カーマインとシェルが不毛な下ネタ話を繰り広げているその頃
 それぞれの恋人、メルキゼと火波は市場で買出しの真っ最中だった



「…火波、全部買って来た?」

「ああ…そっちは?」

「今、包んで貰っている所
 それにしても凄い人混みだね」

「降臨祭が近いからな
 その為の買出しで混み合っているんだ」

「そっか…もう、そんな季節なんだね」


 他愛の無い話をしながら、
 買い物の包みを受け取るメルキゼ

 目当ての物を全て買い揃えたのか、満足気に頷く



「…よし、じゃあ戻ろうか」

「ああ…もう良いんだな?」

 正直に言ってメルキゼも火波も、
 あまり人前に出るのが得意とは言い難い

 一刻も早く喧騒から逃れたいと足早に市場を後にする


「私は人の多い市場に出るよりも、
 静かな森の中で木の実を齧っている方が好きだよ」

「わしも市場の喧騒は好きじゃない
 人のいない海辺で釣り糸を垂れているのが何よりだ」

 森派と海派に分かれたが、
 双方とも思うことはただ一つ

 …早く帰りたい


 しかし、そんな二人の心情を知ってか知らずか
 二人の背を目掛けて、かん高い少女の声が響き渡った




「ちょっと待って!!
 メル―――…っ!!」

 振り返ると亜麻色の髪を揺らしながら、
 自分たちに向かって駆け寄ってくる小さな人影が見える


「…リャンティーア?」

 そこにいたのは数少ない仲間の一人
 魔女のリャンティーアだった

 しかし今の彼女は魔女としての自分を捨て、医学に没頭している


「久しぶりだね」

「ええ、本当に
 この季節って寒いでしょ?
 おかげで体調崩す人が多いから忙しくって…
 やっと暇を見つけて市場に出てきた所だったのよ」

「頑張ってるんだね」

「ええ、勿論よ
 アタシって働き者でしょ
 何たって医女の仕事をこなしながら、
 カーマインの為にアイテム作りも頑張ってたんだから」



 そうだ
 彼女はカーマインの為に、
 彼の力を封じ込めるアイテム作りに取り掛かっていた

 しかし――…


「…頑張っていた、という過去形なのは…」

「あら?
 火波もいたのね
 久しぶりね、元気だった?」

「……………。」


 あんなに遠目からでもメルキゼを見つけられるくせに、
 どうしてこんなに間近にいる火波の存在に全く気付かないのか

 いや、その理由は自分が一番理解しているのだが


「火波のお察しの通りよ
 ようやく完成したの、名付けて魔封じのペンダント!!
 これを身に着けることによって、
 カーマインの力を完全に封じ込める事が出来るわ」

「そのまま過ぎる名だが…
 魔封じの効力は確かなのか?」

「当たり前でしょ
 自分で試したから間違いないわ
 これを身に付けたら魔法なんて使えなくなっちゃうのよ
 カーマインが身体から発しているモンスターの魔力や気配ごと封じ込めちゃう
 これさえあれば、どっから見たって普通の人間にしか見えないわ」



 彼女はポケットから小さな包みを取り出す
 そして、それをメルキゼの手に握らせた

「ちょっと早いけど降臨祭のプレゼントよ
 戻ったら早速、カーマインに付けてあげて頂戴」

「ありがとう、リャンティーア
 これでカーマインも人間として今までのように生活出来るんだね?」

「ええ、だけど…肌身離さず身に着けてなきゃダメよ?
 身体から外しちゃったら効力は無いんだからね
 身に着けてない状態で戦士に攻撃されても責任は取れないわ」


 最後の方は冗談めかして笑うリャンティーア
 それにつられて微笑むメルキゼ


「本当にありがとう
 何てお礼を言ったら良いのか、わからないよ」

「お礼は…うーん、そうねぇ…
 降臨祭用の美味しいケーキのレシピを教えて頂戴
 アタシでも失敗しないで作れる簡単なやつじゃなきゃダメよ?」

「ふふっ…そうだね」


 余程嬉しいのかメルキゼは今にも踊りだしそうな勢いだ

 大切そうに包みを仕舞うと、
 満面の笑みを彼女に返す



「…それなら、今度はわしの番だな」

「えっ?」

「いつ知り合いに会うかもわからんだろう
 どうせなら、とことん元通りにしておくべきだ
 体格は成長したと言えば問題無いが、
 髪と瞳の色は元に戻しておいた方が良いだろう」

「それは…そうだけれど…
 でも、元に戻すって…どうやって?」


「変身の応用で何とかなる筈だ
 火精にサポートして貰えれば造作無い
 念の為に髪にはカラーリングもしておくが」

「瞳の色まで変えられるものなのかな…」

「変身の魔法は想像力が物を言う
 より具体的なイメージを固められるものほど魔法の完成度も高くなる
 カーマインはそういうの、得意そうだろう?
 想像…というか妄想を喰って生きているようなものだからな」

「うぅ…反論できない…
 じゃあ、とりあえず挑戦はしてみようか」

「ああ」


 話が纏まった所で会話が終了する

 二人はリャンティーアに別れを告げると、
 今度こそ森へと続く道を辿り始めた







 火精のサポートのおかげか、
 それとも火波の教え方が良いのか
 もしくはカーマイン自身の人並み外れた想像力の逞しさの賜物なのだろうか

 周囲が呆気に取られるほど、
 あっさりとカーマインは変身能力をものにした


「これで、いつ知り合いに出くわしても大丈夫だな」

 カーマインの髪に染料を擦り込みながら、
 火波は久々の本業に精を出していた

 淡々と喋りながらも、完全にプロの顔付きになっている


「本当に助かります
 皆に協力して貰えて…」

 胸元で輝くペンダントを指先で弄りながら、
 カーマインはしみじみと呟く

「一時期は命も危なかったってのにさ…
 ここまで元通りの生活に戻れるなんて夢みたいだ…」

 もうフードで顔を隠さなくても良い
 人通りの少ない場所をこそこそ隠れながら歩かなくてもいい
 何よりも正体がばれて命を狙われるという恐怖に怯えなくてもいい

 開放感で全身に力がみなぎって来る



「これで、また旅が続けられるな」

「そうだね…」

 メルキゼは懐かしそうな表情で、
 カーマインの漆黒の瞳を見つめている

 どうやら初めて彼と出会った時の事を思い出しているらしい


「拙者も記憶を取り戻す旅に戻れそうじゃ
 随分と長かったが、ようやく時間が元通りに動き出したという感じじゃな」

「大業を成し遂げた気がしているけどさ、
 結局、全てが振り出しに戻っただけなんだよな」

「でも私たちが過ごして来たこの時間は決して回り道じゃないよ
 少なからず私たちも成長出来たと思う
 リャンティーアも自分の進むべき道を見つけたしね」


 和気藹々と語り合いながら楽しい時間が流れる

 自らがこれから進むべき道も定まり、
 誰もが意欲に胸をときめかせていた

 …ただ一名を除いて


「――――…。」

 遠い視線で宙を眺める火波
 どこか物憂げで思い詰めた表情を浮べている

 平和に流れる時間の中、彼の心情など誰も知る由も無かった







「…んー……」


 うっすらと目を開けると、そこには見慣れた天井が広がっていた

 窓の外は漆黒の闇が広がっており、
 しんと静まり返った部屋の中は物音一つしない

 シェルは起き上がると、いつも傍らにいる筈の存在を捜した


「……火波……?」


 返事は無い
 どこかに出掛けてしまったのだろうか

 時計に視線を向けると針は午前4時を示している
 こんな時間に外出をして何をしようというのか

 血を求めて出て行ったとも考え難い
 この時間帯では獲物も出歩いていないだろう

 何か心当たりはないかとシェルは記憶を辿り始める


 あの後

 皆で鍋を囲みながら他愛も無い話に花を咲かせて
 少々はしゃぎ過ぎた自分は、疲れてその場で眠ってしまったのだ

 帰り道、火波に背負われて小屋を後にした事は何となく覚えている
 火波と共に帰宅したことは確かな筈だ

 しかし今、部屋の中には自分の気配しか感じられない


「…火波…一体、何処へ行ったのじゃ…?」


 窓を開けて外を覗きこむ

 深い眠りに落ちたままの港町は、
 漆黒の闇と降りしきる雪のせいで視界がほとんど利かない


 ―――…かたん

 不意に背後で物音が立つ
 もはや聞き慣れた、部屋の鍵が開く音だった



「…ほ、火波っ!?」

 慌てて玄関へ駆け寄る

 そこには見慣れた男が白い息を吐きながら
 頭や肩に積もった雪を振り払っていた

 しかしシェルの姿に気付くと、気まずそうに顔を顰める


「…起きていたのか」

「こんな時間に、しかも吹雪の中
 一体何処へ行っておったのじゃ!?」

 心配していた、とか
 置いて行かれて寂しかった、とか

 言いたい事は多々あるが、まずは行き先を問い質すのが先だ




「…カーマインたちと話をしてきたんだ」

「こ、こんな時間にか!?」

「ああ」


 何て非常識な
 向こうもさぞ迷惑だっただろうに

 しかし…一時を急ぐような相談事でもあったのだろうか


「それで一体…何を話してきたのじゃ?」

「ああ…それなんだが…」

 そう言うと苦虫を噛み潰したような表情をしていた火波が、
 より一層険しい顔つきになる

 深刻そうな表情にシェルも自然と肩に力が入った


「シェル…突然こんな事を言って悪いと思うが…」

「う、うむ…」

「お前の事、カーマインたちに頼んできた」

「……は?」


 首を傾げるシェルに、
 火波は静かに言葉を続ける



「お前はこれから、カーマインたちと行動を共にしろ
 お前が目指す目的地まで同行してもらうよう頼んできた」

「…ち、ちょっと待っておくれ
 お主は…火波は!?」

「わしはお前たちと一緒に旅には出ない
 ここで別行動になる…お別れだ」

「なっ……!?」


 ショックで言葉を失う
 火波の言う事が信じられない

 一体、どうして
 こんなに唐突に別れを告げられなければならないのか


 まだ恋人同士になったばかりで
 これからずっと二人で時を重ねて行けると思っていたのに

 好きだと
 愛していると言ってくれたのは嘘だったのか





「…火波…拙者を捨てるのか…?」

「い、いや、待てっ!!
 違う…そういう意味じゃない!!」

「じゃあどういう意味じゃ!?
 拙者をカーマインたちに押し付けて、
 火波だけ一人で行ってしまうのじゃろう!?」

「…シェル…」


 自分に向かって手を伸ばしてくる火波
 しかしそれをシェルは払い除ける

 そのままシェルは火波を睨み上げた


「理由を申せ、理由をっ!!
 どうして拙者を捨てるのじゃ!?
 飽きたのか!? 愛想が尽きたのか!? この薄情者め!!」

「シェル、頼む
 少し落ち着いてくれ…」

「落ち着いてなどいられるものかっ!!」

「落ち着いて貰わない事には、まともに話も出来ないだろう」



 こんな時でも涼しい表情で淡々と喋る火波に怒りが湧く

 その顔を見る事にさえ苛立ちを覚え、
 シェルは火波の身体を突き飛ばそうとした

 …が、逆にその手を絡め取られてしまう


「…うわっ……!!」

 バランスを崩した身体を易々と受け止めると、
 火波はそのまま両腕でシェルを抱き寄せる


「は、離せ…っ…!!」

「離したくない」

「…………。
 拙者を捨てた男が吐くセリフか?」


「捨てたつもりなど無い
 お前がわしを見限る事はあっても、
 わしがお前を捨てる事は万に一つも有り得んな」

「……意味がわからぬわ…
 それでは何故…そんな事を言うのじゃ…」


 ぽろぽろと涙が零れる

 それを自らのマントで拭ってくれる火波
 雪に濡れた深紅のマントに新しい染みが出来た




「…置いて行かれたくなかったんだ」

 ぽつりと火波が呟く

 しかしその意味を理解する事は困難で
 シェルは泣き腫らした目を擦りながら火波を見上げる


「…拙者を置いて行くのはお主の方じゃろうが…?」

「そういう意味じゃないんだ…」

 火波の手がシェルの頬に触れる
 体温の無い彼の手は氷のように冷たい



「お前はこれから旅先で少なからず成果を得るだろう
 ゆっくりだが…確実にお前は記憶を取り戻している」

「それが…何なのじゃ」

「お前は自分の…本来の時間を取り戻しつつあるんだ
 記憶を失う以前の姿を取り戻して、新たな時を刻んで行く
 だが…わしの時間は永遠に止まったままなんだ」


 冷たい手、冷たい胸

 彼が死人である事はシェルだって知っている
 輪廻転生からも外されてしまった不老不死の肉体の持ち主である事も


「時の流れからわし一人取り残されて…
 いつかお前から忘れ去られてしまいそうで怖いんだ」

「…そんな事…有り得ぬ…」

「わかってはいるんだ…
 だが…成長して行くお前を見るのが辛い…」

「…火波…」


 彼が抱く不安をシェルが理解するのは難しい
 それでも火波が恐怖と不安を感じているという事はわかった

 しかし…取り残されるのが嫌なら何故、自ら距離を置こうとするのか



「シェル…わしに時間をくれないか…?」

「……時間?」

「わしも成長したいんだ
 肉体的に無理なのは理解している
 だからせめて、精神的な部分だけでも…」


「精神的って…どうするつもりなのじゃ…」

「自分を見つめ直したい
 今まで避けてきた現実を受け入れて、
 新たな気持ちで人生をやり直したいんだ…お前と二人で」


 最後の言葉に熱っぽさを感じて、
 思わずシェルは頬を赤らめた

 気まずそうに視線を逸らすと、わざと嘲るように鼻を鳴らす



「…ふん、柄にも無く自分探しの旅にでも出るつもりか?」

「故郷の村へ行こうと思っている
 吸血鬼として甦って以来、一度も訪れてはいなかったが…
 全てが終わり、そして始まったあの場所で自分を見つめ直したいんだ
 あの地が今…どうなっているのかはわからないが…
 家族や仲間たちを弔いながら、せめて花の一輪でも供えたいとも思っている」


 そんな事を言われても

 一時とは言え別れるのは寂しい
 自分を置いて行かないで欲しい
 寂しさがシェルの胸に大きな穴を開ける

 …しかし―――…


「…単なる自分探しの旅なら止めさせておったが…
 弔いという言葉を出されると、引き止める事も出来ぬではないか…」

「すまない…
 単なるわしの我侭だという事はわかっているんだ
 だが…今のままでお前の傍に居ると不安になるんだ」

「そんなもの…気持ちの問題ではないか…」

「ああ…そうだな
 だが生まれ変わった気持ちでもう一度お前と出会いたいんだ
 お前との距離を感じなくなるよう、必ず成長して戻って来るから…」


 熱を込めた言葉

 火波の愛情が薄れた訳ではないと知って一安心
 しかし、それと同時に気恥ずかしくなって、思わず憎まれ口で遮ってしまう



「その間に拙者は他の男と恋に落ちておるやも知れぬぞ?」

「それでも仕方が無いと思っている
 所詮わしはお前にとって、その程度の男だったという事だ」

「…ふん、淡白じゃな」

「だが…これだけは覚えておけ
 お前にとってわしの存在は数多の選択肢の中の一つに過ぎないが、
 わしにとってお前はこの永遠の時を共に生きる唯一の存在だ
 例えお前がわしを忘れたとしても、
 わしはこの世が終焉を告げるその時までお前を愛し続けている」

「……………。」


 …何か…凄い事を言われた気がする


 じんわりと身体が熱を帯び始めた
 恐らく今の自分はメルキゼ顔負けの茹蛸状態だろう

 どうしてこの男は普段淡々としているくせに、
 唐突に情熱的な言葉を吐き出すのだろう

 おかげでこっちは翻弄されっぱなしだ
 口を開いても羞恥で言葉が途切れがちになってしまう




「じ、じゃが、拙者は…実際どうなるかわからぬし…
 これから向かう島で成果が得られなかった場合、
 また他の場所へ向かう事になるやも知れぬのじゃぞ…?」

「ああ…そうだな」

「ここでお主と別れてしまっては…
 次にいつ、何処で再会出来るかもわからぬ…」


「それなら…お前と初めて出会ったあの森の、あの屋敷で
 わしは永遠にお前との再会を待ち望んでいる事にする
 だから…もしお前が記憶を取り戻した時、
 まだわしを見限らないでいてくれたなら…逢いに来てくれないか」

「…………。」

「待っている…永遠に
 10年でも100年でも…
 この世界が終焉を終えるその日まで、ずっと」



「…火波…」

「お前だけを愛して、
 お前だけを想って
 お前だけを待ち続けているから…」

「わ、わかったから…
 そんな小恥ずかしい事を口にするでない…」


 もう火波を直視出来ない
 陳腐な臭いセリフを並べ連ねられて

 それを聞き流す事も出来ずに、
 かと言って真正面から受け止める事も出来ずに

 シェルは視線を泳がせながら彼から顔を背ける事しか出来なかった




「何も今日明日に旅立つわけじゃない
 今年中はこの港町でお前と過ごすつもりだ」

「…そ、そう…か…」

「あまり長い時間が残っているわけではないが…
 これから忘れられないような二人の思い出を残そう
 再会への架け橋になるような、甘い記憶を築き上げよう」

「その言葉だけで胸焼けしそうじゃ…」


 火波の視線が痛痒い
 居た堪れずに火波の胸に顔を埋める

 …ふわり

 その瞬間、
 突然身体が軽くなった


「…なっ…!?」

 床から足が離れる
 空を飛んでいる…訳ではなく

 火波の逞しい二本の腕によってシェルは抱き上げられていた



「ほ、ほ、火波っ!?」

「…うん?」

 相槌を打ちながらも火波はシェルを抱いたまま足を進める
 予想だにしなかった火波の行動に混乱を起こすシェル


「ま、待てっ!!
 拙者を何処へ連れて行くつもりじゃ!?」

「寝室」

「―――…っ!?」


 頭の中が真っ白になる
 …と同時に、シェルの身体はゆっくりとシーツの上に沈んだ

 二つのベッドが合わさった巨大なダブルベッド
 心臓の鼓動が一気に跳ね上がる


 火波はマントを肩から滑り落すと、
 カチャカチャと金属音を響かせながらサスペンダーを外す

 シャツやズボンが床へと落とされ、
 見る間に火波の素肌が露になって行く




「…は、は、はひ…っ…」

 完全なパニック状態

 火波に声を掛けたいのに、
 妙に上擦った声が喉の奥から出てくるだけった


「その声は一体、何処から出しているんだ…」

 苦笑を浮かべる火波
 彼の目から見ても今の自分は滑稽なのだろう


「だ、だ、だって…だって!!
 どうして、こんな展開に…っ!!」

 楽しい思い出って…
 甘い記憶って、こっちの意味!?

 決して嫌じゃない
 嫌じゃないけど…心の準備が出来ていない!!



「や、約束が違うではないか!!
 拙者が誘わぬ限り、手を出さぬという話だった筈じゃぞ!?」

「………おい…」

「な、な、何じゃ!?」

「わしって、そこまで信用無いか?」

 じっとりとした
 どちらかと言えば哀愁が滲んだ視線が返って来る


「わしはただ…
 お前が急に体重を預けて来たから眠くなったのだろうと…」

「……へっ?」

「もう時間も時間だし…
 話を切り上げて眠りに付く良い頃合だと思ったまでで、
 決してお前に手を出そうという下心は無かったんだが…」


 衣服を脱ぎ捨てた火波の手には、
 洗濯済みの寝間着が石鹸の香りを漂わせている

 時計の針は午前6時を指し示している
 カーテンの隙間から藍色に染まった空が見え隠れしていた



「……………。」

 無言のまま寝間着に着替える火波
 気まずい沈黙が寝室に流れる

 これで一体何度目だろうか
 一向に信用して貰えない現状に流石の火波も気分を害したらしい


「え、ええと…その…
 火波、すまぬ…悪かった…」

「…次に誤解したら本気で襲うぞ」

「は、反省しておるから…」

「全く危機意識を持たれない男よりはマシなのかも知れないがな」



 怒っている、というよりは拗ねたと表現した方が正しいだろう

 不貞腐れた表情で明かりを消すと、
 そのままベッドに潜り込む火波


「わしは寝るからな
 お前も早く寝ろ」

「う、うむ…」

 不貞寝なのか
 それとも本当に睡魔が襲って来たのか

 顔まで毛布を被ると、そのまま微動だにしなくなってしまう




「……………。」

 こうしていても仕方が無い
 恐る恐るシェルもベッドの中に身体を滑り込ませる

 ひんやりと温もりを感じられないベッドの中
 恐らく火波も寒い思いをしているのだろう


 その身体を暖めてやりたくてシェルは火波の身体に手を伸ばす

 両腕をその逞しい肢体に絡ませて、
 全身を押し付けるように密着させてやる

 今、自分が彼に出来る事はこうやって暖かな眠りを提供する事くらいだ


 ふと思う
 あと何回、彼とこうして同じベッドで眠れるのだろう…

 火波は自分たちと別れた後、
 再び冷たいベッドの中で凍えながら眠りに付く事になる
 冷え切ったシーツの上でシェルの温もりを思い出しながら孤独な夜を過ごすのだろう

 そう考えると途端に火波の存在が愛おしくなってくる



「…火波…愛してる…」


 白い首筋に唇を落として微かな音を立てる

 そう言えば多少の戯れは許可されていた筈だ
 今夜こそは…とシェルは火波の寝間着の中へと手を滑り込ませた

 逞しい胸が指先に触れる
 自分のものとはまるで違う硬い筋肉の感触
 手の平からひんやりとした冷たさが伝わって来た


 火波の身体は冷えているのに、
 それに触れている自分の身体は次第に熱を帯びてくる

 毛布を剥ぎ取ると、薄く開いた火波の唇に軽く口付ける
 しかし、ふつふつと湧き上がる欲望を感じてシェルは慌てて火波から離れた

 心臓の鼓動が頭の中にまでガンガンと響く
 恋人の身体を撫で回していて冷静でいろと言う方が無理なのかも知れない




「……はぁ……」

 眩暈がする
 シェルは帯を解くと胸元を寛げた

 少し頭と身体を冷やさなければ眠るどころじゃない

 燻った熱を抱えた身体を持て余していたシェルは、
 冷水でも浴びて来ようかと思い立ち起き上がる

 …が、腕に微かな違和感を感じてシェルは振り返った


 自分の腕に白い指が食い込んでいる
 上目遣いで見上げてくる深紅の瞳とばっちり目が合った

 にやりと唇の端を上げると彼は悪戯っぽく囁く



「………何処へ行くつもりだ?」

「ほ、火波ッ!?
 お…起きておったのか!?」

「お前の温もりが心地良くてな
 すぐに眠るのが勿体無かったんだ」

「………………。」

 最初から狸寝入りをしていたらしい


「お前は随分と人の寝込みを襲うのが好きらしいな」

「そ、そっ…そういうわけでは…っ!!」


 身に覚えがあるので力強く否定出来ないのが痛い所だ
 どうしてこの男は、こういう時にばかり起きているのか

 シェルがたじろいだ隙を見て、
 火波の腕がシェルの身体を再びベッドへと引き摺り込む



「…どうせ唇を盗むのなら、
 この位の事はして貰わなければな」

 そう言うと火波はシェルの唇を奪う
 火波の舌の冷たさで瞬時にシェルの意識が引き戻される


「むっ…むぐっ…!?」

 マズい
 今はマズい

 燻った熱を抱えた状態で、
 こんなに激しい口付けを受けたら自分を抑えられなくなる


 どうして何をやっても惨めな結果に終わるヘタレ男のくせに、
 口付けだけはこんなに上手なのか

 どんどん身体が熱くなる
 頭の中が霞み掛かったように白くなり意識が溶けて行きそうだ



「……はぁ……」

 ようやく火波から解放された時、
 既にシェルは全身に力が入らなくなっていた

 完全に腰砕け状態


「…それなりに応えられるようにはなってきたな
 まだまだ青臭いが…だが、それも悪くは無いか」

 すっかり熱に浮かされたシェルとは正反対の火波
 余裕を見せ付けるかのように涼しい表情でシェルの髪を弄んでいる


「…ほ…火波…」

「ん…どうした?
 まだ足りないのか?」

 再び口付けようとしてくる火波を両手で遮りながら、
 シェルは恨みがましそうな視線を彼に向ける


「どうしてくれるのじゃ
 火がついたではないか…!!」

「…………………は?」

 ぽかん、と口を開いたまま首を傾げる火波
 シェルの言葉の意味が巧く呑み込めていないらしい

 それに痺れを切らしたシェルは噛み付かんばかりの勢いで言葉を続ける



「拙者は降臨祭辺りが頃合だと思っておったのじゃ!!
 その日までは健全な恋人関係を楽しもうと…
 それなのに火波があのような真似をするからっ…!!」

「…えっ…え?え?」

「こんな状態ではもう後に引けぬではないか!!
 拙者の身体に火をつけた責任…取って貰うぞ!?」

「ちょっ…ええええっ!?」

 ようやく状況が呑み込めたらしい
 あんぐりと口を開いたまま驚愕に仰け反る火波

 その姿は滑稽だったがシェルの熱を冷ます程の効果は無い


「い、いや、ちょっと待て!!
 お前…それ本気で言ってるのか!?」

「冗談だと思うか?」


「だって…心の準備とか、色々あるだろう!?
 というか先程わしがお前をベッドに運んだ時、
 お前は思いっ切り拒否していたじゃないか!!
 あの初々しい反応は一体何だったんだ!?」

「あの時はまだ火がついておらんかったのじゃ
 じゃが火波の身体を弄くって口付けをされておる内に、
 身体がムラムラと…で、気が付けば後戻り出来ぬ状態に…」

「……おいおい……」

 渋い表情で額を押さえる火波
 先程までの余裕綽々な表情とは打って変わって、その視線は泳いでいる



「わしはいつお前に誘われても大丈夫なんだ
 いつだってお前を抱けるし一線を越える踏ん切りも付いている
 正直言って今の状況は棚ボタというか…わしにとっては嬉しい展開だ」

「…ふむ…?」

「だが…お前の方は本当に大丈夫なのか?
 わしは、それだけが心配で…」


「拙者の事を気遣ってくれるのは嬉しいのじゃが
 じゃが…拙者は本当にお主と―――…」

「わしと寝た後に責めたりしないか!?
 この夜の事をダシに罵ったりなじったりはしないか!?
 これはちゃんと同意の上での事だという実感はあるよな!?
 だから後でわしを脅したり攻撃したりしないと約束してくれるか!?」


 待て
 心配って…そっちの心配か!?

 シェルの心や身体の事ではなく、
 事後の己のが置かれる立場について心配しているだけなのか!?




「…火波よ…」

「だ、だってお前の性格とわしの不運体質を考えると…
 美味しい思いをした後、平穏無事に展開が進むとは考え難い!!
 絶対に幸福の絶頂から不幸のどん底へ突き落とす展開が待ち受けている筈だ!!」

 言い切った!!

 ここまで断言されると、ある意味男気を感じる
 胸を張って自己防衛策を練るチキンっぷりにはこの際目を瞑るとして…


「大丈夫じゃから安心致せ…
 頼むから、こういう時くらい逞しい男を演じてくれぬか?」

「こんなに美味しい状況が訪れるなんて…
 何かの罠かと勘繰らずにはいられないんだ」

「お主という男は何処までヘタレなのじゃ
 据え膳喰わぬは男の恥…というじゃろう?」

「だが…その据え膳に毒が盛られているという可能性も否定出来んからな」


 ぶつぶつと渋る火波
 慎重というよりも、単なる優柔不断なだけな気がしてきた

 煮え切らない火波を前にシェルも次第に焦れてくる



「ええい、くどいわ!!
 こんな状態の恋人を前にして何もしないつもりか!?
 いざとなれば言い訳を並べて逃げ出すような駄目男なのか!?」

「い、いや、そういうつもりじゃないんだが…」

「ならば潔く男を見せいっ!!
 これ以上拙者に恥をかかせるでないわ!!」

「うををっ!?」


 シェルの一撃で火波の身体がシーツに沈む

 押し倒す、というよりは
 張り倒したといった方が正しい


「…わかった
 わかったから、暴力は止めろ」

 降参とばかりに両手を挙げる火波

 その手でシェルの身体を引き寄せると、
 自らの胸の中にしっかりと抱き留めた


「………ふぅ…」

 シェルの口から溜息が漏れる

 火波の気弱で優柔不断な性格のせいで、
 すっかり夜が明けてしまった


 ここまで持ち込むのに、一体どれだけの時間を費やしたのだろう
 そして行為が終わる頃には時計の針は何処まで進んでいるのか

 …時間を確認するのが少し怖い


 この後の行為で汚名返上を期待したいものだが…

 気弱な恋人を持つと一々こっちに労力が強いられる
 …何となくカーマインの苦悩が理解出来たシェルだった



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