テープ起こし
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テープ起こしなので不正確お許しを


平成13年9月25日(火)
介護支援専門員現任研修
講義T「介護支援専門員の倫理」
同志社大学 文学部
   助教授 小山 隆 氏
 
 自己紹介

 同志社大学の小山です。よろしくお願いします。
 今、御紹介にありましたが、同志社大学の文学部助教授ですけれども、何で福祉をということですが、文学部社会学科社会福祉学専攻というのがありまして、日本で一番古い福祉系の大学だと、一応は自慢しているのですが。ここらへんで言うと龍谷さんも、そうおっしゃっているのでライバルですけれども。戦前から龍谷もそうなんですね。福祉も大正末、昭和初めぐらいから有名な福祉の教授がおられたんですけれども。同志社も昭和の1桁のころから社会事業学科というのがありまして、教えてやってきています。現在は文学部の中に社会福祉学専攻というのがありまして、そこで教えております。

講義概要

 レジュメは大きく1番、2番、3番という項目立てになっています。支援専門員さんは人数が多いですので、僕は滋賀で同じタイトルでするようにと言われまして、3回目です、実は。最初の1回、2回で分かってきたんですけれども、本当は2番、3番に力をいれないといけないのに、いただいている時間では1番ばかりに時間を取って、2番、3番が駆け足になっています。それでもということで、実際には11時半を少し過ぎたりしていますので、お許しをいただきたいと思います。
 まず、今回がもう3度目ですので頑張って、本来いただいた題に焦点を当てたいと思うのですが、やはり確認したいみたいなことで、福祉の考え方というふうなことを書きました。ここにおられる方、もちろん介護支援専門員というような福祉をバックグラウンドに持っておられる方、他に医療や看護や、さまざまな分野を教育の背景に持っておられる方がいらっしゃると思うのですけれども。僕は福祉の人間なので、そういう視点から、まず援助、地域における援助というようなものを考えて行く、そんなことからちょっと入らせていただきたいと思います。したがって、介護支援専門員そのもののことにはならなくて、やや福祉入門的な雰囲気。福祉の視点から見た援助についてというふうなことになりますので、少しだけお許しいただきたいと思います。

誰が主体か

 最初に、誰が主体かとレジメに書きました。これも当たり前のことで、この倫理、職業倫理、介護支援専門員、また看護婦、医者、そして福祉の人間を問わず、援助において主体は誰かという議論が出てきます。
 今まで僕たちが学んできた古いモデルでは、これを援助主体、援助をする人間と、援助対象というふうに言ってきました。主体と対象。例えば僕が習った福祉なんかでは、援助主体と援助対象というふうに構造を見てきました。 
 すなわち、する人と、される人の関係ということだろうと思います。お医者さんは、例え話ですけれども、手術する人で、患者さんは手術される人です。する人と、される人の関係がある。そうすると医療における主体は誰かというと医者なわけですし。される人、対象は誰かというと患者なわけですから、こういう構造がある。
 これは僕、援助においては事実だろうと思うんです。否定できない、援助のお仕事には、する人と、される人がいるのは事実だろうと思うのですね。ここを出発点にしなければいけないのは確かだと思います。そして、ここにいる我々はみんな、する人の側なのだろうと思います。
 でもここをもう少し考えておくことが必要なのだろう。福祉なんかがこだわるのは、そこから始めるわけなのですね。どういうことかというと、いつも僕、こんな例から始めます。
 何年か前にボランティア、プロではなくてボランティアの方たちですけれども、ボランティアセミナーがありました。小さなボランティアセミナーだったのですけれども。そこに80おいくつで、まだボランティアというか、地域で頑張っておられる高齢の方がおられましたが、素晴らしいことです。自分よりもずっと年下の、でもひとり暮らしで、少しお身体が弱くなっている、そういう方のところへ見守りでお邪魔されている。小山さん元気か、ということで。介護とかなさっているわけではないですけれども、顔を見せられている、そんな方がいらっしゃいました。素晴らしいボランティアをしておられる方ですよね。
 その方に僕、そのセミナーのときに失礼を承知で、○○さん、凄く素敵なことなさってますね、というお話をしていたときに、もし○○さん自身がお身体が弱くなられたらどうされますか、という話を聞きました。そうしますと、その方が躊躇せずに、本当に一瞬も悩まないで、すぐ答えられたのが、わしが寝たきりになったら死にます、とおっしゃいました。
 この言葉を、どう考えて行くかというのが、実は福祉、僕は福祉の人間なので、ここにはいろいろなバックの方がおられると思うのですが、勝手に今日は福祉の人たちをお相手のつもりのような喋り方をするのお許しいただきたいのですが、それを今言った問題を考えることというのが、僕は介護支援専門員であろうが、他の職業であろうが、援助の最初にちょっとこだわるという話だと思っています。そして、そのこだわったあとは、ずっと技術の話に入って行けばいいのだろうと思っています。
 要は、今のお話を聞いて、分かる気もするけれども複雑な思いがする。そこが大事だと思うのです。つまり、分かる気がするというのは、わざわざ寝たきりになりたいと思っている方がいらっしゃるはずはない。お医者さんだって、わざわざ病人になりたいと思っているお医者さんがいるはずがないように、ボランティアさんだって、わざわざ寝たきりになりたいと思っているはずはないでしょう。その意味では、なりたくなんかないというお気持ちは、よく分かります。 
 でも一方で、わしなら死ぬ、という言葉を聞いたときに、やはり複雑な思いがする。では何で複雑な思いがするのか。それを分析してみると、こういうことなのでしょうね。 
 目の前にいるお相手とお話をなさるとき、どんな気持ちなのか。そのときに、わしなら死ぬのに、と。おまえはまだ死なないのか、と思って、まさか接しているはずは、僕はないと思うのですね。
 つまり、まさかそんな人ならば、僕は間違った援助者だと思いますし、失格だと思います。まさかそんなことはないでしょう。
 としたら、目の前の方が実際、自分より10歳も年下の方が、もう寝たきりになって、わしは死にたい、とこうおっしゃったとする。それならその方は、目の前の方には一生懸命、そんなこと言わないと頑張りなさいよ、という話をなさっていると思います。つまり、目の前の人には一生懸命励まされている。でも自分だったらそれは嫌だと思う。
 それはどういうことかというと、する側にいるのはいいけれども、される側には回りたくないということでしょうね。その部分というのが、僕たちの中にはある。ある意味で繰り返しになりますけれども、当たり前だと。わざわざ病気になりたい人はいないから。
 でもある意味でやはり少し変。自分ならば、したくないようなことを、ではあなたはしているのかということ。そこらあたりを少し、ぐるぐると回ってみる必要というのは、みんなにあるのではないかと思うのです。
 そしてそれが、言い換えれば、もうこれはみなさんご存じのことですけれども、援助主体と援助対象と呼んできた、その考え方を僕たちは今、止めようということになって、援助を受ける目の前にいる、この彼らこそ生活主体なのだということにこだわるようになってきました。ここまでは、みんな分かっていると思うのですね。
 目の前にいる人が、もし寝たきりの方であって、一方的に私の介護を受ける人であったとしても、僕のために目の前のお婆ちゃまがいるのではなくて、お婆ちゃまのために今私はここにいるのですから、彼らこそ主体だということ。
 だから実際、ご存じのように、僕たちは、僕は福祉の教育しか知りませんけれども、福祉などではクライエントのこと、援助を受ける人のことを対象者と呼んできた歴史があります。そして今でもだから、対象者理解とか対象者の心理という言い方で、目の前の人を対象者と呼ぶことがあります。 
 でも今は、あまり使わなくなりました。そしてサービスという視点で捉えて、サービスの利用者という言葉を使うようになってきたり。また入居型だったら入所者という言い方をしたり。そういうことで利用者、入所者というようになってきて、対象者とあまり言わなくなってきた。それは理屈上、こういう展開があるからでしょう。
 参考までに言うと、ここらへんで援助のお仕事の中で一番僕は言葉としていいものを持っているのは教育だと思っています。どういうことかというと、医療も福祉もみんな、医療をする、医療される人。看護する人と、看護される人。介護する人と、される人なのですね。そういう言葉しかない。
 けど、教育だけおもしろいのです。教育する人、される人。これは同じです。例えば僕とみなさんの関係も、あえて言ったらこの空間は、擬似的には教育ですよね。僕が教育する人で、みなさんは教育される人です。
 この関係を教育として捉えるならば、誰が主体かと言うと、僕が主体なわけですね。教育する人。つまり僕がここで黙ってしまったら、ここで教育は進まない。でも失礼な言い方ですけれども、ここにおられる方の20人ぐらいが、ぐうぐう寝てしまっても、教育は進むわけですよね。でも僕がここで黙ったら教育は進まない。
 だから、主人公はみなさんだと言ってみても、どうみても僕が主人公という面は、事実あります。お医者さんだって、血だらけで意識をなくしている人とお医者さんがいたら、いくら患者さまが優先と言っても、医者が動かなければ始まらない。だから繰り返しますが、する、されるの関係があるのは事実なのですよね。でも彼らこそ主体だと、理屈では習ったりしています。
 例えば教育では、それが別の言葉があるわけです。教育するのは私で、されるのはみなさんでしょう。それに対して、もう1つの言葉、学習という言葉があるわけですね。学習というのは、みなさんの側が、する。生徒の側が主体になる言葉として、学習という言葉がある。僕が教育する人間だけども、みなさんは教育される人間なのではなく、学習する主体なのですよね。その視点から見たら、学習するみなさんにとって、僕は単なる道具に過ぎないともいえるわけであって。みなさんのほうが僕を利用する主体なわけですね。
 残念ながら、なかなかこれが福祉やら医療のほうには、教育に対して学習に相当するような言葉が、なかなかないのですけれども、意味においては同じだと思います。僕が教育する主体なら、みなさんは学習する主体なのだ。
 そういう意味でいうと、する、されるの関係。教える、教えられるの関係はあるけれども、一方で彼らこそ主体である。これはもうみなさん、それぞれの本職においても、支援専門員のための訓練においても習っておられると思います。 
 だた、ここで少しだけ確認しておきたいのは、本当にそれができているかということだけ、指摘をちょっとしておきたいと思います。ここで言いたいのは、あなた方が、つまりそれは看護婦であったり医者である、あなた方。また老人ホームの寮母であったりヘルパーであったりする本職のみなさんであろうが、支援専門員としてのみなさんであろうが、みなさんに、あなたはちゃんと彼らこそ主体だというのは分かっていますか。そのことを意識していますか。彼らを対象者というような見下ろした視点で接していないでしょうね、と聞かれたら、ここにいるみなさんは、はいそのつもりです、と答えられると思うのです。それすらできていないような人は失格だと思います。できていると思います。
 ただ僕がここで言いたいのは、みなさんのほうが上のつもりになんかなっていなくても、彼らのほうは遠慮してしまっているのですよ、ということは考えておかなければいけないと思うということなのですね。
 つまり、援助関係において、彼らこそ、彼らというのは援助を受ける人にしたら、自分たちこそ主体だと言いますけれども、それを保ち続けるのは極めて難しい。専門員さんや、お医者さんや、寮母さんが、威張っているつもりはなくても、彼らのほうが遠慮してしまうという事実を、僕たちは意識しなくてはいけないと、こういうふうに思います。 
 例えば、僕がいつも出す例なのですけれども、僕は喘息なのですね。それで入院患者だったりしたことがあるのですがね。あるとき入院していて、点滴をずっと、200時間点滴を刺していて、200時間酸素を鼻に刺していたんですが、そのときに、あるときふと夜中に目が覚めたら、点滴の管の中を血が逆流し始めている。それで生まれて初めてなので怖いですね、血が。本当なら点滴が落ちてなくてはならないのが、逆流し始めている。怖いですから慌ててナースステーションに行ったわけですね、夜中の2時ぐらいに。もちろんそこで看護婦さんは、てきぱきと流れるようにしてくださるのですがね。
 そのときの、僕の気持ちはどんな気持ちだったか、夜中の1時か2時です。ナースステーションに行きました。治してもらいます。そのとき僕は看護婦さんに、こんな夜中にごめんなさいね、と言って恐縮しているわけでしょう。
 看護婦が威張っているとは言いませんよ。おい、夜中の2時に何しに来た、なんて看護婦さんが言うはずはないですね。そんな看護婦さんでしたら失格でしょう。だから看護婦さんのほうは威張ってなんかいませんよ。でも僕のほうは、こんな夜中にすみません、という気持ちになっているわけでしょう。
 ここを大事にしなくてはいけない。みなさんが威張っているとは言いません。でも相手は遠慮しているわけでしょう。そこを僕たちは意識しておかなくてはいけない。 
 例えば、いつも言うのですけれども、ではこれをローソンやらファミリーマートに、夜中の2時に買い物に行ったときに、200円の買い物をするときに店員さんに、ごめんね、こんな夜中の2時におしかけて、といちいち恐縮して僕たちは買い物をしているかというと、していないわけですね。 
 でも考えたら、同じ200円で雑誌が買えても、昼の2時と夜中の2時は、本当はかかっているコストは全然違うわけでしょう。夜中のほうがアルバイトさんのお給料も全然高いわけだし、売上げも圧倒的に少ないですから。本当はコスト計算でいうと夜中のほうが遙かに高いです。
 でも僕らは、ごめんなさい、と恐縮しながら夜中の2時に雑誌を買いません。そのとき僕たちは遠慮がないわけですね。つまり一般のビジネスにおいて僕たち、お客さんのほうは遠慮がありません。
 でもやはり、この援助の関係においては僕たちは、すみませんほんとに、という関係があるわけですね。そこまで極端な遠慮ではなくても、僕とみなさんの関係だって、僕が威張る筋合いでないのはもちろんだけど、みなさんだってべつに遠慮する筋合いではないだろう。でもやはり講師と受講生の関係というのは、一応遠慮する関係にあるわけですね。
 実際、例えば、ここでお話が終わったあと、もしみなさんと何か感想を聞いたりするチャンスがあるとします。それでも、もし、例え話です。半々で、半分の人が、小山の話はおもしろかった。それで半分の人は、ちょっと退屈だったと思ったとしましょう、例えば。でもおわった後、僕が4、5人の方とお話をする機会があったとします。終わったあとね、質問に来られる。そのときに半々の割にならないでしょう。言って来てくれる人は、よかったですという人が言いに来るわけでしょう。わざわざうしろから前まで来て、2時間ずっと寝ていた人が近づいて来て、しかし小山さんのは退屈やったわ、とわざわざ言いに来るかといったら、退屈している人は言いに来ないわけですね。よかったと思う人だけが、よかったです、と言いに来てくれるわけでしょう。
 僕は威張っているつもりはないです。おまえらなんかは、なんて、まさかそんなことを言う教師がいたら失格ですね。僕は威張っているつもりはありません。でもみなさんのほうは、一生懸命感謝してくださるわけでしょう。そうするとやはり無意識のうちに威張ってきてしまいますね。それは僕たちが忘れてはいけないことです。
 あなたや私が、援助する側の人間が、威張っているなどと言いません。威張っていません。でも彼らは遠慮するのだという事実を忘れないことが大切なのです。そしてもちろん、あなたが上に立つようなことがあったら駄目だよ、という教育は、どの分野でも受けてきているはずです。 
 でも、それだけでは実は駄目なのだ。相手のほうはそれでも遠慮してしまうのだということ。そのことを僕たちはしっかりと意識しておかなければいけないだろうと思います。
 遠慮をなぜ相手がしてしまうかのといったら、いろいろあると思うのですね。それはやはり、お世話になっているというのもあるでしょう。そして他には、これはわざと変な書き方をするのですけれども、よい子、「子」なんて、わざと悪い書き方をしているのですよ、わざとですけれどもね、援助関係ではどうしても、よい子になることを求められるわけです、援助を受ける側が。よい子というのは教育モデルです、学校の場合、よい子、先生に対して生徒はよい子にならなくてはいけません。また医療モデルでは、医者に対してよい患者であることを求められます。
 何が言いたいかというと、指示にちゃんと従うということを援助では要求されます。このことは悪いことではないのですよ。つまり今日はお風呂へ入ったらいけませんよとか、今週は例えば、何か手術のあとだから、これこれしなさい、とか言われたら、言うことを聞かなくては治療効果が上がらないわけですから、援助においては言うことを聞こうとするのは当たり前のこと。教育でも、今日は方程式を習ったのだから、ドリルの何ページを来週までにやっておきなさい、と言われたら、生徒はやろうとするわけでしょう。これは、援助効果を考えたら、クライエントがよい子になることは大事なことです。必要なことなのです。でも、それがやはり行き過ぎるのです。そうしたら遠慮する必要のないところでまで、よい子になってしまいます。
 例えば僕が、何か喋り間違っているとしましょう。例えばざービスの利用者の主体性を尊重しなくてはいけないと喋っているのに、どこからか僕がうっかり勘違いしてまって、援助者の主体性こそ大事なんですよと、もし僕が途中から言い始めたとしましょう。それならみなさんはね、小山は言い間違っていると思うでしょう。でも自信を持って、繰り返し援助者の主体性こそを忘れてはいけませんよと、僕が2度、3度繰り返したとします。そうするとみなさんどうしますか。自信がなくなってくるわけですね。それで、すくりと手を挙げて、先生言い間違いでしょう、と言える人がいたら一番いいわけだけど、そんな人は千人に一人ぐらいですね。はじめはええっ?と思う。それで援助者の主体はいい間違いで、利用者の主体の大切さだろうと、こう思いますよね。思いながらも質問できません。でも2度、3度、小山が断言した上で終わって、では2番目にと言って次に入ったとします。それなら1番目に対する結論をみなさんは出さないといけないわけです。そのとき半々に別れると思います。これは小山の言い間違いに決まっていると思って、これは言い間違いよ、そんなの利用者の主体性を大事にしないといけないのに決まっているのだから、ということで、小山の言い間違いとして始末する人も半分いるはずです。でもあと半分の人は、うんなるほどな、そう言われたらやっぱりサービス提供者が自信をなくしたら始まらないものね、とか思って、利用者の主体をまず考えるとかいうメモを付けて、間違った総括をする人も、この中に半分ぐらいいるはずです。
 要は、それぐらいやはり、援助を受ける側というのは、援助をする人の間違いをも含めて、言うことを聞いてしまうという部分があるわけです。このことは知っておかなくてはいけません。 
 僕自身が喘息で入院したときに吸入をしましてね。それで薬を入れて、20分吸っておきなさい、と看護婦さんに言われて、それで吸い始めました。結論を言うと、看護婦さんが量を間違っておられて、5分ぐらいで薬の量がなくなったのですね。でもそれはその5分で味がなくなってきたけれども、苦労しましたよ。おかしい、看護婦さん、味がない。量を間違ったのと違うかなと思いながら、まさか看護婦がそんなことをするはずがないと思って、ちょっと口を離して見るのにも勇気がいりましたし。つまりそれは疑うということでしょう、看護婦さんを。だから凄く勇気がいって外して、やはり透明な水蒸気なのを見て、これは看護婦が間違ったのと違うかなと思って。
 どうしたらいいですか。ちゃんとした患者教育、ちゃんとしたクライエント教育をしていたら、そこで主体として、そこで堂々と援助を拒否する。つまり薬を、スイッチを止めるという選択肢があるわけでしょう。ナースコールを鳴らして呼ぶという手もあるわけでしょう。でも僕はどうしたかというと、おかしいという結論に達した上で、もう1回くわえ直しました。 
 それは、よい患者になったら、そうなるでしょう。先生が言い間違えていても、ひとまずメモを写すでしょう。だって吸っていたら怒られる心配が絶対ないからね。でもそうなってしまうのですね。大人でもそうしてしまうというところがある。
 とういうふうに考えたとき、どんどん援助を受ける人というのが、サービスの提供者の、提供者の側が上に立っているつもりや命令しているつもりはない。でも勝手に誤解していって、勝手に遠慮していって、主体性を失っていく。ただ、みなさんが奪い取っているとは言いません。でもその位置にある人は、どんどん自信をなくしていってしまうのだということです。
 もう1つ、自己決定というのも、そういうことになります。それこそ介護支援専門員という制度が始まったのも含めて今、あらゆる援助、ヘルプのお仕事で、自己決定というのは非常に重視されています。でも僕はこれを、自己決定というのはとても大事だというのは認めつつ、うさんくさいと思っています。つまり、偽ものの自己決定の尊重というのが普及していると思います。それは間違っていると思っています。
 どういうことかというと、本当の自己決定は正しいのですよ。正しいのですけれども、その自己決定というのを表面的な意味で用いた場合、かえってクライエントの首を絞めることのほうが多いのですね。
 例えば、これも些細な例ですけれども、僕が入院した最初にベッドの角度を調整、喘息ですので息苦しいですから調整しなくてはいけません。それで看護婦さんが操作をしてくれました。それでだんだんベッドが起きてきました。
 このとき自己決定を採用しないでの看護は不可能なのですね。つまり勝手に、マニュアルに47度とあるからといって、勝手に例えばハンドルを4回転回して、患者を無視して無視してはい終わりということは看護上不可能でしょう。やはりそれには患者の自己決定の導入が必要ですから、小山さん、いいぐらいになったら言ってくださいね、と言いながらベッドを起こすわけでしょ。これは、そこに援助の相互作用があるわけでしょう。それでだんだん起きている。それで小山のほうが、あっ看護婦さん、それぐらいでいいです、と言うわけでしょう。そしたら看護婦さんは、はい分かりました、ということで去って行くわけでしょう。自己決定したわけでしょう、僕。 
 もう1つ、プロの人は忙しそう、というのがあるのですね。この、忙しそうというのは、相手を致命的に遠慮させるのですね。そして本当に忙しいのですよ、みなさん。本当に忙しいのですけれども、相手によって少し忙しそうにしていませんか、というのもあったりするわけですね。
 だから、この人は話が長いと思ったら、より忙しそうにするし、まあまあと思ったら、ちゃんと相手をしてあげるし。やはり無意識に忙しそうにしているというのは白状しなくてはいけないですね。やはりそこで忙しそうにするかどうかは、みなさんの無意識のさじ加減なのですね。何せ相手は忙しそうでしょう。
 それで、何が言いたいかというと、今の自己決定しました、一定の角度で、もう僕がこれくらいでいいと思ったから、結構です、と言った。それなら自己決定した。もう自己決定した瞬間に看護婦さんはもう2メーターほど離れたところへ、次の仕事をしに飛んでいっているわけでしょう。
 クライエント、自己決定できない人間、自分で身体を動かせない人間とかは、後悔するものなのですよね。痒いところをかけたら痒くないのだけれども、痒いところをかけなかったら、痒くてしかたがないでしょう。手を使えない状態ではという意味で、自分で角度も自由にできるときは、そんなに気にならないのだけれども、これぐらいで結構です、と言った、看護婦さんがもう2メーター向こうに行っている。そうするとね、もうちょっと起こして欲しかったな、と思うものなのですね。 
 でもそのとき、相手が忙しそうでしょう。そしてこちらは自己決定しているでしょう。これって遠慮しちゃうんですね。自己決定しているとのいうのは、もの凄く遠慮させますよ、自分を。それで、ううん呼吸苦しいけどな、看護婦さん忙しそうだしなと思ったら、しょんぼりと2時間我慢するわけです。そうしたら、次の看護婦さんが2時間ぐらいしたら回ってくるから、それなら、ごめん起こして、と言って、もっと起こしてもらって、やっと楽になるわけでしょ。2時間、その失敗は尾を引くわけですね。
 だから、自己決定というのを間違わないで欲しいのは、ある一瞬に、あなたが言ったというのを脅しに使うのは自己決定ではないということね。それは親子関係でもそうでしょう。あなたがしないと言ったでしょうとか、約束したでしょうとか、あなたが決めたことでしょうというのは、自己決定を尊重にしているように見えて、あるときのその人の心で相手を脅しているだけですね。
 自己決定というのは、要は自分の感情というのは変わるものなのでしょう。昨日はこうしたいと思っていたけれども、また意見も変わって当たり前なのでしょう。その変化もトータルで含めて人は自己決定していくわけですね。 
 僕たち小学校2年生のときに、幼稚園のときに、中学1年のときに思ったままの人生を生きている人って、そういないわけでしょう。その後いっぱい後悔したり、いっぱいやり直して、今ここにあるわけです。それは自己決定できたから、ここに来ているのであって、小学校2年のときにスチュワーデスになりたいと思った人が全員スチュワーデスになっているのかといったら違うわけですね。どんどん自分は自己決定を裏切っているのではなく、自己決定は日々して行くものなのですね。そうすることによって決定して行く。
 ところがそれを、やはり援助を受ける側は、このあいだいらないと言ったからとかということを、やはり引け目を感じる部分というのがあります。それに対してやはり我々の側が、ある意味でその自己決定をどれだけ更新して行けるのかということを、こちらから差し出して行かなければ、あなた昨日いいと言ったじゃない的な接し方では、いい援助になるはずがないでしょうね。
 そしてやはりこれは、実際忙しいのは事実なのだけれども、忙しそうな態度をとりがちだということ。そして、どうしても援助を受ける人自身が援助をする人の言うことを聞こうとする面があること。これは自身が繰り返していることは、本来悪いことではないのですけれどもね。
 そして、自己決定の、間違った意味での尊重。つまり本当の意味での自己決定というのは、そんな簡単なものではないわけで。その日々変化する気持ちも含めて、要は自己決定、何月何日に自己決定したなどというのはおかしいので、自己決定し続けて行くこと。それを支え続けて行くことが大事なのですよ、援助者にとって。一昨日もう聞いたから、その件はいいわ、ではないのであって。自己決定させ続けて行くことが、ある意味でいえば自己決定の尊重なのですね。そういう意味でいったら、その間違った自己決定、ある瞬間にこれでいいと言ったみたいな。そういうことに援助者の側がこだわったりする。
 そういったいくつかのものが組み合わされることで、どんどん援助を受ける人は遠慮していってしまうということがあります。そんな中で主体性を失って行くということがあると思います。
これもだから本当は支援専門員さんというよりは、その背景にある、本来のみなさんの本職としてのお話の振り返りに戻るのかもしれませんのですけれども。例えば言葉かけひとつ、やはりこういうもの、さっきから言っているように、僕は威張っているつもりはないけれども、相手が遠慮なさるという、このメカニズムによって、よくない関係になっている。それを、ではどうやって発見したらいいのかというのは、僕はやはり、日々みなさんが努力しないといけないと思います。
 例えばそれは、僕は実は施設の今、少し大きな法人のオンブズマンをしたりしているのですけれども、そんなので外の目が入るようなこととか。とても大事だと思います。
 例えば、言葉かけひとつが、他人から見て、また僕に言わせたら、その人の家族から見て耐えられるものかどうかというのが大事なのだろうなという気がしています。
 昔、観たドキュメントで、たまたま。ちゃんと観たのと違って、たまたまチャンネルを合わせたら、やっていたのを観ただけだったので、題名も何も分からないのですが、NHKか民放かも忘れましたけれども。あるドキュメントで、大学の医学部の先生で、ご自身が脳腫瘍の手術、外科のプロの先生、その活躍しておられる若手の先生で、その先生ご自身が脳腫瘍になられて、最終的には亡くなったというふうな。それをご本人が自分でそのことに気付かれて、自分のその後をテレビに撮ってくれというようなことをおっしゃって、そしてドキュメントを撮った、そのようなのが放送されたことが、何年も前ですけれども観たことがあります。
 それがたった30分とか1時間のドラマで、お元気でばりばりしておられるところから、そして本当にだんだん、僕はよく分からないのですが、腫瘍がひどくなって、無表情になって行かれて、お喋りなさるのも、僕たち素人から観たら子どもみたいなことしか喋れなくなって行かれる。でもリハビリは続けている。そういう状況をずっとドキュメントが撮されていく。
 そんなのを観ていたときに、僕はドキュメントを観ている30分か1時間。そしてそのお元気なころの姿から観ているから、勝手に感情移入しているから、ある意味でいったら家族の側。家族ではないですけれども、勝手に家族の側に立っているのだと思うのですね。促成栽培でね。 
 そうやって観ている。さっきまでこんなに元気で、しかもご自身が活躍なさっている。それがドキュメントでいうと5分後、10分後にもう凄く悪化されていて無表情になられる、その方を一生懸命PTかOTすら僕は区別が付かないのですが、一生懸命訓練なさっている。
 そのときのシーンを僕は観て耐えられなかった。それは何かというと、その声かけとかが、本当に赤ちゃんを相手にするような声かけだったわけですね。
 それを僕が観て耐えられなかった。そのご職業を批判しているつもりはない。でもたぶん、それは僕自身がドキュメントだからこそ、ある意味で言ったら家族のような視点で、そのとき観たのでしょうね。
 実際にその場にいる人は、べつに大学教授でも何でもない。本当に脳を冒されて、本当に赤ちゃんみたいな行動しかとれない方なのは事実なのですね。だからべつに昔の職業が偉い人だから尊敬しろとかというのも理不尽なおかしい話なのですね。それは分かるのだけれども、でもそのトータルのヒストリーの中にある、その彼に対して、やはりその治療にあたっている人が、本当に子ども扱いした声かけで作業をさせようとされているのを観て、やはり観ている人間として凄く複雑な思いがしました。 
 例えば、それなども結局、無意識のうちに相手が遠慮したりする。そういう中で、今のは遠慮ではなく能力的な問題ですけれどもね、そういった意味で、僕らのほうが彼らとの関係を対等なのは頭では分かっている。相手を低い人間などと思っていない。その声かけをした人だって、昔は大学の先生であろうが、こんなやつ駄目だよなどと思っているはずは絶対ないと思います。対等な人間だというのは十分分かっているはずです。でも思わずかける声かけは、家族や他人から見たら耐えられないような声かけなのは事実でしょう。
 例えば、そういうところを僕たちが振り返っていく作業というのは、僕たちがずっとし続けなければいけないことではないのか。主体というのを意識して行く。それを大事にしたいなということを、まず1つ目に指摘しておきたいと思います。

「社会」「地域」へのこだわり

 2つ目、社会にこだわる、ということを書きました。主体にこだわるというのは、実はですから、必ずしも福祉に限らず、中学校の先生であろうが、弁護士さんであろうが、看護婦さんであろうが、関係なく誰も、援助関係にある人は、目の前の人を主体とする。そういう考え方が大事なのだというのは分かっていただけると思うのですね。
 ちょっと福祉の視点、福祉しかしないとは申しません。けれども福祉が主として開発してきた視点というのが、社会、地域へのこだわりなのだろうと思います。
 だからそういう意味では、福祉系の人にとっては本来そこにこだわることこそが福祉だと、僕は言いたいですし。福祉系でない医療や看護や、その他の分野の人にとっても。だから今申しあげる、社会や地域へこだわるという視点は、本来の医療そのもの、本来の看護そのものは別に持っていなかった視点だと思います。ただ、なるほどそれは大事だなという形では、やはりいい意味で身に付けていただくことも可能だし、必要なのだろうと。だから福祉の側から言えることというのが、社会、地域にこだわることだろうと思っています。
 それはどういうことかというと、援助のお仕事というのは、基本的に困った状態、恐れる状態から、望ましい状態、求める状態へ変化させて行こうというのが、基本的に援助だろうと思います。だから怪我をしていたら怪我を治す。痛みがあったら痛みを取り去るということでしょうね。そして、例えば弁護士さんとかだったら今、法律上のトラブルがあるのだったら、そのトラブルを解決させてあげる。というふうな感じで、困った状態を解決して行こうとするのが援助だと思います。
 もちろん例外はあります。つまり、例えばターミナルであったり、いろいろな意味の状況のよくない場合は、変化というよりは維持するというのが目的になる場合も当然ありますよ。それも当然含みますけれどもね。今はじっくり議論する時間がないので、単純化して言うなら、維持するのも含めてですけれども変化させて行く。少なくとも悪化させない。変えて行くというのが援助というものだろうと思います。
 そのとき、福祉というのは何を目指すのだろうかということ。これに関して僕は、孤立とか疎外といったものを扱うのが福祉だろうと思っています。本来的にいうと医療やら司法やら教育やら、他のものが本来的に持ってこなかったけれども、福祉が本来的に持ってきたキーワードは、孤立、疎外といったものを扱うのが援助であろうと思います。
 例えば、痴呆の在宅のお年寄りがいたとして、痴呆そのものを治すのは福祉の仕事ではありません。また分裂病の患者さんがいて、退院なさるとなって、そのお病気を治すのは我々の仕事ではありません。また障害を持っている子どもを抱えておられる、子育てに悩んでおられる、お子さんの障害を治すことは、僕たちにはできません。
 では何が仕事なのかといったら、そういったさまざまなハンディを抱えられた人は、困った問題を抱えている人ほど、人の支えが必要になるのに、困った問題を抱える人ほど孤立して行ってしまうのだという仮説ですね。それを考えたとき、これそのものはお医者さんのお仕事ではない、看護婦さんのお仕事ではないということなわけですね。
 例えば、1人目の元気な子どもが産まれた、お母さんがいる。1人目のときはその子どもを連れて実家にも帰ったし、お姑さんもよく遊びに来たし、また公園で同い年ぐらいの子どものお母さんといつも遊んで、行き来して情報交換をした。けれども2人目の子どもが重い障害児が産まれた。その途端に、1人目の子より遙かにしんどい子育てになるわけだから、仲間がいっぱいいるはずだけど、実際には公園に出て行くことを止めてしまって閉じこもってしまい。そしてお姑さんやら実家との交流も減ってしまって。そしてせめて夫の支えが必要なのだけれども、夫とも疎遠になっていってしまって、1人きりで閉じこもっていってしまう。
 そのこと自身は、弁護士さんの仕事でも、看護婦さんのお仕事でもない。でもやはり人間というのは、支えのいる人ほど孤立していってしまう。そういう部分がある。
 痴呆のお年寄りがいる。元気なときはいっぱい外へ出ておられた。けれども痴呆になって少し問題が目立つようになってきた。
 そうしたら、介護をする家族の方は大変困るわけです。でも放っといて外へ行かすわけにはいかない。結局は閉じこめてしまうことになる。そして自分も外へ出られなくなって、自分も家の中に閉じこもってしまう。例えば、買い物に行く場合、外から鍵をかけてしまうことにもなるわけでしょう。中からではなくて、外から鍵をかけて閉じこめて、出ざるを得ないようになるわけでしょう。
 また、重い知的障害のお子さんで、高等部までは行ったけれども、そのあとどこかへ行くことができない、成人のお子さんを抱えているお母さんは、やはり施設へ入れるのは可哀想だというので、家で頑張っておられる。でも歳を取っていてどうしようもない、自分自身がね。一番奥の部屋に閉じこめて置かざるを得ないということにもなるわけでしょう。 
 という形で、どんどん仲間の必要な人ほど、仲間を失ってしまう。そういう事実があるのではないか。そういった問題に焦点を当てて、孤立から結局はネットワークといったり、繋がりといったり、連携といったり、いろいろできるでしょうけれども。要は仲間がいて、繋がり合う状態へと変えて行こうとする、この視点というのは基本的には、僕は専門職の中で言えば福祉が持っている固有性だろうと思っています。 
 だから福祉の人たちは当然、この視点で援助して欲しいし。逆に言えば、医療や看護や他の分野の人も、これそのものが本来の目的であるとは、どうみてもない。でも、ああなるほど、それはそういう視点は大事だなという形で、そのご協力もまたいただければ、ありがたいと思うのですね。
 例えば、僕自身が実際に関わった例でいうと、いつもこれも言う例なのですけれども。僕は15歳のころからずっとボランティアをしていたボランティア少年だったのですがね、学生時代に、ある単発のボランティアを頼まれました。身体の大きな重度の障害のある方を、お風呂屋さんに連れて行って欲しいと。お父さん、お母さんがもうお身体が弱っておられて、お風呂屋さんに連れて行ったりできない。もう10年以上、実はお風呂に入れていない。だからお風呂屋さんに、若い者が背負って連れて行ってやってくれ、こういうボランティアを頼まれました。いいですよって、何回かお連れしました。
 そのようなお話ですけれども。その方は実はお風呂屋さんの息子さんだったのですね。ではどうしてお風呂屋さんの息子さんがお風呂に入ることができないのか。違うところにお家があるのかといったら、そのお風呂屋さんのある、その場所にお家はあるのですよ。ではどこにあるのかといったら、お2階にあるわけですね、お家は。お2階にあったら、そして梯子のような階段なのですね。
 そうすると、親御さんが年老いた。背負ってその階段を、梯子のようなところを、身体の大きな人を背負って下りることは、お父さんもお母さんもできない。その瞬間に、この家族にとって、この息子にとって、3メートル下に毎日、1年中湧いているきれいなお湯は、彼にとっては存在しないのですね。
 決して捨てておられたのではない。大切な子育てをしておられた。だから毎日ちゃんと裸にして、ちゃんと清拭しておられました。だから虐待とかではありません。
 でも、彼を社会から孤立させていく、そしてその家族が孤立して行く状況の中では、3メートル下にあるお風呂に10年間入れない。これはお医者さんの問題か弁護士さんの問題かといったら、違うのですね。 
 でもハンディを抱えた人は、社会の中で孤立していってしまうという事実がある。そういった問題を解決して行く。それが本来の福祉というものの視点だろう。だから福祉というものは、他の分野もありますけれども、ボランティアだとか地域だとかの接点が、本来的に強かったのは、こういった部分は必ずしも専門家でサポートするだけではなく、ボランティアであったり、地域住民であったりのネットが、より強く必要とされるから、ひと足先に、医療などの分野よりも、福祉のほうがボランティアの受け入れとかが進んだのだろうと思いますね。 
 今や医療だって、さまざまな意味で、いわゆる高度な治療だけではない、生活場面に踏み込んだ、それこそ変えて行くというよりは維持して行く部分も含めた医療だとか看護という領域が重要になっている。慢性のレベルの状態に対しては必要になってきているのだろうと思います。
 その意味では福祉などがやってきている部分などと重なってくる部分というのは当然出てくると思います。介護支援専門員などのお仕事というのは、そういう意味で、世界的にみても福祉の領域なのですけれども、日本においてさまざまな領域の方が、それをなさっているというのは、まさに今言ったような部分を軸に持ちながら、いろいろな専門家の人が協力し合うことで、その分野を大切にして行くことができる。そういうように考えて行くのだろうなという気がしています。
 そういう意味で、今まで地域福祉、在宅福祉対施設福祉といった対立的な考え方がありました。つまり、本によっては、昔は施設福祉中心だった。障害者とかを施設に入れようというのが、昭和20年代、30年代の日本の福祉施策だった。けれども、そうではなくて、今や地域福祉、在宅福祉を中心とするモデルに変わってきたんだというふうな説明の仕方を、福祉などですることがあります。僕は、この考え方は間違っていると思います。この図は間違いです。
 では今、僕が申しあげたような視点から考えるならば、どういうことかというと、地域の中に施設もあれば、家庭もあれば、病院もあれば、福祉事務所もあれば、お友だちのお家もあれば、学校も、保健所も、いろいろあって。それがそれぞれ繋がり合っているのが地域福祉なんだ。
 だから施設福祉もちゃんと地域福祉の中に位置付けられないといけないし、在宅福祉もちゃんと地域福祉の中に位置付けられないと駄目なのだということを、僕たちは持たなくてはいけないのだろう。その意味では、施設福祉と在宅福祉は対等な位置と見るべきなのだと思います。
 なぜかというと、ご存じのように、施設福祉がなぜ僕たちは否定的に思うのかといったら、それはやはりお年寄りならお年寄りばかりが同じ空間にいる。その非日常的であることを、僕たちは危険に思うからですね。
 さらに言うなら、そんなことは現実の施設にはないのだけれども、イメージからしたら、姨捨山のようなイメージが、閉じこめているイメージがあるからです。
 でも実は、きっちりと社会とつながっていない在宅は、どんなことになるかといったら、もっと悲惨な状況なわけでしょう。児童虐待で、どれだけたくさんの子どもが殺されているのか。老人虐待で、どれだけたくさんの人が閉じこめられているのか。そう考えたとき、施設は可哀想で家はいい、などと気軽なことを言ってもらったら困るわけですね。施設に子どもが預けられるなんて可哀想、と言って、家へ連れて帰ったら殺されることもあるわけですから。それでもいいということは、あり得ない。だからといって施設に閉じこめておけばいいという問題でも、もちろんない。 
 だから大事なのは、施設なのか家なのかではなくて、その施設にいたり家にいたりする人が、その中に閉じこめられるのではなく、繋がり合えてさえしたらいいわけです。
 ところが、今までの考え方は、考え方というより実態は、施設というのは何丁目何番地という住所をもらいながら、実際には地域から孤立してしまっていたわけです。
 それと同じように、福祉の問題を抱える在宅の家庭も、結局は地域から孤立してしまっていたわけです。死んで3ヶ月経っていても、誰にも気付かれない状況だったわけです。そして虐待で死亡事件が発生しても、そう言ったら泣き声が聞こえましたなあ、などということを隣の人は言っているわけです。
 そういう形で結局、施設であれ家庭であれ、何丁目何番地という住所をもらいながら、地域から孤立してしまっている。その状況が許されない状況なのであって。そのために例えば、単に身体的援助をするだけではなく、そういう外との繋ぎ手として、ここにホームヘルパーが派遣されたりとか、
 そういうような見守り活動をしたりして、この壁を破って繋いで行こうとすることが大事なわけでしょう。
 施設においても、ただし施設は家庭と比べたら、相当専門的な援助はできますけれども、やはり地域から完結しがちですから、ここにボランティアさんが入って行くだとか、またそういう人のサポートを得て、クライエントが地域へ出て行くだということが、積極的に促されることが必要なのだろうと思います。 そういった部分に結局、意識を大事に、神経を使っていくことがこれからなんだろうと思います。そういう意味では支援専門員なども直接なさるお仕事ではないと思うのですが、ヘルパーを派遣するとか施設に入れるということ。またときにボランティアさんを応援を頼むとかいうようなことを考えて行かれて。この繋ぎ手になってほしい。
 つまり在宅であれ施設であれ、それを地域の元にちゃんと繋いで行こう。そういう視点で援助していただけると、とてもいいなという気がしています。そんな視点で専門員の方たちも頑張っていただけたらなと思っています。

最大多数の最大幸福か

 要は言いたいのは、これもみなさんご存じのことです。その目の前の人を援助するということは決して他の人が迷惑をして、彼を特別扱いしてあげようと言っているのではない。彼を大切にしていくということは結局、社会全体を大切にしていくことなのだということだろうと思います。 
 だから1例だけ挙げるなら、20年前とか25年前にできた福祉会館のおトイレの鏡を見ると、こういう斜めを向いているのが3つに1つぐらいありますね、ご存じのやつが、おトイレの鏡が1個だけきゅっと斜めを向いていたりします。これは何かというと、車椅子の人とか低い人用の配慮でしょう。でもこれは身長180センチあるような人にしたら、顔が見えないのですよね。だから障害者のための配慮なわけですね。そして背の高い人は少し不便なのですね。でも彼のために我慢してあげようという考え方。これである限りは、すみません、お世話になります、ということになるでしょう。
 でもそうではなくて、今の新しい福祉会館はどうなっていますか。縦のまま1メーターの長い鏡になれば、それで済むわけでしょう。もちろんお金は余計にかかるかも知れませんが、でも、鏡を斜めにつけるだけでも、きっと何万もかかるはずですからね。そうコストは変わらないと思うのです。
 でもそれは、障害者を助けてあげよう。背の高い人は我慢すべきだではなくて、このまま特注の鏡を1台付ければ、身長2メートルの人から車椅子の人まで、全ての人が見られる鏡になる。誰かを配慮するということは、他の人が我慢するということではなく、誰かのためになるということは、全ての人にためになるということなのだ。それが福祉というものなのだという発想。そういったこと。これはもうみなさんご存知のことですけれども、大事にしていきたい。自信を持つ。つまりその自信を持てる形にしない限り、さっきの、される側にはまわりたくないという気持ちを抜けられないからですね。
 べつに、特別に可哀想な人を助けてあげているのでは決してない。そうではなくて、もうここらあたりは当たり前の理想論になりますから繰り返しませんけれども、支え合っているだけに過ぎないみたいな部分を、どれだけ自分の中で各人が確信を持てるかということなのだろうという気がしますね。

専門職とは
専門職の成立要件
  知識・技術・価値観

 専門職とは、というところに入ります。そして職業倫理に入っていかなければいけませんので。
 それぞれのご出身の専門職によって、ちょっと教え方が違うのですが、一般にはここに書かれてあるように、福祉の場合は、社会福祉士、介護福祉士、精神保健福祉士などでは、この3つを専門職の成立要件として挙げることが多いです。専門的知識と、専門的技術と、そして専門的倫理、価値観と言ったりもします。
 倫理と価値観の違いはということは、区別を付けていない場合が多いですが、あえて付けるならば、倫理と価値観の関係は、価値観というのがより基本的に持つもの。倫理観は、価値を実現するための体系が倫理的なものだと思います。そう意味では、厳密にはちょっと違うことだろうと思うのですけれども、ほぼ、福祉などでも厳密にそう区別を付けていません。だから3つの必要なものは何かと聞かれて、知識と技術と価値ですと言う人もいたら、知識と技術と倫理ですという人もいます。
 他の定義ではいろいろありますね。国家資格を持っていることとか、当事者団体を持っていることとか、一定の業務独占性があることとか、いろいろな定義をする説明の仕方もあります。いろいろあるのですが、ここでは一応、知識、技術、価値、もしくは倫理が必要だということにしましょう。

固有性と共有性

 ここで、固有性と共通性、と書いたのはどういうことかというと。専門職、この3つを持つのが専門家だとしたら、看護という専門家、また医療の専門家、司法の専門家、教育の専門家というのがあるとしたら、普通はどう考えてきたかというと、一本立ちした違いのあるものとして専門職を意識してきたわけですね。 
 ところがこの違いを、きっちり言い切ろうとすると、言い切れない部分があったわけです。例えば看護を、医療と完全に切り離されるかというと、切り離し切れない部分がいっぱいあるわけでしょう。そのようなのを従来どう言ってきたかといったら、看護の専門性はまだまだ低いというふうな定義をしてきたわけです。また看護と介護の関係でも重なる部分があるわけです。
 それで、どうするのかということになったとき、例えば困るわけです。それで介護は看護の一部であるとふうな答えを出さざるを得なくなったりしたわけですね。福祉士という資格ができたときがそうでした。介護福祉士という新しい国家資格ができる。そこでおむつを替えたりする。それならそれは従来、看護がやってきたことだ。介護という資格が独立するのだったら、看護でなくなるのか。いやそうはいかない。今までどおり我々もできないと困るわけです。としたら、介護という概念は看護の中に含まないと困ることになる。だから介護は看護であるという結論になったりするわけですね。
 というふうに、このグレーな部分というのが凄く、専門職を論ずるときに難しいポイントでした。それで僕は、積み重ね式に考えたらいいと思っています。 
 ちょうど、そういう意味では、介護支援専門員というのが、ちょっと変則なのだけれども、おもしろい、日本ではね。本当は各当事者団体のプレッシャーの性なのですが、医師会や看護協会や、それぞれが頑張られただけなのですが。まあ僕はおもしろいなと思っています。
 何が言いたいかというと、専門性をこうして、違いに焦点を当てるのではなく共通性に焦点を当てたら、積み重ねで絵が描けるのではないかなというふうに僕は思って、最近は説明しています。
 つまり、例えば介護福祉士と看護婦は、どう違うのかと、こういう説明の仕方ではなくて、どう共通項を持っているのかと考えたら説明しやすい。つまり医者と弁護士なんて全然違う仕事ですね。でも医者であろうが弁護士であろうが施設の職員であろうが、ヘルピングプロフェション、対人援助の専門職としては、地上1階部分にみんなで共有しなければならない知識や技術や価値の体系があるのだ。その上に今度、看護婦であれ医者であれスピーチセラピストであれ、広い意味での医療関係者なら、広い意味での法律関係者なら、広い意味での福祉関係者なら、共有しなければいけないものがある。そしてさらに、医者ならでは持っておかなければいけない、看護婦ならでは持っておかなければいけないものがある。そういうように積み重なっていると考えたらいいのではないか。
 例えば、介護支援専門員の受験勉強のときも、なさったと思いますけれども、福祉のほうではバイスティックの7つの原則というのが有名なのですね。バイスティックという人が、本来はケースワークの7つの原則。個別化、受容、自己決定、そんな話を出しました。
 だけど考えたらあれを、福祉ではこの数十年間、福祉のケースワークの原則と言って、凄く教えてきたわけです。専門性であると言って。でも考えてみたら、個別化しなさいとか受容しなさいというのは、福祉の専門性でも何でもないわけでしょう。看護婦だって受容しなくてはならないし、個別化しなくてはならないし、秘密保持をしなくてはならないし、自己決定を尊重しなくてはならないし。あそこに書いているのなんて全部、看護婦がしなくてはならないでしょう。
 そして、では弁護士はしなくていいのですか。弁護士だってあれを全員がしなくてはならないはずですよ。中学の教師だってしないといけないはずですよ。 
 でもあれを福祉の中では、バイスティックさんという人が、ある本に書いたわけです。これはいいというので、その後、福祉の原則といって数十年使ってきているのですが、ふと考えたら福祉の固有の原則でも何でもない。援助の共通原則なのですね。
 そして、例えば看護で言えば、ナイチンゲールさんが何か言って、凄く看護婦さんが大事にしていると思うけれども、べつにそれはナイチンゲールが言っただけで、福祉にだって弁護士にだって大事なことを、絶対にナイチンゲールは言っているはずですね。でもそれを私たち看護婦はと、きっとおっしゃっている。悪口で言っているのと違いますよ、これはいい意味で言っているのです。絶対に他の人にも大事なことを、各領域が自分たちの秘術の顔をしていると思うのですね。そういうふうに考えてみたら、私たちのものだと言っていたのは、本当はみんなのものだということが多いのですよ。
 僕は喘息で母親も喘息で、ずっと祖先から子孫まで喘息の一族で。弟は喘息と違うのですが、その代わりというのは変ですが、喘息の専門の医者なのですね。彼の家に行ったら、何か本があったりして、難しい病気なのでしょう、何とか病患者のための医者のカウンセリングとか、そんな本があったりするわけ。
 何が言いたいかというと、僕に言わせたら、カウンセリングなんていうのも、要は心理相談などというのは共通基礎なのですよね。けど、医者はやはりそれを心理から学ぶわけにはいけないから、医者の領域の中に何とか詰め込んで、医者のすべきことの中に何か入っているのですね。だからここあたりの難しい、心理の本だったらもっと安くあるのに、ずっと高価な本で、医者のカウンセリングみたいな本を置いてあって、おもしろいなと思いました。悪口ではなくて、誉めているのでもないのですが。
 要は他専門職から学んだらいいと思うのです。例えば、介護福祉士さんだって、介護と看護は違うのだからなどと言ったら、何とか看護婦から学ばないと介護と思うけれども、そんな必要はないので。おむつを替えるのに介護も看護もないわけで、共通に学んだらいいのです。 
 ただ人間の何を大切にしていくかと言ったら、やはりさっき言ったように、やはり命であったり、安全であったり、健康であったりを、まずは大事にしていく職業と、彼が社会の中で、どれだけ活き活きと生きられるのかとか、その関係性がどのように繋がっているのかとかを、主として大事にしていこうとする福祉とでは、ゾーンが違うから、ちょっと違ってくる部分はあるでしょうね。けれども、技術そのものは、僕に言わせたら、共通項だろうと思います。 
 そんな感じで地上1階がある。例えば地上1階の技術と、これも1個1個はまたきりがないので申しませんが、地上1階の技術とは何かと言ったら、例えばコミュニケーションの技術というのは地上1階だと思いますね。どの専門職でも、いいコミュニケーションができないといけないというのが、技術としての共通項だと思います。
 これまでも、それぞれの専門職が、それぞれ、医者こそは、カウンセラーこそは、看護婦こそは、ソーシャルワーカーこそはコミュニケーションが大事なのだと教えていると思うのですが、僕は全部に必要だと思います。
 あと、例えば、倫理、価値観のレベルでいったらどういうものがあるか。例えば無差別平等の原則というのがあります。これでね、まじめに考える人は、こういうふうに思う人がいるのです。知識、技術は個別性を持つのは分かるけれども、倫理というのは普遍性ではないのか。だから専門職の倫理というのはいるのか。人間としてちゃんとした人であれば、それでいいのではないかと語る人がいます。いい線を突いているのですね。
 例えば、この講演会が設けられたきっかけは、勝手に僕の思うのは、あの和歌山の殺人事件などだろうと思うのですが。あれなどは僕はもう教えないと言うのです。なぜかと言ったら、人殺しが悪いというのは、これはもう専門職倫理と違うのですよね。
 だから専門職になる講習で、人殺しはいけないんですよ、ケアマネージャーはと。また詐欺をしてはいけませんよというのは、僕は教える必要はないと思うのです。それは人間として、してはいけないことなのですから、そうだったのか初めて知ったと、みなさん思われるはずがないし、ケアマネージャーならこそ、ぜひしてはいけないことではないのですよ。そうでしょう。では、福祉の資格などないよという人は、人を殺していいのかというと、そんなことはないし。では大学教授だからしたらいけないのか。そんな問題とは違うのです。殺人は駄目なのでしょう。あれは職業倫理と違いますね。人としての道の話でしょう。だから、あれは教える必要はない、僕に言わせたら。人殺しがいけないことやら、詐欺をしてはいけないことはね。
 でも、そうではなくて、では専門職倫理ってあるのか、そんなものと言ったら。例えば無差別平等の原則というようなこと、差別をしてはいけないというのは、僕たち人間全てが持っていますね。だけれども、それも段階があるのです。
 何が言いたいか。例えば、それこそ最近アメリカでひどい事件がありましたけれども、大事件があった、たくさんの人がここで大怪我をなさっている。半死半生があった。そのとき我々は駆けつける。駆けつけたとき、個人の私は何をしますか。
 私の家族をまず安全を確かめたいでしょう。そして私の、他の人も可哀想だけれども、私の家族の安全を確かめたい。それは人として自然でしょう。そして自分の家族をまず助けたいと思う。これは人間として当たり前ではないですか。これは差別とは言わないわけですね。
 人としては、私の愛する人を大切にするというのは自然な姿でしょう。けれども専門家はそれが許されるかということですね。職業倫理というのは。つまり医者が目の前に我が子が血を流しているとする。でも隣にも、もっと重度の状態で血を流している人がいるとしたら、そこで我が子から助けることはできないだろう。我が子であることを越えて順番があるわけで、その、より緊急度の高い人から支えなければいけないでしょうね。これが医者というものでしょう。
 そういう意味でいったら、人間というレベルでは差別はしてはいけない。女性差別を、部落差別をしてはいけない。これは専門家ではなく、人としていけないレベルです。でも、我が愛する人を一番に考えるのは、人としては許される。でもプロは、我が愛する人を一番にすることは許されないでしょうね。そうではなくて、その専門家として今、目の前に援助を必要している人が10人いるなら、どの順番で援助するかは、好き嫌いの順番ではなく、ニードの高さと公平性。公平性もいりますね。公平性と、そういう緊急度との組み合わせの中で援助の順番が決まることになる。その場合、家族を愛するという想いは越えなくてはいけないのが、プロというものでしょう。
 というように考えたら、確かにそこに職業倫理というのは、あることはあるのです。人間としての倫理は当然あるけれども、プラス。だから人を殺してはいけないとかというのは、人としての倫理のレベルだけれども、職業倫理というのは、今言ったようなレベルを含めて乗せるわけですね。それで上に乗せていく。こういうふうに考えていったら、僕はいい援助ができるというか、よそからもっと遠慮しないで盗めるのではないかなという気がしているわけです。
 僕自身が実際、いろいろ本屋さんへ行くとき、福祉のコーナーではなくて、看護とか医療とか教育とか司法とか、よその分野の本を買うことが多いです。でもそれはべつに福祉のほうが、そちらより下だからなどとは全然思っていません。そうではなくて、例えば、医療で言ったら僕は、生命倫理などは福祉にとっても凄く役に立つのですね。自己決定をどう考えるのか。例えば、福祉で自己決定といったら、施設に入るのか在宅で頑張るのかとかということになります。
 必ずしもクリアに自己決定を、どう尊重するのかが大事なのですけれども、見えてきにくい。その点、命を預かる医療で考えたら、死にたいという人を前にしたときに、医者はどう臨むのかみたいな、バイオエシックスのほうで考えたら、究極、では我々援助者は、どんな態度を採るべきだとかというのを迫られる。それは僕はお医者さんのほうの本を読んでいたら、ああなるほど、このときはやっぱり医者としてはこうすべきだよな、という、その考え方そのものは福祉の老人ホームの相談に乗っている人が、患者さんのわがままを、どう受け止めていくのかというのを考えるときに、いただけるわけです。
 でも一方で、臓器の手術の仕方は、僕にとって関心はありません。そうですね。教育でも、地理でアジアについて、どう教えるかというのは、僕にとって無関心な領域ですけれども、不登校で、またいじめで困っているとき、クラス担任がどうやって関わっていくのかという、その部分は施設での援助を考えるにあたっても、家族の問題を解決するにあたっても生きてくるから、教育の実践事例を福祉に、僕は盗ませてもらいます。
 という意味では、重なる基礎を持ち合う専門職として、どうぞみなさんが、そういう形で盗み合っていただきたい。特に介護支援専門員などというのは、何か順番が逆になって変なのですけれども、しっかりした基礎を持っている人が、横断的な職業をしておられるみたいなところあるので、いい意味で、その基礎を共有し合う。ただし本来の本職の自分が大事にしているものというのは、やはり大事にして欲しいのですけれどもね、これは。でも大事にしながらも、より基礎を共有していく。
 そういう意味では、僕が変な表現をしたら、介護支援専門員さんをなさることで、本来のお医者さんとか、本来の看護婦さんとか、本来の福祉の相談員という職業を磨き直すチャンスになる。そんな意味でも僕は、この介護支援専門員というのは活きてくるのではないかなという気がしたりもします。

判断の専門職

 判断の専門職と書きました。これは何かというと、要は知識が必要なのは当然。その次に専門家が専門家たるには何が大事かというと普通、技術というのが目立つのですね。例えば、お医者さんがはやり凄いのは手術ができることですよね。と考えたら、技術に憧れる気持ちがある。
 実際、同志社の社会福祉学専攻でも、社会福祉士、精神保健福祉士、そういった資格が取れるわけですが。1、2年に1人、大学を卒業してから看護学校とかPT学院に入り直す子がいます。同志社大学を卒業して、大学卒で社会福祉士、精神保健福祉士の資格も取った上で、看護学校に入り直す学生が100人から200人に1人います。
 どういうことか。大学の場合は専門学校と違うので、就職はしないとならないわけではないので、福祉をやる気のない学生は一般企業に行きます。だから、あえてそんなところへ行く学生は、やはり福祉とか援助をしたい学生なのです。したい学生が福祉卒で就職できるのに、わざわざ学校へ行き直すのは何かと言ったら、やはり技術への憧れなのですよね。大学で福祉で勉強しても、理屈は習うけれども、実際におむつを替えられるようになったり注射できるようになるわけではないのですね。 
 その点、やはり看護婦さんなど、またPTさんたちは具体的な技術を持っている。それがうらやましいと思って入り直す学生がいるのですね。
 それ自身は全然悪いことではないのだけれども、僕は専門職というのを、技術に焦点を当てるというよりは、価値に焦点を当てる。だから技術の専門職というよりは、倫理、価値を大切にする専門職としての魅力を大切にして欲しいと、いつも学生諸君にも言ったりします。 
 それをちょっと別の言い方で言うと、技術の専門職というより、判断の専門職である点に魅力があるのではないかということなわけですね。否定しているのではないのですよ。否定しているのではないのですけれども、マニュアル化され、技術化される部分という部分と、マニュアル化されず、技術化されない部分と、専門援助にはあって、これだけから少なくとも成り立つのではない。福祉などは、こちらを非常に重視するわけだし。そして僕に言わせたら、看護、医療というのも、看護とかも、どちらかというと在宅の援助とかをしていこうと思ったら、こちらへなって行かざるを得ない部分があるわけですね。 
 大病院で看護婦さんが担当をあてられたら、例えば、僕も病院へよく行きますけれども、もう採血なら採血だけの看護婦さんとかもいるわけでしょう。1日中、採決室にいて、朝から晩までたくさんの患者さんの血を採っておられますね。これというのは、だからべつにそこで知識、技術、価値というので言ったら、技術をしっかりと行使するということになります。
 それ自身は悪いことでは全然ないし、とても大事なことなのですけれども。それそのものが専門性の体系ではない。そうではなくてお医者さんが、この人の検査結果がどうならば入院しないといけない、どうならば在宅で頑張ろうという、トータルの判断の中で技術というのは必要になってくるわけであって、それそのものだけをとって専門職とは言えないわけですね。たまたま役割として、それをなさっているのは、とても大事なことですよ。でもトータルの中に技術は位置付けられるべきなのだろうと思うわけですね。 
 僕がいつも言う例ですけれども、僕の歯、この歯は偽ものなのですね。それでこれはどうされたかというと、僕が虫歯のまた詰め物が取れた。歯医者に行った。今までだと詰め物を詰めてでおられたのが、これでは駄目だと思われて差し歯にしようと歯医者が思った。そして僕にインフォームドコンセントをした。もう詰めるだけでは、また2、3年したらはずれるから、削り取ってしまって、外からがばっと被せるほうがいいけど、いかがか。ちゃんと自己決定を促しますね。それはそうです、自己決定しないのに歯を削られたら騒ぎになりますから、ちゃんと自己決定する。
 それなら、そこから先、歯医者さんは何をしたかと言ったら、歯科技工士さんと歯科衛生士さんを使われるわけでしょう。歯科衛生士さんに、ガムみたいなものを噛ませて歯形をつくるのと、レントゲンを撮るというのをしろという。歯科技工士さんに、それに基づいて歯をつくれとおっしゃる。それで1週間後に僕が行ったらもうできている。僕の顔を1回も見ていない、別室にいる技工士さんがつくっているわけでしょう。それで歯医者さんが被せたら、それでできあがりですよね。
 そのプロセスで言ったら、よほど技術は技工士さんのほうが発揮しておりますね。では当然、技工士さんも大事なお仕事ですね。でも、このトータルでいうならばやはり、実は身体はほとんど動かしていない歯医者さんが、トータルのコーディネートをされている専門職なのだろうと思います。技工士さんが駄目だというのと全く違いますよ。とても大事な仕事ですが。それは技術職と呼ばれるべき領域のお仕事であろうと思います。
 そういうように考えたら、技術職も、とても大事なお仕事なのですが、今ここで話題にしている専門職の視点で言うならば、その技術をも使って、トータル彼の人生を考えたら、どうして行くことがいいのかというのをトータルにコーディネートして行って判断して行くのが専門職なのだろう。
 そう考えたら、まさに支援専門員さんなどのお仕事というのは、その部分になるわけで、自分がおむつを替えたり、自分が手術をするわけではないけれども、その彼のトータルを考えたとき、どのような援助を組み合わせて行くことが大事なのかというのを、自己決定を尊重しながらも、専門家として判断して行く。
 そういった意味では、判断のお仕事。マニュアルにのるのではない判断のお仕事なのだということを大事にしていただけると、とてもいいのではないかな。そんな気がしています。

専門職倫理について

 駆け足で恐縮ですが、専門職倫理について、3番、少し入りますけれども。レジメに基づいて、ちょっとだけ話します。
 その前にちょっと宣伝ですけれども、僕はホームページをつくっているのです。それで、よかったらどうぞ見てください。本当のアドレスは、もうちょっとややこしいのですけれども、ここから飛ぶように、福祉ってWelfareですね。Welfare.acで僕のホームページに着きます。福祉関係を見ておられて、子どものころの白黒の写真から入るホームページを見られたことがあったら、僕のホームページなのですが。ここに倫理綱領に関してもたくさん載せていますので、ご参考にいただけたらと思います。純粋に僕が家で個人的につくっているのですけれども。個人としてはたくさん、もう25万人ぐらいの人が見ておられるホームページなので、ケアマネージャー専門のコーナーとかはありませんが、ご参考になるかと思います。またここで、ご質問とかもメールとか入れていただいたらと思います。 
 今ちょうど何か滋賀県も、この介護支援専門員の倫理綱領を、ちょうどつくっておられる途中だそうですね。その案のようなものを、ちらっと僕も見せていただいたりしかけているのですけれども、ここではそれは、まだ間に合いませんし。そういったものの元になっている参考資料になっているようなものが、ここに挙げているものなので、見たいと思います。
 ソーシャルワーカー倫理綱領というのがあり、そしてその次のページには、精神医学ソーシャルワーカー倫理綱領があり、そして5ページには極短いですけれども、医療ソーシャルワーカーの倫理綱領というのがあります。
 この3つを簡単に見比べていくと、いろいろな共通性があっておもしろいです。ですから今日申しあげるのも参考にしていただきたいし、今日申しあげるようなことを元にして、僕のホームページに繋いでいただいたら、看護婦の倫理綱領、医者の倫理綱領、弁護士の倫理綱領、そしてアメリカの、カナダの、いろいろなものがありますので参考にいただいて。ご自身たちの介護支援専門員の倫理綱領ができたとしたら、それを守っていただくのはもちろんなのですが、それだけではなくて、他のも参考にして、自分はどうあるべきかみたいなものを大切にしていただきたいと思います。
 時代順で見ますと順番が逆なのですけれども、5ページにある医療ソーシャルワーカー、日本医療社会事業協会の倫理綱領が1961年の採択。何と今から40年も前にできているのです。
 そして次に、日本ソーシャルワーカー協会が、ソーシャルワーカー倫理綱領というのを1986年に。今から15年前につくりました。これはその後、日本社会福祉士会も採用しています。ただし日本社会福祉士会は、その後、独立したものを別につくろうと今、検討中ですが、一応今のところは日本ソーシャルワーカー協会の倫理綱領は、日本社会福祉士会の倫理綱領でもあります。
 そして4ページからあるのがPSW、精神保健福祉士という国家資格が独立してできましたが、精神科のソーシャルワーカーの倫理綱領で1991年に改正されて、今使われているのは1995年改正版ですね。というふうなのがあります。
 じっくり見て行くとおもしろいのですが、その時間はないので、この3つをずっと並べる形で、板書までじっくりはできないので。それこそ線を引いていただいりして、比較してみたいと思います。
 言いたいのは、時代も30年違うし、そして分厚さ、量も全然違いますね。M協のなんてこんなに短い。量も違うし時代も違うのに、MS協会、PS協会、そしてソーシャルワーカー協会。共通性がとてもあるのです。
 それを考えて行くことが、例えば今日申しあげたいこと、倫理についてということになると思うのですね。そういうふうな感じで見て行きたいと思うのですね。
 そうするとまず目的は、我々メディカルソーシャルワーカー、我々ソーシャルワーカー、我々精神保健福祉士。我々の目的は何か、我々の仕事は何かということ。例えばどうなっているか見てみましょう。MS協会のを見てくださいね。古いほうの順番で行くと、5ページのMS協会のを見たら。
 第1条。個人の幸福増進と社会の福祉向上を目的とするのが、僕たちだということを書いています。
 当たり前のことですよ。けれども大事なことですね。個人の幸福増進と社会の福祉向上。ここに2点あるのに注目したいのです。これがアメリカをはじめとして国際的に、看護やら医療と比べてソーシャルワークが特徴として言われているところです。
 そして僕は、介護支援専門員というのは、それぞれの専門職を大事にしながらも、在宅化の問題とか、地域化の問題も含めたら、相当この福祉の発想を、いい意味で盗まれることが必要だろうと思いますのでね。
 個人の幸福増進と社会の福祉向上と書いています。これを大事にしたいと思います。つまりAとB、どちらかだけではなく、AもBもなのだということ。それで社会の福祉向上。個人の幸福増進は分かりますね。それに対して社会の福祉向上を大事にしている。つまり1人1人を大事にするということは、社会全体がよくなるのだということを強調している。その複眼的視点と言われたりします。それを大事にしている。
 それがでは、日本ソーシャルワーカー協会の倫理綱領を見たらどうなっているかといったら、2ページの前文の2行目から3行目がそうでしょう。 
 社会福祉の向上とクライエントの自己実現を目ざす専門職であるということを言明する。と書いてあります。 
 クライエントの自己実現。幸福ではちょっと、あまりあいまいなので、ここでは自己実現という言葉を使ったわけですね。クライエントの自己実現をしていくんだ。幸福とは何かと言ったら、施設にいることが幸せなのか、在宅で頑張ることが幸福なのかのような、見えにくい部分があります。ここでは、ソーシャルワーカー協会は、自己実現という概念を持って来て、彼が自己実現できることを目ざすのだと言っていますね。 
 そして、社会福祉の向上。ここは僕ね、言葉としたら、社会福祉の向上よりは、さっきのM協の、社会の福祉向上のほうが正しいと思います。社会福祉の向上と書くと、社会福祉は社会福祉の向上を目標にするといったら、当たり前のことを言っていることになってしまいますので、意味としてはやはり、個人と社会と両方を大切にして行くんだ。
 つまり裏返したら、個人を大事にすることは、社会の迷惑になるということではないのだ。個人を大事にして行くことが、社会をよくして行くことに繋がるし、社会をよくして行くことが、個人を大事にして行くことに繋がるのだということを言っているのだろうと思いますね。 
 PS協会のほうのを見ると、これがPS協会のは精神保健福祉士という国家資格になるにあたって、ちょっとややこしくなったのですが、前文の2行目から3行目。
 社会福祉ならびに精神保健・医療の向上に努め、クライエントの社会的復権と福祉を行う。のだと書いてあります。 
 ちょっと文章がややこしくなっています。それは医療のほうの国家資格になるにあたって、いろいろとあったからだと思うのですね。
 実はその前の1991年とかのころのは、精神保健・医療の、というのはなかったのです。だから、社会福祉の向上に努め、クライエントの社会的復権と福祉を行うと書いてあったのです。けれども精神保健福祉士になるにあたって、お医者さんとか看護婦さんとかとの、メディカルの位置付けをどう採るかの問題があったので、精神保健・医療の向上という1文が入りました。社会福祉の向上を目ざすし、同時にやはり精神保健・医療の一員なのだから、精神保健・医療の向上に努めるのだ、ということを書いています。
 これは分かりますよね。2つの、ちょっとそういう二重性を持っていますのですね。社会福祉と、医療・保健の向上ともう1つが、これはおもしろいと思っています。クライエントの社会的復権と福祉と書いています。クライエントの福祉。この場合の福祉は幸福という意味で使っていいと思います。クライエントの福祉。ここまで同じですが、もう1つ、クライエントの社会的復権という言葉が入っているのは、僕はとても大事だと思っています。
 どういうことかというと、やはりいろいろな専門家の中で精神障害に関わる人たちの福祉の分野は、その人たちの置かれている差別的な状況というのに非常に関わってきていますので、ただの福祉という言葉だけではなく、社会的復権を目ざす。つまりクライエントの人たちが権利を剥奪されているのだ。だから彼らの社会的復権こそ大事なのだというところに踏み込んでいるのは、P協らしいおもしろいものだなと思って、大切にしたいと思っています。 
 ともかく、多少のずれはあるけれども、見比べてもらうと、AとBのどちらも大切にしたいのだと言っているのが、分かってもらえると思います。
 せっかくですから、それぞれがご専門の、看護なら看護、司法なら司法。自分たちは本来、何を大切にすることになっているのだろうということで、ご自分の団体の倫理綱領を見比べて確認していただいたりしたら、分厚い、いい知識になると思います。 
 そして、その目的を実現するためには、どんなものがあるのかというと、大きく分けたら、普遍的レベルのものと、そしてその福祉なら福祉の領域、固有のものとの2つが、実現するために必要なのだと書かれてあります。
 具体的には例えば、医療ソーシャルワーカー、こんな短いものですけれども、医療ソーシャルワーカーのものを見ると、どうなっているかといったら。 
 日本国憲法の精神と専門社会事業の原理にしたがい、と書いています。日本国憲法の精神というのが普遍的レベルですね。日本国憲法の精神にしたがう。つまりここで憲法第25条の規定があったり、最低限度の保障でしょう。また第13条の、自由を尊重するという規定があったり、さまざまな規定があるわけで。日本国憲法の精神を実現するために、我々はメディカルソーシャルワーカーをしているのだというわけです。
 そしてもう1つが、専門社会事業の原理。これは何かちょっと分かりにくいですけれども。今ソーシャルワークと言われているのを、当時はソーシャルワークを社会事業と翻訳していたのですね。けれども社会事業というと、社会福祉の意味でも使ったわけですね。そこでちょっとややこしいので、当時はソーシャルワーク、今で言う社会福祉援助技術ですね。社会福祉士とか介護福祉士の言葉で言う社会福祉援助技術。ソーシャルワークのことを当時は、この時代、今から40年ぐらい前は専門社会事業と呼んでいました。社会福祉援助と置き換えてもいいです。
 ともかく、だから大事なのは、憲法をしっかり意識することと、そしてソーシャルワークの原理を大切にすることなのだと、こう書いているわけです。
 そのソーシャルワークの原理は何かといったら、みなさんが勉強なさった、例えば一番簡単な例はバイスティックの7つの原則とかなわけです。だからまずは憲法、無差別平等でないといけないのだ。文化的最低限度の生活を行わないといけないのだ。言論の自由やら宗教の自由をきっちり守らないといけないのだという、普遍的目標があって、それを実現するために、個別化するとか、受容するとか、自己決定するとか、そういったことをちゃんと守らないといけないのだということを、この1行でMS協会は表現しているわけですね。
 では、ソーシャルワーカー協会の倫理綱領はどうなっているかといったら、前文の1行目から2行目。
 平和擁護、個人の尊厳、民主主義という人類普遍の原理にのっとり。凄く大きいことを書いていますが、それがこの普遍。要は向こうでは憲法と書いているところを、具体的に、平和擁護、個人の尊厳、民主主義という人類普遍の原理にのっとり。そして続いて、福祉専門職の知識、技術と価値観により、と書いています。これは先ほど説明した、知識、技術、価値観です。この2段構えが必要なのだと書いています。
 ここでは、ソーシャルワーカー協会では、平和擁護、個人の尊厳、民主主義というのを置いているわけですね。当たり前のことですね、ここらあたり。でも当たり前のことですけれども、本当は、こんな当たり前のことを、みなさんが自分のケースに当てはめて考えてみたら、結構難しくなってきます。本当に実現しているのかというようなことですね。
 そういうときのための、福祉とか介護支援専門員にとっての憲法のようなものが倫理綱領だと思うのですね。当たり前のことなのです、憲法に書かれているのは。でも本当にできているか、と言われたら、困ったなという。振り返るためのものが倫理だろうと思いますね。 
 例えば、P協のはどうなっているかといったら、前文ですね。
 個人の尊厳を尊び、基本的人権を擁護し、社会福祉学を基盤とする専門職としての知識、技術及び価値観により、と書いてあります。
 つまりM協のほうでは平和擁護、個人の尊厳、民主主義と書いているのを、ここでは個人の尊厳と基本的人権の擁護にしているのですね。やはりここでも人権にこだわっているところが、PS協会のユニークなところで、僕は大事にしたらいいなと思うところですね。
 次に、社会福祉学の専門職としての、と書いています。それはソーシャルワーカー協会ので言えば、福祉専門職と、あっさり書いているところを、ここでは社会福祉学を基盤とする専門職としてのと、あえて強調していますが、知識、技術及び価値観というのは変わっていません。こういったものを大事にするのだということになっている。つまり、個人と社会と両方を大切にする。そのためには憲法とか人権とかという普遍部分をはっきりさせた上で、福祉の具体的なものを大切にしなくてはいけないと、こう言っているわけです。
 では次、この実現するための手段のようなものの中身は何か。これも1個1個言う時間がないので省略しますが、それぞれ書かれている本文に相当する部分でしょう。
 例えば2ページの倫理綱領、ソーシャルワーカー協会の倫理綱領で言ったら、クライエントの利益を優先するのだとか、クライエントの個別性を尊厳するのだというふうなことが書かれていますね。
 また4ページのPS協会のを見たら、プライバシーの擁護をするのだとか、自己決定権を尊重するのだとか、地位利用をしてはいけないのだとかということが書かれてあります。
 また医療ソーシャルワーカー協会のを見たら、ほんのちょっとですけれども、それでもはっきり、自由を尊重し、つまり自己決定の原則でしょう。秘密を守ると。だから、この第2条を見るだけでも、自己決定を尊重するのだ。秘密保持をするのだというふうなことが書かれているわけですね。
 そして第3条には、ワーカーとしての自覚をもって、私的目的に利用しないなどと書いています。要は自己覚知が大切なのだとかというふうなことが書かれているわけでしょう。というふうなことになります。 
 こういうのがアメリカは、もっとマニュアル化が進んでいます。だから日本で言ったら看護の倫理綱領も、それほど細かくないですけれども。看護などはマニュアル化を進めていますね。そういう意味ではアメリカのをご覧になったら分かるけれども、このソーシャルワーカーの倫理綱領が、これの何倍もの分厚さがあります。そしてもの凄く細かいです。
 例えば、クライエントとの、異性のクライエントとの性的接触の禁止とか、クライエントとの非性的接触の禁止。性的接触までは分かるけれども、非性的接触まで、いちいち書くかなと思うのですけれども、そういう形でマニュアル化をきっちり、アメリカのソーシャルワーカー倫理綱領などは、細かく規定しています。そうすると今、私がやっていることは、第8条違反になるなとか、彼がやっていることは第8条には触れないけれども、やはり第9条には触れるじゃないかという形で。
 日本で例えて言うなら、日本の倫理綱領は憲法レベルが多いのです。それに対してアメリカの倫理綱領は憲法だけではなく、民放や刑法が付いているようなものなのですね。具体的に、これはしてはいけないというところまで書いて、アメリカの綱領は安心するところがあります。 
 だからそういう形で、僕に言わせたら、非性的接触や性的接触で悪用したらいけないなどと、分かり切っているというところですけれども。やはりそれは第何条違反だと言えるために書くべきだというのが、アメリカの考え方。それは否定しません。だからちょっと翻訳が大変でしょうけれども、興味ある人は読んでいただけると、アメリカのなども参考になるとおもしろいと思うのですね。というふうな感じでなっています。
 そんな感じで僕は、要は倫理を確認するなんて、元に戻りますけれども、人殺しをしたらいけないなどというのは当たり前のことです。でも言われてみたら、ここに書かれていること。当たり前のことではあるのですけれども、本当に全てがかけがえのない存在として尊重できているのだろうか。 
 例えばこれはね、生命倫理のほうの古典的な問いかけで言ったら、こういうことですよ。ブッシュ大統領と重度の知的障害の人が、2人とも心臓病で今、移植を必要としている。心臓は1個しかない。さて、どちらに提出すべきなのか。
 例えばこのような古典的問いに対して、1人1人が考えられないといけないわけでしょう。そうしたら、それはブッシュのほうがアメリカ国にとって大事だから、知的障害者は死んでもいいからブッシュに渡すべきだ、というのも1つの答えでしょう。 
 一方で、いやそれはおかしい。早くから登録している人が優先されるべきだから、この場合は知的障害の人のほうが、1週間前から登録されているのだから、この心臓は知的障害者の人のものだ、と考えるのも1つの答えなわけでしょう。
 というふうに考えてみたとき、大げさになりますけれどもね、すっとさりげなく通り過ぎていることですけれども、無差別平等とはどういうことなの、というのを考えてみたりとか。
 またここで秘密保持と書いているけれども、本当に守れるのか。例えば過去に実際あったので言ったらね。これも外国の例だけれども、カウンセラーさんが、あいつ殺したい、というクライエントの話を聞いたのです。それで、どうしようかと思った。でも殺したいと言って、本当に殺すということも一般に考えられないでしょう。だから、殺したいと言われたからといって、いちいち警察に届けるのも変ですよね。だから黙っていたら、本当に殺してしまったという事件があります。
 例えば、こういう問題を考えたときに、僕たちは秘密保持というのを、どう考えるのか。例えばね。やはりそれは、どう考えるの、というふうな形で、今ここは何百人はおられますので、本当は10人お相手でケーススタディして行くような内容になるわけですね。
 そういう意味では、繰り返して言いたいのは、倫理綱領などというのは、当たり前のことしか書かれていないし。また今度は滋賀県のケアマネージャーの倫理綱領ができたとしても、ある意味で当たり前のことしか書きません。
 でもそれを当たり前なので通り過ぎるのではなく、今言ったように、1つ1つ自分に引きつけて考えたとき、それであなたはどちらにするの、と言われたとき、大変困り果ててしまう問題がいっぱい、ここに含まれているわけです。そのことを、だから判断の専門職です。倫理綱領をマニュアルのように、あっ第8条ですから、あなたの手を握るわけにいかないのですよ、というのが僕は正しい倫理綱領の使い方だと思わない。
 そうではなくて、なぜ手を握ったらいけないのかというのを、変な表現ですよ。わざと変な表現をするのですが、考えた上で、やはりそれはできないよねと判断して行く。たどり着いて行く。そういった倫理綱領の活かし方をしていただきたいし。 
 だから倫理という、職業倫理とか、専門家にとっての倫理というのは、マニュアル化したものを当てはめるためのものではなく、繰り返したように、今言ったようなシーンで、どうしたらいいの、では私、と悩み続けていただくのが、みなさんのお仕事だ。
 そして悩み続けていただいた上で出た答えを、他の人と話し合って、私は意見が違うわ、とかいうディスカッションをしていただいて。ああなるほど、そういう意見もあるのね、というのを納得し合って、その上でみなさんがコーディネートなさる相手のヘルパーさんであったり、看護婦さんであったりとも、そういうディスカッションをして行って、シーン、シーンで、あなた方支援専門員よりももっと現場の人たちが悩むはずですので、そういった現場の人たちが悩んで行くのの相談に乗る。注文を受けているけれども、この規定に反するから、どうしよう。そういうのを倫理綱領というものを題材にして、ディスカッションして行ったり。今回はこうしてみようかという答えを出して行く、そういう係りに、僕はみなさんになっていただけるといいな、そんな気がしておりますので頑張っていただけたらと思います。 
 あと細かいことは、もしよろしかったらどうぞ、電子メールでも送っていただきましたら、お話し合いをしたいと思いますので、よろしくお願いします。 
 どうも、いつもどおりですが、遅くなりまして申しわけありません。失礼します。
                        


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