中間年を終えた今日も、日本においてはさほど変化したようには思
えない。
 本稿は、精神薄弱者問題への取り組みが、身体障害者対策より遅れていると
いう問題意識を背景に持つ。そしてそのことが、最近ブームともいえる状況に
ある障害者の自立生活を求める動きにも影響を与えていると考えられるので、
精神薄弱者等をも含めた障害者の自立論議への位置づけを目指そうとするもの
である。

2.精神薄弱者対策の遅れ

 一口に障害者福祉といっても、精神薄弱と身体障害とでは、その対策の現状
は相当に違っているのが実状である。
 ここでは、精神薄弱者対策が身体障害者のそれと比べて、遅れていることを
いくつかの事実の指摘を持って明らかにしていきたい。なぜなら「障害者の自
立生話」という言葉で、一般的には一括されている自立生活論が、精神薄弱者
(特に重度の者)にとってあまり意味を持つものでない場合が多いのは、まさ
に障害者=身体障害者といった図式が自立生活論議にも影響していると考えら
れるからである。
 問題の第一は、定義に関してである。身体障害者については身体障害者福祉
法別表にその種別・程度などが詳細に定められている。もちろん、この別表自
体が並列的でしかも限定的であることや、医学的損傷度(Impairment)
や能力不全度(Disability)に障害等級が対応しており、 日常生活
における社会的不利(Handicap)対応していないことなど限界点は指
摘されている。しかし、身体障害者に関する基本法において、その対象規定が
明確に行なわれていることは、(改善の必要はあるにしろ)意義があるといえ
よう。
 それに対して、精神薄弱者福祉法は法の対象者の規定を行なっていない。そ
の理由としては、精神薄弱の判定方法及び判定基準に確立されたものがないこ
とと、無理に定義をすることにより援助の対象が狭められるより、定義を欠い
ても多くの者が援助を受けることの方が望ましい、という二つの理由があげら
れている(注1)。
 しかし、法制定以降、20数年を経て精神薄弱に関する研究も進んできてい
る。にもかかわらず、未だに基本法である精神薄弱者福祉法中に精神薄弱者の
定義はみられず、自治体レベルでの「療育手帳制度」に行政施策の実施基準を
頼っている現伏である。国としての精神薄弱者問題への取り組みの弱さの現れ
といえよう。
 二つめは、行政管轄及び審議会の問題である。身体章害者福祉は厚生省社会
局の管轄であり、身体障害者福祉審議会が厚生大臣の諮問に答えあるいは意見
を具申する機関として存在する。一方、精神薄弱者福祉審議会は存在せず児童
福祉審議会の中の一部会に吸収され、管轄も児童家庭局となっている。
 ここで注目すべきことは、元来仕会局管轄であり、しかも精神薄弱者福祉審
議会が設置されていたものが、1965年に官轄移管、1969年に審議会の
廃止が実施されているということである。当局者の説明によると「児・者一元
化」がその理由にあげられている。しかし、実際には、第一次臨調下の行政簡
素化による審議会の整理等の動きがより大きな理由であったという(注2)。
また、児・者一元化の問題にしろ、 18歳で障害児と障害者に二分しきれな
いのは事実であるが、それを児童福社に一本化することの是非は別である。身
体障害者に関してこのような一本化がおこなわれていないことからしても、精
神薄弱者に関する軽視、子供扱いがあるという批判を受けてもやむを得ないで
あろう。
 第3に、労働行政の範囲ではあるが「身体障害者雇用促進法」の問題があ
る。精神薄弱者のための雇用促進法がないという従来からの指摘に対して、本
法は制定以来約30年を経た1988年4月1日から、「障害者の雇用の促進
等に関する法律」と改称されることとなった。しかし、その内容は「精神薄弱
者もその障害の程度を間わず身体障害者に柏当するものとしてカウントできる
こと」にとどまり、精神薄弱者の雇用に関しては義務化されていない。「身体
障害者と同様にカウントできること」というとらえ方自体に、問題性を指摘す
ることは容易であり、本質的な解決とはなっていないことは明かであろう。
 以上、簡単に精神薄弱者対策の遅れについていくつか指摘したが、このよう
な行政の遅れは、すなわち世間における精神薄弱者に対する理解の低さの原因
でもあり結果でもあると考えられる。そして、障害者の自立生活を論じていく
に当たっても「障害者」という言葉が「身体障害者」という言葉と置き換える
ことによってのみ成立する自立論なのか、精神薄弱者をも含み込み得る「障害
者自立論」なのかという問題は意識されなければならない点であろう。以下で
は、そのことを意識した上での論議を展開していきたい。

3.障害者の自立生活について

 障害者の「自立」または「自立生活」は、障害者問題に関わるものにとって
今、最も関心のあるテーマとなってきている。しかし、その概念は論者によっ
て多義に解釈されており、論議にあたっての共通基盤といえるようなものはな
い。確かに現時点において概念の一本化が出来る状況ではないし、また無理に
するべきかどうかにも疑問はある。しかし、自立を論じる者同士が互いに異な
った理解を「自立」という語に対してもち、論議しているとすれば不毛の議論
としかならないであろう。現在障害者の自立生活という言葉がどのような意味
において用いられることがあるのかについて整理しておくことは、立場の違う
者同士の論議を深めていくためにも必要不可欠な作業であると思われる。
 そこで、本章では筆者の知る範囲での自立生活論(観)を便宜的に5つに分
類し、以下に簡単に説明しつつ検討していきたい。

 (1)健常志向の自立論 この考え方は古くからあり、ある意味では最も一般的な考え方ともいえる。
基本的には、「自立」を他者への依存からの脱却であるとし、同時に人間にと
っての義務であるとする考え方である。この立場からすれば、親の介護や地域
住民の援助、また生活保護等の公的援助や施設入所といった、なんらかの形で
の公私の援助を受けている状態は非自立状態ということになる。従ってこの考
え方からは、「非自立状態から自立状態へ」という課題(方向性)が導き出さ
れてくる。そして、その課題を達成していくのは、自立できていない(すなわ
ち公私の援助を受けている)障害者本人の責任ということになり、社会的責任
はあくまでも二義的なものということになる。その上で「自立不可能な者」
「目立困難な者」のみを、援助するということになる。
 このような立場は具体的に法や通達の条文上に明らかにされている。例えば
「心身障害者対策基本法」(1970)の第6条・第11条や、社会局長通知
の「盲人ホームの運営について」(1962)等をみると行政主体の「自立」
に関する考え方が明らかになってくる。
 それは、障害者は自らの能力を最大限に発揮し「自立」していく義務があ
る。そして、重度の障害者等自立の出来ないものだけは保護していく。しか
し、施設入所などの保護が長期にわたることは自立の妨げになる。といった考
え方である。
 ところで、広辞苑(第3版)によれぱ、「自立」の意味を第一に「他の力に
よらず自分の力で身を立てること。ひとりだち」としており、以上の自立観と
重なっている。すなわちここで述べた立場は、障害者福祉における理念的なも
のであるというよりは、社会一般における常識的自立観であることがわかる。
そして、それだけにこの考え方は理解しやすく、福祉関係者や親など多くの支
特を現に受けている。
 しかし、理念的には、いくつかの問題を持つ自立観である。具体的には、健
常者を理想として目指すこの考え方では、重度の障害者を自立できないものと
して切り捨てざるを得ず、中・軽度者のための自立論になってしまうという大
きな限界を持つ。また、ここでいう自立が可能となる中・軽度の障害者にして
も、自立が本人の社会に対する義務であるととらえる限り、障害者をとりまく
社会状況を変革し障害者の自立生活を確保していこうという積極的思想は導き
出されてこないという問題点も含んでいる。

 (2)自立生活論ブームを否定する立場
 最近の障害者福祉の分野における「自立生活」の動きを、行政主導による反
福祉的な流れにつながるものとして批判的に理解していく立場である。
 本稿で扱う他の自立論は、なんらかの形で「自立生活」を障害者福祉におけ
る目約概念としてとらえている。それに対して、自立生活(少なくとも行政主
体が推進するところの自立)を障害者福祉における目的とすること自体に反対
する点にここでの立場の特徴がある。いいかえるならば、自立生活論に対して
の外在的批判ともいえるものである。この考え方では、自立概念の追求の前に
社会福祉理念の確認・保障に焦点を当てることを強調する。そして、社会福祉
を基本的人権の全面的保障の体系としてとらえる。その上で、福祉サービスを
一部の特殊な二一ドを持つ弱者に対して与えられる限定的・恩恵的サービスで
あるとする理解を否定し、国民共通の普遍的権利を障害者や老人といった人々
に対しても実現していく努力が社会福祉であるとする。
 そして、このような社会福祉論を前提とした上で、最近の障害者福祉におけ
る自立生活論の展開を行政による在宅福祉推進論の申に位置づけられてしまう
もので、権利としての福祉確保の妨げになるものとして批判する。
 元来、日本における、戦後の障害者福祉は在宅において公的援助のないまま
放置されていた障害者に対して、国家責任に基づき施設での専門的処遇を施そ
うとする「施設中心主義」が一つの柱であった。
 ところが、1970年代に入って急速に在宅中心主義が打ち出されはじめる
(注3)。例えば、身体障害者福祉審議会の「今後における身体障害者福祉を
進めるための総合的方策について」(1982・3)では「近年、社会福祉政
策の根底となる福祉思想は、対象となる人々の生活の自立を確保し、しかも社
会への参加を強調するようになってきており、その結果施設への単なる収容保
護から在宅福祉を申心においた地域福祉の考え方が強調されるようになった。」
 とした上で障害者の自立生活を実現するための多様な在宅福祉サービスプロ
グラムを展開することの必要性を訴えている。ただし、「自立することの著し
く困難な」者についての対応は別とされている。
 また、中央児童福祉審議会の「心身障害児(者)の福祉の今後のあり方につ
いで」(1982・8)では、障害児・者福祉地策の見直しに当たっての留意
点として、■社会連帯の精神 ■行政の効率性及び公平性 ■心身障害児(者)
とその家族の自助努力 ■障害の重さにより「自立」して生活することがきわ
めて困難な心身障害児(者)対策の4つを強調している。
 両者の共通点として、家族による在宅での障害者扶養を強調し、自立の無理
なものだけ別途保護の対象とするという姿勢が指摘できる。
 以上のような低経済成長下における、行政レベルでの福祉見直しの動きと、
その中での障害者の自立助長の動きを、(2)の立場では公的責任の縮小であ
り民間や家族・本人への責任転嫁であると強く批判する。
 そして、障害者福祉施策は、「全人的復権」という究極的目標に向かって総
合的に保障されるべきものであって「決して『自立生活」の実現などに矮小化
されてはなら」ず、権利として福祉を「『自立』の度合に応じて切り縮めたり、
また『自立がそのための基準で用いられたりする」 ことがあってはならな
い、という立場を明らかにしている(注4)。
 この考え方は、現在の自立生活論ブームに疑問を投げかけ、障害者の自立生活志向が行政の責任放棄に利用されないようにという警告としての意味が大き
い。また行政の、「自立できるもの」と「自立できないもの」というエリザベ
ス救貧法以来の二分法的思想への反論は、重要なものである。この考え方は障
害者にすら「できる」「できない」の差を設け、「権利」の内容に差があるか
のように主張する立場への有効な反論となる。
 しかし、障害者福祉の分野において自立生活に関する論議が行なわれること
自体に肯定的でないとするならば問題である。なぜなら、行政主導の自立論を
批判することと、権利としての(人間としての)自立論研究は矛盾しないはず
だからである。

 (3)障害者の自己決定を重視する立場
 現在の障富者自立生活論議は前述のような行政主導の動きを背景に持つ。し
かし、もう一つの背景としてアメリカにおけるIL運動(Independent
Living Movement)の影響にも大きなものがある。
 ILRU(自立生活調査研究所)発行の自立生活辞典(1978)は、 自
立生活を「決定を下したり、日々の暮らしで他者への依存を最小限にするという、
受け入れ可能な選択に基づいて、自分の生活を管理すること。」としている(注5)。
 ここでは、「依存を最小限にする」 という部分に焦点があるのではなく「自
分の生活を管理すること」という部分に焦点が当てられている。つまり、身辺
自立の達成や就労による経済収入の獲得を「自立」の基準とする従来の自立観
では自立できない重度障害者をも含めて、「自己決定」という鍵概念によって
自立問題を整理していこうとする考え方である。
 つまり、障害者が健常者に近づくということを自立の実質的内容とする従来
の考え方に対し、障害者が障害者であることを主張し健常志向を否定すること
からIL運動は始まる。障害者はそのままで自立できるのであり、不完全な健
常としての自立でなく、完全な障害者としての自立が正しい姿であると強調し
ていくのである。
 このような自立生活論は、まさに「援助される対象」から「生活する主体」
への障害者自身による運動論的展開という点で画期的であった。周知のように
1972年のバークレーClLの設立前後からアメリカにおけるIL連動は大きく
展開しだし、リハビリテーション法の1978年改正を始めとする多様な改革が実
施されている。
 この運動の基盤にある意想は、福祉サービスは与えられるものではなく自ら
が必要に応じて獲得し利用していくものだという姿勢である。行政や専門家
(健常側)が対象者である障害者に対して必要と判断したサービスを与えると
いう従来の形に対して大きな相連であるといえよう。
 日本においてもIL連動の影響を直接・間接に受けた自立生活実践の試み
が各地で始まっているし、各種答申や通達の中にもこの連動の影響がみられ
る(注6)。
 このように、障害者自身を目覚めさせ、福祉対策の一方的受け手から、運動
の主体者=サービスの利用者(消費者)ヘと地位の変換をもたらしたIL運動
であるが問題がないわけではない。それは、障害者自身の自己決定能力を信じ
るというIL運動自体の持つ弱点ともいえる。すなわち、自己決定能力がない
(ように思われる)障害者の自立はどうなるのかという問題である。
 例えば前述の「辞典」では、自立生活の定義の後で「あることに関して自己
決定が出来ないか、あるいはしない人」は「自分であるいは制限により、一種
の修正された自立生活、限界のある自立生活、あるいは半自立生活をしている
ことになる。」と論じている(注7)。
 自らの権利を意識し、一定の工夫により主張することのできる重度の身体障
害者にとってIL運動は画期的なものであったが、重度の精神薄弱や重症心身
障害の人たちまで含むことには必ずしも成功していないといえよう。
 なお、この限界に対して上田敏は、自己決定「権」と自己決定「能力」を別
なものとして区別し、能力に限界はあっても決定権に制限はありえず、能力の
不充足は専門家や関係者により代弁・補足されていくべきであるという見解を
示している(注8)。大いに示唆的であり共感できる考え方である。

 (4)自立を束縛からの解放とみる立場
 自立を社会的適応とみる考え方も、行政の福祉切捨て策として批判する考え
方も、必ずしも家庭や地域といった障害者をとりまく環境についての特別な視
点は持っていない。アメリカにおけるIL運動は自己志向の強さの中で、利用
すべきものとしての社会資源や連帯の対象としての社会的不利を持つ人々とい
う概念は持つ。しかし、家族という具体的存在は自立論に当たって直接の焦点
にはなってこない。
 それに対してここで論じる自立論は、障害者が日々介護を受けともに暮らし
ている家族との関係に目を向ける。
 公民権運動やセルフヘルプ運動の広がりといったアメリカ的状況の中でIL
運動が誕生したように、日本において障害者がおかれてきた状況の中で生まれ
てきた自立論ともいえる。例えば、東京青い芝の会の寺田は自立について触れ
ている文章の中で「他人への依存、特に親兄弟の保護の絆から脱却し、地域社
会の一員として自らの生活を持つ」ことの必要性を強調している(注9)。ま
た、山北厚は「“自立”とは社会の中で生きていく生きざまに関わるものであ
り、その『自立心」は親などへの反抗心である」といい、子供に自立心を与え
ない障害児の親たちを批判している(注10)。親・兄弟への依存を「お世話
になっている」という次元でとらえるのでなく、家族によって人間としての生
活が束縛・制限されていると理解するところにこの立場の独自性がある。それ
と同時にこの立場は、障害者の自己決定を自立の重要な条件としており、IL
運動と共通する部分も多い。しかし、行政施策等の大局的な理由だけでなく、
自らの家庭をも自己決定が制限されている原因として、強調するところに特徴
があるといえよう。
 家族すら批判の対象とするこの考え方に、疑問の目をむけることは容易であ
る。しかし、現に絶えない親による障害児殺しや無理心中。そして親に対して
の世論の同情や減刑運動。そういった状況下での「障害者は生きる権利がない
のか」という障害者自身による主張は、人間社会全体の持つ健常志向への強烈
なアンチテーゼというべきであろう。それ故彼らは、障害者がわが子の誕生に
あたって「五体満足であれ」と願うことも自己矛盾として厳しく批判する。
 自らの障害を障害者自身が受容し、あるがままで評価される社会を実現して
いくために、社会にも親にも自らにも厳しい目を向けていくこの考え方は、必
然的にノーマリゼーションの思想やIL運動に近ずいていくことになった。実
践の方法論に弱さを持っていたため、従来「過激」として批判されがちであっ
たこの自立論は、国際的な障害者運動の影響を受けたことで実質的な実現力を
社会に対して持つに至った。
 例えぱ、厚生省社会局内につくられた研究会が、「脳性マヒ者等全身性障害
者に関する報告書」(1982・4)を出しているが、その研先会には青い芝
の会の会員が加わっている。
 日本における障害者自身の声としての、この自立論の動向には、今後とも関
心を持っていくことが必要であろう。

 (5)社会との関係性の中で自立を理解する立場
 以上、述べてきた自立論は行政主体の立場、福祉関係者による立場、障富者
自身による主張等であった。
 しかし、本来最も尊重されるべき障害者自身の主張が、身体障害者による自
立論に集中していることは指摘されなければならない。
 就労による経済的独立が自立であるという主張や、それが無理なものは少し
でも(社会や家族の迷惑にならないように)身辺自立を目指していくべきであ
るという自立論が一般的である中で、障害者達は身辺自立すら不可能な重度身
体障害者はどうなるのかと主張する。また、身辺自立が出来るとしても(例え
ぱ衣服の着脱に一時間もかかる中で)外出し人と会うなど他の社会的活動が出
来なくても身辺自立は果たされなければならないのか。アテンダント(介助
者)に身の回りのことをしてもらい、生活保護など公的援助を受けながら就労
以外の社会的活動をしていくことも自立生活といえるのではないかと問題提起
をする。これは、未だに世間や親の間で完全にコンセンサスを得ているとはい
いがたいが、確実に社会的認知を受けつつあるといえよう。
 しかし、この論理では重度の身体障害者の自立は可能となるが、重症心身障
害児や重度精神薄弱者等自己決定権の行使が困難なものは包括しにくい。
 身体障害者のあるがままを認めさせようとしたこの考え方は、健常志向を否
定するために障害者の自己決定能力を強調した。そのため結果的に自立生活が
制限される一群の障害者の存在を認めることとなった。
 この限界に対して、障害者と非障害者の相違点を強調する自立論議とは別
に、障害者と健常者の連帯を目指し、その関係性において理解していこうとい
う提案がある。例えぱ定藤丈弘は論文の中で「自立への意志が弱かったり‘喪
失している’ようにみえるどのような重度の障害者であっても、生の営みを継
続し、その障害状況の申で自らの可能性を追求すること自体がその障害者の家
族、関係者、各種の専門家に一定のインパクトを与え、例え長い時間経過を経
てもそのことが社会的発展につながることの可能性があること自体が、彼をし
て自立的存在として認めさせ得るのである。」(注11)という。
 この考え方は、遡るならば糸賀一雄の「精神薄弱が文明社会の機構になじま
ないからといって、文明の世界に背を向けるのでもない。一般論的にいえぱ、
その中にありながら精神薄弱というハンディキャップを持ったその人格の生存
在を通して、この世の中に逆に働きかけていこうという主体性を育てることで
ある。」という思想に通じるものであろう(注12)。
 これは、若干理念的に過ぎ、どのように現実を展開していくのかという連動
論内視点には欠けるが、すべての人を含み込み得る自立論としては魅力的なも
のといえる。

4.まとめと考察

 以上大変簡単にではあるが、いわゆる障害者の自立生活論についで筆者なり
の分類と検討を試みてきた。
 ここでは、各自立論を a.どの程度論理的整合性があるのか b.誰が論
議の主体であるか c.そこにおける障害者像はどうか等といった視点で整理
してみたい。
 (1)の自立論は、障害者に限らない自立生活論であるという意味では整合
性は高いといえよう。こごでいう「自立生活」が、障害者の状況などを意識し
たものではなく、一般の健常者が要求されている生活上の努力を障害者にも要
求しているものだからである。しかし、障害者内の普遍性について言えば、中
・軽度者にしか達成され得ないという意味で低い。
 そして、論議の主体は家族または社会(行政主体を含む)であり、障害者は
自立生活をする義務を持つ存在として位置づけられている。つまり単純化して
言えば、社会の負担としての障害者に対して、少しでも自らのマイナス性を減
じていくよう努力することを社会の側が要求しているのがこの自立観と言えよ
う。
 障害者の自立生活を論議していながら、健常側・行政側の論理としての自立
論議であること。自立できる者とできない者に障害者を二分し、自立できない
者のみを福祉援助の対象とする点等に本議論の限界点があろう。
 (2)の自立論は、障害者を特別な存在として理解せず、憲法に保障された
基本的人権を持つ国民の一人としてとらえる点は、大変整合性の高い論理とい
えよう。
 この議論は、社会福祉労働者としての立場を強調する関係者や、普通的権利
の公的責任による保障に焦点を当てる当事者によって主に主張されている。そ
してここでは、障害者はその障害の種類・程度等を間われることなく「権利」
の主体として位置づけられている。
 行政主導による「安上がり施策」としでの自立論や、それに利用されうるブ
ーム的な自立論議に警告を与えるという意味では大麦重要な立場であるが、そ
れ自体は現に障害者によって求められている「障害者の自立とはなにか」とい
う問いに対する回答を与えるものではないといえよう。
 (3)(4)の自立論議の基本的な立場は共通している。従来の自立生活論
議が、他に依存せざるを得ない中・重度者を「自立できない」として切り捨て
てしまうのに対し、本論議では他者や行政のサーピスを用いてでも自立生活は
あり得るとしている。その点では包括性の高い論義といえよう。
 従来の自立観では、障害者が努力をし身辺自立をし経済的独立を果たしたと
しても、それは健常者の亜流としての自立に過ぎなかった。それに対して、こ
こでの議論は障害者自身が亜流としてでなく、障害者の「私」として自立生活
をしていこうという点に焦点が当てられている。当然、障害者自身による運動
論であり、主体性は障害者にある。
 (3)(4)の違いといえば、運動の発生した国情を反映して、前者ではあ
まり強調されない家族(特に親)と障害者との関係性が、後者では焦点の一つ
となっているということであろう。後者の立場では、障害者に対しての家族に
よる介護が、障害者の自立意識の伸長を妨げる束縛としての側面を持つことに
強く反発するのである。
 いずれにせよ介護なしの生活は考えられない重度者にとっても、援助を受け
つつの自立生活があり得るとした点で画期的な自立論である。しかし、重度身
体障害者は包括しても重度精神薄弱者等を包括し得ないことや、家族・兄弟そ
の他の障害者にとっで最も身近な人々を仲間として取り込むことに必ずしも成
功していないという問題点は残っている(注13)。
 (5)の立場は、自立という概念を障害者と健常者との比較においてとらえ
ない点に特徴がある。障害者が社会に存在すること自体が、家族や関係者にと
って何らかの意味を持つのであるという自立論であり、自立できる、出来ない
という議論が不必要であるという意味では最も整合性の高い自立論であるとい
えよう。
 この考え方は、主に精神薄弱者の福祉・教育に関わって来た者によって打ち
出されてきた。そして、問題は障害者が社会にとって意味のない存在であると
いう認識自体にある、とする。
 ただし、「福祉論」としてはともかく「自立論」としてこの立場を考えると
きには、自立の概念を幅広くとらえ過ぎではないかという反論が予想される。
また主体としての障害者という位置づけは(3)(4)程には強くないという
問題点も残る。
 幾つもある自立生活論または自立観の中から、どれが正しくどれが間違って
いるという指摘は一概にはできない。例えば、包括性には欠けるが実現性には
優れている「論」もあれぱ、理念的には優れているが具体性が低い「論」も
あるなど、一長一短であるからである。しかし、本稿の主眼である、重度精神
薄弱者等を「自立論議」の中に含み込み得るがという点からいうと、自立を達
成る度(半自立や全自立、非自立等)で評価できる「相対的」なものとして理解
する立場をとらず、社会的存在としての人間に必要な絶対的なものとして「自
立」をとらえていくことが重要であると考えられる。
 その上で、自己決定権と自己決定能力の問のずれを専門家や家族など関係者
が保障していくという考え方を重ね合わせていくことが里ましいのではないだ
ろうか。

(注)
l)「精神薄弱福祉法逐条解釈」(厚生省児童家庭局編)
2)浜上・南尾編:『精神薄弱者の生活実態と福社の現状』(1984年)、
pp.21〜22、相川書房
3)1971年の中央社会福祉審議会による「コミュ二千ィ形成と社会福祉」
(答申)が一つの契機になったといわれる。
4)河野勝行著:『障害者の80年代を開く』、(1982年)、
p.146,p‐170、ミネルヴア書房
5)『障害者の自立生活」、(1983年)、
p.206障害者自立生活セミナー実行委員会編集・発行より。
なおILRUとはIndependent Living Research 
Utilizationの略である。
6)例えば、1980年の厚生省社会局長通知「在宅障害者ディ・サービス事
業の実施について」の“6.事業の運営’においては、「障害者自立生活セン
ター運営委員会」の設置についてふれられている。これなどは、実態はともか
くとして明らかにアメリカにおけるClL(自立生活センター)の影響を受け
ているといって良いであろう。
7)前掲『障害者の自立生活』、p.207
8)上田敏著:『リハビリテーションを考える』、(1983年)、
p.34、青木書店
9)寺田純著:「障害者にとって自立とは何か」『現代の社会福祉』、
(1981年)、P.168、総合労働研究所
10)山北厚著:「障害者の『自立とは』」『福祉労働17号』(1982年)、
 pp.63〜64、現代書館
11)定藤丈弘著:「障害者の自立と地域福祉の課題」岡田武世編「人間発達と
障害福祉』、(1986年)、p.149、川島書店
12)糸賀一雄著:『福祉の思想』、(1968年)、PP.52〜53、
NHK出版
13)1986年の障害者の親等への意識調査(京都)を見ても、家庭において
障害者の主たる介護者である人々は、本稿の自立論議でいえば(1)の立場を取
るものが多い。即ち、障害者自身による自立生活運動は彼らに影響を与えること
には成功していないといえよう。
(拙稿「障害児・者の自立生活に間する保護者の意識調査から」:『同志社
社会福祉学』、第1号1987年参照)

業績コーナーに戻る
自己決定・主体性・権利擁護コーナーに戻る
.