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専門職の倫理綱領について考えよう
――ソーシャルワークの倫理的ジレンマを解決するために――

                            

 僕はパワーポイントとか使わない人間なんです。板書をしたりしながらお話ししたいと思います。ホームページのアドレスを公開しておきます。福祉関係者のホームページをつくっていますので、よかったらそれを見ていただいたり、また質問をいただいたらうれしいなと思います。
 基本的スタンス 他から学ぼう。僕はソーシャルワークの専門なんですが、他の医療、教育、いろんな分野から学ぶことができるだろう。また高齢福祉、児童福祉、障害者福祉からも学べるだろう。他から学ぼう。過去からも学ぶことができる。そういうふうに考えたいなというのが僕の基本的なスタンスです。今回の倫理綱領について考えようというのも、そういうスタンスで見ていきます。
 倫理綱領とは。一般の辞典のレベルで調べてみますと綱領というのは〔2〕団体がその基本の立場・理念・活動方針・政策などを要約した文書。たとえば共産党綱領とか自民党綱領とか。我々の立場を明らかにするということです。倫理は何か。〔1〕人として守るべき道、道徳、モラル。三省堂の辞典ですが、ここでは人ではなく、専門職の倫理綱領とは、ソーシャルワークならソーシャルワークという「専門職が守るべき道、理念、立場などを明らかにした文書」となるのだと思います。
 サブタイトルに「倫理的ジレンマを解決するために」という実践的な問題意識をおきました。僕がしゃべって倫理的ジレンマが解決するノウハウが手に入るはずはありません。ただそのような倫理綱領があるのはわかっているが、何の役に立つのかという問題意識を一つ頭の隅に置いておきたいなと。答えが出るはかどうか話として。それを明らかにした上で何らかの意味で役に立つにはどうしたらいいかという問題意識であります。
 倫理綱領は団体のものですが、倫理綱領を持つ団体の範囲はどういうものか。僕たちは一般的にソーシャルワークの倫理綱領、医師の倫理綱領、弁護士の倫理綱領と専門職団体の人をイメージして、今回も基本的にはそれを対象としています。ここで一つ見てみますと「一般に倫理綱領とは専門家としての倫理的責任を明確にし、社会に表現するものである。つまり専門家の行動規範であるとともに社会に表明することによって専門家の独占を防ぐ役割も果たすもとになる。また専門家としての地位を確立していく上で専門家としての行動規範を持つことは必要条件の一つであろう」。これはどの団体のホームページなのか、ちょっとしたクイズです。
 実は、日本考古学協会なんですね。ソーシャルワーク協会だといっても通る感じがしますが、実は考古学会がこのような倫理綱領についてホームページで我々の倫理綱領とは、と展開されているんですね。ということを考えてみると、中身に入る前に範囲を確認していますが、相当、倫理綱領が広いということがわかります。
 その次にグーグルで「倫理綱領」を調べました。一杯出てきます。トップ20を書いてみますと、中身は分析しませんが、一番目は企業の倫理綱領、企業関係のリンク集です。個別企業レベル、業界レベルの企業が持っている倫理綱領のリンク集です。2番に援助専門職の倫理綱領。実は僕のホームページの倫理綱領のリンク集です。僕のでも2番目に上がってきます。そして図書館、新聞、電子情報、通信、日本建築学会云々と続きます。一つは必ずしも対人援助職、さらには専門職領域には倫理綱領は限らないこと。そう考えた時、「社会に対して責任を負うと自ら認める団体が、社会とメンバーに対してその責任を表明するために倫理綱領を決める」というように仮の範囲を決めようかと思います。同時にトップ20を見て面白いと思うのが、実は今のは、幅を広くしているわけですが、援助職だけでなく企業もあると。次に福祉に注目すると意外なことに日本ソーシャルワーカー協会の倫理綱領、僕のホームページ以外にある日本社会福祉士会、旧・日本精神保健福祉士協会、介護福祉士会の綱領がトップ20に入ってきている。倫理綱領という理屈っぽいものを重視している専門職団体はあまりない。福祉系は対人援助系の中でも倫理綱領を重視しているなということがわかるとも言えるだろうと思います。

 次に専門職倫理に関する歴史。これも確認します。網羅はできていません。ヒポクラテスの誓いが代表です。必ず出てくるでしょう。非ヒポ&後世と書きましたが、本来、ヒポクラテスがつくったものではないのは確かなようですし、2600年前よりもう少し後なのは間違いないようです。ただ相当古い時代にできたのは間違いない。その後から研究でWikipedia を引っ張るのはまずかと思いますが、ちょっと面白い説明がついていましたのでレジメに入れておきました。古代で言うと何と言ってもヒポクラテスの誓いでしょう。
 次に中世、近世、これが実は教育レベルと研究レベルは違います。教育レベルにはほとんど入れないけど研究レベルで言うと、助産師の誓いはほとんど紹介されていることはないと思います。ホームページで調べて、ある本に載っていたんですけど、看護の倫理資料集。「助産師の誓い」はこの本を説明している20〜30件のインターネットにしか出てこないと思います。日看協の資料ですから日看協が翻訳するまでは知られてなかったのだろうと思います。内容的に見て教育的の意味は特ににありませんが、中世、近世のレベルでの倫理綱領に相当するものが一つ、ここにあるということですね。
 これを見ておくと「ヒポクラテスの誓い」はご存じの通りですが、その後、アメリカ医師会が1800年代に医療倫理をつくりました。1890年代に「ナイチンゲール誓詞」、有名なものができました。1908年、「アメリカ法曹協会が弁護士規範」をつくりました。これは世界連盟がない時代ですから、初期の例だと思います。ナイチンゲール誓詞、こういうのに比べますと、ヒポクラテスの誓いのすごさがあるんですね。批判は多いですけど。
 助産師の誓いはよく見ると誓いというけれど、イギリス国教会の宗教が認定するにあたって、これを守りなさいと命令している文章なんですね。自らが、しているのではありません。中世、近世と言っていいと思いますが、とても細かく宗教との関係、14番「あなたはどんな小さい、または他の党派があなたの留守中、もしくはあなたの前であなたの理解、もしくは黙認の結果、英国国教会より指示されたもの以外のミサ、ラテン語式礼拝、もしくは祈祷によって子どもに洗礼を施すことに関与、同意してはならない」。そういう位置づけの側面が強い精神になっています。ただし、そうは言うものの「貧富を問わず」というような規定があったり、6番「他の場合に支払われる以上を支払うよう強いてはならない」。8番「あなたの処遇に関する事項には秘密を守るべきであり、公開してはならない」。10番「適切でないやり方で、何かを用いたり、行っている助産師を知るならば」「私か、私の主教区証書係にそのことを指摘しなければならない」。ある意味での告発、不正の指摘、これも宗教的にととらえることができると思うんですが、異分子排除の側面かもしれませんが、ある意味で不正の告発とも言えるでしょう。こういういくつかの評価されるポイントはあると思います。
 解説には前文があって、具体的な項目が続くという、後の倫理綱領の形はすでにここに現れている、原型なのだという指摘もされています。確かに20世紀に入ってからの倫理綱領も前文があって、そして個別項目がある。この10年、20年になると、個別の文章をもう少し構造化していく。クライエントとの関係であったり、社会との関係というふうにもう少し構造化していくのはこの10年、20年、構造化されはじめて、少し進歩していますけど、数百年続いた基本形がここにあるんだという指摘もあります。
 2000年上前だと思われるヒポクラテスの誓いはすごいなと思います。各条文を見ていくと「私は能力と判断の限り、患者に利益すると思う養生、方法をとり、悪くて有害とする方法を決してとらない」。あたりまえのことを書いているとも言えるんですが。生命倫理、バイオエシックで4つの原理に関わることが言われています。それは「善行原理」「無危害原理」「自立尊重原理」「公平原理」。これが20世紀後半の4分の1の頃、基本的な倫理原則となるものです。生命倫理でつくられたものですが、明らかにあたりまえのことですが、援助職に参考になる重要な4つの原理だと思います。援助者はクライエントにとって少しでもよいプラスになると思われることをする。次が無危害、少なくともプラスになることができなかったとしても、せめてマイナスになることはしてばならない。3つ目、20世紀後半に強く出てきた自立尊重原理。その人は人間が自立していく、自分で決める力を持つ、そのことを大切にする。ここから医療ではインフォームド・コンセントが出てくるし、一般的にも自己決定が出てくる。明らかに新しい原理ですね。公平原理は、資源の総量が決まっている時にサービスをどのように提供していくか、公平か。わかりやすいのは医療のトリアージュがそうですが、大災害が起こった時、救急車で1回乗れる人数は3人、2人、その時にここにいる20人はどの順番で乗せるか。それによって死ぬ人がいる。それはどういうふうにするか。臓器移植を待つ人が10人、20人いる。ここに心臓が一個だけ出てきた。その時、誰に渡すべきか。またイラクや北朝鮮に医療サービスをしたいと思う。100人の困っている人がいる、薬は10人分しかない。福祉では老人ホームに登録している人が100人いるが、空きが1つ出た。誰に渡すか。そういうふうなことを社会に説明できる形で順番を決めていくことが今、求められている。そういう意味での公平です。
 これらが生命倫理で言われるんですが、他の倫理綱領に採用される基盤になると思います。その中の「患者に利益すると思う養生方法をとれ」というのは善行原理のことを言っているのであり、そして「悪くて有害とする方法をとらない」のは無危害原理を言っているわけで、実は21世紀でも基本的に生きている原理のうち2つまでは実は、2600年前の時点からある援助の基本原理であります。これに対して明らかに自立尊重原理は近代、現代、人が独立した人格として認められる(20世紀はじめの頃、法律で一部あったようですが、)基本的にはナチス・ドイツとかを受けた20世紀後半に確立してきた考え方ですね。自己決定権とか。公平原理もサービスが、援助が社会的なものであると認識された時、目の前の人との契約関係ではなく、サービス総量のコスト・パフォーマンスとか、優先性を意識されるようになったのは現代的な事象ですね。明らかに20世紀以降の考え方です。
 ある意味での本質的な原理はピホクラテスの誓いの段階で、すでにあるわけですね。頼まれても死に導くような薬を与えないとか、婦人を流産に導くような道具を与えない。ここも無危害につながってくる話だろうと思います。
 「純粋と神聖を持って我が生涯を貫け」というのは完全には断言できませんが、4原理以外にもいろいろなものがあります。「誠実性原理」、援助者は誠実でなければいけないということにもつながると思います。「結石を取り出すことは神かけてない。それを業とするものに任せる」。ここは「役割分担」の話ですね。これも裏話でいうと、医学が外科を否定している何とか派の人たちの綱領だとか、専門的なことはいろいろあるようですが、ここでは省略します。
 次、いつも強調することですが、「いかなる患家を訪れる時も、それは病者を利益するためであり、あらゆる勝手な戯れや堕落の行いを避ける」「女と男、自由人と奴隷の違いを考慮しない」というのはすごい言葉を書いていると思います。古代ギリシャの奴隷制がある時代です。女性が本当の意味で男女平等になったのは20世紀以降であって、世界中で婦人参政権が実現したのは20世紀後半です。奴隷制度が残っている、この時代に女と男、自由人と奴隷を区別しなくて「勝手な戯れや堕落の行いを避ける。ただ病者を利するためだけである」というのは無差別原則であり、セクハラやパワハラの禁止にかかわることになるでしょうし、ただし、本当のさらなる原文があったかどうかは実はわからない。翻訳だけですが。
 「医に関すると否とにかかわらず、他人の生活について秘密を守る」。これもプライバシーの話であり、とても高く援助者側から言うと秘密保持の問題に触れています。ヒポクラテスの誓いは、とても現在の綱領に通じる、ここに患者と書いてあったり、手術と書いてあるのを代えたら福祉にだって通用するような原点と言えるだろうと。「他から学ぼう」という発想からすると十分役に立つものだろうなと思います。あえて言えばこの綱領に欠けているのはインフォームド・コンセントに相当するようなものはありません。現在は入れないといけない。そこが時代の制約があるという批判はあるわけです。
 ナイチンゲール誓詞。これも実は1900年少し前ですが、ナイチンゲール誓詞とありますからナンチンゲールがつくったのか。そうではなく看護学校の校長がつくったようです。自分たちの学校で看護婦たちが卒業するにあたっておごそかに宣言させるためにつくったようです。ナイチンゲールを記念してナイチンゲール誓詞と呼んだということであって、ナイチンゲールがつくったものというのは関係ないようです。今から100年以上前、学会でのものでしょうね。「毒あるもの、害あるものたち、悪しき薬を用いることなく」というのは無危害の話。「一家の内事のすべて我は人に漏らさずべし」。秘密保持の話です。いくつかのポイントはありますが、盛られている内容は助産師にしてもナイチンゲールにしてもヒポクラテスのものと比べると中世から近代にかけてのものは盛られているものが少ない。そんな面があるような気がしますね。
 そして現代に入ってきて、日本で言うなら1961年、医療社会事業協会が「医療ソーシャルワーカー倫理綱領」をつくりました。これはレジメを時代的に見てもらうとわかるように、医師会とかは省略していますが、専門職の倫理綱領の歴史としては初期の段階に医療ソーシャルワーカー倫理綱領が出ていることは注目したいと思います。もう一つ援助職に限らないということで言えば技術士会があって技術士の倫理綱領もあります。薬剤師、理学療法士、1986年には作業療法士会の倫理綱領も出ています。
 福祉だけで言うなら1961年、医療ソーシャルワーカー倫理綱領が出た。これは短いものです。レジメの10番、医療ソーシャルワーカー倫理綱領。短いですが、現在に通じる基本的な日本の福祉のソーシャルワーカー倫理綱領の基本構造は1961年の段階でできているなと思います。
 そしてその後、25年たって1986年にソーシャルワーカーの倫理綱領がソーシャルワーカー協会から出ました。それを10年ほどたって社会福祉士会が採用しました。95年に公式かと思います。社会福祉士がソーシャルワーカーの持っていた倫理綱領が採用されました。これは英断だったと思います。そのことは後の現在の4綱領合同にもつながるものだったと思います。
 ほぼその時期に精神医学ソーシャルワーカー協会、今の精神保健福祉士協会ですが、PSW協会が倫理綱領をつくっています。看護者の倫理綱領も資料に載せていますが、2003年の改訂版です。介護福祉士、保育士会の倫理綱領もこの時代、20世紀末から21世紀にかけて出しています。2006年、ソーシャルワーカーの倫理綱領(4団体)、社会福祉士会と精神保健福祉士協会の二つの国家資格協会と医療ソーシャルワーカー協会と日本ソーシャルワーカー協会の4つの団体が国際ソーシャルワーカー連盟(IFSW)に加盟しているわけです。僕自身の自説は介護福祉士や保育士を分けないで、ソーシャルワーカーとかケアワーカーとか分けずに社会福祉専門職としてやりたい。保育士も介護福祉士も社会福祉専門職なんだ、ある意味でソーシャルワーカーなんだという議論の展開の仕方をしたいんですが、各団体自身で言うとIFSWに入っているのはこの4団体であり、その4団体で倫理綱領を2005年綱領を共有している事実があり、介護福祉士会、保育士会は構造が全く違う倫理綱領をそれぞれがつくっています。MS協会が1960年代からあるしっかりした構造を持つ綱領とは違う、ややナイチンゲールや助産師会に近い羅列の綱領になっている傾向があります。そこに明らかに切れ目は入るんですけど、僕は個人的には介護福祉士や保育士も勉強してもらって綱領をこういうふうに膨らませていくのもいいんじゃないかなと個人的には思っています。
 ここでは短いのと長いのと、だんだん長くなるものと。倫理綱領が古くから新しくなるにつれてだんだん長くなっていること。しかし短い綱領もあるということです。PSWの綱領は1988年のこれか最初のものだと思いますが、L当時、9項目からなるわけです。ところがOの1995年綱領になると、些細ではあるが、9項目から11項目に膨らんでいます。6番「地位利用の禁止」と7番「機関に関する責務」。これはおそらく資料で見る限りソーシャルワーカー協会の倫理綱領が出たので、それに影響を受けていると思います。ソーシャルワーカー倫理綱領にはあるが、精神保健福祉協会の倫理綱領にはないのはこの二つなので、それを入れられたと思います。地位利用の禁止、機関に関する責務。17番が2003年の制定の経緯。その次に2004年の精神保健福祉協会の倫理綱領になると、とても長いものに膨らんでいます。ある意味で、みるみる綱領が膨らんでいくプロセスがあります。MSWについても1960年が最初ですが、1ページなんです。しかし1999年改正のMSWの綱領は20〜30ページになる。ともかく膨らんでくるのが一つの法則性なんだろうと思います。
 そして一方で、しかし短いという意味で言えば、保育士会とか介護福祉士会の倫理綱領もF介護福祉士会綱領、G全国保育士会綱領、D理学療法士会の倫理規定、E作業療法士協会の倫理綱領と並んで、やや短め、10項目ほど載っているという、古くからあるパターンです。膨らんでくるのと二つの動きがあるように思います。

 次に援助職の共通部分と固有部分―綱領からひとまずはなれて。専門職の話と切り離せないので、ここでは綱領からだけ分析できるわけではない、自分の日頃言う意見を勝手にしゃべるコーナーにします。僕の授業を受けている人はまた聞かされるわけですが、お許しください。つまり専門性の定義はいろいろとあるわけですが、フレックスナーとかグリーンとか。今、社会福祉士養成で採用しているものは知識・技術・価値、または倫理。その時に固有性、違いにこだわるか、共通性にこだわるか。
 医師という専門職と弁護士という専門職と教師という専門職があるとして、その専門性は同じですか? 当然違うと答えるわけです。どう違うか。僕たちはいかに独立排他的専門職イメージを考えます。知識と言っても医者に必要な知識と弁護士に必要な知識は違う。医者に必要な技術、手術に必要な技術と弁護士に必要な裁判の技術は違う。それが専門性の違いなんだ。だから医師と弁護士は違うとすっきり言える。そのような説明の仕方、考え方をする。しかしこのやり方では切れない固まりを持っている専門職が多いわけです。例えば、おむつを換える技術を看護も持っている、介護も持っているわけで、それを完全に違う専門職として切ろうと思うと切りきれない部分が出てくるわけです。それを専門性の低さという言い方をしたり、痰をとるのは看護師はしてもいいが、ホームヘルパーにさせていいかという論争だったりするわけです。
 それに対して違いに強調するという考え方ではなく、共通性に注目する考え方で専門職を分析していった方がいいのではないかというのが僕の考え方です。弁護士と医者が違うという考え方をするのではなく、積み重ねていくという構造を考えたらいいのではないか。地上1階にヘルピング・プロフェッションとしての対人援助専門職が持つ知識・技術・価値は医者であろうが、弁護士であろうが、こっちの説明の仕方で言えば医者と弁護士は必要な知識と技術の価値が違うと説明するわけですが、こっちのモデルではそうではなく、医者であろうが、弁護士であろうが、高校教師であろうが、介護福祉士であろうが、対人援助の専門職である限り共有する価値観、共有する技術、知識があるという切り口、そういう見方をしたらどうか。
 たとえば典型的なのは技術で言えば、コミュニケーションのスキルはそうだと思います。コミュニケーションのスキルは医者であろうが、弁護士であろうが、高校の先生であろうが、介護福祉士、社会福祉士を問わず、対人援助の専門職ならコミュニケーションのスキルはしっかり持っている必要がある。相手によってスキルの具体的なレベルは違いますが。また人権尊重、無差別平等という価値観も共有される。弁護士は無差別平等でないといけないが、高校の教師は差別していいというはずはない。そういう意味で、頭から尻尾から違う専門性を見るよりも、どんな対人援助の専門職も、持っておくべき基盤があるのではないか。これを比喩的に表現するなら総合大学で工学部の学生と心理学部の学生と理学部の学生が1年生の授業を共有していいんじゃないかという気がしています。将来、医者になりたい、弁護士になりたい学生と、カウンセラーになりたい学生、ソーシャルワーカーになりたい学生、介護福祉士になりたい学生が同じクラスで受けうる専門基礎の授業はありうるのではないか。それは対人援助の基礎はありうるのかもしれない。ただし仮説ですよ。このような説明の仕方では限界があるから、このような説明の仕方をしたらどうだろうという話です。厳密に言うと真相を明らかにするための研究ではなく、説明のために。医療専門職に共通の、司法専門職、教育専門職に、福祉専門職に共通のレベルがあるのではないか。医者と看護師とPTは違う専門職だけれど、医療専門職としては脈拍とか血圧とかに関する知識は持っていないといけない。でもそれを弁護士は持っていなくてもいいということですね。福祉でも児童福祉の人と高齢者福祉の人と相談員になる人、介護職員になる人は違うけれども、持っておくべきレベルがあるだろう。
 さらにその上、3階のレベルには、看護師は知らなくていいが、医師は知っていないといけないレベルのものがある。さらに上にはキリがないわけで、医師であっても内科医は持っておかないといけないが、外科医は持っていなくてもいい。外科医は知っていないといけないが、精神科医は知らなくていいというスキルや知識があるだろう。そういうふうに全く違うというより、一定のものを基盤に持ちながらもどんどん専門性を蓄積していくと考える。これはエビデンスではありませんので、感覚的理論ですので、説明モデルですね。これでこうとらえたらいいのではないかというのは、ダイナミックにとらえて、上の方でつくられたものがどんどん下へ共有されていくという考え方をしたらいいように思います。
 たとえばバイスティックの7つの原則が日本の福祉では重視されていますが、50年ほど前のバイスティックが言った7つの原則、ケースワークの原則として言われています。ケースワークのバイスティクの原則の中で、ただの一つでもソーシャルワーカーしかしてはいけないことはあるだろうかということなんですね。7つを7つとも看護師に説明したっていけるはずのことしか言っていない。そういうふうに考えたら、実は確かに機能的に、つくられたものですね。ケースワーカーたるもの、こんなことをしたらいい。それは排他的な背景のあるものではないわけです。ロジャーズの「受容の概念」だってカウセンリングにおいて最も大事な概念だけど、心理以外の人が使ってはいけないということはありえないわけです。そう考えるとそれぞれが発明、発見したものだけど、それが意味を持つものの場合は、当然、中世までのクローズされた社会なら別ですが、現代は情報が公開される社会ですから、その方がどんどん他の専門職でも共通常識として蓄積されていくだろう。さらに上へと積み重ねていくということを僕は思うわけですね。
 僕の弟は医者なんですが、弟の家に本があって、「何とかかんとか病患者のための医師のカウセンリング」という本がありました。難病だと思いますが、まさにこっちのモデルで考えている。医者は医者で自己訓練しないといかんわけで、カウンセラーや看護師に教えてもらうわけにいかん。そうすると医者としては何とか病患者と接するにあたって、カウンセリング的なことは臨床心理士ではないけど、しないといけない。それをよそから勉強するわけにいかんから「何とか病患者のための医師のカウンセリング」という本を別につくらないといけない羽目になる。これはこっちのモデルだと思います。それ自体はお医者さんの情熱の結果であり悪いことということでは全くないのですが。もちろん。
 しかし、僕に言わせれば、東大医学部の教授であろうが、京大医学部の医者だろうが、同志社の心理学科の1年生、2年生のテキストを読んだら「困っている人はそんな気持ちを持つからな、それに注意しなくちゃ」と、僕に言わせたら心理学の教養課程の教科書で医学部の教授は勉強しろと。こっちのモデルだと他から学べないけど、こっちのモデルだと共通基盤を持つという考え方をする時、一杯学ぶことができるんじゃないか。それが僕の言いたいことなんですね。たとえば看護師がホームヘルパーのテキストから学ぶはちょっとカッコ悪いわけですね。そうではなく大いに看護師がホームヘルパー養成テキストから勉強したっていいわただし、教員が養護施設の職員の報告から学ぶことがあっていいはずだし、養護施設の職員か高齢者施設の実践から学ぶことはできるはずだ。そういうことを実現していくために、違いというよりは共通性にまずは注目していく、そんなことを大事にしていったらどうかな、と思います。その意味で2600年も前のヒポクラテスから学ぶことはあるんじゃないかということです。それが一つの言いたいことであります。
 次にそれを了解していただいたとして、基本形として。僕が説明の仕方、考え方の枠組みとして採用しているものです。しかし固有性はどうするかということは確かに残ります。これも当然論じていかないといけない。今のままで止めると対人援助のレベルで止まりますから。ここからが実は人によって意見が違ってもいい部分だろうと思っています。各学者によって福祉の固有性をめぐる議論は多少の意見の違いはあっても構わないと思っています。実体がすでにあるわけですから。医者であろうが、ソーシャルワーカーであろうが。それについての理論の話は異論があってもいい段階だと思いますが、僕はこんなふうに考えています。介護の仕事と保育の仕事と、社協の仕事、医療ソーシャルワーカーの仕事と考えると、とても遠い関係にある。福祉と一言で言っても、一つの専門職と言い切れない。その点、介護の人たちにとっては看護の仕事の方が近いところにある。保育の人たちにとっては幼児教育が近いところにある。そうなると福祉という一括りは存在しなくて、介護と看護、保育と幼児教育というセットの方が見えやすい。福祉の専門性が見えにくいということでもあります。
 でもこれもものの考え方の話ですが、社会福祉、ソーシャルワークという切り口で、保育という切り口で、介護という切り口で考えると別ですが、社会福祉実践という切り口、ソーシャルワークという切り口で考える時には、これを含むものの存在を、仮説しないといけない。それは何かということ。それは人によって違っていいのではないかという気がします。それを説明してみせようとする、今は枠組みの話なので、自分流の説明の仕方をしてみせることを皆が取り組んだらいいのではないかと思いますが、僕はこれをどう思っているか。
 知識・技術・価値で言うならば、知識・技術でこの話を括るのは難しいだろう。この定義をする時に福祉の中でも社会福祉学の話より、ソーシャルワークを中心とした対人援助学、対人援助論における社会福祉実践、ソーシャルワークの位置づけの話をしています。社会学や経済学に対する社会福祉学の話ではなく、医療や看護に対する社会福祉実践、またはソーシャルワークの位置づけの話です。僕が関心があるのはそのことですので。それで言うと知識・教育・価値の価値でいくしかない。つまり援助というのはある状態の人をある状態に変えていく、基本的に言えば看護も、保育も、福祉も、人を、より望ましい状況に変えていく。現実にはそれが改善できなくて低下するのを防ぐこともありうるわけですが、基本的に望ましい状態、その医師にとって、医療にとって望ましい人の姿はあるだろうと。対象とする人間像ですが。
 そう考えた時、医療系は何か。病気とか怪我とか痛みとか死が恐れられるべき状態であり、それに対して痛みがなくなる、健康になる、怪我が治るのが望ましい状況なんだろう。この大概念を共有するのが基本的には医療関係職の「正」の部分ではないか。そう考えると教育関連職は何か。それぞれが定義したらいいと思いますが、僕の仮説ですが、教育で言うと成長発達なんだろうと思います。社会科の教師と国語の教師、高校生の担任と幼稚園の先生では違うことを教えているが、それを括る枠は何か。成長・発達というキーワードを共有する専門職と言うことが可能ではないか。そういう言い方をした時、社会福祉、ソーシャルワークは何を共有する専門職か。ここからが皆さんが自分流の福祉理論、ソーシャルワーク理論をチャレンジしていただいたらいいのではないかと思いますが。
 僕の意見を言うと、問題のある状況が病気ではないだろうし、ここの部分を孤立とか、疎外とかの問題においてみたらどうかと仮説的に考えています。社会的孤立、心理というよりは社会的孤立、疎外の状況を困った状態と。それに対して、脱孤立していく状況をソーシャルワーク援助、福祉援助は目指していくんだと考えたらどうかという考え方を僕はしています。介護と看護はおむつを換えるという点では一緒だけれども、看護の人たちはその人の痛みをとり、健康を守ることを基礎に持つ。たとえば一人の在宅のお年寄りがいる。その人の家に行った。たとえ話、ホームヘルパーと訪問看護師が同時に訪問したとしたら、おむつ換える、ご飯を食べさせることはどっちもできる。しかし看護師は健康、安全を守る視点からクライエントの状況を見ようとするから脈拍が高いとか、血圧が高いという事実があったら、これは困ったことと認識して病院に行かそうとする。おむつを換えることだけではなく、そちらへと引っ張っていこうとする。それに対して介護福祉士は、それよりは社会的な彼の位置づけを大事にする視点だから、ご家族が出入りしているか、本人が外へ遊びにいっているかどうか、近隣が彼とかかわってくれているか、そういう家族や地域の状態、ただしヘルパーはそんなところまでなかなかできませんから理想論ですが、福祉専門職の人はそのような問題意識を持ってほしい。1時間掃除しかできなくても問題意識として持っていたら、たとえば資源としてのボランティア協会、民生委員の存在をヘルパーに教えてあげてもいい。自分の職場の責任者に「○○さんの健康状態は悪くないけど、最近、とても近所との関係も切れて孤立しているみたいやわ」という話をし「何かないやろか」というのを自分のできる範囲は超えるけど、プロに預けるという形で社会であったり、地域、家族という他とのつながりの中へ位置づけていこうとする。「今日、息子と会えるね」ということを「血圧が高い」ということよりも福祉は楽しみにする。看護師は「息子と会うことをキャセルしても病院に行きなさい」と、健康を守るために。福祉の視点は、極端に言うと「ちょっと入院するのを1日待って息子と会わせよう」となる。最後は緊急度の問題ですから、予測されるダメージの問題ですから医者が勝つのは仕方ないですが、緊急性の問題ですから。そういうふうに目指す状況が違うという考え方で見てもいいんじゃないかなという気がしています。
 他にもいろいろ説明の仕方はあると思うんですが、この説明の仕方で言うと、在宅福祉、地域移行をどう見るか。孤立させたらいかん、疎外したらいかんということで、なぜ地域移行がすすめられているか。施設をわざと悪く言う、うば捨て山として、50人が閉じ込められ、ほっとかれている。孤立させられている。その点、住み慣れた地域で、というわけです。この意味では僕も賛成です。けれども80歳のおばあちゃんが60歳の知的障害者の子どもを引き受けて家の中に閉じ込めて自分が死ぬ時には息子も殺さなきゃと思っている。この状態は施設ではないが、彼の、彼女までも孤立させられてしまっているわけで、施設ではなく在宅が自動的にいいことはありえないわけで、僕の意見では施設の方がマシやとなるわけです。孤立させている。在宅からグループホームに移ったが、グループホームから一歩も外に出ないで閉じ困ったままだったら意味がないんじゃないかというのが僕の考え方です。
 ここからオプションですが、その話をある院生と話をしていると、どうしても納得しないわけ。僕の自分で気に入っている福祉論ですが、それが気に食わんと。「それでも地域に返すべきだ」と院生は言うわけね。キーワードが「ノーマライゼーション」になるわけやね。ああ、なるほどと思った時、この1年くらい、これをヒントに、この話をさらに3段階に細分化しました。今の話をジレンマの問題で言うと「どこにいたいか」という自己決定の問題もあります。障害者運動をはじめとする自立・自己決定の話としての場所選びの話があります。それから言うと「まだ施設にいる方がましや」というのはパターナリズム以外の何者でもないことになるわけです。この問題をどう考えたらいいかと考えて、今の仮説は、近代市民社会という層が、まずある。その層においては自由・自立が基本的に最優先の価値になっている。近代社会では一応、個人の自由を大事にする。基本的に現代の国家は他人に迷惑をかけない限り、何をしてもよいという自由を国家のベースに置いている。基本的にはほとんどの社会はそうだと思います。この話から出てくるのは「自立尊重原理」になる。だからインフォームド・コンセントが必要とされ、自己決定が尊重されるべきという主張は援助理論というよりは、市民社会理論として要求される。だから援助だけではなく、企業で働く私であろうが、大学生の私であろうが、同じルールを権利として要求できるわけですね。
 それに対して、その上にヘルピング・プロフェッションのレベルがある。それは教育であろうが、医療であろうが、福祉であろうが、援助は基本的に人を閉じ込める傾向にある。教育というのは学校という場に集める、さらに障害児を別の場所に集める。医療は病人を病院に集める。コスト・パフォーマンスの問題も含めて、そもそもスペシャルなアプローチを必要とする援助は人を閉じ込める傾向にある。そのことは決してよくないんだという認識、それは普通の社会とは違う。福祉だけではなく、医療であろうが、教育であろうが、援助は油断すると人を閉じ込めるというのは極端ですが、閉じ込めっぱなしにしがちなんだということに対してのアンチとしてノーマライゼーションの考え方が生きてくる。ノーマライゼーションは福祉だけが問われているのではない。ソーシャル・インクルージョンとか新しいものになってくると思いますが、特別扱いではなく、少しでも普通のという方向へ持っていく理論は、ここから出てくる。
 それに対してソーシャルワーク、福祉援助はさらに自由とかを前提とした上でのノーマライゼーションがあり、それをさらに前提とした上で、福祉の援助においては「脱孤立」とかをキー概念にする。もちろん重なってはくるんですが、たとえば具体的なジレンマのケースが発生する。「家の中で閉じ込められるくらいなら、まだ施設での生活だって選択肢ではないか」というのは間違いなくパターナリズムなわけですね。それに対してノーマライゼーションはパターナリズムではなく規範として、脱専門職の思想を持っているだろう。この時点から「少々、生活がしにくかろうが、ほっといてくれ」という考え方、自己決定の立場から「自分は家で暮らしたい」という主張が当然あるだろうなという気がするわけですね。ここの話はまだ未完成で、説明する都合上の概念なのですが。そんなことを考えたりしています。

 ジレンマ問題に関して倫理綱領が生きてくるのは、ジレンマをどうするか。困った状況をどう解決するか、倫理綱領はその道具になりうるか。そういう意味で福祉に限らず、ジレンマ問題を未完成ですが、見ておきます。話題になったのは20世紀前半の人体実験があるでしょう。ナチス・ドイツはその典型です。日本の731部隊の問題。これに関しては事実無根であると指摘するグループもあるので、いろいろですが、全くなかったのではないと思います。思想犯の疑いをかけられた人たちを対象とし、手術の練習台にするとか、伝染病をわざとうつすとか、そんな治療法がほんとに意味があるのか実験するとか。ほとんどナチス・ドイツも同じことをやっています。生きたままで何度まで血液温度が下がったら死ぬかとかを彼らはやっています。犯罪者であったり、彼らの言う劣った民族とか、そういう理由で本人の許可なくしてきた事実があります。それに対してニュールンベルグ裁判で、ナチス・ドイツが当時やった人体実験に対して裁かれているわけです。それを受けてニュールンベルグ綱領で、インフォームド・コンセントの話題が強調されました。人体実験にあたっては被験者の自発的合意が絶対的条件である。ここにインフォームド・コンセントの戦後版の出発があります。もっと昔にどこかの憲法にあるかと探したらあるんですが、今生き残っているもので言うとニュールンベルグ綱領がナチス・ドイツに対してつくられたものです。731部隊の方はアメリカとの政治決着とかで裁きがされていないんですね。決着はついていませんが、ドイツの方ははっきりしました。
 ジュネーブ宣言はヒポクラテスの誓いのほとんど現代版です。この時期になってなおヒポクラテスの誓いが国際医師協会で確認されたということですね。次の国際綱領では一般的な医師の義務、病人に対する義務、医師相互の義務。厳密に参考にしたのは83年版のものですが、そういう義務が話題にされています。ここで注目されるのは自己決定、自立の話ですね。他にここで影響を与えたと言われているのは消費者運動の影響があると言われています。公民権運動も当然、影響を与えています。
 20世紀後半の反倫理的事件として言われているものがあります。関係者がその問題性に気づきながら、それを見逃してきた事件は、いくらでもあるわけです。また現実にはミルグラム研究などは人体実体に近いものですね。本当の被害は与えてないんですが、実験者、被験者を2種類に分けて、ランダムに分けたふりをして本当はランダムではないんですが、一人は電気ショックを与える係、一人は電気ショックを与えられる係にランダムに分けて電気ショックを与えさせるという実験をする。本当はウソで、戦後ですから、非人権的なことはできないので、本当に電気ショックを与えてはいないのですが、電気ショックを与えられた演技を被験者Aグループは事前に言われてサクラでしているわけです。被験者Bグループはボタンを押す係にさせられて、そのことを知らないわけです。結局これ以上ボタンを押したら相手が死ぬかもしれないというボルトになっているのに、押せと命令されるわけですね。そしたら押してしまうわけで、人間は。ナチス・ドイツの頃の人間の集団同調性とか、権威への屈伏に関する実験をしたということがありますが、本当に電流を流される人はいないからいいだろうと当時は思ってやったんですが、傷つける側になった側が、その後、今で言うPTSDになったんですね。「その人が死んでしまうところまで電流のボタンを押してしまった」という事実。本当は後から「それは違うんだよ」とウソだったとわかったんですけど、相手を殺すかもわからんボタンを押したということで彼は心が傷ついてしまった。その後、こういう研究はいけないと禁止されたんですが。これは研究倫理の話になりますが。
 タラソフ事件。あいつを殺したいというクライエントの話を専門職が話を聞いて、まさかそんなことないだろうと思ったらほんとに殺してしまったという話がある。その時、それは罪に問われるのかどうか。秘密保持の話は極端な例ですが、問われます。
 チャレンジャー号事件。技術倫理、工学倫理が援助学以外にもあって、チャレンジャー号はアメリカの宇宙ロケットですが、チャレンジャー号が爆発して6人死にました。あれはどうも具合が悪いことは事前にわかっていた。打ち上げるのを延期すべきだというのが技術者側から出た。けれどもそれは危ないだけであって確実に爆発する証拠はないわけですから、そこで発生する何百億円かの損失の問題もある。「技術者の帽子を捨てて経営者の帽子を被りたまえ」という有名な発言があるんですが。それで申請が無視されて打ち上げたら爆発して全員死亡した。工学倫理の重要なテキストです。その時、どうすべきだったか、問われ続けているわけです。
 高齢、児童、知的障害でもちろんひどい虐待事件は福祉の側にもあるわけで、さてそこをどう考えるか。「他から学ぶ」理論という時に、チャレンジャー号からだって、タラソフ事件からだって僕たちは学ばないといけないのではないかと思うわけです。
 コードをどう関与させるか。倫理綱領を。一つは規範として「そういうことをしてはならない」という意味でも役立つ。もう一つは、もっと具体的な実践的な解決するためのマニュアルとして役立つかもしれない。そこでコードがブレーキになりうるか。コードが促進動機になるか、コードが判断材料になるか。コードがブレーキになるか、悪い行為を止めさせるかという問いは、どんな綱領も、その気のない人には無効だろうと思います。「止めたい。してはいけない」というジレンマを感じない人には、綱領があっても暴力はやめさせることはできないので、その気がない人にはどうしようもないと思います。これは別途、罰則規定の話になるでしょう。その気のある人に、どのようなサポートができるか。止めさせられるか、頑張らせられるかは、綱領というよりは、専門職団体の問題です。専門職がしっかりとした基準を持ち、システムを持ったりすることが大事だと思います。コードが促進動機になるか。誠実に頑張る。これはどんな綱領にもあるはずです。判断材料になるか。AとBがジレンマの時に判断する材料になるか。これはなりうる綱領があるのだということになると思います。綱領にも質があって、判断材料になるような綱領が大事なのかなと思います。
 Ethical Dilemmas and Decisions、これらはEncyclopedia of Social Work20版の中の倫理的ジレンマのタイトルです。
 次に、こだわりたいところ――綱領から見て。ヒポクラテスの誓いは先程言いました。生命倫理の4原則も言いました。こういうものが共通基盤として役に立つということです。初期のワーカー綱領の魅力。医療ソーシャルワーカーの倫理綱領を見てみましょう。1961年、たった5行しかないものですが、構造的だと思っています。一つは前文「日本国憲法の精神と専門社会事業の原理にしたがい、我々は次の事柄を医療ソーシャルワーカーの倫理綱領と定める」。
 この倫理綱領からは一つは目的、ソーシャルワーカーの実践。「個人の幸福増進と社会の福祉向上を目的とする」。後の綱領では「社会福祉の向上」になっていますが、僕は社会の福祉向上の方が正しいと思います。1986年になんで黒川先生らが社会福祉向上とされたのか。ソーシャルワークの国際的なオーソドックスな、AとBの両方が価値なんだと。目の前の個人を支えること社会全体そのものを変えていくという、複眼的と言われるソーシャルワークの二つの価値、目標が書かれています。
 次に目的を支えるものの記述が必要だろうと。ソーシャルワーカー協会の倫理綱領を分析したわけですが、一つは日本国憲法の精神。つまり支えるものにも普遍版と特殊版があって、普遍版はここでは憲法だと言う。1960年前後らしいもので、今では改正しようかと話題になっている憲法ですが、とても正しいいい綱領だと思っています。一つは憲法が支える。特殊レベルでは専門社会事業の権利だと言っています。専門社会事業は竹内愛二先生らの考えだと思います。今で言うとソーシャルワークでいいんだろうと思いますが、ソーシャルワークのことを社会事業と訳していましたので、社会事業だと社会福祉一般になるので、ここで工夫して「専門社会事業」と訳されたのだと思います。専門社会事業の原理、ソーシャルワークの原則を言っているわけです。
 そういう意味で1条も前文的なものだと思います。前文的な部分に目的と、それを支えるものが書かれている。その後は具体的な、守られるべき価値、促進されるべき援助原則が、非構造的に羅列されている。これがソーシャルワーカー協会の中で構造化されているわけです。たとえば一つ目は「その意思の自由を尊重し」、自己決定の話でしょう。「秘密を守り」、秘密保持です。「無差別平等にしたがう」「その関係を私的目的に利用しない」と上げていったら、その他の中にはヒポクラテスの誓いにもあった項目が列記されている。他のところにないんだけど、時代性なんだけど、MS協会の81年のが、すごいなと思うのは5番「専門職業の立場から社会活動」、これはソーシャル・アクションの訳なんだろうと思いますが、ソーシャル・アクションという古めかしいけど大事なことが載っているのは、すごくいいですね。そして「社会保障の完成に努力する」。これも今時、出てきませんが、50年前の伝承として引き継ぐ価値があるだろう、ここのあたりがなくなってきているという気がしますね。
 この構造、目的がある。目的は「個人」と「社会」という二つがあって、支えるものも「普遍レベル」のソーシャルワークと「個別レベル」がある。そして具体的なものが列記されている。この構造が基本的にはソーシャルワーカー協会も精神保健福祉協会も全部あるんだろうと。他の構造で目立たないものだろうと思います。1988年の13番「精神医学ソーシャルワーカー協会は、個人の尊厳を尊び、基本的人権を擁護し」というのは日本国憲法の精神が、さすがに憲法では古めかしいので、この言葉に代わっています。「専門社会事業の原理」と書かれていたのが、ここでは「専門職の知識・技能・価値観」の3つに置き換えられています。構造としては同じことを言っています。そして「社会福祉の向上並びにクライエントの社会的復権と福祉」。ここで「社会的復権」というのが入っているのは、とてもすごいなと、気に入っています。PSWの特殊性として入るわけですが、構造としては社会の福祉だと思うんですが、「社会福祉の向上とクライエントの福祉」という基本構造はあると思います。
 そしてあと「法の下の平等、プライバシー、生存権、自己決定」と並んでいるということになっています。14番「ソーシャルワーカー協会は平和擁護、個人の尊厳、民主主義という人類普遍の権利」が最初の憲法のところに相当します。「知識・技術と価値観により」というのが「専門社会事業の原理」と相当する。「個人の幸福増進」では面白くないので「クライエントの自己実現」と代えています。基本的には同じ構造になっています。ここでいいなと思うのは「ともすれば人間の疎外、反福祉をもたらす」。人間の疎外ということをちゃんと定義してくれているのが、この当時のがいいなと思うところです。ついでに大事にしたい、気に入っているのは、この当時の綱領で言えば「機関との関係」の2番「ソーシャルワーカーは所属機関、団体の業務の手続きの改善向上を常に心掛け、機関団体の責任者に提言するようにし、仮に通常の方法で改善できない場合は責任ある方法によって、その趣旨を公表することができる」。つまり内部告発まで踏み込んでいるわけですね。これを踏み込んでいるのは、とてもすごいことで、2005年綱領がこれが消えてしまったのは残念で、パブリックコメントの時にはそれを残すべきだと主張しましたが、そうも、いきませんでした。こういうのはとても大事な部分だろうと思います。
 精神保健福祉協会で2003年改訂の「制定の経緯」。2004年で消えているかと思いますが、これは1973年、Y問題、人権侵害事件がありました。何十年も前、ある保健所で一人のクライエントに対して起こった人権侵害事件です。それを精神保健福祉士協会はちゃんと30年引っ張ってきた。そして倫理綱領をつくる時にY問題というものを採り上げて「我々は人権侵害をしてきたことがある」とわざわざ制定の経緯に書いている。これはとても気に入っています。老人であろうが、MSであろうが、障害者であろうが、人権侵害はいくらでもやっているけど、それをある一つの事件として流してしまっているけど、P協はそこにこだわって制定の経緯に載せたのは、すごく気に入っています。昔のだけど、すごいぞと授業で使い続けています。
 基本構造がどんどん緩くなってきて、新しい綱領ではクリアでなくなってきている気がしますが、今言った構造は大事にしたいなと思います。さらに細分化、構造化で言えば「クライエントに対する責務、専門職としての責務」という形で追加が綱領化されてきているのは、いいのだろうなというふうに思います。
 倫理綱領を実効化するためには。倫理綱領は生きるためには、たとえば内部告発は難しいかもしれませんが、ジレンマ・ケースで言うと、倫理綱領への忠誠を要求されているわけです、専門職は。宗教を信じる人が宗教にしたがうことを要請されているようなものです。としたら守ってくれないと困るんですね。倫理綱領では内部告発をしろと言っているけど、内部告発をしたらクビになって終わりでは困る。機能しないわけでしょう。
 ここで求められるのは「会の支援と懲戒のシステム」です。社会福祉士会は弱々しいけど、このことは一応書いているわけです。会として、サポートシステムもあるんだということ。施設で、こういうことがあるという問題があったら、うちに言っておいで。匿名ではあかん、ちゃんと名前を名乗っていってきたら実態を調べるということを社会福祉士会が言っています。外部の人間から見ると弱々しいですが、それでもそういうこと書かれているのはとても大事なことだろうと思います。

 レジメの行動規範の活用のところに入ります。2005年の4協会綱領は倫理綱領を4つの団体が共有しました。それにさらに各協会が自分の会で行動規範や行動基準がの細則に相当するものをつくろうということになっています。社会福祉士会の行動規範はとても優れています。今度、2007年にMS協会も独自の行動基準をつくりました。どんどん具体的なところまで踏み込んでいるものが必要になる。全米ソーシャルワーカー協会は細かい、異性との性的接触だけではなく、異性との非性的接触まであったりするわけです。セクハラだけやったら、セクハラ以外はいいのかとなりますから「非性的接触」と言うくらい、マニュアル化していっている状況もあります。
 事例研究の精緻化と蓄積のところ。事例研究を蓄積していったらいいのではないかと思っています。そういう意味での紹介ですが、各倫理綱領本とか、各種団体の本は、わりと考えさせるシステムになっているのがいいなと思います。科学技術者の倫理にチャレンジャー号事件の話が書かれたり。こんな形でたくさんの事件が採り上げられ、その時、どうされるべきだったかを考えるヒントになるような。工学士の方でもあるわけです。
 『臨床心理学入門』では面白い例があります。守秘義務で放棄が許されるのはどのような場合か。HIVの感染をした人がそのことを妻にそのことを打ち明けるかどうか。単純に言うと浮気したことがばれちゃうわけだし、HIVにかかったことが妻にばれるわけですから、ダンナは言いたくないわけです。秘密を守らずに言うと彼にとって決定的に不利益な情報をもらすことになる。しかしそのことが知らされなかったら妻がHIVにかかるという決定的な不利益を他者が被る。さてこの時に、どう考えるべきか、ということが書かれています。わかりやすかったです。こういう形で判断基準が綱領に加えられていく。タラソフ事件もその中でサンプルとして載っています。英米圏の場合の守秘義務と比較されたりしています。こういうのもいい例だと思いました。
 工学倫理で応用倫理学の部分で面白いなというのは事例研究の二つの意味が書かれています。注意すべき点がある、アメリカで採り上げられた事例は、技術者がとった行動が直接被害をもたらした云々と。アメリカは個人の行動に焦点を当てているが、そうじゃなくて個人的解決を超えた社会的要因を分析する、そういう態度が必要だろうと。事例で「この人が悪かった、もっとこうすべきだ」と個人に還元していくのは如何なものかという指摘が書かれてあって、安易に答えを求めるのは如何かという指摘が面白いなと思ったので紹介しています。
 医療保健専門職の倫理テキスト。生活個々のケースでソーシャルワーカーと作業療法士で意見が違う例が書かれています。これはこんなにいろいろなテキストがジレンマ・ケースを検討を上げていることが一つ。その中にもいろんなタイプがあることも紹介したい。検討課題ということで、答えを出す形ではなく書かれています。
 薬剤師のための倫理。ここでは事例44、患者以外の人が危険を被るかもしれない場合の守秘義務。薬をもらう患者さんを見て明らかにこれは病気だとわかった。その場合にその事実を秘密にしておくかどうか。解説で詳しく「こういうことを条件にすべきだ、しかしなおこうあるべき」ということが書かれています。この形で事例を研究していくことは大事だなと思います。
 ソーシャルワーク倫理ハンドブックが99年にソーシャルワーカー協会から出ています。これも養護施設で虐待のケースがあった。この場合、どうしたらいいか。「あなたが施設の職員だったとしたらどう対応しますか?」と書かれています。福祉はちょっと弱々しいというか、ダメみたいなことをはっきり書いていません。「どうしますか?」で止めてしまっている傾向があるので歯がゆいのではありますが。こういう形で確かに検討しようとする努力がされていることはいいことだと思います。
 社会福祉士の倫理、社会福祉士会がハンドブックで似たようなものをつくっています。ここでは参考になると思ったので、内部告発系の項目はなくなったんですが、「責任ある対応」ということで公表することは消えましたが、「倫理綱領に反する実践を許してはならない」という行動基準、それに対して、こういうふうに書かれているというのが参考です。4つの仕組み、会員への支援システムという形があり、実際、紹介をしておこうと思いました。もっとこういう点が強くなっていくことで、おかしいと思うことが、しっかり紹介されることが大事なのではないかと思います。
 保育士会の倫理綱領ガイドブック。保育士会は項目も多くありませんし、倫理ジレンマの形ではなく、単純型の「こういう時、こういうふうに頑張った人がいます」と。ここは利用者の代弁で他の関係機関とともに行政を動かした例。知的障害のあるN君が、という例があり、その後、どんな対応をしたか、そしてこの対応のポイントはどこか。成功例にすぎませんが、工夫が書かれてある。ジレンマの解決のためのハンドブックにはなりませんが、こういう形で保育士会はやっているということです。
 こういう形で事例研究や本当の事例研究もしていきたいし、ハンドブックとかの形で倫理綱領を実効あるものにしていくことをしたいね、ということが一つであり、古いものや他のものから学べますよ、ということであり、特に古いソーシャルワーカー関連団体がつくってきたことも大事にしていきたいということ。そんなことを申し上げまして、ひとまず終わりにさせていただきます。どうもありがとうございました。