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進歩

先日、尊敬する科学者であるカール・セーガンの遺作となった、「人はなぜエセ科学に騙されるのか」という文庫本を読みました。
そこで繰り返し述べられていたのは、「科学は人間の作り出した一番すばらしいもの」という揺るぎない信念です。そういえば、ピーター・フランクル氏も新聞のインタビューでそのような発言をしていた記憶があります。


科学は人を多くの病から、飢えから、危険から解放する。人間自身と自然に対する深い知識と畏敬の念を生み出す。

そして、原理的に反論不能な「エセ科学」とは異なり、自ら間違いを認めるエラー修正機能を持ち、常に健全な懐疑精神を保ちつつ前進しようとする。不幸の原因を過去の領域へ追放し、幸福を作り出す技術。美しく慎ましい知識体系……。

彼の「科学」に対する深く強い愛情を痛いほど感じながら、しかし私は、「科学が人間の作り出した一番すばらしいも の」という意見には、残念ながら賛成できなかったのです。


例えば、科学がたくさんの技術で人間生活を向上させた一方で、多くの兵器や環境破壊の原因を生み出したこともまた事実です。しかしそれ以上に、科学は本当に、人間を「幸せにした」のでしょうか?

こう言うと、ついつい物質的に豊かになった代わりに精神の豊かさを忘れてしまった、といった論調になって、「じゃ科学が進歩していない古代や中世の、疫病と飢餓だらけの時代に戻って生きていけというのか?」みたいな反論を受けてしまいそうです。
私は別に科学の進歩を否定するつもりはないですし、むしろ科学は人間が生きていく道を探る旅に出る船の、重要な部品の一つと思っています。

でもちょっと考えてみたいのです。もしこのまま人類が滅亡もせず、科学もどんどん進歩して、技術もどんどん向上していったとします。

病気は全て克服され、平均寿命が200歳くらいで、人間は暑さ寒さも自在にコントロールできる快適な環境で、おいしくて栄養満点のごはんを食べて生活できるようになった……と仮定しましょう。

この未来の時代に生まれ育った人は、過去(つまり私たちのいる現代)を振り返って、こう言うのでしょうか。

「ああ、昔は何てひどい、劣悪な環境だったのだろう。あんな生活をしていて、きっとあの頃の人類は不幸で惨めで、 精神的にも未熟だったに違いない」、と。

もしそう言われたとしたら、そして私がそれを聞いたとしたら、「よけいなお世話ですよ」と肩をすくめてしまうのでは ないかと思います。

 

科学の進歩は確かに、先進国の多数の人間を病気や飢餓から解放する手段を作り出しました。
先進国の人は、例えばより長く生きられるようになり、よりたくさんの量と質の食料を得ました。

それは疑いもなく科学の業績ですが、逆 に言えば、それだけのことです。幸福や不幸とは、また別の話です。

直結しているように思えるのは、ただ今の私達が 「病気と飢餓と貧困に直面せず生きていけることが幸福である」と定義しているからにすぎません。

現代人が歴史を想像する時、満足な暖房も消毒の概念もなく、飢えと病に苦しみ、人権なんてものを考えたこともない君主に虐げられた、「不幸な民衆」というのをつい思い浮かべるものですけれど、実際には、彼らには彼らの幸福と不幸が存在していただけではないかと思います。

幸福にも色々な形があって、今の私達には耐えられないような環境の中にも、色は違えど同じ濃さの幸福が存在していることでしょう。それを幻想や錯覚と決めつけることは誰にもできません。幸せは、進歩とは、あんまり関係がないような気がします。

 

人間は、日々進歩しているのでしょうか。私には、むしろ進歩ではなく変化しているように見えます。

私にとっては、宇宙は完成と究極に向かっているという考え方よりも、
「歴史は振り子のように極から極へ揺れ動いている」といった考え方や、
「一定方向にのみ向かう偏流するものはなく、あらゆる力はその時達しうる 最高点に達した時点で逆方向に方向転換する」という考えの方がなじめるようです。
流れの中の、どの一点を取り上げてみても、ほかの点と比べて優劣があるという訳ではないでしょう。赤や青が、緑と比べて美しくない、という訳ではないように。

 

しかし、進歩という発想を完全に否定するのも、また愚かな話です。
どんな惨い環境の中にも幸せは存在しますが、よりたくさんの人がより多様な生き方を選択し実現できる豊かさは、 いつでもどこにでも偏在している訳ではありません。

幸せは環境に依存するのではなく、感じる主体に依存するものでありますけれど、幸せに対する感受性の豊かな主体を形成しやすい環境、というものはあるかも知れません。
それは科学のみで実現するものではなく、哲学や信仰や魂についての思想、政治や経済や芸術といったあらゆる英知が結集しなくては叶わないでしょう。
あるいは、その「叶う」という考え方自体が錯覚で、たどりついたと思ったら世界はひらりと反対方向へ身を翻してしまうのかも知れません が、それでも今のところ、私にとっての「進歩」とは、こういうもののようです。

       

カール・セーガンにせよアイザック・アシモフにせよ、とにかく科学の信奉者は、ありとあらゆる権威に対して反抗的でありながら、科学そのものが権威となって人間を圧迫するという事態は、なぜか想定しえなかったようです。彼らほどの明晰な頭脳の持ち主であっても、わが仏尊しというやつからは自由になれないものでしょうか。
科学というものについては、他にも色々と思うところがあるので、また何か書くと思います。