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第三節 社会福祉実践における自己決定の意義と課題
―善行原則・無危害原則との関連で―      小山 隆
    
ソーシャルワーク実践においてクライエントの「自己決定」が尊重されるべきであることは言うまでもない。筆者もかつて「ソーシャルワーク関係における『自己決定』」(注1)においてこの問題を論じたことがある。そこでは、@援助関係以前に、人は思想的にも法的にも自己決定の権利をもつこと、A援助関係においては「自律尊重原理」から、当然のこととして「自己決定の権利」は導き出されること、B「具体的な状態の確保」をもって目的の達成といい難いソーシャルワーク関係においては、特にクライエント本人の自己決定の保障が重要になってくることなどを指摘した。そして同時に、C援助関係においては「仁恵原理」と「自律尊重原理」が対立する場合(パターナリズムと自己決定の矛盾状態)において単純に自己決定が優先されるべきかどうかは、一考を要すると思われること、D自由主義思想を背景に持つ自己決定権の考え方自体が、自己決定の能力を持たない人を権利の主体としては排除するという側面を持つこと、E他者から独立した「自己」を前提とした「自己決定」論で良いのか、関係性の中で「自己」をとらえていくべきなのではないか、といった課題を指摘した。

1)パターナリズムから自律尊重原則重視へ

ソーシャルワーカーをはじめとする援助専門職がクライエントに対していかなる態度で接するべきか。もちろん各専門職ごとに、それぞれ固有の問題を抱えてはいるのだが、各職に共通するであろう問題をひとつ挙げるとすれば、援助に当たってパターナリズムを背景とするか自律尊重原則を前提とするかという話になるのではなかろうか。
周知の生命倫理の四原則である、「無危害」「善行」「自律尊重」「公平」は援助専門職全体にとっての共通原則としてもよいように思われる。(注2)そして、各専門職は四原則の具体的な内容についてそれぞれ固有の展開をしていくことになると思われる。(注3)
援助職の歴史における最初の倫理的宣言といいうる「ヒポクラテスの誓い」の中で「無危害原則」と「善行原則」は「私は、能力と判断力の限りをつくして、患者に益する養生法を施し、不正な害を与える方法を決してとらない。頼まれても、致死薬を与えない。そのような助言もしない。」(注4)といった形ですでに誓われている。
医療をはじめとする援助職は、この「無危害原則」と「善行原則」を二千数百年以上にわたって重要視してきたわけであるが、近年これらを最優先する態度は「パターナリズム」として、批判されることが多くなってきた。これは、もうひとつの重要な援助原則である「自立尊重原則」と衝突するものとして、ワーカーの一方的な「善意」の押し付けを否定するものである。
自律尊重原則なしの、善行原則と無危害原則によって構成されていた古典的な援助観が間違っていることは論を待たない。(注5)従来援助を受ける側のクライエントは「対象者」として扱われ、「知らしむべからず、よらしむべし」(注6) といった扱いを受けてきたことへの、当事者側の反発とそれへの市民の支持と、援助者側の反省は正しい。
 そして、それ(援助に当たってクライエントの自律性を前提とする自己決定が尊重されるべきこと)がもはや、日本においても社会的コンセンサスをうる状況になっていることは、近年の医療裁判の結果などを見ればわかる。代表的な訴訟が、自らの信ずる宗教の教義を理由とする「輸血拒否」事件関連の訴訟であろう。このエホバの証人の外科手術時の輸血拒否とそれを巡る訴訟は日本でも複数生じているが、その中の代表的なケースにおいて最高裁判決は「患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなければならない。」[2000年 2月29日最高裁判決]としている。(注7)援助に当たって、必ず自律尊重原則は大切にされなければならないのであり、善行原則や無危害原則はそれら単独ではもはや存立することは許されないのである。福祉でいえば、行政による「措置」から利用者による「契約」へという流れなどがこのことを端的にあらわしているといえよう。
 過去においては、13世紀から14世紀にかけて生きたフランス人医師のアンリ・ド・モントヴィルは、「すべての患者に治ると請け合え。しかし、なんらかの危険性があるなら患者の両親または友人に話すように」と述べ、彼は「希望をもち続けさせることが治療に役立つならば、患者をだましてよいと考えていたよう」であったという。このモントヴィルの「嘘」は、ヘンリー・シーゲリストという人物によって「外科医は患者のためになるなら大胆に嘘をつかなければならない。たとえば、もしキャノン(司教参事委員)が病んでいるなら、司教がたったいま死んだと話しなさい。あとを継げるという希望が回復をはやめるだろうから」と例えられているという。(注8)このレベルのパターナリズムがいくら善意に基づくものであるとはいえ、現在許されないのは間違いないところである。
しかし、それでは自律尊重原則が他の善行原則、無危害原則に優先するのか、という問題が次に出てくる。これについては意見が専門家の間でも分かれるところである。究極的に自律尊重原則が優先し、すなわちクライエントの自己決定が優先されるべきだという立場と、パターナリズムに問題はあるものの援助関係を自己決定原則のみで説明はできないとする立場などである。
これらの問題をワーカーとクライエントはどのような関係にあるべきかという議論として次に検討していくことにする。

2)ワーカー・クライエント関係のモデル

 本稿では、ワーカーとクライエントとの関係について論ずるにあたって、医師患者関係において行われている議論を参考にしていくことにする。福祉、看護、教育など他の専門職と比べて、医師は「完成専門職」ともいわれ権威性が高く、また生命に関わる仕事であることなどから、高い社会的評価を受け、また法的にも特別な扱いを受けている。それだけにその援助のあり方が「独善的である」「パターナリスティックである」といった形で批判の対象にもなっている。そこで論じられている患者に対する医師の態度は福祉におけるクライエントに対するワーカーの態度の問題とも(もちろん条件付ではあるが)通ずるものがあると考えられるからである。

 ○親子関係に例えるモデル
 医療分野では1956年にサズとホレンダーが提示した三分類が古典的なモデルとして紹介されることが多いようである。(注9)「能動−受動モデル」「指導−協力モデル」「相互参加モデル」の三分類である。それぞれ医師と患者の関係を「親と幼児」、「親と青年期の子ども」、「成人同士」に擬している。

 ○牧師モデル、工学モデル、契約モデル(注10)
 村岡は、この三つのモデルのうち「牧師モデル」の患者−医療者関係はパターナリズムともいわれるとし、「医療者は子供(患者)のことを思って行動する親のように、患者は親に保護される子供のようにふるまう」とし、「患者は医療者に治療のすべてを『おまかせ』する」と指摘している。上で言う「能動−受動モデル」ということになるだろうか。そして、「工学モデル」は検査で得られたデータなどの「科学的事実」だけを取り扱う「科学者・
技術者」として医療者はふるまうとする。それに対して、「契約モデル」は、「患者の自己決定権」を中心に、「相互の立場を信頼した上に成立する契約的な」関係であるという。

  ○「伝統的モデル」「代理人モデル」「商業モデル」「相互行為モデル」(注11)
樫則章は、医師−患者関係を標記のように分類し説明している。「伝統的モデル」は「診療上の意思決定はすべて医師が行い、患者はただ黙って医師の指示に従っていればよい」とするものであり、患者の福利の促進という点からも自律の側面からもこのモデルは「捨てられるべきものである」とする。
それに対して、「代理人モデル」は「医師のなすべきことは、患者に必要な情報を提供し、その情報に基づいて患者が選択した治療行為を患者に指示されるがままに行うことである」とする。伝統モデルとは対極に位置するものである。このモデルについて樫は医師の自律が全く考慮されていないということを問題点として指摘している。
「商業モデル」は、医療といえどもサービス業であることから導き出されるもので、「医師は市場において自分の商品を売る売り手であり、患者はそれを買う買い手である。」とする。ここで注目されるのは、このモデルでは「医師と患者は、徹頭徹尾、競争関係にある」という指摘である。それぞれが自分の利益を最大化することに関心を持ち、その均衡するところに実態が生じるという、援助関係といえども、一般的な「市場関係」であるということである。樫は前二者のモデルよりは「患者も医師も自律的意思決定者」である点において優れているとしている。
 そして第四のモデルとして樫は「相互行為モデル」を提示している。道徳的地位に関して平等のパートナーであることを前提として、「診療上の意思決定は、医師と患者が話し合い、協力し合うことによってはじめて可能となる。」とし「診療上の意思決定において患者自身の考え方が果たすべき役割は重要であるが、患者自身の考え方が医師の行動を決定する唯一の要素ではない。」としている。

 ほかにも、「科学者・技術者(実験室)モデルから援助者モデルへ」(注12)というものや、有名な(よく引用される)ものに中川米造の「医療の五つの顔」(「魔法使いの顔」、「学者の顔」「科学者の顔」「技術者の顔」「援助者の顔」)などもある。(注13)いずれも、注目に値するがここでは省略する。

 3)消費者か顧客か

 上で述べてきたことを筆者なりに今回の論文の関心課題に沿って整理し、援助関係のモデルを仮に以下の表のようにまとめてみた。

表 ワーカー・クライエント関係のモデル(案)

パターナリズムモデル

コンシューマモデル

委任モデル

キー概念

親子

市場・競争

専門職・委任

援助内容の決定者

ワーカー

クライエント

双方

クライエントの立場

対象者

消費者

顧客

優先される原則

無危害原則

善行原則

自律尊重原則

全て

 (注14,15)


 ここでの焦点は、クライエントの立場であり、援助に当たって優先されるべき原則である。「対象者」からサービスの「利用者」へとクライエントの立場が変わるべきであるという理解は正しい。そのようなトレンドの中で、「クライエント」という用語も用いず、「利用者」「消費者」という用語を用いる考え方もある。しかし、筆者は「対象者」ではなくサービスの「利用者」という言葉を用いることには賛成するが、同時に「クライエント」でもあると考える。
なぜなら、クライエントがサービスの利用者であることは確かであるが、完全な意味で一般の商契約における消費者と考えるには無理があると考えるからである。本来完全な意味での「消費者」は商品を購入するに当たって、事前に十分な知識を与えられ、かつ複数の選択肢の中からよりよい商品を購入する自由を持つ。その代わりに、自らの責任で商品(サービスなどを含む)を購入した限りには、基本的には購入した結果の責任は消費者の側が背負うのである。ある意味で、「売り手」と「買い手」は「化かしあい」をしたとしても、自由競争のルールが正常に機能さえすれば問題はないことになる。しかし、質の悪いサービスを提供すれば、必ずそのサービス提供者は消費者によって市場から駆逐されるという、この楽天的な自由主義市場論が完全な意味で援助シーンにおいて成立するのかというと疑問が残る。
パターナリスティックな関わりが中心であった従来の援助関係に対して、クライエントの当事者性、主体性を強調するために、クライエントをコンシューマと位置づけ強調することは理念系としては正しい。しかし、実態としてクライエントをコンシューマ一般(サービス提供者を選び、悪質なものを排除する力すら持つ消費者)として位置づけるのは無理がある。ここでは、コンシューマの中でも顧客(文字通りの意味でのクライエント)と捉えていく必要があるのではないだろうか。
 「クライエント」は決して援助関係だけで使われる語ではない。(ビジネスの世界では一般にクライアントと表記・発音されることが多い)ひろく、ビジネスでも依頼人、顧客の意味で用いられる。例えば、広告代理店に対する広告主と弁護士に対する依頼主はどちらもクライエントである。その共通点は、「広告」について「弁護」について、依頼主の側は完全な知識や技術を持たないため、プロ(広告会社、弁護士)に対して一定の委任を行うところにある。どのような広告を行うことが効果的なのか、どのような法廷戦術でいくのがいいのか、依頼を受けた側はクライエントに対して原案を提示し、その意見を受けた上で修正し計画を定める。この依頼人と依頼を受けた者の関係は、相互の自律を前提とした競争・対立の関係ではない。依頼を受けた者と依頼者が共通の目標に取り掛かる関係である。福祉におけるワーカー・クライエント関係は、このような関係なのではなかろうか。このモデルでは、自律尊重原則は他の原則に対して単独で優先するのではなく、あくまでも善行原則や、無危害原則との対等な関係の中で存在すると考えられるのである。

 4)自己決定を「前提」とする関係を目指して

 善意の名のもと援助者の言うなりであったクライエントが、その主体性を意識し時に対立してでも援助者に自らの思いを伝えていくことを権利として確認していくことは必要である。そして、その上でワーカーとクライエントの関係を対立的なものと捉えるよりは、依頼主と請負人として共同の目標を達成していく関係として理解していくことが重要になってくるのではないだろうか。(注16)このことは、福祉の固有の問題ではなく、医師でも弁護士でも教師でも単純な「商」関係でなく、一任を受けた専門職が依頼の主旨に基づいて援助の原案を作り、クライエントとのやり取りの中で援助計画を策定していくというプロセスを本来的に経るという点で共通であり、さらにいえば援助関係ではないビジネスにおいても存在する関係である。
 この、ワーカーとクライエントが共同作業としての援助関係を営んでいくモデルは、クライエントの自己決定を尊重するに当たっての次のような問題点に対しても有効であると考えられる。それは、自己決定をある時点の固定的なものとして見ることの危険性である。また、本人が意識しているもののみをニードとしてしまうことの危険性である。クライエントの自己決定を形式的に理解するならば、ワーカー側は樫のいう代理人モデルでよいことになる。しかし、人の自己決定は固定的に捉えることができるのだろうか。例えば、家族と同居したいしたくないといった決定は一生揺らがないものだろうか。また、本人が求めていることが自動的に「正しいこと」(=この場合の意味は援助者が提供すべきこと)なのだろうか。実の親から繰り返し虐待を受けている子どもが「施設に入る」ことではなく「親と一緒に暮らす」ことを希望した場合、自動的にそれはかなえられるべきなのだろうか。(注17)ある意味で、援助者は「取り返しのきかない」自己決定に関与することは相当慎重でなければならないし、そのためにもワーカーは援助関係においてクライエントの自己決定を変化しうるものと考え、本人の希望に寄り添いながらも福祉の理念に基づきつつ、その都度の決定に関与していくことが大切なのではないだろうか。(注18)


注1 嶋田啓一郎監修『社会福祉の思想と人間観』第9章 1999年 ミネルヴァ書房 
注2 『生命医学倫理三版』ビーチャム、チルドレス著 永安、立木監訳 1997年 成文堂 が生命倫理関連の基礎的な邦訳文献として用いられることが多い。ここでは「仁恵」「正義」と訳されているものを、語感の問題で本論文では他書で用いられている「善行」「公平」とした。また、「原理」と「原則」は、同時に用いられる場合には区別されるが、本論文では区別せず用いた。
注3 もちろん、バイスティックの原則などを日本の福祉教育ではソーシャルワーク(ケースワーク)の原則として必ずといってよいほど教えるし、各援助職にはそれぞれの援助原則があるが、本論文では、全専門職が共有する規範的な原則として、生命倫理の四原則をもちいることにしたい。従来、福祉関連の研究で生命倫理の四原則を用いて論を展開することはあまりなかったように思われるが、決して無理なことでは無いように思われる。
注4 http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/michel/01/index01.html
注5 公平原則についても近代以降の制度化された援助システムの中では重要な原則となるが、自己決定問題を論ずる本論文では触れない。
注6 本来『論語』の、「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず。」における「知らしむべからず」は「知らせることは難しい」の意味で、「情報を伝えるな」という意味ではないようである。
注7 厳密には「無輸血治療」をのぞんでいるのであり、治療全般を拒否をしているということではない
注8 R.フェイドン、T.ビ−チャム『インフォームド・コンセント』酒井、秦訳 1994年 みすず書房
注9 田中伸司「患者−医療者関係」今井道夫、香川智晶編『バイオエシックス入門第二版』1995年 東進堂 他に中川米造も紹介している。
注10 村岡潔「動力学としての<患者−医療者関係>」中川米造編集責任『哲学と医療』1992年 弘文堂
注11 「医師と患者」石崎嘉彦・山内廣隆編『人間論の21世紀的課題』1997年 ナカニシ出版
注12 伊藤道哉『生命と医療の倫理学』2002年 丸善株式会社
注13 『サービスとしての医療』1987年 農村漁村文化協会
注14 ここでは、ワーカーとクライエントの「関係」にこだわったため、工学モデルといわれ、実験室モデルといわれるようなモデルに代表される援助内容の背景となる知識・技術に焦点を当てた分類軸は採らなかった。
注15 また、樫のいう代理人モデルも存在しうる。筆者の理解するところ、1970年代の障害者解放運動の中で唱えられた「介助者手足論」などは代理人モデルにつながるものといえよう。現在も障害者介護の実践現場で、特にボランティアなどとの関係の中で強調され、時にプロの介護職員に対して主張されることがある。しかし、専門職援助であるソーシャルワーク関係を論じる本論文では、このモデルは適応外となると考えられる。
注16 もちろん必要とされる援助の内容によっては、委任関係のない単純な消費者関係ですむこともありうるし、また、委任関係の名の下にパターナリズムの再生産が生じないように警戒しなければならないことも確かである。
注17 このことについては、未成年者であるから、自己決定が制限されるという法律論的説明も可能である。しかし、筆者がここでしている議論は成人であったとしても、本人の「ある時点での」「意識されている」希望が、無条件に優先されるのかという問題である。
注18 福祉の本質論的理念に反する自己決定にも援助者は関わるべきではないと思われる。その内容が何かは簡単にはいえないが、例えば、人権侵害の状況やクライエントが社会から阻害され、孤立している状態などを「反福祉」の状態と見たい。これらは、本人や家族が望んだとしてもソーシャルワーカーは支援しないだろう。