自殺/自死で遺された遺族の為に

過度の自責という問題について

中原 憬 (Kei Nakahara)

一般に、愛する人に遺された人は、自分がこうすればよかった、こうしなければよかった、と自責の念に駆られるケースが多いものです。それは、死という人生の究極の出来事に見合うだけの原因をどうしても遺族は探し求めるものだからです。愛する人との過去の思い出を何度も何度も繰り返し想起する内に、どうしても自分の至らなかった点を見つけ出してしまうのです。

特にその中でも、自殺で遺された人は、身近にいた人ほど自分を強く責める傾向があります。

突然に思いがけずに先立たれた場合は、自分がその人の苦しみを理解できていなかったと深いショックとともに自分を責めることになり、自殺願望があることを知りながら先立たれた場合は、その人の身近にいながら遂に自殺を防ぐことができなかったと自分のことを責めることになるのです。いずれにしても、自分のせいだという過剰な認識を持ちがちです。

その認識は、周囲に相談する人がいない場合には、繰り返し強化されてしまいます。
自殺に伴う悩みは、なかなか周囲に相談がしにくいものですから、孤独に重い十字架を背負っている人も多くいることと思います。自殺した本人が聞けば、そんなことはない、と言うはずのことでさえ、誰も否定してくれる人がいないから、自分をひどく責めてしまうのです。

あるグリーフ(悲しみ)カウンセリングの専門書の中に、自殺者の遺族についてのこのような記載があります。

「自殺者の遺族ならだれにでも生ずる恐れのうち、第1に挙げられるのは、自分自身の自己破壊衝動、自殺衝動への恐れである。自分も自殺する宿命ないし運命にあると感じている遺族が、少なくないようである。とくに自殺者の息子には多い。」

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私も、重い十字架を背負っていました。

母のように善い人がひどい運命に翻弄されるようなこの世に絶望し、母の苦悩を理解せず、ひどい言葉を掛けた自分を許せず、自分が殺したという思いに責め苛まれていました。

自己破壊衝動というのは、すなわち自己処罰への思いでした。
鉛筆1本あれば死ねると思っていたものです。餓死することも考えていました。それだけ、自分を責め、悲しみのどん底にいました。当時、未来はまったく見えませんでした。

悲しみ苦しみ抜いた末、残された家族への思いから自殺はやめました。
悲しみ苦しんでいるのは私だけではなかったのです。
それに、自分が死んだら自分の苦悩をほかの家族に倍増してたらいまわしにするだけだということに気付いたからです。

当時の経験から、いま、自責の念につぶされそうになっている人達に伝えたいことは、自己処罰は何も生み出さないということです。
その罰は、自分が生きて耐えることで果たすべきですし、生きていればその罰を償える機会が必ずあるということです。

あなたは誰か、別な人を救えるかも知れません。
その人には返せないかも知れません。しかし、別な誰かに返せばよいのです。誰かの役に立てば良いのです。

それは、あなたが、いまの家族を大切にすることだけでも十分なことです。おいしい料理を作ったり、趣味で美しい物を創り出すことだってよいと思います。

こんな悲しみと苦しみに満ちた世の中で、誰かを少しでも幸せにすることは、価値あることです。 私はそう思います。







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