伊達氏

山蔭流・藤原氏
左京大夫、陸奥国守護、鎮守府将軍、奥州探題、従三位中納言。仙台藩62万石として明治維新を迎える。
家紋は笹に雀(上杉家より拝領)、三引両ほか。

◆藤原氏の名流、奥州討伐に参加


伊達氏の遠祖は、藤原氏である。中納言藤原山蔭六代の子孫実宗が、常陸国真壁郡伊佐荘中村(茨城県下館市)に住して、伊佐または中村と称した。

藤原山蔭から数えて十代朝宗の時、源頼朝の奥州征伐に従軍し、功によって陸奥国伊達郡を賜った。朝宗の息子為宗、宗村、資綱、為家らも藤原泰衡の軍と戦い、戦功があった。文治五年(1189)、朝宗は高子岡に城を築いてこれに住し、はじめて伊達と称す。


藤原山蔭天長元年(824)―仁和四年(888)
民部卿、右大弁、参議、中納言、従三位。越前守高房の男。仁明、文徳、清和、陽成の各天皇に仕え、摂津を所領とする。山城国にはじめて吉田の社を造営し、春日明神を勧請する。『今昔物語』や『平家物語』には山蔭に関する逸話が採られている。また、光孝天皇の命により料理式を定めたといわれ、料理包丁道の四条流の祖とされる。仁和四年没。

伊佐朝宗?―?
高松院非蔵人、従五位下、入道号念西。あるいは院判官代遠江守、東宮帯刀常陸介。待賢門院非蔵人光隆の子。母は六条判官源為義の女。室は結城氏。伊達氏初代である。没年七十一歳という。墓は陸奥国伊達郡桑折の満勝寺。
『吾妻鏡』文治五年八月七日条に伊達郡での戦闘が、八日条に朝宗(藤原念西)とその一族の奮戦が記されている。また、朝宗の女大進の局は源頼朝に召出され、男子(貞暁)を生んだという。


◆北畠顕家に従い、南朝方の拠点として


陸奥における伊佐朝宗の所領を相続したのは次男宗村である。
その五代の子孫行宗の時、義良親王を助けて建武二年(1335)、陸奥国の賊徒を平定し、ついで興国三年(1342)八月、常陸小田城に入った寛成親王を奉じ、石川、石橋、河村、田村、南部、滴石らの諸豪族を糾合し、北朝方の斯波岩手南部を討伐した。行宗は奥州小幕府ともいうべき北畠顕家体制下の式評定衆・引付筆頭人となる。

行宗の子宗遠も南朝に忠節を尽くし、出羽国置賜郡長井庄を攻略、また亘理行胤を刈田の戦いで破り、信夫、刈田、柴田、伊具の諸郡を服従させた。しかし、北畠顕家敗死後、奥州における南朝勢力は次第に衰退していく。


伊達行宗正応四年(1291)―正平三年(1348)
はじめ行朝、あるいは朝村という。蔵人、左近将監、宮内大輔、従五位下(正五位下という説もあり)、従四位下。伊達基宗の子。室は田村氏の女。常陸国伊佐庄中村城に移居す。後醍醐天皇方として畿内、関東へ転戦。正平三年(北朝貞和四年)五月九日没、年五十八。

伊達宗遠正中元年(1324)―元中二年(1385)
弾正少弼、従五位下(正五位下という説もあり)、入道号定叟。母は田村氏の女。伊達郡に住す。元中二年(北朝至徳二年)没、年六十二。


◆鎌倉公方に挑んだ中興の英主


伊達行宗、宗遠の代に広大な領土を獲得した伊達氏は、宗遠の子政宗の時、一大転換期をむかえる。
応永六年(1399)、鎌倉公方が篠村・稲村の両公方奥州派遣を決定。しかも公方の料所が在地領主の所領割譲という形がとられたため、国人衆の反発を招いた。これに立ち上がったのが政宗であり、国人の権益を守るため芦名満盛・大崎栓持と結んで兵を挙げる。鎌倉府とは敵対関係にあった幕府と結びついた政宗の抵抗は応永九年まで続いた。二度にわたる鎌倉の征討軍と戦い、いったんは鎌倉軍に大打撃を与えたが、衆寡敵せずついに敗退した。
伊達政宗文和八年(1353)―応永十二年(1405)
兵部少輔、大膳大夫、従五位下、入道号円孝。室は石清水善法寺通清法印の女(蘭庭尼。足利義満生母の妹)。
応永四年、上洛し、将軍足利義満に謁す。応永六年、鎌倉公方に対し反旗を翻す(伊達政宗の乱)。この抗争の裏には、京都の将軍と鎌倉公方の対立があり、さらに将軍と政宗の叔父甥の関係が介在している。
仙台藩祖伊達政宗と区別して通常、儀山政宗あるいは大膳大夫政宗と呼ばれる。伊達家にとっては、中興の祖であり、武名を天下に知らしめた人物として敬愛された。
応永十二年九月十四日没。法名は儀山円孝東光寺殿。菩提寺は陸奥国刈田郡湯原村東光寺、別に墓が山形県東置賜郡高畠町にある。
歌人として世に知られ、将軍足利義持が追悼の歌に添えて紺紙金泥の法華経を贈っている。
武士の跡こそあらめしきしまのみちさへたえむことぞかなしき

朽はてぬかざしともなれ言の葉にそへてかきやる法のはなふさ

また、代々の伊達家当主が京都の将軍家から諱字を与えられるのも、双方の結びつきの強さを物語っている。