<はじめに>
やりがいある独学・生きがいある人生

 大学へ行っても独学が必要

 勉強とは普通、学校に行ってするものだという、ごくありふれた考えは、広く人々の頭にしみこんでいる。そして、学校へ行く条件にめぐまれなかった人々が、学校に行かずに勉強するのが独学だという考え方も、これまた、ひどくあたりまえのこととして受けいれられている。おそらく、あなたもその例外ではあるまい。
 しかし、果たしてそうだろうか。
 誤解されることを恐れないで、率直にいえば、学ぶということは、本来自学自習、いいかえれば独学である。独学でなければならないものである。独学の姿勢こそ、学ぶ姿勢であり、学校にいくか、いかないか、教師をもつか、もたないかは、何ら関係のないことである。
 今日、学校教育は、かつてないほどに普及したし、今後、ますますその普及は広がろうとしている。事実、高等学校入学者は、ついに七割をこえ、戦前の義務教育であった小学校尋常科を終えて、小学校高等科に進んだものの比率に匹敵する。そして、大学に進む者の数は、これまた、戦前の中学校進学者の数に等しくなっている。いまや大学は、戦前の中学なみである。
 だから、もし独学を、学校にゆかないで勉強するのだと考えて、独学をすすめたとしたら、全く時代逆行であるし、ナンセンスといわなくてはならない。
 そればかりか、私は、学校教育を軽視するものでもないし、むしろ、学校教育の重大さを考えるものである。ただ、今日の学校教育があまりにも学ぶ姿勢を失っている故に、その是正を望み、独学の姿勢をすすめる本書を書かないではいられなかったのである。
 それに、私は幸いなことに、中学校以来、教師にめぐまれなかったために、自然、先生にたよらず、自分で学ぶ独学の姿勢を身につけた。そして、学問する上に、独学の姿勢がいかに重要であるかを、いたいまでに知らされた。
 その意味では、本書は、学校教育への不信と怒りから生まれたものであるが、もし、教師が独学の姿勢を教えてくれ、導いていてくれたら、もっともっと充実し、成長していたのではないかという気持もする。
 しかし、そんなことをいって悔んでいることはできない。現に、あなたたちは、現在の学校教育の中で、どんどん侵害されている。とすれば、私は、本書を書くことによって、現在の学校教育に挑戦せずにはいられない。

 へんな学校なら行かない方がマシだ

 今日のように、学校教育が整備されればされるほど、本来あるべき自学自習、即ち独学の姿勢がますます失われていくことを心配せずにはいられない。それに、学校教育をうけることのなかった人々が、相もかわらず、いわれなき劣等感にさいなまれているのを悲しまないではいられない。
 もし、独学の姿勢が、大学にゆく者にとっても、ゆかない者にとっても、もともと必要なものであると考えるようになったら、大学生でも独学の姿勢を身につけていない者は最低であると考えるようになったら、どんなによいかと考えないではいられない。
 いま、これまで通用していた価値や意味が崩れて、新しい価値と意味が求められている。
 しかも、新しい価値と意味が生まれるためには、いろいろの価値や意味が生まれ、それらがお互いにかくしつをくりかえしながら、そこに分裂と混乱が生まれ、分裂と混乱はさらにはげしい対立を生む。そしてそのはてに、始めて新しい価値と意味はつくられるのである。
 私たちが、現代をすばらしく生きるということは、その価値の混乱と激しい対立をまともにうけとめて、そこから新しい価値と意味をつくりだしていくことである。一人一人が新しい価値の創造者としての覚悟と姿勢で生きることである。
 だから、いまの私たちに最も必要な能力とは、これらのことをやりぬく能力である。いいかえれば、この現実をがっちりとうけとめて処理できる思考力、批判力、洞察力であり、行動力、統率力、意志力である。それらが統一された力である。
 若い人の批判力、洞察力は、多くの場合、先輩、両親、教師、上役、経営者の求めるところとは、相反することが多い。理解力も行動力もそうなる場合がままある。
 しかし、実はその違いこそ必要なのである。それなのに、現在の学校では、ややもすれば、批判力を抹殺しようとし、理解力にいたっては、これを暗記力とすりかえることによって、強引にねじまげようとさえしている。
 こうして培った学力や知力によって、新しい価値や意味をつくることは、決して期待できるものではない。
 現在の学校教育は、これらの能力を身につける上で、むしろマイナスの作用をしているといってもよかろう。しかも、長い間こういう雰囲気の中におれば、いつか、一、二割の学校秀才と、一割にみたない有名校の学生、生徒をのぞく大部分の人々が、自信を失い、劣等感のとりこになっていくしかない。学校は、すべての人が、それなりに一人立ちできることを目標としながら、その実、八割近い人々に、無力感や劣等感をうえつけ、一人一人将来を切り拓くかわりに、その夢や希望をつみとっているのである。こうして人々は、ファイトを失い、あきらめを身につけさせられる。
 私でなくとも、この事実を考えたら、「学校よ、くたばれ」といいたくなろう。
 学校教育をうけなかった者の中には、学歴がないということで差別をうけたり、いわれのない劣等感に悩まされることはあっても、自分自身の能力を勝手にゆがめられたり、無力感や劣等感をうえつけられることもないままに、ぐんぐんと成長し、のびのびと生活をしている者がある。非常にすぐれた仕事をやっている者もある。それは、妙な足カセ、手カセをはめこまれることのなかったせいともいえる。
 学校教育の渦中にある者は、この事実をよくよく、胸に深く刻みつけることが必要である。

 人生の勝利者になるために

 もともと学問、知識は、人間の欲望と感覚をもとにして、そのうえに確立すべきものである。学問、知識は、人間の欲望、感覚を正しく好ましい方向にむけさせるためのものといっていい。
 欲望と感覚は深い、根強いものである。だからそれを達成させるためには、人はそれぞれ、あらんかぎりの力をつくす。それは執拗でさえある。この欲望、感覚に根ざし、それを達成させるために生まれた学問、知識が強力なのは当然である。途中でなげだすようなことは、決しておこらない。挫折のしようがないのである。
 こうして、この学問、知識ははじめて、強力な学力となり、執拗な知力となるのである。だから、その学力、知力は、その欲望、感覚が達成するまで働きつづけるし、どんなことをしても達成できる学力、知力となっていくのである。
 ことに、とぎすまされた感覚は、矛盾や不正を許すことがないから、妥協というものがない。しかも、弱い欲望や好ましくない感覚が、どうすれば強力になり、好ましくなるかも、学問や知識が教えてくれる。こうして、欲望、感覚、学問、知識はお互いに相補いながら、永遠に前進をつづけていくのである。
 くじけたりいいかげんに妥協したりすることがなく、たえず前進をつづける学力と知力こそが、それらを身につけた人々を人生の輝かしい勝利者にし、さらに新しい時代を築いていく。
 このように、自らの欲望を開発し、自らの感覚をとぎすましながら、それらを基調にしていく勉強は、他人がきめたコースを、安易に、無自覚に学んでいくところからは生まれない。それは、学校に学ぼうと学ぶまいと、それに関係なく、自らの道を自問自答しながら、自学自習をつづける独学によるしかない。
 独学とは、自分自身を中心にして、自分自身のために、現実から一歩一歩学びつつ、確実に現実を自らのものにし、征服することである。自分自身をふとらせていく学び方である。頭だけでなく、身体全体をふとらせていくことである。自分からひきはなし、もぎとろうとしても、決して、もぎとられない、血肉化した学問、知識を身につけていく学び方である。試験や就職のために、学ぶのではない学び方である。
 あなたが、現在の不満だらけで、面白くない状態から脱出しようと思ったなら、まず、これまでに学んできたもの、現在のあなたを支えている知識を再検討してみることである。そこから、あなたの本当の人生の第一歩が開かれるであろう。現代という時代は、それを、なによりもあなたたちに求めているからである。
 そういう意味で、本書が、学校教育の厚い壁にぶちあたって悩んでいる人々に、少しでも役だてば幸いである。
 とことん、考えぬいて貰いたい。

  昭和40年11月

 

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