◆戦国大名伊達氏の勃興


伊達稙宗長享二年(1488)―永禄八年(1565)

次郎、左京大夫、陸奥国守護、従四位下。号受天。伊達尚宗の子。母は上杉兵庫頭定実の女。室は芦名盛高の女(泰心院)。子女は嫡出庶子あわせて二十数人に及ぶ。二男を大崎・葛西氏に入嗣、六女を相馬・芦名・二階堂・田村・懸田の諸氏に嫁がせ、積極的な外交政策をとる。
大永二年(1522)十二月七日、幕府は鎌倉時代以来、初の陸奥国守護補任の御内書を発したが、正式な任官はしていない。これは、稙宗が奥州探題大崎氏をしのぐ実力を誇示したかったため、といわれる。
天文元年(1532)、稙宗は梁川から伊達郡桑折西山に居城を移し、『棟役日記』『段銭古帳』を作成し、領国内の徴税の体系化を図った。『段銭古帳』に記された伊達家の版図は、出羽(置賜郡)・陸奥(伊達・信夫・宇多・刈田・伊具・柴田・名取・宮城・志田郡)二カ国にまたがっていた。さらに天文五年、『塵芥集』を制定し、戦国大名権力の成立は一層推進される。
天文の乱に敗れた後、丸森に隠退し、永禄八年六月十九日、同地で没した。年七十八。法名真山円入智松院。墓所は、宮城県伊具郡丸森町と福島市小田陽林寺。丸森町の松音寺は、のち仙台の蓮坊小路に移転したという。伊達氏歴代当主のうち、十七代政宗につぐ最重要人物である。

◆伊達氏天文の乱、全奥羽に飛び火


天文年間に勃発した伊達家の内乱。別名「洞(うつろ)の乱」。家臣団のことを総称して、洞中ともいう。文字どおり、骨肉相食む抗争であった。
三男時宗丸(実元)の越後上杉家入嗣問題を契機に、伊達稙宗と嫡男晴宗との対立が表面化する。急進的な稙宗の政策に反発した地頭領主層は晴宗に味方し、全奥州を巻き込む大乱に発展する。

有力国人の支持を得た晴宗が勝利をおさめ、伊達家当主の座につき、米沢に居城を移した。稙宗と同様、多くの子女を奥州諸家に入嗣・入嫁させ、勢力の拡大を図る一方、家中の知行改めを行うなど、権力の掌握に勤めたが、晴宗擁立の立役者であった中野宗時父子の専横を抑えきれず、子輝宗との対立を深めた。のちに杉目城へ隠退し、天正五年(1577)、同地で没した。
父を追って家督を嗣いだ晴宗であったが、基本的には先代稙宗の政策路線を踏襲せざるを得ず、自らも子輝宗と齟齬を生じたことは、皮肉な運命といえる。

伊達晴宗永正十六年(1519)―天正五年(1577)

次郎、左京大夫、従四位下、奥州探題。入道号道祐。伊達稙宗の嫡男。室は磐城重隆の女久保姫(栽松院)。 弟実元の上杉家入嗣問題に反発し、父稙宗を幽閉。洞の乱に勝利をおさめた晴宗は、米沢に居城を移す。稙宗と同様、多くの子女を奥州諸家に入嗣・入嫁させ、勢力の拡大を図る一方、家中の知行改めを行うなど、権力の掌握に勤めたが、晴宗擁立の立役者であった中野宗時父子の専横を抑えきれず、子輝宗との対立を深めた。のちに杉目城へ隠退し、天正五年(1577)十二月五日、同地で没した。法名は乾徳院殿保山道佑居士。墓は福島市舟場町宝積寺。

◆伊達輝宗、家臣団掌握への苦闘



伊達輝宗天文十三年(1544)―天正十四年(1584)

彦太郎、総次郎、左京大夫、従五位下、従四位下、入道号受心。伊達晴宗の次男。室は最上義守の女(義姫、保春院)。
弘治元年(1555)、足利義輝の偏諱を受け、輝宗と名のる。
天正十二年(1584)隠退し、出羽国米沢の舘山城に住す。
天正十三年十月八日、陸奥陸奥安達郡に出陣中、二本松城主畠山義継に拉致され、伊達勢の追撃によって義継もろとも死す。法名は性山受心覚範寺殿。墓は山形県東置賜郡高畠町資福寺、ほかに福島市佐原の慈徳寺に輝宗のものとされる塚がある。