テープ起こし
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テープ起こしなので不正確お許しを


日本PSW協会精神障害者福祉研究会                  2002.11.2
「ソーシャルワーカーの価値と倫理」講演 
 
 同志社大学に福祉があるというのを知っていただいていない場合があるんですが、文学部社会学科のさらに中に社会福祉学専攻という小さい単位なんですけどあります。そこの教員をしています小山です。科目でいいますと、精神保健福祉士の養成カリキュラムでいうと何になるんですかね、精神保健福祉援助技術総論になるんですかね。それの一応社会福祉士版というか、社会福祉援助技術総論という、本当は社会福祉士の方はカリキュラムが変わったんですけれども、同志社はまだ古い科目名なので、そちらの科目を持っています。そして、うちは社会福祉士も精神保健福祉士も同時に取れるようにしてますんで、併せ技で、精神保健福祉は本当は違う授業をすべきなんでしょうけれども、精神保健福祉士の方の援助技術総論も僕の科目で兼ねていると、こういうふうなことにしています。
 実は、僕は今回頂いたテーマ、価値とか倫理とかにすごく興味があるんです。いろいろお話したいことがいっぱいあるんですけれども、講義としてはそんなに依頼されることのないテーマなんですね。そして、正直言うと、プロの人たちと学生の間でものすごくレベルというと言葉が悪いけれども、そのことに関する関心の差がある領域だろうと思います。正直言うたら、どこに焦点を当てるかですごく悩んでいるというのが正直なところです。
そういうことですので、プロの方にとっては当たり前過ぎる部分があるのはお許しいただきたいですし、逆に学生さんたちにはちょっと省略しすぎやという部分に対しては遠慮なくご質問いただけたらなと思います。
 最初に僕の宣伝をしときます。ホームページを僕は作っています。本当のホームページはアドレスが朝日ネットなんですけれども、転送するようにしています。福祉をwelfareといいます。「welfare.ac」で僕のホームページに着くようになってます。「福祉関係者のホームページ」という名前で、入口のページが幼稚園の頃の顔写真があるホームページをご覧になった方がいたら、そのホームページです。そこの中に倫理綱領のこと、また、今日の話題のひとつは価値とか倫理を考える時の大きなポイントになる「自己決定」とか「自律」の問題についてとか、そういったお話については割と僕は興味があるんで、リンク集をいっぱい貼ったりとか、そういうことをしているホームページですので、若干の参考になると思いますので、見ていただいたらいいかなという気がしています。
 レジュメに沿ってしゃべっていきますが、最初に「ソーシャルワーカーにとっての『価値と倫理』とは」とあります。これは本当にこの部分をテーマにしている方にとっては当たり前のことなんですが、逆に学生さんにとったら、また、日頃これらのテーマに関心をもたずに仕事をしている現場の方にとって、価値とか倫理とか普通は意識して仕事をしていないと思うんですね。そういう意味でいうたら、いろいろな本を見ても価値と倫理を必ずしも区別して書いていない本が多いですが、「価値」はあえていうならレジメに書いてありますように、「何を信じているのか、何を大切にするのか」ということだと思います。だからソーシャルワーカーの価値というたら、ソーシャルワーカーであるあなたは何を大切にするのか、何を信じるのかという問いかけだろうと思います。それに対して、ソーシャルワーカーの「倫理」はと問われた場合には、その価値を実現するためにあなたは何を守らなければならないのか、何を約束するのかということが倫理の問題ではないだろうか。ごく簡単にいえばそういうふうに整理したらいいんじゃないかなあと考えています。ただ一般的にはここを必ずしも整理しないで述べています。
 例えば、精神保健福祉士も社会福祉士も同じだと思いますけれども、専門職の構成要件ということを説明する時にいろいろあります。いろいろな条件がありますが、社会福祉士、精神保健福祉士では普通三条件ということで、「知識、技術、価値」この三つが専門職にとって必要なんだと、つまり、看護師には看護師の医師には医師のソーシャルワーカーにはソーシャルワーカーの知識の体系が必要であり、技術の体系が必要でありそして価値の体系が必要であるんだと、こんな言い方をします。その時普通、「知識、技術、価値」という言い方が多いんですが、「知識、技術、倫理」とこう書いてある本もあると思います。そして、その2つは必ずしも区別されて説明されていないことが多いと思います。ただ一応あえて分けろといわれたら、今言ったとおりかなという気がしています。
僕自身はここら辺を巡っての考え方は、既に僕の以前に講義を聞いていただいたりした方には、重なる部分があるんで恐縮なんですが、ここら辺に関しての僕の意見は、それぞれ独立した「知識、技術、価値」の体系の専門職があると考えると無理があるというふうに僕はおもっています。例えば、看護師と介護福祉士を比べたとき「知識、技術、価値」が完全に違うかっていうと、どうしても重なる部分が出てきてしまうんです。例えば、「社会福祉士および介護福祉士法」ができるときに、日本看護協会さんは、社会福祉士ができることよりは、介護福祉士ができることに対して困られたわけですね。社会福祉士が具体的にすることに関してはおそらく重ならないだろうと考えたわけです。それに対して、現にオムツを換える、現に食事をするのを手伝う、これはまさに看護がやってることなんであって、それを介護福祉士という独立した国家資格ができてしまうならば、我々の仕事ではなくなるのか、つまり、新しく一個の専門職ができてしまったとしたなら、今まではあった部分はへこんでしまうのかということになるわけですね。そこらへんのことがあって、看護協会は介護は看護であるという見解を出しています。ですから病院でするときにはそれはあくまでもこちらの領域、ただし、老人ホームなんかでなさる場合は、それは我々が口出すことではないという考え方ですね。でも、どう見たってオムツを換えるのに、看護婦のオムツの換え方と介護福祉士のオムツの換え方が決定的に違うということはありえないですね。また、幼稚園の先生はこれは教育に所属します。保育所の保育士さんはこれは福祉に属するわけですね。けれども、保育士さんのやってることと幼稚園の先生がやっていることとまったく違うかというたら、またこれも同じ4歳児相手に重なったことをしています。幼児教育という分野と保育という分野は重なりをもってるわけですね。もちろん違いもあります。当然違いもありますが重なりもあります。したがって、僕はここに関しては、専門職に関しては、これは僕の個人的意見でアドリブ的なイメージ図なんですけど、こういうふうに専門職を見ていったらいいんじゃないかというのが僕の意見です。(図参照)要はどういうことかというと、確かに「知識、技術、価値」というんですが、例えば皆さんもバイスティックの七つの原則とか習ったと思いますけれども、あれは昔はケースワークの七つの原則として限定的にいわれてきたんですね。けれども考えてみてください。

(図省略)

個別化、受容、自己決定、秘密保持、こういったものはケースワーカーだからしなきゃならないものだろうか。グループワークでも当然しなきゃならないですよね。そして、バイスティックの七つの原則は福祉だけがするべきで、看護婦はしないんだろうか。例えば、個別化という原則、秘密保持という原則、自己決定の尊重という原則、看護婦であろうが医者であろうが弁護士であろうが中学の教師であろうが、すべての人間がすべきことであることは決まってるんです。そしておそらく僕は知らないけれども、看護婦養成でも看護婦養成としてナイチンゲールはこう言った、また、看護婦としてはこういうことが大切だ、と語っておられるおそらく多くは、福祉の人間が聞いても「そうだよな、私らそれは守らなきゃ」と思ってることであるはずなんです。そういう意味でいうたら僕は、各専門職の中でまず地上1階部分にhelping professionとして対人援助の専門職として共通する、医者であろうが弁護士であろうが精神保健福祉士であろうが、共通する地上1階部分の「知識、技術、価値」の体系を持っているだろうと思います。
 例えば「技術」でいうたら、コミュニケーションのスキルは地上1階部分やと僕は思いますね。コミュニケーションのスキルは、弁護士であろうが医者であろうが精神保健福祉士であろうが持っておかなきゃならない技術だろうと思います。そしてまた例えば、無差別平等だとか人権尊重とか、そういった視点は「価値」なわけですね、そのようなものを大切にする。お金持ちの患者さんと貧しい患者さんに差をつけるはずかない、すべての人間を無差別平等に接する、そのような態度、価値は、すべての援助専門職が共有して持っているものです。医者たるもの弁護士たるもの精神保健福祉士たるものは、無差別平等にならなければならない、価値を大切にしなければならないと教えていますが、それを僕に言わしたらほんまは地上1階部分だと、こういうふうに感じています。
 その上に、医療専門職なら医療専門職、そして、福祉専門職なら福祉専門職、司法専門職なら司法専門職、教育専門職なら教育専門職ならではの共通する価値や技術、そういったものは知識の体系というものがあるんじゃないだろうか、こういうふうに僕はイメージするわけですね。
 例えばこれ、僕は知りません。知らないでしゃべるんですが、例えば医療の専門職、それが看護婦であろうが医者であろうが、例えば脈拍を測ることであったり、人間の基本的な血圧はどれくらいなんだとか、そういったことに関しておそらく、みんなが知っておかないといけないことだろうと思います。でも、それは弁護士さんは、標準の血圧はどうで脈拍の測り方はどうかを知らなくてもいいし、中学の教師は知らなくてもいいと思うんですね。そして、さらにその上にイメージとしてですよ、看護婦さんではなく医者だから持っておかなきゃならないものというふうなものがあるだろう。イメージからしてはだいたい3階建てであろう。ただし、専門職はどんどん分化しているんで、4階ができあがりつつあるんですね。例えば、法律的ではないですけれども、外科医と内科医ではまったく知識・技術・価値体系が違うでしょうね。専門制度みたいなものになっているでしょうが、例えば、移植医と救命医ではおそらく価値のレベルですら、これはいうたらお医者さんに怒られるかもしれないけどおそらく違うでしょうね。例えば、誰も死を望みはしませんよ。望みはしませんが、今目の前にいる人が死んだらそこで終わりの救命医と、まさか死ぬことなんて望んでませんよ、望んでませんけど、目の前の方が死と判定された時に初めて自分の仕事が始まる移植医とは、正直な言いかたしたら価値観すら死をめぐる定義づけにおいてすら、おそらくは思いはずれてくるはずだろうとおもいます。そういうふうに考えたときに、医者でありながら外科医と内科医と移植医と精神科医では全然うはずですね。でも、違いは明らかに持ちながらも、医者であるという点において共有されるのであろうと思います。そしてまた、看護婦やらPT、OTとも、医療に関わる専門職という点で共有されるのであり、中学の教師や弁護士とすら、援助に関わる専門職であるという点で共有される、こういうふうなイメージで僕は思っています。。厳密にいうとそこで精神保健福祉士が、どこの仕事であるのかということでしんどいだろうと思います。僕は福祉の専門職であると思いますね。けれども、実際には医療の部分に相当近くなっている部分があるからこそ、固有性であるともいえ、かつ、しんどい部分だろうなという気がしますね。基本的には僕は福祉の専門職だろうという気がします。こういう部分が僕の専門性をめぐるイメージで思っています。そして、その中で価値といわれたり倫理といわれたりする部分が、今日のお話のメインテーマだという気がするんですね。
 資料は量がたくさんになるので用意してきてないんですけど、IFSWというところがあります。International Federation of Social Workers ですね。国際ソーシャルワーカー連盟というところがあります。そこのソーシャルワーカーの定義というふうなことがあるんですが、そこに書いてあるのをいいますと、ソーシャルワーカーの誕生の背景というのは、人道主義と民主主義の理想に基づくんだということが書かれてあります。なにかいろいろなところで勉強しても、なにかこの民主主義とかそういったものが出てくると思うんですね。一応現在の定義としてはそれでいいだろうと思うんですね。ただ、これも微妙でね、民主主義のなかった500年前に福祉はあったのかなかったのかという話になるわけで、そうするとここらへんは、民主主義概念がない時代に行われていたものは、福祉と呼んでもいいのかという議論はあるんですがね。ここでは細かくは触れません。今の時点で捉えるならば、このようなものを前提にするんだというようなことは、正しいでしょう。
 そして、職業上の背景、ソーシャルワーカーは職業上の背景として、すべての人間が平等であること、価値ある存在であること、そして、尊厳を有していることを認めて、これを尊重することに基盤をおくなんてことが書いてあります。すべての人間が平等なんだ、ここらへんいくらでも資料はありますんで、また興味あったらご存知だと思いますけど、インターネットにもなんぼでもありますし、また見ていただいたらと思いますけれどもね。
 平等、どんな人間でも価値ある存在なんだという考え方。そして、尊厳を持つんだという考え方。こういった部分をIFSWは私たちの職業上の背景なんだといってます。こういうふうに考えたら当たり前のいいかっこを書いているだけみたいなもんなんですけどね、僕はやっぱり、援助の仕事っていうのはいいかっこをする仕事なんだと思ってます。そしてそういう意味でいうなら、弱肉強食であり弱いものが負けて当たり前という社会に対して、「そうじゃないんだ。勝ち負けではなく、どんな人間も価値ある存在で尊厳を持つんだ」。皮肉な言い方をすれば学校の授業で習ったようなことですけれども、それをやっぱり本気で信じるということ、それは僕らが大切な出発点なんだろうなという気がします。
 その上で少し具体的にわかりやすく書かれていて、それでも少し分かりにくいんですけれども、「不利益を被っている人と連帯して貧困を軽減することに努め、また、傷つきやすく抑圧されている人々を解放して、社会的包含(ソーシャルインクルージョン)を促進するよう努力する」そういうふうなことが書かれてます。これもいちいち書き写しませんけれども、正にキーワードとして、「不利益をこうむってる人」「連帯」「抑圧されている人々に対するソーシャルインクルージョン」。ソーシャルインクルージョンという言葉がどうも最近のキーワードになってきてますね。ノーマライゼーションという言葉がずっとこの何十年か使われてきたんですが、ふと気がついたらソーシャルインクルージョンという言葉が、非常に重要なキーワードとして福祉の目標的な概念になってきました。これもここで一個一個話すにはきりがありません。当然皆さんも授業で習っているでしょうし、また、足らん部分はご自分で補強していただきたいですが、非常に重要な概念として今、ソーシャルインクルージョンという言葉がいわれ出すようになりました。このことはいろんな本に書いてます。たとえばIFSWのソーシャルワークの定義は簡単に手に入ります。
今、言ったような話を聞いたら、「ふんふん、なるほど」と思うんですが、わかる気がするんですが、プロの人たちが実際に仕事をしているときに、その仕事の中でそのすべての人間が平等であることとか、抑圧されている人々を解放して社会的包含を促進するように努力する等といったソーシャルワークの定義というのを、日々働いて疲れ果てているワーカーが見て、奮い立たされるだろうかっていうことなんですね。何か正しいことというのはわかるんですが、そこに現実の私とのつながりというのが、ひょっとしたら感じられないのかもわからない。こういったものをわかりにくかったらどうしたらいいねん、そこに倫理綱領があるんだと思います。倫理綱領が各種団体が持っていることによって、それをしっかり読んでいくことによって、ソーシャルワーカーである私がこういう行動をとるべきなんだ、こういう目的を持つべきなんだということがわかる、それが倫理綱領なんだと思います。
これも現物を用意してないので、口で並べ立てるだけになりますけれども、時間がある範囲でいろいろな倫理綱領をちょっと見比べてみたいと思うんですがね。皆さんが現場で働いてしんどいのは、倫理的ジレンマだと思うんですね。ここでね、倫理的ジレンマをどう考えるかなんですが、倫理的ジレンマに関しては本によっては、たとえばここでこうがんばらなあかんのにがんばれへん状況がある。これを倫理的ジレンマと扱っている場合があるんですけれども、僕はそれを倫理的ジレンマだとは思いません。それやったらがんばったらいい話です。そうじゃなくて、倫理的ジレンマというのは、A もBもどちらも正当性を持つ選択であり、かつ、それがどちらを選んでも完全な回答ではない場合に僕は倫理的ジレンマやと思うんです。Aしたほうがいいのがわかってるのに、Aはようせんねんていうのは、僕は倫理的ジレンマだとは思わないんです。ごめんなさい、時間との関係で若干ポンポンと単語を並べてしまって、そこはちょっとわからんという人はお許し願いたいですけどね。
そういう意味で言うたら、僕は倫理綱領というのは、それを見て現場のワーカーがその倫理綱領ゆうことで、倫理的ジレンマを解決する道具にならなくちゃならないと思うわけなんですね。「今どうしたらいいんだろう、この件。Aの道を選ぶのかB の道を選ぶのか、どうしたらいいんだろう」と悩むそのとき、倫理綱領を見て「そうやなぁ、やっぱり」と、こう思える、そういったものになっているだろうかということですね。そうするとこれもなかなかどの綱領だってそう簡単にはいってません。そういう意味で心意気からいったら、この学校でそんな授業があるかどうかわかりませんし、すいません、つい学生相手に話すのと、プロの方たちに話すのとでは、やや違いますが基本的に学生相手に話す調子でしゃべってます。本当はプロの方には失礼なんですけども。最終的に僕の思いは、倫理綱領は共有されるべきだっていう考えなんですが、手段的にいうたらあなた個人の倫理綱領を作りなさい、みたいなことも僕は思っています。それこそご自分の持つPSW協会の綱領をもっと小山個人バージョンを作ったらどうなるだろう、そんなことのプロセスを経てほしい気がします。そして最終的には連携してほしいと思います。
今、精神保健福祉士協会のほうも新しい倫理綱領を出されて検討なさってるんですよね?もうひとつ実は三協会、日本ソーシャルワーカー協会と、日本社会福祉士会と、日本医療ソーシャルワーカー協会は、合同で倫理綱領の改定の研究会を続けています。そしてこの10月にその原案が出たと思います。ですからそれぞれがこの1年くらいの間で、三協会が、これもどっかでもめたらどんなけ長引くかわかりませんけれども、彼らの思いとしてはこの1年以内くらいに、倫理綱領を共有しようということです。今まで社会福祉士会と日本ソーシャルワーカー協会は共通の倫理綱領を採用してましたけれども、MSW協会は別な倫理綱領を数十年前から持ってました。ところがMSW協会もそれに乗りました。それで合同の倫理綱領をこの1年以内くらいに出すということで、原案がすでに出てるんですね。そういう状況になってます。僕個人の意見としては、ここはやや、今度はプロの方たち用の話になりますけれども、その三協会の趣旨としてはすでにあるんでしょうが、精神保健福祉士協会にも声をかけると、そして合同の綱領を目指したいというのが、向うとしてはたぶん組織決定してるはずなんですね。ですから僕としてはぜひ合流していければいいなと思いつつ、こちらだけはすでに別なものが走っていますので、次の改定まで待たなあかんのかなと思ったりしますが、そういうふうなことがあります。ですから、ここにおられる学生の皆さん、社会福祉士を持っておられる方が一部はおられるかもしれませんけれども、多くはそうではなくPSWだけを持たれる方でしょうけれども、ぜひ社会福祉士やソーシャルワーカー協会の倫理綱領に書かれていることなんかも読んでいただいて、「あ、これは自分らも言えるよな」みたいな、そんなこともしてほしいなと思います。
さらに言うなら、僕はぜひこのさっき言ったこの基礎ということの話なんですが、ぜひそういう意味でいうたら福祉以外の、例えばですが、たまたま家にあるのを2,3冊持って来たんです。例えば、『薬剤師のための倫理』とかね、『医療保健専門職の倫理テキスト』とかね、さらにはこれなんかは面白いですよ。『科学技術者の倫理』というのがあるんです。つまり、倫理綱領なんて、Helping Professionの僕らは必須条件だと考えているんですが、実は違うんですね。エンジニアにだって結局考えたら倫理がいるじゃないか、そして、詳細な事例研究が行われてて、なるほどと思われることばっかりです。例えば、後でもしゃべると思いますが、ソーシャルワーカーの雇用者に対する不服従みたいな部分が綱領によってはあるんですがね。そしてそれは僕はソーシャルワーカーとしてすっごく大事な条件だと思っています。不服従の権利みたいなもの、僕はソーシャルワーカーの、専門職のひとつの命だと思っていますけれども、そんなんも科学技術者の、ほんとのエンジニアの人たちの中に不服従の権利の記述があるわけです。例えば、しょっぱなにこれなんかに載っている事例でね、ボイジャーが10年くらい前に失敗して爆発してみんな死んだ事件あったでしょう?あれなんかが事例に取り上げられてるわけです。つまり、ロケットをNASAが打ち上げます。そのときの科学技術者があります。実は、あの時ほんとはおかしかってんて。やっぱり事前に技術者たちからみたらあのロケットはおかしかったそうです。それで、技術者たちは「これは打ち上げを止めたほうがいい」ということを言ったようです。ですけれども、それは絶対あかんという証拠はないわけです。そして、ここで打ち上げを止めてしまうということは、ものすごい損失なわけです。そしてリスクを計算したら、多分大丈夫なんです。そこで結局、現場のエンジニアが、危ない何かが、僕にはわからないガス指数かなんかがおかしいから止めた方がいいですって、ヒラが言ったんやけれども、上が握りつぶしたんですね。そして爆発して全員が死んでしまった。例えば、これなんかはエンジニアが持つ倫理の問題になるわけですね。
そういうふうな感じで、実は福祉、精神保健福祉士だけが持つものでもなければ、ソーシャルワーカーだけが持つものでもない。ぜひ、看護婦さんの本やエンジニアの本を読むだけでも、「そうか、僕らもこんな点は同じやなぁ」って思えるところがあります。皆さん、どんどんプロになって上に重ねていくのはいいんだけども、まず、基礎を大事にしてほしい。そうしたら、同じ倫理の問題だって看護婦とPSWは違うよというのではなく、まさにPSWも同じところで悩んでるよなという、そこからまずは始めていきたいよなという気が、僕なんかはこのお話に関してはしています。
そういうふうなことで、倫理にしても価値にしても、本来各種テキストとか倫理綱領に具体的に書かれてるはずだと、こういうことになるんですね。そこで、そういうものの一番古いものは何かというと、ヒポクラテスの誓いというのをご存知でしょうけど、ありますね。これは2500、2600年くらい前のお医者さんの祖先ですね。ヒポクラテスの誓いという、ほんとはヒポクラテスが言うたかいうたら怪しいとされてますが、慣例的にヒポクラテスの誓いというわけです。これを分析してみたらすごく面白いですよ。ただし、僕が学術的にこれをじいっと見ながらアドリブでのコメントですので、「いや、僕はそうは分析しない」という意見というのも当然ありでしょうから、結論ではありません。便宜的な僕の分析ですがね。例えば、皆さんのレジュメの手書きでかっこをくくっているのが見えていると思いますがね。例えば、「彼らが学ぶことを欲すれば報酬なしにこの術を教える。そして書き物や講義その他あらゆる方法で、私の持つ医術の知識をわが息子、我が師の息子、また医の規則に基づき約束と誓いで結ばれている弟子どもに分かち与え、それ以外の誰にも与えない」と書かれていますね。ここの部分は今的ではないですね、もちろん。けれども、あえて言えば、PSW協会の新しい案なんかにはありますかね。教育の概念ですよね。今まで福祉系のワーカー協会にあんまり後進の育成概念は確か入ってなかったと思うんですね。後は研究の概念。研究教育の概念なんかは、看護協会なんかには入ってたと思いますけれども、そういう意味でいうと、教育の概念というのはつまり、われわれが研究しなければならないし、後進を育てるんだっていう、きれいにいえばここは教育の部分だと思いますね。ただし、内容的にはまずいですね、クローズな、つまりオープンな教育システムではなく、クローズな教育システムだといっているわけですから、この知の伝達に関する技術の体系の部分は、内容的には今から見たら間違いと、こういうことになります。ただし、枠組みについては教育の体系について触れてるということになるわけでしょうね。
そして次、「私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない」と書いてあります。これはバイオエシックス、生命倫理の項目と重なります。僕ね、全米ソーシャルワーカーの倫理綱領なんかが、ひとつの見本になると思うんです。これはややプロの方用ですけれどもね。どんどん詳しくなってますね。例えば、性的接触の禁止とセクハラの禁止と身体的なんとかの禁止とか、ものすごく細かくどんどんどんどん分かれていきますね。けれども僕は、原点的にいうたらバイオエシックスの4原則というのはほとんどのことをいい尽しているだろうといってもいいと思ってます。バイオエシックスの4原則で僕はいろんなものをみていけると思ってます。ひとつは、無危害原則ですね。人に害は加えませんていうことです。そして、善行原則ですね。可能な限り彼のためになることをしたいと思いますという原則ですね。そして、自律尊重原則ですね。Respect for autonomy。その場合は自律はindependentではなくautonomyですから「律する」ですね、自律尊重原則。そして、公平原則。もしくは公正原則と訳するんかな。ちょっとわからないです。これは、実はちょっと変わっていますね。公平原則、公正原則は何かといったら、資源が一定の制限下でどう分配するかっていう話です。ですから、過去にこんな問題はなかったんです。なぜなら、援助っていうのは一部の人に対して行われてたんです。全国とか総資源と総ニードの関係を考える必要なんて過去にはなかったんです。だから、公平の原則は不要だったんです。けれども今は出てきてる。一番わかりやすい医療でいうたら、ブッシュ大統領と知的障害の子どもという二人が心臓病で倒れた。移植する心臓は一個しかない。そのときどちらに移植すべきなのかっていう提案が、問いかけがあるわけなんですね。それに対して、ブッシュ大統領のほうが社会的価値が高い。知的障害の子をここで救うよりはブッシュが死なれたほうが困るわけですから、ブッシュに心臓を渡す。そのことのほうがいいんだということもひとつの答えでしょう。いや、そんなんおかしい、申し込み順だ、ブッシュさんよりもこの知的障害の子どもの方が三日間早く申し込んでんから、そっちのほうにいくべきや、この心臓は。これもひとつの考えでしょう。何を公平というんだろう。どのやり方をすることで社会が納得するんだろう。そういうふうな資源の分配システムに関しても、生命倫理では問われるわけですがね。ただ、僕らが議論するときここは極端に考えなくてもいいと思います。上の3つが中心になってくると思います。
非常にわかりやすい。この次元で切っていったとき、やっぱり僕に言わしたら、ヒポクラテスの誓いの中の「患者に利益する養生法をとり」というのは、善行原則といってもいいと思います。そして「悪く有害と知る方法を決してとらない」ということは、無危害原則ということですね。そして「死に導くような薬を与えない」これも無危害原則といってもいいんじゃないですか。そして「それを覚らせることもしない」、これがちょっと面白いとこですね。「死を覚らせることはしない」ということですね。これに関しては特殊ですね。要はインフォームドコンセントに対してのアンチですよね。だから、これは要は今と明らかに違っています。つまり、クライエントを動揺させるな。死というものは誰にとっても辛いものだから、医者は患者の死というものを患者に知らせてはいけないのだ。それをご存知のように、パターナリズムということになるでしょう。パターナリズムについては当然知っている人と、パターナリズムは知らんという人がおられると、ちょっとどう講義をしていいか僕はわからないんですが、パターナリズムということがあります。そのパターナリズムの、当然ですけど2500年前ですから、その医療はパターナリズムそのものだった時代ですから、そういう意味ではアンチインフォームドコンセントといっていいでしょうね。だからこれもそういう意味でいったら、教育がクローズな世襲制であるという点では間違ってる、今の視点からしたら。それではアンチインフォームドコンセントである点においては、やっぱりこれも間違いです。ただ、そのようなことがここで触れられてるということは確かなんです。「同様に婦人を流産に導く道具を与えない」、ここら辺になるとよくわからないんですが、無危害といっていいんじゃないかと思います。そして、「純粋と神聖をもって我が生涯を貫き、我が術を行う」、これなんかも極端にいうたらどうでもいいかわからんけれども、よく倫理綱領なんかに誠実性の原則みたいなもんがあります。誠実にする、当たり前のことなんですが、誠実性の原則に関して触れてると思います。次の「結石を切り出すことは神かけてしない。それを業とする者に任せる」というのは、僕にはわかりません。ただ、これはわからないから勝手なことをいうたらあかんけれども、結石を切り出すことは危険なんでしょうかね。そして、特別なお仕事だったんでしょう。あえて言うたら、わからんので危険な発言ですけど、分業とか連携とか無危害に当たるのかもしれませんし、分業・連携の話をしているのかもしれんなという気がします。そして、「いかなる患者の家を訪れるときも、それはただ病者を利益するためであり、あらゆる勝手な戯れや堕落の行いを避ける」、これは地位利用の禁止ということですね。地位利用の中でも相当困った「戯れや堕落の行い」というふうな形で、おそらくセクシャルな関係であったということを想定させる。そういったこともしてはならない。そういうことまで踏み込んで書いてると、僕はいっていると思います。そして、「女と男、自由人と奴隷の違いを考慮しない」という、これは無差別平等に関して、今的に言えばですけれどもね。無差別平等についてコメントしているといってもいいかもしれない。そして、「医に関する否とにかかわらず、他人の生活についての秘密を守る」、これは秘密保持、プライバシーの話をしているわけでしょう。
というふうに考えたら、何が言いたいかというと、もちろん多くの人にとったらヒポクラテスというのは当たり前の出発点で古臭いものなんですが、こうやってじっくり見直してみると、意外とまともなことを書いているということです。そして、今のわれわれの綱領の多くのことが含まれているといってもいいんじゃないか。2500年前、パターナリズム、アンチインフォームドコンセント、したがってあんなものはだめだよと僕らはいっているけれども、ほんまにじっくり読んでみたことがあるだろうか。じっくり読んでみたら、その多くが実は今にもつながるもの持ってるよねっていうこと。そんなことをまずは勉強してみたい。そんな気がするわけですね。
じゃあ、次。そうはいうものの何が欠けてるのかっていうたら、このバイオエシックスの4原則でいうなら、やはり前半については触れられているけれども、後半については触れられてない。こういうことになるんですね。だから、ヒポクラテスの誓いには何が欠けているのか。触れられているものと欠けているものを考えたいと思いますけれども、まさにこの無危害原則と善行尊重はしっかり触れられているけれども、自律尊重と公平に関しては、ヒポクラテスの時代には触れられてない。まさにここがある意味でいうたら、新しい援助論の中でポイントになってくるんだろうなという気がします。そして、その中でこの公平原則のほうは、公平原則の議論をしなあかんのですけれども、ちょっとここでは今回のテーマでいうと、両方を視野に入れたお話をするのは少ししんどいので、公平原則のほうは若干、現場のワーカーというレベルで考えたら後回しにしてもいいと考えて、次の課題にしてもいいだろうと思うので、ここでは自律尊重の問題を考えたいと思います。
そういう意味でレジュメに、「援助論における新しい流れの重要性」ということを書きました。まさに対象者と、僕もそんなに年寄りではありませんが、僕が福祉教育を受けたころでもまだ「対象者」という言葉が普通にいわれてたと思いますね。けれどもその対象者からサービスの利用者というふうに、キーワードが変わってきてるといえるでしょう。例えばそれは、医療ソーシャルワーカー協会の倫理綱領をまたごらんいただけたらと思いますが、ごく短いんですね。そして、何十年前にできてるんです。医療ソーシャルワーカー協会はその古さをいい意味で誇りにしておられます。1960年代の頭くらいには倫理綱領を作っておられます。したがって、ある意味で古いが今まで変えておられなかった。でも今回、ソーシャルワーカー協会と社会福祉士会の改定作業に加わっておられますんでね。いいことやと思います。ただ、古典としての価値があるんで、1960年代の倫理綱領を残しておけばいいと思うんですがね。あれの中に例えば、40年前の倫理綱領です、対象者という言葉があるんですね。その時点では対象者としてやっぱり規定していたんです。でも、ご存知のように今我々は、クライエントを対象者としてみない。そういった部分があるでしょう。
そしてレジメに書いたように、QOLの問題、そして新しい流れとしてのソーシャルインクルージョン、クライエントの自己決定といった新しい概念が急速に流れ込んでいます。また、そういうソーシャルワークレベルでなく、法制度レベルでいうなら社会福祉法の改正を基にして、措置から契約だとかそういった流れがあります。まさに憲法でいうたら、僕らは憲法第25条が福祉の基本だというふうに習ってきたけれども、最近の新しい福祉論では憲法第13条であると、こういう議論が進むようになってきた。ただし、僕は半分反対です、これは。第25条ではなく13条にある幸福追求権に気づいたって事にはまったく賛成しますが、それは25条が要らんようになって13条に変わったのではなく、13条を実現するためにこそ25条は絶対に忘れたらあかんのだということを、僕はこの両者の関係はとるべきだと思います。
例えばそれは、リハビリテーションモデルと、ADLモデルとQOLモデルなんかの関係がそうだろうと思います。基本的に今まで、医療、リハビリの世界ではADLモデルの世界だった。つまり、ADLの向上、少しでも歩けるように、自分で服が着がえられるように、ADLの向上をさすのが目標だと長く考えられてきた。しかし、どうなんだろうか?歩けることが人生の目標なんだろうか?服のボタンが自分ではめれることが人生の目標なんだろうか?そうではなく、ボタンを1時間かかって自分ではめるくらいならば、ボランティアさんに服を着せてもらって映画を観に行き、そして、大学に通ったほうがいいのではないか。1時間かかって靴下はいて1時間かかって靴はいてそれでおしまいなくらいなら、ボランティアさんにさっさと靴下はかせてもらって靴はかせてもらって、そして、学生生活を送って何が悪い。そういうふうに服を着れることが、お風呂を自分では入れることが、決して人生の目標ではないはず。そういうことに気づいたとき僕たちは、ADLモデルからQOLモデルへと大きく、理屈っぽくいえばパラダイムを変えたわけですね。Quality Of Lifeが大事なんだということです。Quality Of Lifeが目標やということは間違いない。でも、そのためにADL概念は要らなくなったのかというとそうではなく、手段的概念として明らかに必要なんですね。ここ間違ったらあかんですね。というのと同じように、憲法25条が目標だと思ってたけれども、実は13条が目標なんだねっていうのは、僕は新しい流れに「おそれいりました」と賛成します。けれども、そのことは25条が要らなくなったことではありえないんだ。しっかり25条が生きていることこそ、13条を生かすことなんだというふうな気はしています。
どっちにしろここら辺は、ワーカー主体のパターナリズムを前提とした援助、すなわち、癌の患者であるときに癌であるということを言うか言わないかは医者が決めるのであり、手術するかどうかも医者が決めるのであり、ともかくお前のため、患者のためを考えたらこうしたほうがええねんと、医者が自分の心の中ひとつですべてを決めて、お前のために援助をしてあげていたという、そういうワーカー主体のパターナリズムを前提とした援助から、クライエント主体の自己決定を前提とした援助へ移ってきたということは、100%正しいことだろうと思います。自律尊重原則、これももうご存知のことだと思いますけど、自律尊重原則が出てきた大きな流れは二つありますね。ひとつは戦争中の人体実験に対する反省ですね。ナチスドイツやら日本を始めとして、戦争が終わるまでは医学は何をしても自由でした。ですから、本人の了解をとらずに人体実験とかを散々していたわけですね。それに関して徹底的に反省して、戦後裁判で人体実験に関しては徹底的に裁かれたんですね。そういうことの中で人体実験をするにあたって、人体実験というか患者に対するいろんな実験をするときには、本人に許可を得なければいけない。そういうことが医療では大きい流れがひとつは戦争直後に流れました。
そしてもう少し後、1950年代か60年代になってからまったく別な、医療とはまったく別な世界で、コンシューマリズムの運動が起こりましたね。これはたとえば、この間のアメリカの大統領選挙でちょっとだけ評価されたラルフ・ネーダーさんというのがいますけれども、ラルフ・ネーダーさんというのは何十年か前に消費者運動の神様やった人ですけれども、そういう消費者運動の流れが流れ込みました。つまり、食べ物にも賞味期限を、食べ物がどんな成分から成っているのか、そういったことを教えてくれ、知る権利を我々は持つんだ。そういうふうな流れの中で、医療に関しても知る権利があるんだ、この薬何か知らんけれども、「はい、飲め」と言われて飲むんじゃなくて、どんな薬なんか、手術するというならどんな手術をするんか、それをコンシューマーである私に教えてくれという、そういったほかの分野のコンシューマリズムの運動が流れこみ、そして土台が患者の権利が侵害されがちであった医療の中では、人体実験の反省が裁判における裁きという形でも現れていましたから、そういうのが合流されていて自律尊重・自己決定の尊重、そういったものがいわれるようになってきたわけですね。
そういう中で、クライエントは対象者じゃなく主体なんだっていうこと、まったく正しい指摘だと思います。この新しい流れの確認は、全面的な賛成を僕はします。それはどういうことかというたら、本来は対等なはずの援助関係、ワーカー―クライエント関係が現実にはお世話する人とお世話していただく人という関係を現実には持ってしまう。そういう関係の中で、結局は上限関係を発生させてしまう現実があります。そしてもうひとつは、援助の仕事は圧倒的な情報格差ということがあります。自分のことだけど自分のことなんてわからへんということです。これが癌なんか、今頭痛いけど何で頭痛が起こったかなんて僕にはわからないんです。そういう意味で援助の世界においては、圧倒的な情報量の格差があります。そして、なんといってもお世話してもらうという関係があります。この二つの関係の中からここで確認しなくちゃならないのは、皆さんは上下関係の上に立っている援助はしていない、「俺のほうが上やで、お前は下やで」というソーシャルワーカーがいたら0点ですね。でも、「私はあなたと対等よ」ということをわかっているけれども、相手は遠慮しているということですね。そのことは我々はわからないわけです。「君、上下関係的な立場に立っちゃいけないぞ」と言われたら、「はい、もちろんわかってます」ともちろんこう答えるでしょう。患者どもよりも医者が偉いという医者がいたらそんな医者は0点ですね。大学教授が学生どもよりも俺が偉いと思っているような人がいたら、そんな教授は0点ですね。だから、大学の先生は威張っているつもりはありません。医者も威張っているつもりはありません。PSWも威張っているつもりはありません。対等なのがわかってます。でも相手は遠慮してるんだよということです。そのことを考えたとき、僕たちは気づいているだけでは足りないんですね。気づいても気づいてもまだ足らんのが援助関係における上下関係性だろうと思います。そういう意味ではここら辺が強調されていく、クライエントこそ主体だっていうことを繰り返し確認されることは大切だと思います。
これを僕はいつも講義で、授業で言うお話ですけれども、僕自身が喘息の患者なんですね。それで、その入院した体験をするんですけれども、夜中に目を覚ますと点滴のチューブを血が逆流していたことがあります。実はその入院中は点滴を200時間刺されて酸素も200時間さしてました。それで夜中にふと目が覚めら血が逆流し始めてた。それで怖くなってナースステーションに行った。そしたらナース、看護婦さんは上手に血を流れるようにしてくださったんですが、その夜中の1時、2時の僕の心境は、ナースステーション行って「すいませんね、こんな夜中に」と恐縮してるわけでしょう。何で恐縮せなあかんのかっていうことですね。看護婦が「おい、お前、何で夜中に来た」って言うてるんじゃないんですよ。看護婦さんは当然お仕事ですからにっこりと「どうしました?」と言ってくれてます。威張ってません。でも僕は「すいません、こんな夜中に」と思わず謝ってしまってる。いつも言うことですが、じゃあ、僕らがローソンやファミリーマートで夜中の2時に買い物に行くときに、「ごめんね、こんな夜中に申し訳ない」と我々は言うんだろうかっていうことです。ローソンにおいては我々はコンシューマーであって主体なんですね。そして、誰がお礼を言うかといったら、買っていただくアルバイトさんのほうがお礼を言うわけです。「ありがとうございました」って言うわけです。例えば、この授業が終わった後、皆さんがありがとうって言うわけですね。僕のほうが「今日は呼んでいただいてありがとうございました」、いくらか知らんねんけれども、たぶん講演料もいただけると思いますね。「講演料もいただける、呼んでいただいてありがとうございます」っていうだろうか。ローソンやったらたった100円の物買っても、こっちがありがとうございますです。でもPSWがその援助が終わるときに、患者のほうが「先生、ありがとうございます」とは言うけれども、「いや、本当に飯の種になってくれてありがとう。あなたがお客になってくれてありがとう」と僕らが感謝するかといったら、やっぱり無意識に世話してあげてるという事実があるわけでしょうね。ですから、これは援助関係が必然的に持つ絶対的な傾向ですから、こういう綱領なんかで箍をはめていって、徹底的に確認を求めていくこの作業はまったく賛成であります。それは新しい流れの正しいことなんだろうという気がするわけなんです。
ただし、それは賛成した上でここで出てくる次のテーマは、ではワーカーは何者かという問いかけなわけですね。昔のモデルではワーカーが主体だった。「君のためになることをしてあげるから黙っていうことを聞き」という立場だったけれども、近年はクライエントこそ主体でクライエントが自己決定する、という考え方になってきた。そういうことを是とするならば私は何者なんだろうかというこの問いかけに次は答えなくてはならなくなってくるわけですね。これに関して何者なのか。そのときクライエントが主体だとしたら、ワーカーは道具なのかというモデルが出てくるんですね。道具という言い方はきついです。道具という言い方はきついですが、理屈をきっちり追求していったらこうなるわけです。つまり、コンシューマリズムにきっちり立てばこうなる。コンシューマリズムからしたら、ローソンと病院は同じになるべきです。そういう考え方をしたら、ローソン、ファミリーマートに買いに行った僕は店員から説教される筋合いちゃうわけでしょ。「今日は電球は買わないで、ノートを買っておき」と言われる筋合いはないわけで、僕がノート買おうが電球買おうが勝手やし、ひょっとして買って帰ってその電球を割って自殺に使おうがそんなん自分の勝手であって、ローソンの店員に責任があるわけじゃないわけです。100%全責任を自分が背負うのがコンシューマーです。だから、それに対してコンシューマーの行動に対して店員は責任を負いません。そのモデルで援助専門職がいくのかっていう問いかけなわけですね。それに関してはやはりいくべきだというのが、大げさにいえばひとつのグローバルスタンダードな回答だろうと思います。自律・自己決定を欧米モデルは徹底的に強調していきます。そうしたときに、最終的にはソーシャルワーカーといえども医者といえども、極論すれば道具なのだというのはひとつの答えなんだということですね。
例えば、一番わかりやすい例でいえば「死」でしょう、やっぱり。死にたいっていう人に対してどう接するのってなるわけでしょう。これもいつも挙げる例ですけれども、今どんどん安楽死法が進んできていますが、各国で。そんなんの走りにあったのが、ごめん、しゃべるためにきちんと準備してきていないので、不正確なので恐縮ですが。オランダやったと思うけれども、こういう類のことが一番進んでいるのがオランダなんですね、スウェーデンじゃなくてね。オランダっちゅうのがなかなかとんでもない国でね、面白い国です。多分オランダやったと思う、ごめん、いい加減なことを言いますけど、有名な話です。最近は一般的にターミナルな状態の人に対する治療停止の問題はずっと医療では問題になってますね。癌の末期の患者さんをある意味どこで治療を止めるか。これは医者として真剣に捉えている問題です。しかし、そうではなくってターミナルではない安楽死希望のケースが出てきたんですね。要は、ある自殺未遂をなさった人が出てきた。その自殺未遂をなさった人が死にたいということで病院に来はったわけです。自殺を失敗したら大変苦しいです。もう二度と失敗したくないから、お医者さんにころして欲しいということを申し出てこられた。日本では話にならないですがね。その人はどういう状況やったかというたら、僕ははっきりわかりませんが、どうやらPSWやったという話だったみたいだけど、ともかく女性でDVがある家庭の、子どもが二人いる状況やった。ひどいDV、夫からのDVがひどかった。そして、子どもが二人がいた。子どもが生きがいだった。その子どものうちの一人が、お兄ちゃんが自殺なさった。すごいショックです。そんな中を勇気を奮って離婚なさった。二重のショックです。そんな中で、弟のほう、次男と二人で生活を始めた。ますます息子だけが生きがいです。ところが今度はその次男が癌になって死んでしまった。そういう女性の話なんですね。そういう状況に追い込まれた彼女が自殺をして失敗した。そして、お医者さんのところに行った。そして、一生懸命話をした。その結果、お医者さんは「わかりました」っていうことで、「このお薬をどうぞ」っていうことで飲んで、目の前で死んだというのがあります。それは最高裁までいって、その件に関しては、セカンドオピニオンをとらなかったということは有罪になったんですけれども、とにかくやった行為に関しては最高裁判所で無罪になってます。例えば、そういうふうにまったくターミナルでもなんでもない、けれども「私は死にたい」っていうはっきりした理由と意志を持っているならば、お医者さんはそこにお薬を渡して死なせる。そこまで結局、クライエントの自己決定というのは絶対的なのだということのが、ひとつの方向になるだろうというのが思うわけですね。
ただし、ついでやから言うとくと、そこら辺はいろいろなほかのことも覚悟せなあかんのですよ。例えばオランダでは、売春はもちろん法律的にはOKですね。軽い麻薬はOKですね。そして、セックスアテンダントというのがあります。障害者の人に関して性的なチャンスが少ない。それに関しては女性ボランティアたちが、逆もありますよ、男性ボランティアたちが、性的な関係を得るチャンスが少ない人たちに関しては、性的なお相手をしましょう、そういう仕組みすらある。例えば、あらゆることで我々が持っている感覚とは違うのですけれども、ほんとの意味で、一人一人を大切にし最後自らが人生を選ぶ権利をもつんだということをしっかり大事にしていったら、そういうところへもつながっていくだろう。つまり道具、悪口で言っているんじゃない。クライエントがしっかり自己決定していくならば、我々はくどいけれども悪口ではなく、ローソンの店員さんと同じ、薬局の少なくとも売る人と同じ、「セデスくれる?」と言われたら、「何でセデスにするの?」と説教はしないわけであって、そういう彼の自己決定に対するサポーターであるべきなのだというのがひとつのモデルだろうと思います。そして、それは実はグローバルスタンダードで世界の欧米を中心にした、世界標準のモデルだろうと思います。
だから、こういうのがあるのを紹介した上で、僕個人はそれには賛成ではありません。僕は、本当にそれでいいのかっていうことに個人的には疑問を持っています。道具であっていいんだろうか。そうではなくワーカーは発言をすべきなんだという気がしています。自分の価値観を、例えば医者ならば、痛みを取りたい、病気を治したい、一日でも命を長く持って欲しい、健康になってほしいという願いを持つのが医者の専門職としての価値観だと思います。だとしたら、それに反する行いを患者が求めるならば、全力で止めたいと思うのが僕は医者だろうと思います。だから、自殺なんて言わないで踏みとどまってほしいということ、そして、できたら手術を受けてほしいという願いを伝えることは、僕は医者のすべきことだと思っています。でも、これも自立した人間像が前提なんですがね。その上で、「先生の話はよくわかった。でも悪いけど、僕はこうさしてもらう」というのはもちろん、最後は彼の権利です。それは当然のことですけれども。クライエント主体というのは意見ではなく正解です。そういう意味ではこれは僕の意見ですが、ワーカーは自らの専門職的な価値に基づいて話をすることはあっていいと思います。じゃあ、ワーカーの価値ってなんや。それが元に戻った人道主義とか民主主義とかいったら遠すぎますよね、大事やけど。民主主義に基づく私の価値観って何や。医者でいうたら命を永らえることですよ。そして、痛みを取ることですよ。というふうなわかりやすいことでいったらなにかというと、最近の概念でいったらソーシャルインクルージョンでいいかなという気がしますね。そして、僕がずっと使ってる言葉でいったら、僕は福祉は孤立疎外に関わる専門職だろうというふうに思っています。だから、孤立の問題を扱う、疎外の問題を扱うっていうのが福祉だって、僕個人は思っています。最近の国際の流れでは、それをソーシャルインクルージョンと表現しているのかもしれません。
その価値観をMSWといえどもPSWといえども養護施設の職員といえども福祉職員である限り、たまたまオムツを代えるという介護をするかもしれません。たまたまピアノを弾くということをするかもわかりません。わかりませんが、福祉専門職である限りは、孤立を疎外をアンチ福祉の状況だと、こう感じて援助を進めていきたいと思います。それは医者がけがを治したい、痛みを取りたいという願いを持つように、福祉は孤立疎外の状況を解決したいという願いを持つ専門職だろうと、僕個人は思っています。ただ、この場合の孤立疎外は一人があかんといこととは違いますよ。一人暮らしのお年寄りを無理に老人クラブに連れて行くことが正しいということではありません。老人クラブで無理にカラオケを歌わされたり、デイケアに行って赤ちゃん扱いされて、寮母に「おばあちゃん」みたいなことを言われて腹を立てるくらいなら、家で囲碁の本を見てたほうがましやというのは、まったく自立的でけっこうです。ただ、例えばデイケアに毎日参加しながら、だけど、孤独死してはった。それを1週間も誰も気づかなかったとしたら、それは孤立してたと僕はいえるのではないかと思います。逆に一人好きで日頃付き合いのない偏屈な人であったとしても、その人が何か苦しい状況にあるとき、何らかの形でそれがつながっているならば、僕は頑固者で一人好きで孤独なおじいちゃんであったって、その人が疎外されてるとは思いません。そういう意味では、仲間が多ければいいとか一人がだめとか言ってるんじゃないんですがね。
ともかく、僕はその専門職が持つ原点的な願いみたいなものがあって、その願いの軸に、出発点として、援助者が語っていきたいと思います。語っていって、そして、その上で最後を決めるのは彼です。もちろん最後を決める権利は彼にあります。けれども、その決めるプロセスに関与するのが僕はプロだと思っています。そういう意味では、この言葉いいのか、もっとほかにも言葉があると思うんですけれども、相互主体と僕なんかは言いますけれども、そういった関係性の中で援助の問題を考えていきたいなという気がするわけです。何でかっていうとその背景にあるのは、さっき自立尊重をコンシューマリズムと生体実験の関係で話をしましたが、さらにその背景にあるのは自由主義の考え方ですね。リベラリズムとか、リベラリズムにもいろいろありますけれども。そしてその自由主義の考え方というのは、基本的には人は他人に迷惑をかけない限り何をしようが自由であるというのが思想の原点ですね。他人に迷惑をかけない限り何をしようが自由である。そして、そこにさらに追加して、ミルっていう人なんかが有名ですけれども、ミルなんかが言うてるのは、さらに加えて明らかに本人が不幸な結論になるとしても、それを社会によって制限するリスク、問題に比べたら、本人が結果的に選ぶ不幸のほうがまだましなんだ。つまり、不幸になるのがわかってるからいうて周りが止めるのは許さない。彼が何をしようがかまわない。ただし、彼がそれを邪魔されるのは他人が迷惑をこうむるときだけだっていうのが200年前にできた思想で、そしてさらに遡ったら、カントがどう言ったとか、カントの人間論とかいう話になるようですが、ともかく人間は一人で自立しているというヨーロッパ的な自立した人間像に基づいて、ずっとすべての流れが前提されているんですね。
よくいうことです、時間の関係であんまりここら辺を機嫌よくしゃべったらきりがないので縮めますが、個人というのを英語でいえばindividualっていうわけですね。Individualとうのは in、divideで、divideは「分ける」、inは「不可能」。individualはこれ以上分けれ得ない最小単位っていう概念、それが個人でしょう。それに対して人間という概念は、ちょっと精神主義っぽくなりますけれども、人の間と書くわけです。つまり、「私ってどこにあるの?」っていったら、便所の中に一人きりでいる私が私なのかっていったら、目の前の人と話をしているそれが私だったりするほうが多いのですね。ほんまに一人でじっとしているときに活き活きとした私があるかっていったら、実はなんも感じてなかったりするわけで、目の前の人と話してるときに相手に喜んでほしい私がいたり、相手に腹を立てたりしている私がいたり、それが私です。だから、よくいわれるけど、人っていうのは支えあっているんだといわれたりもします。ちょっとごまかしっぽいんですけどね。人間というのは人の間、私っていうのは間にあるんだっていう感覚、そういったものっていうのは僕は、individualを個人であるとする思想に対して、理屈っぽくいえばカウンターで定義していかなくてはいけないだろうという気がしています。
例えば、インフォームドコンセントをして死の自己決定をしていく。それはもちろん正当性をもつのですが、今どんどん近年になってヨーロッパとかアメリカではグリーフワークの必要性が出てきているといわれますね。自己決定を徹底的に重視していく中で、取り残された遺族の問題ていうのはどんどん放っておかれる。そんな中ではグリーフワークというのが相当大きな問題になってきています。もちろん日本でもいると思いますけれども。日本はある意味でごまかしかもわかりません、個が自立していないのかもわかりません。でも、ある意味でグリーフワークも込みで、僕は援助を展開していくようなモデルっていうのは場合によっては日本型で多少可能なのかもしれないという気がしているんですね。
ともかく、今言った自由主義の考え方を全面否定はしていません。もちろん正しい面はいっぱいあります。これが主とした流れたのは、大きく流れたのは1970年代かな、身体障害者の自立生活運動っていう形で結実しましたね。IL運動、Independent Living movement、これが福祉界に与えた影響は大きいと思いますね。一方はヨーロッパのノーマライゼーションの思想みたいなものが精神的な影響を与えました。もう一方ではアメリカの障害者の自立生活運動、IL運動、そういったもののモデルの背景はここにあるでしょう。そして、IL運動の身体障害者たちが言ったのは、「リスクを侵す権利」っていう言葉を言いました。なぜ我々はリスクを侵すことが許されないのか、なぜ援助者に守られることしか許されないのか、リスクを侵すことも我々の権利だっていうことが障害者解放運動の中で出てきました。これはその後の日本にも大きな影響を与えた考え方です。これは僕はまったく正しいと思ってます。何が言いたいかっていうと、自律・自己決定という一連の流れですね。それをまずは賛成する証拠を並べてるわけですが、それはまったくその通りだと思います。
例えば、ほかの例でいうたら、ここら辺生命倫理でいったら、非常にたくさんの発言をされている方が早稲田大学の木村利人さんていう方がいらっしゃって、この人がここら辺の専門家ですし、ホームページでもけっこうたくさんの発言が載ってるんでぜひご覧になったらいいんですけど。その木村利人さんなんかが紹介しておられるストーリー、これをひとつ紹介しますけれども、これもごめん、孫引きの発言やから不正確ですが、要は、ガス爆発事故に巻き込まれて、最重度の状態になった。第3度火傷が何%かな?ともかく病院に運び込まれた時には生きる確率のほうが2割やったというほどの重い状態の人が運び込まれました。けれども最新医療で命は取り留めました。その後、患者さんは死にたいということを何度も意思表示されたわけですが、医者および加害者である会社および親の意思でそれは許されなかった。結局生きることになった。そういう人のストーリーがあります。その人に関して、木村先生は5年後か10年後にわざわざ会いに行ってるわけですね。そうすると、そのガス爆発で当然重い障害が残るような状態になったものが医療のおかげで命は永らえた。そして、その後その方はなんと大学に進むようになり、そして恋人もできておられたわけです。そうすると、そのエピソードから僕らは何を考えるかっていったら、個人の自己決定を無視してでも、善行原則、無危害原則を尊重した、それが良かった例だねって、こう僕たちは思います。ところが木村先生は自己決定を大切にされますから、当事者にインタビューをされてます。そうすると、ご本人がおっしゃられたのは、「確かに私は今、恋人もでき、大学にも入れた。そういった幸せな状況に今あるのは、あの時私が10年前に死にたいと言ったのを聞いてもらえなかったからだ。それは事実だろう。あの時僕の希望が実現されていたら、僕は今は生きてないんだから。でも私の自己決定が無視されたという事実は一生消えないのです」と、こう彼は言って、そのことを木村さんは持って帰ってきた。結局そういう意味で、あらゆることを超えて自己決定は優先されるべきなのだという、ひとつのモデルがあるわけです。だからそれに対して、僕はそれは欧米のグローバルスタンダードだと思っています。だからまずそれが正解である、今言われた重みをしっかり踏まえなくてはならないと思います。
でもそっから先、あなた方一人一人がまったくそれに共感できるならそれもいいでしょう。そして、またそれに不思議な微妙な複雑な思いを持つならば、別なカウンターな価値を持つことは、僕はあってもいいと思っているんです。僕はその立場です。そこで、一生懸命ほかの本を探しました。そうしたら、最近でいうALS、難病の方の本とかドキュメントとかよくあります。そういう中でひとつ発見しました。それは本当に重い状態になられた。もうずっと死にたいとその方は言っておられた。あるとき、その方が風邪をひかれて重い状態になられたんです。在宅の方、お医者さんが往診されて「こりゃ、いかん。病院に担ぎ込まなきゃ」っていう結論を出されたそうです。そのときずっと死にたいとおっしゃってた方ですから、「いやや、医者なんか行きたくない。このまま死にたい」っていうことを患者さんがおっしゃったそうです。それに対してお医者さんは「馬鹿なことを言うんじゃない」っていうことで一喝して「いやだ」と叫ぶ、口で叫んだかどうかはわかりません、重い方ですから。けれども抵抗なさるご本人を「馬鹿なこと言っちゃいけない」と怒鳴って病院に連れて行って必死に治療なさった、そういうことがあったようです。その方が後に書かれた御本の中で、「今、私がここに生きているのは、あの時○○先生が私を怒鳴って病院に連れて行ってくれたからこそ、私の今があるんです」と、こう語っておられます。僕は、それももうひとつの正解なのではないかと、こういうふうに思っています。
二つの正解があるだろうということでのエピソード、もうひとつだけ、これもいつも言ってることなんですけれども、もうひとつだけ紹介しておくとね、初めての方、2回目の方とか繰り返し聞かされて恐縮ですけれどね。僕がいつも挙げる例があります。これもうろ覚えが売りみたいでいい加減なんですがね。高校時代に芥川の小説やったと思うんですけれども、芥川の小説ではなかったかもしれないんですが、短編にこんな小説がありました。これも高校時代の、何十年も前のうろ覚えなんで、だいぶ嘘が混じってると思いますがね。僕はこう覚えてるんです。何かっていうと、自殺の名所の川の流れが激しいところがあった。そこに住んでる老婆がいた。いつもそこは自殺の名所なんでみんなが飛び込むんです。そうするとそのおばあさんはいつも駆けつけて、棒かなんかを渡すんです。そうすると、自殺したくて飛び込んだくせに、みんな必死になってすがりついたそうです。芥川の小説は皮肉屋さんですから、そのおばあさんは馬鹿にしてたんですね。ところが、そのおばあさん自身が後に苦しいことがあってやっぱり川に飛び込まれた。その時、誰かがやはり棒を突き出した。そのときそのおばあさんは思わずすがりついていた、という短編小説を僕は高校時代に読んだことがあります。僕は高校1年のころからボランティアしていて、そのころは福祉にいこうとして、実は浪人をする直前の状態で、諦めて本ばかりを読んでいたころですが、僕はそのエピソードから何を感じたかといったら、「やっぱり人間って生きたいんだよね」っていうエピソードをそこから感じました。それで人間って生きたいんだよという物語として、僕は何十年持っています。
ところが、ぜんぜん福祉と違う同志社の他学部の教授の知り合いがいて、親御さんが癌になられて相当苦しい末期の状態になられた。「早く死なしたい。医者は死なせてくれへんけれども、早く死なせたい」ということをおっしゃったんでね、僕は励ましのつもりで今のエピソードを紹介しました。つまり、生きておられることって意味があるということを言いたかったんです。ところが、このエピソードを紹介したら、その教授はその話をご存知で、「ああ、知ってるよ、君」と、その場で笑って言われたのが、「何を言ってるの。あのお話は、だからこそ要らんことなんかせんといてくれ、さっさと殺してくれっていう物語じゃないか、君」と言われました。ああ、ひとつの物語を二つの読み方をして、大げさな言い方をしますけれども、人生って進んでいくんだなっていう気がしました。
僕は援助職といえども、それぞれひとつのストーリーを持ってていいと思います。ただし、もうひとつの物語を相手が持っているかもしれません。そうだとしたら、最後を決めるのは、自分の人生は自分しかありません。でも、別な人生がもうひとつの人生としてそこでぶつかり合うことは僕は許されるべきだろう、そういうふうに思っています。そういうふうな形で考えていったらいいということなんですね。
なんとなく、4番までしゃべって、5番の「専門職倫理綱領について」はもう時間的にぼちぼち終わらなければならないと思いますので、ここはほんとは面白いし興味があるところなんですが、それをじっくりやりだすときりがないので省略します。そして、資料も作ってこれてないのでね。僕自身は興味があるところをこうやってMSW協会のと、ソーシャルワーカー協会のと、PSW協会の88年のと93年のと最近の案と、そしてソーシャルワーカーの最近出た未定稿のものと並べていろいろ比べたりとかしてるんですけれども、こういう話をするにはもう1回要りますんで、これは省略しますが。
要は、なぜ倫理綱領があるのかといったら、ひとつは対外的な宣言であり誓約なんだろうと思いますね。もうひとつはぼくは、倫理的ジレンマへの対応の根拠になるのが倫理綱領だと思います。ただし、その倫理的ジレンマへの根拠になるというのが、僕の個人的な意見を言わすならば、必ずしもマニュアル化を進めることによってだとは限らないと思います。つまり、さっきも言ったように、非常に細かく進めていくやり方もあります。アメリカのやり方ですね。NASWの綱領なんかは非常に細かくなっています。さっきも言ったように、不正確ですが例えば、性的関係はいけないっていうのと身体的接触はいけないっていうのと性的嫌がらせはいけないっていうのはそれぞれ独立した項目になってるくらい細かい。そうすると、例えですが、「今あなたがやったことは109違反だ」とか「110違反だ」とかいえるわけですね。「いやいや、君のは性的関係は持っていないけれども、性的嫌がらせはしたから、109違反ではないけれども110違反だ」っていう言い方ができます。否定はしません。これはこれでひとつの僕はモデルだろうと思います。でも、それはそれでやってみてもいいし、僕の気配では少し、ちょっとだけそれに近づこうかなというPSW協会の倫理綱領も若干それを意識して、ちょっとだけ近づこうとしている気がするんですがね。それはそれで僕は面白いと思います。ただ、落とし穴にはまったらあかん。そのやり方したら、109から110へ当てはまらないのはどうするねんという、エンドレスな問いかけを持ってしまう、そうすると自分でいうのはなんやけど、考えさす作業、判断の専門職なので、福祉は考える専門職だと思っています。そうだとしたら僕は、この項目に当てはまらないときこそ答えを出す、それができるのがソーシャルワーカーというかプロの専門職だと思うし、マニュアル化を単に進めてよしとするのではなく、事例検討をするときに、「このケースは109違反でしょ」ではなく、ほんとのジレンマっていうのはプラスとマイナスがぶつかり合うケースではないわけですから、その場合にどう考えたらいいのかという指針になれたらいいなと個人的にはします。
そういう意味でいったら日本の綱領の比較を通して優れてると思うところがいっぱいあると思うんです。本当は、じっくり一個一個見比べながらいえたら面白いんですけど、時間の関係で省略しますが、例えば、さっきヒポクラテスの誓いを見てけっこういいやろうという話をしましたけれども、MSW協会の綱領を2500年前のヒポクラテスと比べるのも失礼ですが、なかなかまとまってます。ただし、「対象者」という言葉を使っているところが当然、時代の制約があるのですがなかなかいいと思っています。特に、ほかのが「社会福祉の向上」となっているところが、「社会の福祉向上」になっています。僕は「の」が入るべきだと思っているんですね。そうでないと同義反復になってしまって、こういうことを言い出したらマニアックになってしまうんで止めときますが。「社会保障の完成」みたいなこと、MSW協会は社会保障という中に自分たちをしっかり位置づけてる、そんなのは僕はいいなと思っています。そして、ソーシャルワーカー協会の、同時に日本社会福祉士会の綱領でもありますけれどもいいなと思ってるのは、人間の疎外っていうのを扱ってそれを反福祉状況なんだということを打ち出している、これは僕はとてもいいなと思っています。そして、もうひとつは責任機関との関係で、自分が所属する機関、さっき言った雇用者との関係っていうのが出てきます。それは僕は一番大きなポイントだと思います。その意味では責任ある方法による主旨の公開を求めています。これはあの頃の綱領ではあれだけなんだということで、多分PSW協会のはちょっとここに踏み込んでいる。新しいアイデアではここに踏み込んでいるような気がして、僕はこれに全面的に評価します。それに対して逆に、三協会の新しい案ではこれがちょっと緩んでるんですね。だから残念やと思ってるんです。三協会の方にはこれは残念であると僕は言ったんですが。そういう意味ではこれはとっても大事やと思います。そして、PSW協会のは、いっぱいいいことあります。やっぱり後からできてるし、僕は一目おきます。その中でいったら、「社会的復権」というのがとても重要な視点で、PSW協会だからこそ出てきたけれども、ほかのソーシャルワーカー全体も、社会的復権の視点ではなかなか見ないですね、社会的復権の視点で出来事を捉えていこうというのは、すごくいいなという気がしています。
というふうに、それぞれのワーカー協会が、短いけれども優れているところがあります。だから、アメリカのある意味では真似していって、例えば、セクシュアルハラスメントもさらに進んでいったら今度はどうなっているかというと、クライエントへのセクシュアルハラスメントの問題と、ワーカー同士のセクハラの問題と、全部分離して論じだしてきてるんですね。そうやっていくと際限なくなっていく。今新しいセクハラの問題はどうしても扱わなければならんので、今、確か三協会のほうの新しい綱領の案でもセクハラは入ってると思うんですけどね。そのお話を入れるのだったら、エイジズム問題は入れないのかっていうお話になるだろうしということになるのですね。だからそういう意味では、僕の希望を言わしてもらうならば、全協会が条数の少ない憲法に相当する綱領を共有で持っていただいて、その上で個別で自分とこの具体的なその領域ならではの個別性を持ったさらなる基準のようなものを、綱領を前提にしつつさらに我々の団体はこういったものを定めるっていう具体法みたいなものを作られる、それは例えば、○○倫理委員会を持ってるのか持っていないのかによって違ってくるだろうし、罰則規定まで踏み込もうとするのかどうかで違うでしょうから、それは各協会に任す。でも共有する憲法のようなものを、三ワーカー協会も一応PSW協会にも声かけるような組織決定してるようですし、それとリンクしていただけたら、その上でお互いが各協会が作られた個別法を盗み合いながらやっていただけたら、いい意味で競い合いになっていい綱領ができるんじゃないかなという気がしています。そして、後に続く現場の人たちがそれを見て励まされたり、それを見て今自分が抱えてるジレンマに対して、「109該当だから止めてこう」ではなくって、その綱領を読むことで考えさせられたとしたら、「どうや、ここではやったらあかんのと違うの」という答えを自分の頭で導き出せるような、ちょっと理想論ですけれども、そういう側面も欲張りですけれども、加えて持っていただけたらいい綱領になるのかなとそんな気がしています。
すいません、ややお客さんの二重のところに焦点を当てきれずで、ちょっとぶれてプロの人を意識して倫理綱領を作ったりするレベルの人たちがおられるわけですから、そっちに向かって語るときと、やや失礼ですけれども、入門的な思いで語るときとがちょっとぶれて上手にしゃべれませんでしたけれども、一応これで時間がきてますので終わりにしたいと思います。ありがとうございます。


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