ヨーヨースピン  
 
 

「あーもう、鈴原ジャマ!」

「ほんっと、ムキになって張り合うなって感じー」

「まったくね」

その日の四時間目の授業は体育で、男女ともに体育館でバスケだった。
試合待ちの間、アタシ達の班は隅っこにひとかたまりになって座りながら、
緑色のネットで仕切られた向こう側で行われている男子の試合を眺めていた。
五人組の中の三人までもが愛クラス精神(そんなものがあればの話だけど)を発揮せずに、
どうやら隣のクラスの『なんとか君』(どうしても名前を思い出せない)のチームを応援しているようで、
アタシの隣りで密かに(といっても、時折『あっ』とか『きゃっ』と小声で漏らすので、
アタシにはばればれだったけど)鈴原トウジを応援しているヒカリは肩身が狭そうだった。
断片的に聞こえてくる三人の話をまとめてみると、どうやらその『なんとか君』はバスケ部員で、
背が高くて、勉強もよくできて、とにかく格好いいのだそうだ。

_へー、そんなものなのかな

と、たいして興味ももてないまま、アタシはぼんやりとした視線をコートに送っていた。
学校において、こと話題がこういった話に及ぶと、
アタシの視界は途端に色彩を失っていってしまうのだった。
運動能力にしても、知性にしても、それから容姿にしたところで、
アタシの胸に訴えかけてくるような何かを持っている男子生徒などいなかったから。
かといって唯一の友人であるヒカリがこの様子では他にすることもなさそうなので、
ことさらに興味がないのを表情に出しながら、仕方なしにモノクロのゲームを見続けていた。
 

「、、、あっ、また」

「ったく、あのジャージめ」(ジャージというのは鈴原の承ったあまりありがたくない渾名だ)

「う〜」

くだんの某君が鈴原にスティールされてしまったのを見て、またまた三人組が毒づいた。
えらくひどい言われようだったけど、
なるほど確かに鈴原のバスケの腕は(帰宅部所属の割に)なかなかのもののようだった。
なにしろバスケ部員とマッチアップして、そこそこに渡り合っているのだから。
 
それに比べてシンジは、ここでもその冴えなさっぷりを存分に発揮しているようだった。
どことなく気怠そうな顔をしつつ、
試合展開にあまり関係ないような場所をうろうろしている。
気をつけて見ないと、コートの上にいるのかどうかさえ怪しく思えてしまう。
パスだって数えるくらいしか回ってこない上に、
せっかく手にしたそのボールだって受け取って直ぐに手放してしまうのだから、
存在感が薄いのも当たり前のことだった。
勿論、シュートなんか一本たりと打たない。

学校での彼は、他のどの場所における彼よりも、更に一段と冴えなく見えた。
教室、廊下、体育館。
どこにいても居心地悪そうにしている、特に取り柄の無い少年。
アタシの知る限りでは、あまり女の子にももてないようだった。
そんなへっぽこなシンジを応援してやる義理などなかったのだけど、
それでもまあ、何の縁か同じ釜のご飯を食べている間柄なわけだし、
他に見るべきものなんて何もないのだから、
後で冷やかしのネタにしてやろうなどと思いつつ、なにげなしに彼の動きを目で追った。
 

「ねえねえ、ちょっと見てアレ」

「うっはー、あのガッツポーズはやめて欲しいよね、ジャージのくせに」

「ほんとにね」(ここでヒカリが控えめに空咳をした)
 

一部が変に熱くなっていくのをよそに、
全然スポットライトの当たらないコートの片隅を、シンジはうろつき続けていた。

_ふーん、、、、

ちょっとした驚き。
別に感心したとか、見直したわけではなく、
しばらくシンジの動きを観察している内に、アタシは一つの事に気付かされた。

_まったく、、、どうかしてるわね、、、

つまり、どうやら、彼は元から存在感が薄いのではなくて、自分で存在感を薄めているらしかった。

体育の授業レベルのバスケットとなると、どうしてもマンツーマンの展開になってしまう。
シンジとマッチアップしている男子はなかなか運動神経が良さそう(勿論比較的という意味)
ではあったけれど、パスコースやらドリブルコースにシンジがうろちょろしているものだから、
ほとんどボールを貰うことが出来ずにいて、
シンジもろとも二人してコートから消え去ってしまっているのだ。
オフェンスの時にだって、シンジはまったくボールを保持しないのだから、
やはりここでも二人ともゲーム展開のかやの外。
シンジは特にすばやい動きをしているわけでも、素晴らしい反応をみせているわけでもないのだけど、
そのポジショニングだけはなかなかに考えられたもののようだった。

そんなことをしたところで、彼一人を注意して見ていないと、なかなかその意図には気付かないだろう。
でも、アタシにはなんとなく彼の考えそうな事が分かるような気がした。
ようするにシンジは目立ちたくないのだ。
ミスして目立つのも、
活躍して目立つのも(もっともこちらはやろうと思っても出来なかったろうけど)、
どちらも嫌なのだろう。
それならなるほど、コートから消えてしまえばいいわけだ。
なんとも不健康な発想。
それにしても、
これほど異常なまでに存在感を薄めたくなるという心理は一体どのようにして形作られたのだろうか。

_まったくどうかしてる、、、、

考えてみれば、シンジはどこにいたってそうだった。
職場でも、家でも、教室でも。
人々の視線を避け、場の空気を波立たせないようにして、あらゆる事態に対して受け身でいる。
 

色褪せた光景がひろがる中、体育館履きのソールがたてる音がいやに大きく耳に響いた。
体育座りをしながら、抱え込んだ膝をぎゅっと締め付けてしまう。
自分の頬が紅潮するのを感じた。
刺激されたのは、自尊心だったのだろうか、羞恥心だったのだろうか。
よく分からないままに、アタシはシンジを睨み付けるしかなかった。

_ホント、アンタどうかしてるわよ、、、、

いつだったか、彼が伸ばした手を握ったアタシ。
いつだったか、アタシの前を駆けていった彼。
そう、
アタシは何度かシンジに危ないトコロを助けられた事があった。
彼は無気力で、臆病で、いじけてばかりで、、、、、、、、。
そのくせ、いつだって、肝心なところでだけ、気まぐれなやる気をみせた。

アタシ達の仕事は、多くの人間の人命に関わるとてもデリケートなものだった。
常に身を危険に晒さねばならない、そんな仕事。
まだ中学生でしかないアタシ達は、明日に生き残っていたいのであれば、
神経をすり減らして、減らして、減らして、摩滅させて、そうしてようやく、
その痩せ細った神経の向こう側に、生き残る道を朧気ながらに見出す、、、、、そんな日々を送っていた。
非日常の世界。
その細い糸の上でだけ、時折、彼は冴えない自分でいるのを止めるのだ。

アタシにはシンジという人間の本質が分からなかった。
日頃の、だれきって、いくじがない、後ろ向きな彼。
限界まで張りつめた時、一瞬だけ、命さえ省みないような精悍さをみせる彼。
全てのイメージはぼやけていた。
まだらだった。
曇りガラス越しにしか見えない彼。
アタシをひどく苛々させた。
ひどく腹が立った。
 

結局、十人もの人間が走り回るコートの上でバカバカしい努力を続けた彼は、
一得点も決めないまま、(彼にしてみれば)大成功の内に試合を終えた。
ようやく安心したのか、僅かに表情を緩めながら、コートの隅へと去っていく。

ふと気が付いて、アタシは膝を抱え込んでいた手を放した。
うっすらと赤くなった足は、じんじんとしびれていた。
 
 
 



しずく

:ヨーヨースピン



 
 
 

しばらくして、笛が鳴ると、アタシ達の班がコートに呼ばれた。

ゼッケンを受け取って、それを身に付ける。
体育館に響き渡るゴムのたてる音。
耳鳴りがなかなか止まなくて煩わしかった。

試合開始のホイッスル。
審判が中空に放ったボールがジャンパーに弾き出されて、すとんとアタシの目の前に落ちてきた。
バウンドするボールを胸の前で受け取ってから、ふと、顔を上げ、リングを見たら、
なぜだか、、、、、、力の歯止めが上手く利かなくなった。
ほとんど無意識に体が動き始めた。

ボールが回ってくる度に、アタシはひょいひょいと面白いようにレイアップを決めた。
コート上の誰もがアタシのスピードについてこれない。
相手の守備陣に楽々とカットインして、さながら独壇場のように暴れ回った。

苛々していた。

大人げないのは分かっていたけれども、
それでも、体は動くのを止めようとしない。

狼狽えておろおろする目の前の相手を、
軽くヨーヨースピン(くるくる回るドリブル)で交わしてから、
アタシはベイビーフック(相手にブロックされないように打つシュート)を打った。
小さい弧を描いたボールは、一度ボードにバンクしてから、ネットをするりとくぐり抜けた。
躍動する体。
束ねた赤毛が背中でふさふさと揺れるのが分かった。

ボールがリングをくぐる度に小さな体育館に沸き起こる、こぢんまりとした歓声。
不可視の注目が集まってくるのを感じる、お馴染みの感覚。

幾度目かのゴールの後で、アタシはちらっと男子サイドのコートに目をやった。
すばやい動きで見つけだした視線の先の少年は、
体育館の隅の壁に寄りかかりながら、ここではないどこかを見つめていた。
 

ぼんやりゆっくりと交わされる相手チームのパスをカットして、アタシはボールを奪った。
ファーストブレイク。
目の前には誰もいない。
ゆっくりとした動作で伸び上がって、ボールをリングに通した。
どフリーのレイアップじゃあ自慢にもならないけど、それでも体育館はざわめいた。

沢山の人間に見つめられている感覚。
ばらばらと砕けたガラスのように降り注がれる、
憧憬、羨望、若い性欲、老いた性欲、それから、何だか判然としない暗く重い思念。
アタシが、それまでの人生を費やして、かき集めてきたモノ。
いつかきっとその屑鉄の山から鍵を作り出そうと思って、せっせと拾い集めたモノ。

ひどくしみったれたガラクタ。
 

チームメイトにボールを預けてから、ゴール下に入り込む。
手を挙げて、リータンパスをもらった。
一度だけドリブルして、素早く振り向くと、ジャンプシュートの体制に入る。
マッチアップした長身の相手がブロックしようとして、苦し紛れにアタシの手を軽く叩いた。
ちょっとバランスを崩したアタシは、
それでも空中で身を捩りながら、クラッチして、ボールを軽く放り投げた。
ボールはリングに触れずに、静かにネットを揺らした。
バスケットカウントワンスロー。
三点プレイだ。

_アンタとはデキが違うのよ、デキが、、、、、、、

たいした運動量でもないのに、何故か息がせわしなく弾みだした。
きんきんと音をたてて意識が流れ出す中、辺りの光景がひどくゆっくりと流れていく。

何故だか、視界は色褪せたままだった。
 

アタシは褒めそやされるのが何よりも好きな、精神の安定を欠いた少女だった。
注目を集めるのに必死で、常に話題の中心になっていないと落ち着かず、
男からは好意の視線を浴びせかけられ、女からは羨望の想いをぶつけられていないと、、、苛々する。
満たされたかった。
失った愛の思い出と過去の傷を埋め隠す為に、はち切れんばかりに満たされたかった。
誰よりも満たされる為に、アタシは努力を惜しまず生きてきた。
ドイツでの幼少期、それは、血の滲むどころか、血塗られた毎日だった。

だから、
ただ全てのことに背を向けて、いじけて、すねて、そうやって意地汚く優しさを求めるなんて、、、、
、、、、、汚らわしくて、卑劣で、卑怯だと、そうアタシは信じてた。
 

フリースローラインに立った。
静寂に包まれる体育館。
幾筋もの視線の束の中に混じっているであろう一本の意識を想って、
ボールを放つ瞬間、アタシのリズムが少し狂った。
ぶれて飛んだボールはリングの奥に当たった。
直ぐに、体が反応する。
素早くゴール下に入って、飛び上がったアタシは、跳ね返ってくるボールをタップしてリングに押し込んだ。

どよめく体育館の空気。

ちくちくと痛いほど突き刺さってくる視線。
タガが外れたように激しく震えだした自意識を、アタシは恐ろしいモノに思った。
ゆらゆらとカゲロウのようにアタシの一歩前をいく残像。
赤毛を振り子のように揺らし、恍惚と瞳を濡らしている人。
うまく自分の中に入って行けず、キレを増すカゲロウの動きに、アタシは取り残されていった。
それでいて、離れることも叶わず、じっと目の前の背中を見つめている。
その視線の先で、アタシではなくなったアタシは、無言で驚喜の声を挙げていた。

いつかきっと純銀の欠片を拾えるんだって、そう叫んでいる。
ソレを鋳型に流し込めば、鍵を手に入れられるんだって、そう叫んでいる。
解き放てるんだって、夢見るような目つきで叫んでいる。

_誰を?

_何から?
 

最早、掴みきれないものとなった意識の流れ。
まるで見知らぬ他人のものかのように、脳内に見慣れない光景が展開されていく。
濁流となって押し寄せてくる、幾つもの考え。
嫌悪感と連動する肉体。
躍動する肉体と連動する意識。
加速のサイクル。
呼吸が激しく乱れていくのが分かった。

アップテンポの心臓のリズム。

様々な思念が幾筋もの奔流となって、アタシの中に流れ込んでくる。
もの凄い負荷を感じながら、狂ってしまいそうだと、アタシは思った。
半狂乱になって首をくくって死んだ母。
その母の血がアタシにも流れているのだと、
まるで紙に書いたかのように、目の前にはっきりと突きつけられた気がした。
ヒステリックな激情に襲われると、コントロールが利かなくなる。
日本に来てから顕著になった、アタシの特徴。

だけど、そうと知ったところで、一体どうすればいいというのだ。
そんなことを知ったところで、選択肢は一つたりと増えはしない。
認めればいいとでもいうのだろうか。
誰もが孤独なんだって。

そんなことは死ぬことと同じなのだと、アタシは思った。
そして、アタシは死にたくはなかったのだ。
 

再び、回されたパス。
受け取ったボールを相手コートに持ち込んで、そのままスリーポイントシュートを放った。

歓声がおこった。

高い弧を描いたボールは、
不愉快な音をたててリングに当たってから、大きく弾んで、
それから、コートサイドへと転がっていった。
 

ころころと転がるボールをよそに、アタシはもう動けなかった。
少しでも気を抜くと体がばらばらになってしまいそう。
ぶるぶると震える指先。
空転する意識。

アタシは体育館を後にした。
教師が何か言ったようだけども、一度も後ろを振り返らなかった。
 
 
 
 
 

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