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テープ起こし
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テープ起こしなので不正確お許しを


第4回嶋田研究会発表


 言い訳とお詫び。合評会だということで、資料4「社会福祉実践における自己決定の意義と課題」をテーマとしていただきました。自分自身の関心課題がその後展開してきているということで「規範理論としてのリベラリズムとコミュニタリズム――援助における自己決定の問題を契機に――」という題にしたいと申し出ました。しかし今回、結局届かずということであります。まさにメモと書きましたように両者をつなぐ関心課題をしゃべらせていただくということにしたいと思います、個人史的な形で。
 障害者の自立生活論議への関心。僕自身、ソーシャルワークの人間で、障害者福祉の専門ではありませんが、高校生、大学生時代に障害児のボランティア活動をしていて、大学時代には大塚達雄先生の障害児のキャンプとかに参加していました。その時の僕の私的体験に引きつけて言うと、当時、強調されていたのが「受容」とか「個別」とか「自己決定」ということでした。マクロレベルの政策論の話は????????とかありましたが、ボランティアをしていた人たちの中では、今の言葉に置き換えると「ソーシャルワーク論」に相当するものとして強調されていたのは「カウンセリング的」とか「受容」とか「自己決定」「個別化」ということだったと思います。
 エピソード的に言うと、記憶に残っているのは大学1年生の時、障害児のキャンプをしていて自閉症の子どもに、どう対応したらいいかわからない。その時に4回生の先輩がさらに卒業生のエピソードを教えてくれたんです。4回生の人は福祉の人ではなかったので、ちゃんと学問的な用語で説明できなかったんだけど、一生懸命語ってくれたのが、「とにかくどんなことをしようが、先輩はその人を受け入れているんだ」ということを話してくれました。自分が後輩だった時に、驚きの経験をしたわけです。普通なら怒ったりするのを卒業した先輩は今で言うと受容ですが、それを習っていない他学部の先輩は、目前に見ているシーンを驚きの記憶として残っていて「でも、何か大切なものや。だから後輩に教えてやらないといかん」と思って一生懸命語ってくれた。1年生の僕は1年生の僕で「そんなアホな」と思いながら「何がなんでもともかく言うことをきくのかい?」と思いながら、今で言えば、ロジャーズのノン・ディレクティブを言っていたんだろうなということですが、そういうものが、ある種の正解として語られていたのが70年代だったのだろうなという気がします。
 もう一つ別のエピソードで言うと、心理的な精神医学的な影響だと思いますけど「自己覚知をすること」も大切にされていました。岩田先生のお話だったと思いますが、当時、20何年前の研究会で記憶に残っているのは、河合隼雄先生の教育分析を申し込まれたそうです。うろ覚えで不正確で悪いのですが、そしたら教育分析の予約が8年後やったと聞いて、そのようなことをするのが心理系なわけだけど、河合隼雄に教育分析を申し込んだら8年後の予約やったというのを確か、岩田先生から聞いた気がします。
 そのような形で専門職というのが、福祉なら「自己覚知」だし、心理なら「教育分析」を受けるということを通して、そして受容していくみたいなことが基本的なモデルとしてあったと思います。もちろん一方で孝橋理論をはじめとする別なモデルはあったわけですが。
 そういうことが、ある意味で僕の大学時代だったんですが、僕にとっての、という意味ですので、本当に世界で現れたのは当然10年以上前になるんですが、アメリカのIL運動、国際障害者年、そういうことがどんどん僕たちに影響を与えるようになってきました。その中で教員になった80年代には障害者の自立生活が話題になってきた時代だったと思います。その中からその当時確認されたのが、経済的自立とか身辺自立を自立と呼んでいたけれども、自己決定できる、そういうものを自立の要件にしていこうという話題になってきたのだろうと思います。つまり「自立としての自己決定論」の強調、IL運動とかリスクをおかす権利、それを僕たちは新鮮な言葉として受け止めたと思います。僕ではなく、社会としては、もっと10年早く動いているわけですが。
 自己決定権の当事者からの主張はもっと早くあったわけですが、それを僕のイメージで言うと「援助側が了解する」というプロセスが、ここであったのではないか。古くは公民権運動もあったわけですし、学生運動もあった。障害者福祉の問題に限定したら日本では青い芝の会をはじめとする運動があり、アメリカを中心にIL運動があり、そのような異議申立は昔からあったけど、70年代、僕にとっては80年代に、援助側がそれを了解するということがあった時代だったような気がします。その5年前だったら、まだボランティアをしている学生にとっては「受容」「個別化」が、より大事な概念だったのが、より「自己決定」だったり「当事者」という概念が出てきたような気がしました。それは当然大切なものとして僕も了解しました。
 ただ、その時に思ったのはレジメに「疑問」と書きましたが、その時、「自己決定しない人とか、またできないと思えるような人にとっての自己決定は何なのか?」ということを疑問に思ったりするようになり、文献1は1987年、短大の紀要に載せたものです。ホームページに載せています。「重度精神薄弱者に焦点を当てて」を書いたのを覚えています。
 言葉も古い時代ですが。経済自立、身体自立であったりする健常思考の自立論、それに対して5つに分けて、2番目は自立生活論も否定する立場として、自立生活論ではなく、自立生活論議そのものを否定し、もっと社会保障をしっかりしていく危険性を主張する立場。そして3つ目はアメリカのIL運動。4つ目はそれに似ていますが、家族概念が入っているかどうかで日本の障害者解放運動を3番とは違うものとして「脱家族」の概念があります。アメリカのIL運動には見られないが、日本の解放運動には家族を時に「敵」としていくような視点があるという意味で、3番と4番を分けて論じてみました。5番がその後の僕の意見につながっていくものですが、「関係性」の中で自立を論じていく。そんな立場もあるのではないかという形、身体障害者からそもそも自立生活論は出てきたが、知的障害者にかかわる関係者から出てくる自立論、認識の仕方。糸賀一雄さんとかが話題に出ていますが。そういうものがあるのではないかと当時、指摘しました。
 そんな中で結局、能力の議論ではなく、権利の問題、上田さんなんかを引用していますが、自己決定権を能力で議論すると能力がない人はどうなるか。権利はすべての人が持つんだという議論とか、一人きりでする自立ではなく、関係性の中でするんだと認めていく、independent のdependent から確か、加藤先生も書いておられましたが、interdependent へという議論を、当時、見聞きして、僕としては一応の了解をしたみたいなことがありました。「親等の理解・希望はともかく」ということで文献2『同志社社会福祉学』1号に載せましたが、アンケートをしまして、それで見ると、このような議論とは関係ない、身辺自立とか、経済的自立を家族は求めているということとか、ある程度、調査として上げておきました。実態は絶えず理念から遅れますから、実態はともかくとして、理念型としてそのようなことか確立されたのが世界的には70年代、僕は80年代に影響を受けたということだろうと思います。
 2番。1と2のつながりは必ずしも意識的ではないんですが、ふと気づいたら障害者の自立生活という議論はあまり話題にされなくなってきた代わりに社会福祉全体が自己決定権という話題がされる時代になってきたように、僕の私的なイメージの中ではありました。大きくは社会福祉論全体における、それまであまり話題になっていなかった自立の問題、憲法25条から13条へというマクロの変化が、一つの政策マクロレベルの理由だと思います。ミクロレベルでは援助論の中で、ソーシャルワーク論において「自己決定権」が採用されるようになってきた。援助論においてパターナリズムがよくないという批判、それが続いて援助論の内部に自己決定権が組み込まれる、それまでは援助論というのがあって、援助論は「善行原則」とか「クライエントのために」という原則。それに対して当事者側がそれへのカウンター論理を主張し始めた、それを外在的論理として了解するところまでだったと思いますが、もはや援助論が外在的批判としてではなく、内部的論理として自己決定権論を強いものとして、さらに言うなら昔から自己決定権はあったんですが、最優先されるべき、優先性のあるものとして自己決定権が組み込まれるようになったのかなという気がします。
 それはインフォームド・コンセントの問題、生命倫理における自立尊重、ターミナルケア、延命治療の問題、そういう中からの尊厳死、治療停止の問題、輸血裁判、信仰上の理由で輸血しないでほしいと言われたが、輸血をした医者が最高裁で有罪になった。本当は医師にも一杯、理由はあるんですが、シンボリックに言うなら信仰上の理由で輸血しないでほしいと言われたにもかかわらず、医者が輸血をしたことで最高裁で有罪になったという事実があります。「最優先すべきては本人の意思である」ということが法律的にも、ある種、確立されてくるような時代になってきたのかと思います。
 ところがその流れに障害者の自立の話にも「自己決定できない人はどうする?」ということにこだわったように、自己決定こそ大事だという議論の時、僕には疑問が出てきて、あたりまえすぎる問いですが、じゃ、被虐待児の場合は、自殺する人の場合は、その自己決定権をどう考えていくか。そういうことからいろいろな疑問を持つようになって、資料3。嶋田先生、秋山先生の本に載せてもらった『社会福祉の思想と人間観』に載ったものですが、「ソーシャルワーク関係における自己決定」を99年の本に書かせてもらいました。
 そこで書いたことは自己決定権が大事だと言われているが、その理由を3つの視点から整理しました。一つは人間として、そもそも自己決定というのは持つものだ。ミルの自由主義を引いたりして、人そのものが他人に迷惑にならない限りの自由を持つことがある。2つ目は援助関係論においてのパターナリズム批判から、従来は無危害原則、善行原則で援助者はやってきた。これは2600年前のヒポクラテスの時代から、すでに善行原理と無危害原理はあるわけです。けれどもそれに対して当事者側からの自律尊重原理がカウンター理論として出てきた。その理由から自己決定は尊重されるべきだと。もう一つソーシャルワークにおいては若干とってつけたようなところがありますが、ソーシャルワークが具体的に健康になる、具体的に無罪になるというような結果で表しにくい、ある種の表現しにくい目標を持つような仕事であるので、結果とか状態の確保ではなく、本人のプロセスの確保が大事になってくる仕事なので、より本人の自己決定が大事になってくるのではないか。そういう理由から自己決定権は大切であると3の次元から見た話を資料3では書きました。
 ただしどうなのかという、ある種の疑問も3点並べました。一つは本当に自律尊重原理は善行原理、無危害原理に優越するか。必ずしも優越しないのではないかと。2つ目は根本は自由主義の考え方で自己決定論議そのものが例外者を前提とする、自己決定まるまるできる議論をする限りは、まるまるできない人を横に置いておくという、そもそもそのような能力を持ったものの考え方なのだということ。0歳の赤ちゃんはそれは横に置いておく議論であること、自己決定権があると言ってみたとしても、発達段階でマイナス何カ月である最重度の重症心身障害の彼らは権利は持つかもしれないが、現実的には自己決定の権利云々という、能力云々という議論は、ひとまず横に置いておく、いいか悪いかは別として、自由主義の議論、自己決定の議論は、それができる人をまず、第一に対象にしているという、間違いではないですが、論理的な特徴、限界を持つのだということ、「福祉がそれでいいんですか?」いう話です。
 3つ目は解決に向かってどう考えるか。自己決定における自己は誰なのか。それは個人に自己決定を置くのか、必ずしも個人ではない、まさに加藤先生の引用にもあったと思いますが、人間なんだというこだわりの中から「自己決定の自己を必ずしも私個人に置かない考え方もあるのではないか」という形で指摘して、逆にちょっと甘くもなるわけですが、「個人主義を超えた自己決定権が必要なのかもしれない」という感じで話題提供しました。過去に資料1に相当する80年代の文でinterdependent として出したような話を、今度は「障害者の自立とは?」の話から、援助における関係のあり方、「援助のあり方は個人の自己決定をどこまで尊重するか?」という議論につながっていくようなことに、当時、意識はしていませんでしたが、関心を持っていたんだろうと。それが今日のタイトル「リベラリズムとコミュニタリズム」のようなところに関心を持つようになったきっかけなのかもしれないなと思うようになりました。
 あらたな援助関係の構築のために。それを一歩進めた時、ワーカーが、援助者が、クライエントの幸せを決めるというパターナリズムは間違いだと。そこまでは了解事項だと。しかしではワーカーはクライエントの召使なのか、またはただの商品の供給者なのかということに僕の中では違和感がありました。実際、僕も学生からリアルタイムの頃から青い芝の中で「介護者手足論」が出たりする、それをどうとらえていくか。「健常者はすべて敵である」という、わざと言う定義をどうとらえていくのかという時に、コンシューマー、利用者という言葉になってくる。対象者という言葉は確かにおかしいけれど、「対象者ではなく、利用者と呼ぶようになって、さらにコンシューマー、消費者と呼ぶべきなんだけれどね」というところに議論を進めたように思います。それに対して「対象者というべきでない」というのは賛成しましたが、「コンシューマーというのかな、何か違うではないか?」という強い違和感を覚えていました。そのような違和感から「ユーザーではなく、クライエントではないか」というこだわりがありました。
 その中から次に援助関係論における関係モデルへの関心へ入っていって、それが合評の対象である資料4になります。5年ほど前の嶋田先生の本で書かせていただいたことを簡単にまとめました。援助関係において人は思想的にも法的にも自己決定の権利を持つこと。そして援助関係においては自律尊重原理から当然のこととして自己決定の原理は導き出されること。そして具体的な状態の確保を持って目的の達成と言いがたいソーシャルワーク関係においては、特にクライエント本人においては自己決定の保障が重要になってくる。その上で、ただし、4番目、援助関係においては仁恵原理と自律尊重原理が対立する場合において、単純に自己決定が優先されるかどうかは疑問であること。そして自由主義思想を背景とすると、自己決定権の考え方自身が自己決定の能力を持たない人を権利の主体としては排除するという側面を持つこと。そして他者から独立した自己を前提とした自己決定権でよいのか。関係性の中で自己をとらえるべきなのではないかという課題を指摘したという上で、やはりパターナリズムには問題があり、自律尊重原理重視へとしていくことは正しいんだということを、エホバの証人の話を通して246、267で書いていきました。ただし238ページで、それは大事なのだと書いた上で、しかしそれでは自律尊重原理が他の善行原理、無危害原理に優先するのかという問題がある。究極的に自立尊重原理が優先し、即ちクライエントの自己決定が優先されるべきだという立場と、パターナリズムに問題はあるものの、援助関係を自己決定原則、自律尊重原理のみでは説明できないという立場があるとして、僕は後者の方の立場なわけで、そういう疑問を持つということですね。
 ただ前者の立場は確かにあるわけで、これをきっちり貫くとどうなるか。オランダとかになっていくわけですね。ドイツもそうですが、売春は認めないといけないことになる。それはなぜか。売春が許されないのは管理売春なわけです。女性を食い物にする暴力団の存在は絶対に許されない。しかしへんな表現ですが、ヌードでお金を稼ぐのとヌードではないけど、身体でお金を稼ぐのと、売春とは何が違うのか、自由主義の立場に立つならば。先進国でドイツをはじめとして売春そのものは認められるわけです。大麻もある程度のところまで認める。これは前提としての自由主義、自己責任をきちっと究極化していった時、そのような国もあると思うんです。そういうところまで場合によっては議論していって、セックス・アテンダント、スウェーデンですが、障害者の人たちにボランタリーに看護師とかソーシャルワーカーが性の相手をする、専門職が。そのようなことも正当化されている先進国がある。そのような概念と、結婚しない人の性的な関係は良くないという価値観の国では論理の立て方自身が違う。そして日本という国は、どちらを選んでいるのかという議論をしないといけないと思う。

 ソーシャルワーク論、援助論に限定した時、ワーカーとクライエント関係をどう見ていったらいいかという話を、いろいろな本を見てみました。一つは親子関係、一番古いのは50年くらい前に児童分野で、ワーカー・クライエントを、医者・患者関係を親子関係にたとえる文献が出てきています。親と幼児、親と青年期の子ども、成人同士になっていくという形で分類するような見方とか。牧師モデル、工学モデル、契約モデル。モデルとしての比喩ですが、医学モデルはソーシャルワークでは悪い概念のように使われますが、それと同じように牧師モデルは患者・医者関係を牧師のように見るパターナリズムなんだと。患者は医療者にすべてをお任せする見方。もう一つは工学モデル。サイエンティストとして血液の数値とかにしたがって技術者として見るモデル。もう一つは契約モデルがあって患者の自己決定権を前提にしながらも契約に基づいて行動する。そういう関係があるという説明もありました。あとは伝統的モデル、代理人モデル、商業モデル、相互交流モデル。伝統モデルはパターナリズムモデルと言っていいだろうと思います。代理人モデルは医者のなすべきことは患者に必要な情報を提供し、その情報に基づいて患者が選択した治療行為を、患者に指示されるがままに行うことである。伝統モデルとは対極に位置する。そういうことで医師の自立が全く考慮されていない。医師の自立は必要ないという議論もあるわけで、ここが論点になってくるわけです。次に商業モデルは医療といえどもサービス業であることから導き出されるもので、医師は自分の商品を売る、売り手であり、患者はそれの買い手である。そうすると医師と患者は徹頭徹尾競争関係にある。踏み込んでみると、なるほどとなるわけですが、障害者解放運動はここで言うなら代理人モデルの立場だし、現在の基本的な福祉政策の方向は商業モデルに相当するものを導入しているだろうと。伝統的モデルではいけないということで、商業モデルに向かおうとしている。その歴史的背景には代理人モデルを強調する当事者運動があって、そこで当事者の主体性を援助側が受け入れる素地に至ったので、一気に商業モデルへマクロ施策も行けたのだろうという気がします。そういう形の中で市場関係として援助関係を見る。これは前二者よりは優れているという基準になっています。
 第4モデルとしては交互交流モデルがある。援助者とクライエントをパートナーとして見る。診療上の意思決定は医師と患者が話し合って協力しあうことによって可能となると考える。自己決定は重要ではあるけれども、患者自身の考え方が医師の行動を決定する唯一の要素ではないんだということになって、僕自身はここに強くコミットしているところがあります。いろいろなモデルを紹介した上で、消費者か、顧客かということで僕なりに3つに分けてみました。
 パターナリズム、コンシューマー、委任。キー概念に援助内容の決定者、クライエントの立場が優先される原則。僕個人、委任モデルがいいだろうという思いであります。僕自身はクライエントという言葉に関して、対象者ではなくサービスの利用者はわかるが、同時にクライエントでもあるんだということを考えたりしました。もしコンシューマーモデルを使うならば、基本的には購入した結果の責任は消費者が負う。ある意味で売り手は買い手と「ばかしあい」であるということになるが、この自由主義市場論が完全な意味において援助支援において成立するのか。これは明らかに医療とか福祉は完全市場ではありえないわけで、経済的には準市場でしかありえないことがあります。そういうことにつながってくる指摘であります。「自律尊重原則は、他の原則に対して単独で優先ずくのではなく、あくまでも善行原則や無危害原則との対等な関係の中に存在すると思う」ということを強調しました。最後に自己決定を否定したいとういことではありませんので、前提とする関係を目指して、ということで整理をしました。
 ここで自己決定最優先論に陥ることへのある種の疑問、危険性として、自己決定をある時点の固定的なものとして見ることの危険性や、本人が意識しているもののみをニードとしてしまうことの危険性を上げました。そういうものが代理人モデルでは、これらの問題が許されることになるわけです。本人が決定して購入したわけですから。そうではなく、共にしていく、そのことが必要なのではないかということを主張したのでした。一応、合評会ということで詳しくしゃべらせていただきましたが、それが資料4です。援助関係論における関係モデルに関心を持つようになり、資料4を書きましたということでありました。

 社会福祉援助/ソーシャルワークの固有性は? 僕のトータルな中では関心があることですが、こういう議論の中からでもあり、同時並行としてでもあり、僕自身の中ではソーシャルワークとか社会福祉援助について固有性とは何かということを考えてきました。僕の中ではつながっています。問いとしては「援助関係において自己決定最優先は否定できるとして、じゃ、社会関係において自己決定最優先を否定できるのか?」と考えたら、それは難しいかなと思いました。別な問いとしては、脱施設、地域移行を善だと一般的にするならば、施設での生活は悪だということになります。その場合の否定されるべき施設とは何なのか。相部屋であることがいかんのか、ルールづくめの生活がいかんのか。職員がコントロールしている空間がいかんのか。グループホームは施設なのか。シンボリックにはAかBかと分けられるけど、その中間的な存在をどのようにして裁くのか、10人部屋の施設はあかんと言えるけど、個室化して時間も完全に自由なグループホームは悪というのか、善というのか。それには在宅がいいのかという単純でない、別なその都度その都度、その事実を判断する評価軸、価値があるんじゃないかということが気になったりしてきました。そういう意味で、さらに別な問いとして、本人が施設にいたいというならそれでいいのか。またはちょっと極端すぎる例ですが、本人が独居を選び、結果的に孤独死したなら、それも本望と言えるのか、極端に言うと自己決定優先論ならそうなるはず。地域移行が正しいというのは誰が決めたのか。自己決定優先なら本人が決めることで終わるはずなのに、地域での生活がよいなどと誰かが決めたはずのわけで、そうすると自己決定権以外の、そのような善を論ずる論理があるということになる。
 蛇足ですが、あるワーカーの最もつらかったこと。今、大学の先生をしている方が、ホームヘルパーをしておられた時、一番しんどかったことというのが、訪問先のクライエントがほんとに瀕死の状態だった。それは何か宗教に入っておられて、ご本人の周りの人たちが拝んだら治ると信じておられる人たちで、ご本人も親戚も皆が拝んでおられる。「絶対に医者につれていくことは許さない」とおっしゃった。その人は元看護師でヘルパーをしていて今は大学の先生ですが、医学的にまずい、今、つれていかないといけないと思うんだけど、ご本人も意識があり、信仰を持っておられるので自分も行きたくないとおっしゃる。家族も親戚も集まって拝んでいる。明確な強い相互的、個人的意思がある。しかしかじゃ、さようならとはよう帰らない。所属長に電話をしたら「病院につれていくまで戻ってくるな。何がなんでも努力しろ」と命じられた。しかしながらどうしようもない。その状態が一番つらかったという話を聞いたことがありました。

 僕たちは何かを考えていかないといけない。そういう時、医師も教師も弁護士もクライエントの自己決定を優先するけど、ただ自己決定を認めるのが仕事なのだとしたら、医師も教師も区別がつかなくなるわけで、そうじゃなく、何かがあるとしたら、医者が自己決定を大事にしながら何かを大事にするし、福祉の人間は自己決定を大事にしながら何かを大事にする。その何かを議論していきたい。ソーシャルワークの固有性のような話になる、現実には自立論とは脱線するのですが、僕の物語の中では関連していて、この問題に関心を持つようになってきました。
 思いつくまま並べるなら、善行原理の善行の中身、その専門職が持つ価値になるかと思いますが、これは指定していく努力をしていくのがいいだろうと。これは僕の仮説だということですが、医療は痛みとか怪我とか病気を敵と見て、健康とか命を大切にしていく仕事だろう。司法は法的な公平、正義、秩序を目指す。教育は日々人間の成長・発達を目指す仕事だろうと。福祉は何なんだろうと仮説をしていく。その時、人権とか、自己実現はあえて言うと、他も目指さないといけないような気がします。ここでは固有性論に関心があります。これは僕の個人的な仮説であって、あたりまえのことですが、ここを皆が考えていかないといけないと思う。僕がそこで思っているのは、社会的存在としての人を相手にし、孤立とか疎外を敵と見る、そういう状況の認識の仕方が福祉の視点ではないか。これそのものは医療ではないだろうし、教育ではないだろう、司法ではないのではないか。福祉のテーマではないか。もちろん福祉は健康も大事にします。精神科医療は当然、この側面を持つだろうと思います。重なりあいはしますが、一義的な出発点は医療は健康・命だったりする。福祉を社会的孤立とか疎外を敵とするような出発点から見ればどうか。たとえばCOSとか、セツルメントであったり、脈絡の中では説明が可能なのではないかという気がしたりしています。
 この議論で言うと、施設か、在宅かという場に答えがあるのではなく、その時、その在宅がその人を孤立させているかどうかが問題なのだということになるので、ケースバイケースの判断基準を持つことになる。在宅であっても、その人を鍵をかけて閉じ込めていることになるならば、それは孤立させてしまっているのだから、家でさえあればいいということにならない。僕の中では数年前、この時点で答えが出た気がしたんです。これで福祉を、ある程度説明できた気になったんです。しかし「脱施設化」を強調する院生がいて、その院生にこの話を個人的な雑談の中で言って「脱施設は大事ではなく、脱孤立化の軸で行くべきだ」と話したんです。一応「なるほど」と言ってくれたんですが、やっぱり納得できないと。彼は「そこでこだわりたいのはノーマライゼーションや」という話をしたんですね。ノーマライゼーションって何かなと、そこで考えたわけですが、「なるほど」とポンと連想したのが、昔の養護学校から普通学校かの障害児の学校論争の時にあった議論の中で、一つはケースバイケース、普通学校に行って明らかに苦しむことがわかっているような状況の人たちは養護学校での専門的援助があってもいいんじゃないかという議論、何がなんでも養護学校がいいという議論は成り立たないわけです。何がなんでも施設がいいという議論は成り立たないわけですから、ケースバイケースだという議論が一つあるのに対して、何がなんで地域の学校だという議論が成立したわけです。そこでいじめはあるかもしれない。彼は落ちこぼれるかもしれない。それでも地域で、普通学校で学ぶべきだという議論があったのを確かに思い出しました。ノーマライゼーションはそっちへつがる議論なんだということが思い出されてきました。
 その中で、僕としては地域でのあたりまえの生活が目指されるべきだという価値観、ノーマライゼーション、そこでいじめがあったりするのは別な価値観であって個別に解決すべきことであって、いじめがあるかもしれないから隔離するのは間違っているんだと。前提として他と同じ、他者と同じが保障されるべきだという価値観と、本人の自己決定が優先されるべき、養護学校に行くべきか、普通学校に行くべきかは、本人の自己決定が優先されるべきだという価値観と、また両者にかかわらず、虐待されるような、いじめがあるのは許されないという価値観と、そこには福祉実践にあたって、いくつかの価値が採用されている、混じり合っているんだなと気づきました。それが一般には「倫理的ジレンマの問題」と言い、それをケースバイケースで事例的に解決すべきだと、問題が併存しているというべきなんですが、ここで僕としては欲を持って「これを並列的に存在するものとしてではなく、構造的にとらえることができるんじゃないか」と関心を持ちました。これは論文や文章に、まだできていません。
 加藤先生の4つではないですが、3つの層にできるんじゃないか。全くの思いつきです。一つは近代の市民社会論、自由主義社会の論理としての自己決定、自由主義というのが現代社会の基本原理になっている。それは福祉の論理ではなく、近代社会、現代社会の基本的原理として自由主義が、まず前提としてある。そこで人は他人に迷惑をかけない限り自己決定をする権利を持つ。これは存在的に持っているんだと。
 その次は援助論における注意原則としてのノーマライゼーション論がある。注意原則というのは、ほっておけば援助というのは人を隔離する傾向にある。つまりより効率化するために教育でも、医療でも、福祉でも、人を自然な地域から引き離して固めてまとめて援助する傾向にある。また入院期間がほっておくと長くなる傾向にある。したがってそのことには注意しないといけないという異議申立の論理としてノーマライゼーションがあるんじゃないか。そういう脈絡の中で「脱施設化」とか「地域移行論」もとらえられるだろう。医療であろうが、福祉であろうが、教育であろうが、入院期間はできるだけ短くしなければいけないし、特別学校に閉じ込めることはないようにしないといけない。すべての援助職が心掛けないといけない注意事項としてノーマライゼーションという視点はあるんじゃないか。
 さらにその上に福祉の持つ固有性的な議論として「脱孤立」「脱疎外」がある。他の援助職が、これを持たないとは言っていません。医療には医療の、教育には教育の、基底的なものがあるという、全くの仮説ですけど、ここが福祉かなと思っているという議論を、一つ考え、関心を持っていて、ちゃんと考えて展開したいなと思っているところです。

 そこからさらに僕の中ではつながっているのは、本来の題であった「規範理論としてのリベラリズムとコミュニタリズム」という話です。今のように考えてみた時、自己決定の議論とかノーマライゼーションとか言っても、その援助の中、福祉の中だけで考えているのではなく、そもそも社会として何を目指しているのかという話にまでたどりつくのやな、と思った時、「社会全体の規範理論が必ずしもリベラリズムだけではないんだな」というところに気づいたという感じがあります。アメリカだけに収斂されないことに気づいた時、リベラリズム以外にも社会の基本的な価値がある。売春をあかんと思うという社会的判断、そういうものもあるんじゃないか。それは国のレベルなのか、小さなクラブ、サークルの中なのかという議論は、ひとまず横に置いて、そのような共同体が、それぞれ固有の価値を持っていくんだという共同体論とリベラリズムは相反します。リベラリズムは普遍的なものであり、自由を尊重することを前提とします。実はカウンター理論として、普遍的な価値よりも共同体を大切にする価値があって、社会はそれを前提にして成り立っているのではないか。過度の個人主義、自己責任への抵抗の論理としてリベラリズム以外の議論を勉強したいなということを思うようになってきました。その例としてのコミュニタリズムであり、リベラリズムと一言で言いましたが、厳密には自由主義、資本主義のリバタリアンにするとロールズらの福祉国家に近いリベラリズムとは当然分けないといけなかったりする、そんなことを、今、勉強したいなと思っているところです。
 そこへたどりつく前に。もう一つ、ここにいくつのも問題意識が被さっているので、この規範理論に関心を持つ、もう一つとの問題意識は、Evidence Based Practice に代表される実証的な考え方、これが今、基本として研究の世界の中心になってきて、実証できるか、できないかという議論で論を展開しないといけない。エビデンスとして一定言える統計的なものなのかどうか。10何年前、あるアメリカ帰りの博士号をとったピチピチの人と論争していた時、当時、エビデンス・ベースドという概念は1990年では福祉ソーシャルワークではなかったと思います。empirical という言葉を彼は言っていましたが、その時に岡村理論が話題になって「ああ、岡村理念ね。なんの実証もない、あんなのはただの個人的意見にすぎないよ」と。自分からみたら、ただの論理を書いているなんぞは論文でも何でもないと、こんな話をされたのを覚えています。ちょっと極端すぎる例ですが、しかしエビデンスがない論理を軽視するのは少し違和感があります。
 実証的な考え方の主流化に対して規範的な考え方が、もう一方で必要なんだ。そういう論文とかもありうるんだということが言いたくて資料5、内部の某先生には「世の中の何の役にも立たない」と言われましたけれども、僕としては確かにエビデンスではないんですが、僕流に言うと、乳がんの切除法を決めるのはエビデンスなのか、価値判断なのか。全摘をしていた時には、少しでも命を守らなければいけないという医学的価値判断からすると、ちょっとでも切除することが大事なんだ。けれども、その時、医学にその人のクオリティ・オブ・ライフの概念を持ってきた時に若い女性が命を守ると同時に乳房の摘出を、できれば部分にしたいという対抗する価値を医学が受け入れるようになってくる。その時に部分的切除で何とかならないのかという検討が始まり、そして例えば「死亡率は10%高かったとしても、部分切除の方を選びますか、それとも10%でも安全な全摘を選びますか?」ということが、インフォームド・コンセトトされて自己決定していく。エビデンスだけではなく、その時に重要な価値があるからこそ、人は判断しなければいけない羽目になるのであって、そのような意味で医学でも、福祉でも、規範的なものの考え方は今後とも必要になるんだと思っています。
 そのことからこのリベラリズムとかコミュニタリズムを、ちょっと勉強したいなと思って今、僕の机の上には20冊くらい本が並んでいるまま、そこへ入る前で終わるということになります。終わらせていただきます。

司会 社会的な思想も入って、小山先生の思想形成が重なって展開され、大変面白かったんですが。社会福祉は実践だから倫理価値はつけられないし、いつもそこで格闘しているわけですが。それをいかに最終的に、クライエントにとって何がベストな選択なのか、そこが悩むだろうし、それをクライエントとの話し合いによってやっていくわけですが。そこをきちっとワーカーが持っていないと、価値というと個人的な価値にされてしまうから辛すぎると思うんですね。
小山 まさに用語の問題で加藤先生が厳密にきっちり定義されたんですが、価値と倫理の関係は、僕の定義では価値は何を大切にするかの問題だと。医者は命を大切にする。自分は個人的には仕事より家庭を大事にするという、私個人であったり、医師であったりするけれども、何を大切にするかが価値だと。倫理はそれも含むけれども、その価値を実現するための一連のルールまで含めたものが倫理になる。だから倫理綱領という形で一番目には価値に相当するものがあり、その後はそれを実現するためのさまざまな原則が書かれ、さらには行動基準として、もっと詳細な具体的なマニュアルがつながっていく。その一連を価値とは呼ばないのであって、価値を実現する広義なものを倫理というと、仮に定義しています。
 倫理綱領にも興味があって、関西福祉学会でしゃべった時は、倫理綱領についてヒポクラテスの誓いから1500年代の助産婦の誓いを発見して、それを紹介して、ソーシャルワーカー養成的にとらえるならば、専門職の倫理綱領はそういうものだと。それにも関心はあります。僕が価値というのは中身よりは枠組み、枠どりを、こういうふうに分けていきたいという、俯瞰していくような視点で見る時の話を今日、したということです。さらに倫理綱領などを一杯集めたいと思っていて、そういうことも現場のワーカー、現場で働く人たちへのサポートとして、個人レベルでの頭と心でのアドリブで、スーパービジョンはできると思うけれども、そうではなく「綱領のここを見てごらん」という形で、綱領がマニュアルとしてではなく、綱領で自分が悩んで答えを出していくようなことも、僕はその場に臨むスーパービジョンとは、また別な意味で、倫理綱領を大切にしていくことで「自分なりに答えを見つけ出せました」というワーカーも育ってほしいという気持ちです。倫理という言葉や倫理綱領の実態を、とても大切には思っています。
司会 価値と倫理の関係で言えば、価値や価値観は一線を超えてはならない、厳しいラインを引かないと、倫理はいつも揺れ動いてしまうと個人の問題になる。主観によってということになる。そこは倫理というのは大変厳しいものがあるのかなと。善と悪まではいかないにしても。
小山 厳密には用語の定義の問題で、そこで言う価値、そこで言う倫理は専門職的倫理であったり、社会的規範的価値であったりとか。価値の多様化ではなく、社会規範的価値であったり、厳密に言うと。そういう定義をしていかないといけない時に、定義部分を退けて使っている価値とか倫理という言葉の意味が、先生と少し違うだろうという気がしますけど。概ね理解はできます。そういうことを考えていかないといけないと思います。
質問 自己決定の自己なんですが、ジョン・デューイなどはヘーゲルを引っ張っていると思いますが、自己意識というものは状況に働きかけていくことによって形成されていくものである。状況との交互作用、インタラクション、プロダクションが自己決定の自己を形成している。それからしますとね、生活体験とか生活関係が豊かであること、共同的で主体的な生活体験や生活関係が豊かであることは、自己決定の選択の幅をもちろん広げますし、自己決定の可能力、キャパシティも広げます。そういう生活体験や生活関係とクロスさせて自己決定をとらえる必要があるのではないかということが1点。
 もう一つはクライエント・センタードネスというのはオトラックからタブローやロジャーズに伝わったものだと言われておりますが、ナラティブ、ドミナントな知らされたストーリーからオルタナティブな、自分の言葉で自分の生活史を語るということでもって、私はこう生きていくんだという、まさに自己決定的な生き方と、先生がお考えのことと何かクロスさせることで、お教えいただけたらなと思います。
小山 生活体験、生活関係に関して言うと、もちろんそうだろうと思います。本来、ソーシャルワーカー養成、専門職側の人間なので、僕の方でそれを引きつけて言うなら、僕はクライエントの自己決定は本人に決めろと言って決めるものではないんだと。選択肢が名目上の選択肢ではなく、実質的選択肢がない限り選べないんだ。選択肢をつくり、提供することが援助者の仕事なんだと。虐待されている子どもに施設に入れと言って、入りたくないと。彼にとってはその施設が選択肢になっていないと、たとえば。理論上の選択肢なんですね。僕が明日、厚生労働大臣に理論的になることは可能やと。また君らが憧れだった女優になったりも理論上可能だ。でもむりなことは、人間は願わないんだ。しんどい状況にある人は、理論上はありうる願いは持たないんだ。高校に行きたかったらいってもいいんやで、と言われたって、行けへんと思っている子どもは願いなんて、持てへんという話からね。
 僕からすると援助論なのでワーカーがどれだけ本人が選択肢をつくることが大事なんだという話をするんですが、そのことがもう少し別な文化であったり、生活の言葉で言うと、彼が体験するという言葉と、おそらく裏表やないけど、つながっているんじゃないかなという援助論の側から言うと、ワーカーがすべきこととして、選択肢を自らつくれと。そしてそうでない社会論から言うと、生活体験を豊かにしていくということが、僕にはつながるように聞こえました。
 ナラティブ論の話は、僕は、ポストモダンは、わかりませんねん。ナラティブ全体もわからないし、僕個人は、何とか古典的な近代で説明しきれるはずやというところがあるので、全然、否定はしていません、もちろん大事だし、主義主張として言う時、わざと抵抗しているだけなので、主義主張を超えて「そもそも人間なんて」と日頃語っていることは、ナラティブであったりしているのだと思いますが。きっと賛成なんだと思う上で、ただ外から見ているんだと思うんですけど、自分の言葉で語った時、自己決定できるとか、その話自身が元に戻って、それを否定するのではないんですよ、9割がそれで説明できるのはわかっているんですが、自己決定できる人を相手にしている部分があって、僕にとって俯瞰的な外的論理立て、その人と、ここで重症心身障害の子どもと両方ひっくるめて説明できるものに興味があるというところがあって。だから少なくとも今、ケースとして、ここに来ている彼に対して、まさに社会が、そして家族や専門職が、勝手に彼を定義づけてしまって自分自身が信じ込まされている自分から自由になって、自らを再構築していくというプロセスがあるじゃないかという、リアリティにおいては100%賛成です。僕の関心がある中の個別部分としては「こういうこと、大事だよね」というのは、おそらく個人的にはスーパービジョンで一生懸命、そういう論理立てで考えていると思います。
 今日の話の中のここに、もう一行入れられるという話は、逆に教えていただいたら次から深まるかという気がしています。
質問 ワーカーとクライエントの問題の前に、自己決定の問題について公の役割が抜けていると思うんです。倫理なり価値なりが、本当に今の現代、財政危機を超えられるものなのがあるのか。京都市と夕張市では考え方が違ってきているわけです。自己決定の範囲が違ってくる。そういう中で自己決定というものの中で、ワーカーとクライエントの中で、全体として楽天的なものが前提になっているけど、逆利用していこうという面も出てくるのではないか。ワーカーとクライエントの考え方なりが楽天的なベースがあるから言えるけれども、土台がひっくり返された瞬間のことを考えました。公の役割は自己決定の中で、どうとらえたらいいか、そこ地前提を置かないと全部崩れるような気がしてならないんですが、いかがでしょうか。
小山 僕も理解できますが、あくまでも社会科学系の理論はモデルなんです。一定の部分は捨象することで構築しますので、一般論で言うと、対人援助論をベースにした価値、思想を論ずる時、公のファクターを入れるのは不可能ではないかと思います。けれども純粋に理論問題として単に捨像して、つくることはつくれる。公のサイドをつくる時も、税システムをつくっているけれども、税システムのもと、具体的にそのエージェンシーがどう機能するか、機能まで論じきれなければ、本当は公が責任をとったことにはならないけれども、理論モデルとしては、まずエージェンシーの機能までは触れない財政、税分配をはじめとする税モデルの構築が一定、可能であるように、そのような意味で言うと、僕のは公を対象としていない理論モデルに関しての議論だということが一つですね。
 その上で公に関して言うと、公を触れるなら今度は逆に当事者の概念を強く設定しないといけないだろうと思います。ソーシャルワークとか福祉論側から言えば。財政学とか行政論側からすればまた違うと思います。福祉の側からすると公を設定する時は、福祉はまさに楽天的な価値を前提にしないといけないと思う。それさえ崩れてくる現状をどうするか。これについては厳密に言うと、公が責任をとれるのではなく、その議論で言うと当事者がどれだけきちっと声を上げていくかであり、そしてその当事者の圧力のもと、行政はどのように機能していくかという関係だろうと。コンシューマー論ではやや悲観的に言うなら公というものが、必ずしもオートノミーを持って全員、敵とは思わない。企業に似て感じられる。ほっておけば落ちつきたいというか、一人ひとりが、たまたま不幸であったとしても、システムを維持したいという、もはや孤立した機構になってしまっているから、福祉側からしたら、それを触るための論理は、アクションを起こしていく当事者がいて、その当事者に専門職も市民が連携することが一つだろうと。具体的には議員になったりするとかの方法論としてもあると思いますが。
 ポイントは公を、オートノミーを持ったものと見るかどうかということだろうと思いますから、僕が、その範囲を議論に入れた論理を立てろと言われれば、公を必ずしもオートノミーを持ったものとは、あえて見ないので、専門職も市民が、彼らに要請し、使っていかないといけない。それこそ行政こそサーバントであり、我々がしっかりしていたら行政もしっかり使っていく。これも楽天的モデルかもしれませんが、そこを焦点を当てた論理を立てるだろうと。立場は大いに違ったらいいので、行政とかのシステム側の人が第三者的なことを言っていたらあきませんから、行政に近い側の人は違う論理を立てて行政がオートノミーを持たないといけないなと。逆に本当に苦しい人たちは自ら苦しいということを気づけないんだ、だとしたら、まさに最低生活の保障だったり、という、一定の概念を公はすでに、法律とかで確保してきているのだから、それを逆に極端に言うと国民、市民が知らなかったとしても我々がしっかり保障していくことで、逆に彼らも育っていってくれる。北欧モデルになるのではないかと思いますけど。
質問 先程、医師が患者の拒否にもかかわらず、輸血して有罪になったということですが、あれを無罪にできる活動はできるんでしょうか。そこは大きな倫理の差があって、司法も行政の倫理も国民が支えているものですね。公の部分で、財政的に見れば市民がもっと税金を払え。そうすればミニマムも上がるのではないか。倫理と基準が、もし税をたくさん払ったらたくさんできるようになっていく。最高裁の判決を世間の常識をソーシャルワーク職で無罪にできるか。ソーシャルワーク職の中でその基準を言っていくことが無罪を勝ち取ることになるのでしょうか。極端ですが。
小山 最高裁で基準ができているんだけれども、あれは明らかに本人が繰り返し嫌だといっていたのにとか、医者の方も、場合によってはだめだと言わなかったとか。裁判は絶えずケースバイケースだから、有罪でもしゃあないかなという類のものが、実はくっついているという事実があります。状況が違った場合、いくらでも、そうだなという判決も下ると思いますのでね。ソーシャルアクションというのはケース的なソーシャルアクションはケースごとによっていくらでも起こると思いますから、あれは確定していない。ただシンボリックに自己決定というのが、ワーカー側のその思い、「こうしてあげたい」という思いよりは当事者側の「こうありたい」という思いが優先されるべきなのだということを司法のレベルが公認したという意味においては、相当程度の意味があるという、そういうレベルでとるべきではないかと思いますが。
質問 ソーシャルワーカーが過労死した時も、同じように体制が悪いとか、ソーシャルワークそのものが切ってしまうのかという危機感を持ってしまうんですね。それを最後に引っ繰り返すにはソーシャルアクションをしていかないといけないのかということになるのだけれども、こういう規範論や自己決定論は、ありとあらゆるものが超楽観論でできているから。勝手に政治家や行政マンはやるわけですから。僕もそうならざるをえないと感じているんですけど。
小山 厳密に言うと、今おっしゃったのは半分正しくて半分間違っているのは、ここで論じた自己決定論や帰阪論が経済論を入れていないのであって、楽観論に立ってはいない。そういう意味で言うと、介護保険制度について論じている人が、個々の児童相談所機能のエージェンシーのあり方についてまで触れてはいない。触れてないけれども、その理論だけでは介護保険、消費税何%にしようが、問題の解決にはならないわけです。しかしながらその理論立てとしてはその理論はしてよろしいという意味において、規範論をする人たちが税システムについての論議はしてないけれども、それは少し偏見であって、楽観論を前提にはしていない。ただ楽観論につながりそうな、それは福祉全体がそういう傾向があるわけだから、その気配を感じた時に異を唱えるのは大事な経済系の人としては大いになさったらいいと思います。
質問 バーンアウトしている現場の人たちが問題なので、その人たちを送りだす時にもっとちゃんとしたことを言わないと、僕が学者が嫌いのは、いいことばかり言っていて、実際にどうするんだという時に手だてがないわけですよ。死屍累々のところを見ると、これは間違っているのではないかなと思うわけです。先生を批判しているわけではないんです。
小山 議論を今後もしたいと思います。
質問 自己決定は大事なことですね。子どもの場合、非常に難しい。私などもパターナリズムに私も陥りましたけど、自己決定を尊重するということは、ワーカーがクライエントの幸せを決めるパターナリズムは間違いであるが、ワーカーがクライエントの召使となることも、ただの商品の供給者となることも間違いだと。これはぴったりですわ、現場の実感として。子どもの人権を尊重することが放任になってしまったり、召使になる、職員が陥ることがある。自己決定を尊重するのは子どもに任せること、任せるには子どもとの関係における信頼性がなかったらいけない。子どもの発達段階にもよりますよね。そのへんのことがモデルを見て教えられました。気がつきました。ワーカーが子どもに対して大切な役割としては子どもが自己決定をできる選択の幅を、できるだけ広く提供する。あとはできるだけ子どもに任せることをしないといけないということですね。
質問 自己決定絶対論、パターナリズムもいいところがあるよという、いろんな意見がありますね。クライエントの自己決定にワーカーも、そのプロセスに参加していく。クライエントの自己決定のプロセスにワーカーも参加する。ワーカーが参加する時は知識がいる。クライエントという言葉ですが、10年くらい前から全米ソーシャルワーカー協会の倫理綱領前文に「クライエントとは、個人、家族、集団、地域住民だ」としています。
 論理実証主義ですが、エビデンスの世界では、新しいソーシャルワーカーたちにとって社会構成主義があって、それがどういうふうに人間と社会を見ていくか。論理実証主義が出てきたのは1840年くらいのドイツに集まった自然科学者、物理学者、数学者たちであって、証拠がないとだめだよということから急速に論理実証主義が進んでいった。それ自体が一つの思想であって、虚構であって、一つの考え方に過ぎないわけです。突き放してみればいい。つまり論理実証で人間社会が説明できるか。社会科学はむりだろうと。といってそれ以外になければならない。社会構成主義でクライエントが主観的な世界だとか、好き勝手なことを言って、場合によっては、その話は妄想で虚偽であって、ウソであってもいいだろうと。本人が語っているんだから。そういう世界だと思ってはいるんですが。
小山 いっぱいこれに言いたいことはありますが、やめておきましょうか、キリがなくなりますので。