「お兄さん、そこの店に入って欲しいウリ」



 港町に着いてからもウリ坊のナビは続いた

 本音を言うと店よりも港に向かいたい
 自分の身を案じているであろうシェルに無事な顔を見せてやりたかった

 船に戻れば少年の安堵に満ちた笑顔が待っている
 ――……が、それと同時にお小言も待っているに違いない


 …………。

 やっぱり、もう少しだけ外にいよう……

 火波が涙目になる破壊力を持った、
 あの怒涛の辛口ラッシュが自らに降りかかるのは恐ろしい



「……出来れば、シェルが寝た頃に戻りたいな……」


 でも、そうなれば今度はメルキゼが起きてくる
 そして絶対にパニックに陥いる筈だ

 キレたシェルと、我を忘れたメルキゼ
 どちらもタイプは違えど、破壊力は計り知れない

 ……相手にしたくない……



「あー……眩暈がしてくる……」

「お兄さん、大丈夫ウリ?
 そこの店にご主人がいるウリ
 お水を飲んで、ちょっと休むウリよ」

「店……看板からして、飲食店か?」

「冒険者が集う酒場だウリ
 ご主人はここで仲間と待ち合わせをしているウリよ」

「ふーん……」


 ご主人――……
 となると、このウリ坊は飼い犬ならぬ飼い猪だったらしい

 野生動物にしては妙に人に慣れていると思ったが、
 そう考えれば納得だ

 犬ではなかったが、結果的には同じだ
 彼の主を悲しませずに済んで良かった

 それだけがカーマインの救いであり、シェルへの言い訳の材料でもあった






 潮風で少し痛んだ扉は重く軋んだ音を立てる


 店内は昼間だというのに薄暗く、
 疎らな客たちがそれぞれに席についているのが見えた


「ええと、君のご主人様は――……」

「あそこだウリ!!
 ご主人―――……!!」


 ウリ坊はカーマインの腕から飛び出すと、
 窓辺の席に座る男性の元へと一目散に駆けて行く

 急に温もりを失った手が、外気に晒されて冷やりと涼しい



「どうしました?
 迷子にでもなりましたか」

「違うウリ!!
 サイクロプスって言う怖いモンスターに襲われたウリ!!
 もう少しで食べられちゃう所だったウリよ――……!!」


 ウリ坊は主の腕に飛び込むと、
 ゴマ粒のような瞳に涙を滲ませる

 母親と再会した迷子のような表情だ
 命の危険に晒され、やはり心細かったのだろう



「あのお兄さんが助けてくれたウリ
 ご主人からもお礼を言って欲しいウリ」

「それはそれは……
 ウリ坊がお世話になりました、どうもありがとうございます」


 ウリ坊の主は立ち上がると、
 ゆっくり優雅な足取りでカーマインに近付いて来る

 感謝の言葉と共に深々と頭を下げる彼から、ふわりと柑橘系の香りが漂った



 すっきりと洗練された身のこなし
 ピンと伸びた背筋に落ち着いた丁寧な口調

 まるで映画のワンシーンのような優雅さで彼は手を差し出した


「あ、いえ……
 どういたしまして……」


 彼の手を握り返しながら、カーマインは圧倒される自分を感じていた


 一目でわかる
 彼はかなり育ちが良い

 お坊ちゃまとか、御曹司とか
 この世界風に言うなら貴族や王族という肩書きがありそうだ

 一般庶民とは違う気品が彼からは漂っていた
 他の客達も、横目で彼を見ているのがわかる


 しかし、声を掛けようとする勇気ある客はいないようだ

 隠していても隠し切れない、
 目には見えない何かが壁のように彼を包んでいる




「あー……えっと……」

「まずは何か飲むウリ
 ご主人、このお兄さんは疲れているウリよ」

「そうですね
 さあ、立ち話もなんですから……御席へどうぞ」


 優しく誘導されるが、その光景は例えるなら執事カフェか王子カフェ

 こんなお上品な人種に丁重に接して貰った事など無い
 どうにも現実味が沸かなくて、脳内がフワフワし始めてくる

 初めてホストクラブに行った女性は、こんな気分なのだろうか――……



「お兄さん、大丈夫だウリ
 ご主人は大きいけど優しい人だウリよ」

「えっ……あ、ああ、うん……」


 確かに長身だ

 背格好は火波と同じくらいだろう
 ガッシリとした体格に黒いローブが似合っている

 色素の薄い金髪を赤いリボンて留めているが、
 メルキゼのコミカルさとは違って、物凄くエレガントだ

 同じ長髪リボンのマッチョ系イケメンなのに、どうしてこうも違うのか――……



「怖がっているわけじゃないんだ
 ただ、ちょっと、紳士耐性が無くて――……」

「心配は要らないウリよ
 ご主人はこう見えて、実は悪戯っ子だウリ
 大人になってもヤンチャな部分は昔と変わらないウリよ」

「ウリ坊……お手柔らかにお願いします」


 貴方はソムリエですか

 そう言いたくなる優雅な手つきで、
 彼はグラスにミネラルウォーターを注いでくれる

 きっと紅茶も、水芸の如く高い位置から注ぐに違いない



「どうもすみません
 あ、えっと――……」

「ああ、失礼
 私はローゼルと申します
 で、こちらはウリ坊……以後、お見知りおきを」

「ご丁寧にありが――……え……?」


 ローゼル……?

 今、ちょっと引っ掛かった
 どこかで聞いた事がある

 それから、ローゼルという名と一緒に聞いたウリ坊の存在

 ええと
 あれは確か――……



「もしかして……
 うんこ送りつけた人!?


 ぶぴっ

 むせたウリ坊の鼻から
 ミネラルウォーターが噴出した


「そうだ、思い出した!!
 手紙にうんこ詰めた人ですよね!?」



 名前と特徴からして間違いない
 彼は今回の協力者であり、アストロメリアの兄だ

 意識してみると、確かに少し顔立ちが似ているような気もしてくる


「……え、ええと……その、貴方……は…………」


 ローゼルの声が上ずっている
 微かに震えている気がするのは気のせいではないだろう

 完璧な優雅さに茶色い亀裂が入った瞬間だった



「あ、すみません
 俺はカーマインって言います
 バイオレットさんの船に乗せて貰っていて――……」

「あ……そ、そうでしたか……それは弟がお世話に……」

「そう、弟!!
 あの時のアストロメリアさん、大変だったんですよ!?」


 当時の記憶が鮮やかに蘇る

 アストロメリアには普段から世話になっている
 彼の傷付いたプライドの為にも、一言だけ抗議しておこう



「アストロメリアさん、ベッドの上で盛大にうんこぶち撒けちゃって!!
 こっそり隠れて洗濯しようとしたのに、
 結局ロイドさんに見つかってしまって……!!
 恥を忍んで彼にうんこシーツとパンツを洗って貰う羽目になったんですよ!!」


「え、ええと……」

「34歳にもなって、ベッドで脱糞疑惑ですよ!?
 プレイでもないのに!!
 仲間達にも一気に噂が広まってしまって……彼のプライドはもうヒビだらけです!!」


 パリーン……


 タイミング良く、ガラスが割れる音が響いた
 客が皿でも落としただろうか

 つられて音がした方へ視線を向けると、
 そこには全身をワナワナと震わせたアストロメリアが立っていた




「…………あ」


「ご主人、アストロメリアはいつの間に来ていたウリ?」

「貴方達が来る少し前に
 トイレで着替えて来ると言って席を外していたのですが……」


 最悪のタイミングで戻って来てしまったらしい



「え、ええと……メリア、大丈夫だ」

 兄が優しく弟へ声を掛ける
 震える彼の肩に片手を置いて、慰めの言葉を口にした


「メリア、お前の脱糞シーンなら需要がある
 一部のマニアの欲望を満たせる行為だ、
 決して恥じ入る必要は無い



 いや
 絶対恥ずかしいだろ、それは


 その場にいたローゼル以外の者達が、
 一斉に心の中で突っ込込みを入れる

 皆の心が一つになった奇跡の瞬間だった




「……………仰りたいのは、それだけ……ですか………?」


 低い
 声が、物凄く低い

 明らかに怒気が含まれている
 もしかすると殺気も入っているかも知れない



「時と場所を考えようかとも思いましたが、気が変わりました
 今、お返しします―――……あの時の糞をッ!!!!!


 !?


 どうしよう
 物凄く嫌な予感がする

 この予感が正しければ、この後間違いなく糞が出る


 制止しなければ――……と心では思うものの、
 それよりもアストロメリアの方が早かった




「貴方達の言い方では私が漏らしたように聞こえます!!
 断じて!! 私は!! 漏らしてなどいません―――……ッ!!!!」


 今、彼が最も主張したい事
 それが恐らく、これなのだろう

 兄への抗議に見せかけて、カーマインへの苦言も呈している
 怒りに燃えながらも、そこはちゃっかりしたものだ

 ―――……と、妙に冷静な事を考えてしまうのは恐らく現実逃避


 逃げたい
 全力で逃げ出したい

 しかし――……色々なショックで全身が動かないのだ


 不運にもその場に居合わせた者たちは、
 アストロメリアが懐からビニール袋を取り出し、
 その中身をローゼルに向けてぶち撒ける光景を、ただ見守る事しか出来なかった



 ぶしゃっ


 ビニール袋の中から飛び出したのは、
 予想していた固形物ではなく―――……妙に濁った液状の代物

 その液体は咄嗟にガードの体勢を取ったローゼルに容赦なく襲い掛かる
 無常にもその攻撃は顔面狙いだ



「う……うわあぁぁぁっ!?」

 悲鳴を上げるローゼル
 しかし、その攻撃を受けたのは彼だけではなかった


「ぎゃああああああああああッ!!!」

「うぎゃ――――!!!!!」

「く……臭ぁああああああああ゛あ゛あ゛ッ!!!!!!!!」


 店の客たちが次々に叫ぶ
 周囲に立ち込める、攻撃力と破壊力を伴った激臭

 猛暑日のポットントイレの方が、まだ爽やかに感じる
 そんな鼻だけでなく目にまで沁みる強烈な悪臭だった





「め、メリア!?
 この液体は――……」

「あの時の糞を水で溶きました
 流石にもう干からびていたもので」

「お、お前ッ!!
 そんなうんこ汁を懐に仕込んでいたのかッ!?」

「ご、ご主人!!
 喋っちゃダメだウリ!!
 口を開くと中にうんこ汁が入るウリよ!」


「あの状態だと、もう口どころか目や鼻にも入ってる気がするんだけどな……」

「ちなみに使用したのは便器の水です」

「クソバカ弟があぁぁぁッ!!」


 下克上の弟
 咽び泣く兄

 そして
 ひたすら他人のふりをするカーマインとウリ坊




「さて……あとは、いかに上手く店から抜け出すか……だな……」

「ウリ坊も一緒に連れて行って欲しいウリ」

「一応、ウリ坊のご主人様たちだろ?
 あれをそのままにしておくつもりか?」

「本気を出したアストロメリアには関わらない方が良いウリ
 普段大人しい子に限って、キレたら何をするかわからないウリよ」


 ……本気……

 確かに徹底している辺り、アストロメリアの本気を感じる
 こんな事に本気を出されても迷惑でしかないのだが……


 それにしても



「ここまで物理的に汚い兄弟喧嘩も、そうそう無いよな……」

「ご主人は黙っていると知的でクールな紳士に見えるウリ
 でも、その実態は――……この有様だウリよ」

「ああ……うん……
 想像以上に酷いものだな」


 彼の周囲を包んでいてたエレガントオーラは見事消え去った

 が、しかし
 今度は別の意味で近寄り難い存在になった

 というよりも、近寄ってはいけない存在として認識された気がする



「ウリ坊、そろそろ鼻が限界だウリ
 こっそり店を抜け出すウリよ」

「そ、そう……だな
 皆ローゼルさん達に気を取られているし……」

 そーっと

 カーマインはウリ坊を抱えると、
 忍者を髣髴とさせる忍び足でその場を後にしたのだった






「シャバの空気は美味しいウリ」


 感動するレベルで清々しい外の空気を吸い込むと、
 ウリ坊とカーマインは青い空や流れる白い雲に視線を向ける

 少しでも美しい物を見て気持ちを切り替えたかった


「……でも、出て来てしまって本当に良かったのか?
 あの店で他の仲間達と待ち合わせしているって――……」

「相手はバイオレットやロイド達だウリ
 でも、どちらにしろ待ち合わせは不可能だったウリよ」

「どうして?」

「さっき店の従業員たちが包丁を手に、
 ご主人達を摘み出す相談をしていたウリ
 間違いなく、このまま出禁を食らうと思うウリよ……」


 ふっ……と
 遠くを見つめて渋く言い放つウリ坊

 その仕草が物語っている

 出禁を食らうのは、
 これが初めてではないのだと


 程無くして


 両手に包丁を持った従業員達に追い立てられ、
 転がるように店から逃げ出すローゼルとアストロメリアの姿があり――……

 その数分後

 心の奥底から疲れ果てた表情の店主と見られる男性が、
 涙目になりながら店のドアに『本日臨時休業』の張り紙をする姿があった



「……一番の被害者だよなぁ……」

「悪い夢を見ていたウリ
 そう自分に言い聞かせて忘れるウリよ」

「アストロメリアさん達は何処に行ったんだろう?」


 彼らの行き先が気になる
 何せ、あんなクソだらけの姿である



「向こうに風呂屋があるウリ
 ご主人たちは、そこに向かったに違いないウリよ
 入浴中に洗濯サービスもしてくれる冒険者御用達の店だウリ」

「……そっか……
 うんこ汁まみれの客を見て、
 お風呂屋さん、驚くだろうな……」

「その服を洗濯させられるのが気の毒でならないウリ……」



 バイオレット達との待ち合わせがある以上、
 2人とも最終的に、この場所へ戻って来るだろう

 カーマインとウリ坊はそう結論付け、
 酒場の向かいにある公園のベンチに腰掛けた


「福寿草の花が綺麗だウリ……」

「ああ、花ってこんなに綺麗だったんだな……」


 バイオレットたちが待ち合わせの酒場に来るまでの間

 カーマインとウリ坊はひたすらに、
 美しい草花を眺めて心を洗い続けたのだった――……






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