プロシード創作・発明ページ   My Yahoo!に追加

創の思いをぶつくさ、ぶつくさ!
創作・発明 はぐれ走想(そうそう)

創の視点論点


 「弟子になりたいなどと言う奴は芸術家失格だ」
   「人の真似をするくらいなら、死んだ方がよい。」・・・・・岡本太郎

   創作・発明者たる者の大原則的お言葉。私もプロシードもこの機軸に乗っ取って邁進して行きます。プロシード
   の役割としては、岡本敏子さんのような理解包容という、プロデュースを心掛けたいです。
   確かに人は社会と言う集団生活を営むけれど、正しいも間違いも解って進むわけではありません。その方向に
   光を見せるのは、意外と、「たった一人の考え方の波及」なのです。
   正しいとか間違いにこだわりを持つ人に世は動かせません。「死をかけて貫けること」が輝光であることは間違い
   なく、後の清算はいつも歴史が答えを出すのである。

 信長は「創造の人」 秀吉は「アイデアの人」 家康は「工夫の人」

   日本の歴史上、最も興味の湧く、三英傑。「鳴かぬなら、殺してしまえホトトギス」「鳴かぬなら、鳴かせて見せよう 
   ホトトギス」「鳴かぬなら、鳴くまで待とうホトトギス」
   誰が言ったものかは知らないが、的確に思えるのは秀吉だけで、ファンとして、信長に関しては「ちと違う」異論あ
   り、です。
   彼は、もともと自分は理解されないことを解っていたと思うのです。前進するのに、それなりに不安を抱きつつ、そ
   して正しさとして受け入れられるか?疑念も抱えていたと思います。
   それほど、彼の考えは、「特異」していたし、考えの理由や説明をどれだけしても「解らないであろう」から、あえて説
   明努力もしなかった。と考えます。
   ただ、「自分を世の中が受け入れてくれるかどうか?」は運命に託す。そういう行動がチラホラ見え隠れします。 
   あれだけ上り詰めながら「故意に無防備」にし、暗殺、謀反も運命のうち。そんな運命論によって行動していた。気
   がします。
   学者であれば、「これこれこうだから正しい」積み重ねたものをより所に、覇を取り仕切るのでしょうけど、信長の場
   合、家柄もそれほど格式立つものもなく、しかも「発想の影響を与えた人が見当たらない」ここに信長の異端があ
   って、無理解の孤独の深さも抱えていたように思います。
   秀吉、家康の物語には、いわゆる「懐刀ふところがたな」「知恵袋」人物が登場するけれど。信長には無い。
   歴史に、もしは無い。と言うけれど。あの本能寺が無かったら、日本をどう創造したのであろうか?興味は尽きな
   い。
   いみじくも「天下布武」だけは、秀吉、家康が跡を継いで統一は果たしたが、彼らには「統一後の発想は見られな
   い」 秀吉は「朝鮮出兵で失敗」これは、設計図の無い原因が大きい。秀吉の頭には、「統一後、信長はこうしたは
   ず」程度の考えの出兵と失敗。毅然とした、意図の無い戦いは敗れ去るものだ。
   家康は、ロジックの無いものは避けた。国内だけの工夫で経済が回るように、それ以上の覇を望まなかったし、望
   めなかった。が正直なところであろう。
   信長には、創造の人が持つ、無理解と言う孤独と狂気と信念が入り乱れていて、他の歴史上人物の魅力と二味
   違う魅力がある。戦上手の義経と日本社会構築の頼朝、二役をやり、しかも既成を壊した創造社会。
   「もし、生きていたら?」 どんな社会を造ったか?と、何処で、何を識材にして描いた創造なのか?原点について
   も本当に興味は尽きない。

   一度、信じたものに、裏切られた時の狂気の報復も、創造思考の一端と私には見えるのですが、、。
   信長と言う人は、自分の考えの貫きを運命に託した節がある、そこから最後の言葉、「是非に及ばず」 も解る気
   がする。
   創造者と言うのはいつも思っています「自分が世に出る、出れないは」 人の力ではない。
   一人ぽっちの小さな力と途轍もない大きな創造を開花するのは「自分の力と、時代と言う神の力、運と言う力」だ
   と。なぜ?って、世の中に入り、無理解から出発するのが創造の姿なのだから。

   三英傑に、私はこんな解釈をしています。結果的には、工夫社会は長く続き、その次が発想社会。創造は一瞬
   のきらめきなのかも知れない。でも、リズムの速くなった現代において、創造が無いことは「無力敗北」を意味す
   る。たくさんの輝きを持って現れる時代の寵児を次々と輩出しなければ立ち行かない。
   一瞬の煌めきであっても、その時代のトップランナーは太陽のような、あるいは北極星のような「方向ある創造性」
   を持って現れる。そして家康の安定期へバトンタッチ。三英傑は時代のバトンタッチを教えている気がしてならない
   のである。

 欧米に追いつけ追い越せ!の明治と戦後、
       今、日本に追いつけ追い越せ!時代

   19世紀、20世紀とアメリカの経済理論でアメリカが世界経済をを席巻してきた。明治も、戦後も「欧米に追いつけ
   追い越せ」の旗印の下、わが日本は発展を遂げてきた。
   今、アメリカ経済が、フニャフニャ地盤であるにも関わらず、「なぜ?飛び越せないのか?」 それは、いまだにアメ
   リカが創造した経済論を神格化して、その中で生きようとしている依存心に他ならない。
   拡大資本経済論も、もともと限界がある。「今、アメリカに破産されると困る」「猫に鈴を掛けるネズミ」も居らず恐々
   とするばかりの末期状況。
   「時は今」ならここで、新経済理論を創造し掲げて、発展した国が「次の世界覇権を握れる国」
   日本人からは、出てこないよなあ? アメリカ経済論の中でNO,2が居心地良いもんね?工夫で生きた方が楽だも
   もんね。   アメリカ経済論に従っている内はアメリカを越せない。
   創造というものに、タブーのカテゴリーを造ってはいけない。人類の未来、世界の平和、発展に「工夫のイメージ手
   法を幾つ持ってきても、何も起らないし、出来ないだろう?」
   なんて言ってる内に、「真似だけ産業技術は発展途上国に吸い取られ」追い越されてしまう。少子化は困窮時代の
   予感かもしれないぞ。

 「形でもない、声でもない、光でもない色でもない、
    芸術は魂だ」・・・・・小山内薫

   「見れば判る」「話せば判る」「教えてもらう」「書いてもらう読んでもらう」これらは、一般生活の伝達理解であって、
   「人が人を解る」に事足りるものではないのです。
   話した「言葉」でその人の全てが解るか? 書いてある「文字」でその人の全てが解るか?共に否である。
   どんな人でも、語り尽くせない、書き尽せない。自分の全てを解ってもらいたい、もらえない。
   言葉や文字を使いこなす人間も、実はこんな「もどかしさの中で生きています」このもどかしさを超越し、充足をも
   たらすのが「芸術」であり、存在だと思っています。
   ピカソの絵はピカソのメッセージ。答えるなら、絵を描いてメッセージするのが筋。モーツァルトの音楽はモーツァ
   ルトの言葉だから、音楽という言葉で返事するのが筋。
   魂は素粒子や光子の様に、普段は見えない。ひとたび物質に当たって反射でその存在が判る。言葉も文字も魂
   の反射鏡の一つではあるが、全てではない。音楽、絵画、芝居や、造形。思いを込めれば全てが「魂の反射鏡」に
   なる。だからこそ独自性(オリジナリティ)が大切なのだ。
   真似は、自分を隠し続ける行為だから、自分否定の行為であることを知るべきである。そして本来、芸術は、一切
   の論評の許されざるものであって、その存在を認めるに意義あるものなのです。
   だから「評価を受けていないものはダメ」とか「評価を戴きたい」、またこんな意識で作り上げた芸術は芸術ではあ
   りません。正しかろうが?間違いであろうが?悪かろうが?未熟だろうが?関係なく、威風堂々!自分の言葉が
   込められていなければ、芸術の土俵に乗れないのです。
   有名無名も無く、上手い下手も無いのが創、芸の世界。上達の意図で真似を使っても、「抜け出せない危険をも 
   含むもの」であって「習う、真似るはあり地獄」の危険エリアです。
  無から有の創造の閃きも、頭の中の反射鏡。創造と芸術、発明もまた切っても切れない仲なのです。まったく同じ
   ことが言えます。

 職人の見て覚えろ!の意 

   「達人なら、簡単に噛み砕いて速く教えることが出来るだろう」は教えてもらう側の稚拙な見解。
   文字を操り、言葉を操るようになればなるほど、文字、言葉で社会が回転している現実は見えるのだけれども、で
   は、一方で文学者は、伝道者はどう思っているかと言えば、「教えることは教わる以上に難しい」であったり「この
   世の文字を全て使っても、人の心は書き表せない」です。
   世界一、優秀な言語の日本語は、世界一表現力ある言語です。けれど人間の心を全て伝えることが出来るなどと
   言う「思い上がりがあると芸術の意図が判らなくなります。」言葉以上のものがるとに目覚めることも無いでしょう。
   人が「文字、言葉が全てではない」と知るのは、「教える立場になってのこと」
   この、スピード時代になればなるほど「マニュアル、マニュアル」依存度が高まる。否定するものではないが、所詮
   「マニュアル」なんかはスイッチのオン・オフを伝える「操作と順番」の指示書です。伝えるの初歩の初歩。心を伝え
   合うレベルとは次元が違うのです。
   職人の世界には、「見て覚えろ!」があります。弟子を言葉で教えると「その言葉の数以下にしか育たない」ので
   す。つまり、それは、言葉を発した師匠以上には成れない事を示しており、定年退職があって、第二第三の人生
   のある会社員的従事者はそれで良くても、一生をその仕事に注ぎ込み、その技術を継承し、発展させる弟子には
   逆に見て覚えろしかないのです。
   それは、教える側の賭けと言うリスクでもありますが、そこから残った弟子だけが師匠を越えられる資格がある。と
   言う「愛の伝承ハードル」として使われてきたものです。
   そう「職人物とは、物を通して心を買っていただく」 職人芸とはよく出来た言葉で、芸術も心を表現したパフォーマ
   ンス違いと言えば、そう「売る目的前提品と創る目的前提品」
   現代、急ぐばかりに「見て覚えろ!」が、この両者に無くなりつつあることを憂いるばかり。
   学校でカルチャーセンターで人口ばかり増やしたって、発展に繋がりはしないのに!
   「教え方も無限にある」が、単にビジネスとなり、発想が無くなり、人間教育も粗製濫造・何とかしなくっちゃあ。

 「言葉で表現できなくなった時、音楽が始まる」・・・・・ドビッシー

   西洋の芸術は、宗教と権力の威厳と共に育ってきたとすれば、日本で今、芸術と言われる多くは、民衆の楽しみ
   が生んだもの。純粋培養から言えば、日本芸術の方が理想と言えるけど、その分、軽く論じられ、「流行りすたれ」
   の時代の輝きでしかなかった感もある。
   西洋のそれは、競い合った、合わされた歴史でもあるわけで、芸術家それぞれの技術論、精神論も、洗練されて
   高い。 この言葉は、もちろん芸術の核心であるが、かつての日本ではありえない「言葉ではないだろうか?
   芸術の住み心地としては、西洋が良いのでしょうけど、いま両者の、混沌(カオス)にいる、日本が「何を創り出す 
   か?」期待を持つ資質と環境がそろっているんだけどな。この言葉のような論が無い。
   論を、後付するのだけは、止めて欲しいもの。

 創作・発明は一卵性双生児、そして
  
   創作・発明は、「食べられない代名詞」でかつ、専門社会においては「肩身の狭い狭いエリア」しか与えられない。
   組織や専門で縛り付けておいて、やれ「創造せよ」「発想せよ」って言われる。その環境を持っているのは社長はじ
   めリーダーだろう?  まあ、こんな風で、創意の判っていないやつが命令するのが日本社会。日本企業。
   学校は入学まで勉強するけど後はしない。会社も部下時代は勉強するけど出世以後はしない。
   創作発明は、意思だけが活力だから日日の興味あるものを勉強しなければならない。自由と独断と偏見がその
   命となるのである。 (扱いづらい人種ですね〜)

   創作と発明は、あえて言うなら、「心に必要と生活に必要」でも言えるのでしょうか?共に考える基点が一緒という
   意味では、「一卵性双生児」とも言えるし「二卵性双生児」とも言えますが、起点に重きを置く我輩としては、「一卵
   性」と思いたく思っています。
   ここに掲載している「視力改善にしても、発毛法にしても工夫であれば、既成常識とぶつかり合うことは無い」ので
   すが、常識とか医学とか関係ない、まったく自由な観点から、発想したからこそ生まれたもの。
   逆に言って「既成の物理とぶつかり合わないものは、創作度、発明度が低いと言う事が言えるでしょう。

   人類が、皆幸せな生活が出来るように知恵を寄せ合って、法をはじめとするルールを発明して文明社会を築いて
   きた。そう、創作発明の原点は、「皆幸せになるという意を起点」するもの全てです。
   ところが、文化社会も歴史を持つと、全ての発想の原点が、「法やルール」に変質してしまい、ルールで良し悪しを
   判断してしまって疑念を持たなくなってしまいます。
   学問で言っても、本来、物事に疑問を思って研究されたものが学問という形をなすのであって、学問という教科書
   からを起点にする必要ないのです。
   生活を営み、疑問を感じたものを自分なりに研究したら、学問であり、基づいて何かを作ったら、「創作発明」なの
   です。

   日本人が基礎発明が出来ないのも、こういう意味の「創作発明を理解不足」もありましょうし、革命という常識のひ
   っくり返る歴史的を経験を持ち合わせていない事に端を発しているとも思います。
   「上からの命令に間違いが無い」「餅屋は餅屋」。ある意味では、幾多の争い事はあっても平和であったということ
   でしょう。現代日本においても「上からの命令、、、は法やルールになり」「餅屋は、、、、専門部署任せ」すっぽりと
   はまりすぎくらいにはまっている感が否めません。

   「疑問を感じて研究、人と社会が幸せになることを生み出したら創作発明」これは起点であると同時に何者にも侵
   されてはいけない自由、独断、偏見さえ許される発想エリアであるべきです。
   ボーダーラインや聖域が心にあったら、「創作発明は出来ません」
   教える世界でもなければ、教わる世界でもない。考え出す、生み出す世界だから、中学生が癌克服理論を出して
   も良いし、育児をやりながら主婦が、新宇宙エンジンを考えても良い訳です。ちなみに我輩は、「理論物理学」が好
   きで、いつも発想旅行に出かけます。これが「夢」。そこに稚拙も優秀も無いのです。出し合う闊達の風が雲を払 
   い未来を明るくするのです。
   文明社会、「行動は法ルールに縛られても、頭脳は決して縛られてならない。」 です。

   当然、こうした考えでは世の中で人間で一番偉い人は「無から生み出す人、作り出す人」であって、我輩の辞書で
   は、「権力やお金持ち、専門知識屋さん」ではありません。そんなものは時代が変われば直ぐ無くなるものです。創
   作発明は、時代を選ばず必要な心と人です。
   現社会、文句を言うと「専門家でもないものが、!」よく聞かれますね。同じように創流で言えば「名前はどうであろ
   うと、物事を解決できなければ専門家ではない」です。例えば「癌を治せなければ、少なくとも癌については医者も
   我々同様、素人だ」です。医者と言えば、尊敬する北里柴三郎氏。ただただ一念を貫いた魂は、人を育てるもの。
   野口英世氏がその人であることは言うまでもありません。氏は創人そのものの方と思います。そして偉大です。

   「人が育つ」と言えば、純粋な疑問を素とする学問と教科書を素とする学問。この二通りを思う時、前者で大成する
   と「生涯を勉強」と謙虚で素直になるが、教科書をくまなく勉強してしまうと「穴を見つける」に行き着いてしまうよう
   に思えてならないである。
   「教科書を利用してずる賢くなる」人種を輩出してはいまいか?資源のない技術立国、日本に情けない暗雲であ
   る。国民全体が高学歴になって、増えた人種は?  ニュースもずる賢い犯罪ばかりでこの先は言いたくもない。
   「ゆとりだ、個性だ」と教育も変換期。誰もが思い、憂いています。どんな人材を育てるか?「謙虚で素直な知識を
   持つ」なら「創心」の育成ですけどね。
   何をそんなに急ぐのか?時代が速いからと言って「世はマニュアル、マニュアル、マニュアルだらけ」教育もマニュ
   アルになっていません?申し訳ないけど、マニュアルで「心」は育てられません。 創は自問自答の啓発心。
   明治以降、学校は兵隊を輩出、戦後は、会社員を育てるに主観を置かれ今も続いている。今、どういう人材が必
   要な時代か?必要と目標が合致させなければ、このサラリーマンになる為の受験システムは終焉を迎えない。

 真実の外に美はない」・・・・・ロダン

   おそらくはアートを美と和訳しているのでしょうが、私は美術と言う和訳は嫌いで、使わないように心がけている言
   葉の一つ。美術芸術の特に美術は「アートのスケール」を小さくしているように思えてならないのである。
   自由と言う言葉は、フリーに該当する言葉が日本に無い、と言うことで福沢諭吉が作った造語と聞きます。このア
   ートも、実は訳す言葉がなかったのではないか?
   学校教育でも、美術の授業で育った私は、「絵など美しく描く」固定感を作ってしまって、いまだ抜け切れない。
   仕方なしに芸術と言う言葉を使うけど。スケールの面でアートに合致していない気がしたままです。
   何か良い言葉は無いものか?
   アートって、アートマン(個、我)・ブラフマン(宇宙)一体理論から生まれた言葉なんでしょうかね?
   今、漠然とあるアートのスケールは、これに近いんですけど、、。

 欧米人の自信と余裕は

   議論を挑んで、いつも屈服する感のある日本人と欧米人の議論。言い放つ位置関係に相当の違いがあって、こ 
   のままでは、何百年と勝てないでしょう。勝つ負けるは枠外に置いても、欧米のあの、自信と余裕は何処から来る
   のでしょう?
   日本が経済で世界を席巻して、残るはアメリカ一国。でも西欧各国は、いつまで経っても日本を「働き蜂」程度にし
   か見ていない気がしてしまいます。劣等感なのでしょうか?
   あの余裕、宗教からくるものか?歴史文化からくるものか?彼らに物を言われて、ふらふらするのも卒業しなけれ
   ばならない、卒業する時代でしょう。
   孫子流に言うと、「敵?知ることが足りない」と言うことですが、根本的に物を言う位置が違うことに注視しなければ
   なりません。
   ものを発言する時、欧米人は、「神に許された代弁者ごとくの発言」をするのに対し日本人は、国の代表とも責任
   者とも違う「民の願いの献上」の立ち位置だ。民主主義の浅さから、もあるが、政治の歴史でしょうね。
   宗教も関わるが、欧米人は出来るだけ神に近づこうとするし、民衆の代表ともなれば、神のごとくの行動を求めら
   れ行動する」
   日本では、神とは、「冒すべからず」の距離を取る文化を持ち、形骸的にも内輪もめの頂上に天皇がおり、時の制
   覇者が支配者であっても統一者ではない、と言う世界に類の無い文化。
   こうした育ちで、「国の命運交渉」もまた「お願い談義」なってしまっているのである。このあいまい失敗が第二次世
   界大戦。欧米人にしても横暴に物言う日本人は、解っても、立場を飛び出せない日本人の言うことは理解できな
   いでしょう。きっと「一体何に気遣いしているのだろう?」
   ここからすると、「武力を持たないと、言いたい事も言えない」は言い訳だ。
   「代表はその国の神だ」 日本人は馴染めないなあ。
   とすれば、真理、哲学で屈服させないと。哲学は中世ヨーロッパ?中国か? 論破する武器がね〜ぞ〜。
   あるある、このごろ輸出のアニメ、漫画哲学。吸い取られる前に言おう 「お前はもう、死んでいる」

 日本の誇りアニメ&漫画に思う

   確かに、日本の漫画は真面目に創作されていて、哲学があるよね。
   今じゃあ、青春トレンディドラマのヒットは漫画を脚本したものばかり、叱られそうだけど、小説よりも上を走ってま
   す。少なくとも海外では、それくらいの高い評価。手塚治虫先生も天国で喜んでいることでしょう。その漫画で育っ
   たと思うと誇りに思うし、治虫氏の偉大さを改めて知らされます。
   「鉄腕アトム」時代の証人者として、当時を思い起こせば、教育委員会に眼の敵にされた肩身の狭い漫画でしたよ
   ね。そんな不遇の時代も見てきたし、治虫氏の漫画が劇画に押されて、苦境に置かれた姿も見てきた。
   それは、自分が発展させた漫画社会に自分が抹殺されるが如しの悲劇にも見えた。全く、この時期「らしくも無い
   作品を眼にして」涙が出る思いで読んだものだ。
   子供心に「次から次と出てくる手塚漫画」に「これ?一人で創っているのか?」を疑問に思っていました。それほど
   スケールの大きいもの小さなもの、多様さは「化け物的だった」
   手塚氏の最大の天才部分は「この化け物的」にあると思っている。一般に言われる漫画のアニメ化の功績よりも、
   この「化け物的」が子弟後輩を作り、更に発展して現代漫画の魅力になっている。
   この「化け物」とは、「自分の全てを漫画と言う手法でメッセージにした」です。
   それまでの漫画は、世の風刺を基調にした。面白おかしさの表現や、既成道徳の正義は勝つ表現。トム&ジェリ
   ーの楽しさから、宇宙、未来、自然、医学、人生、愛、哲学、思いの丈を全て漫画に盛り込んだのが、手塚氏なの
   です。この時点で漫画は小説に昇華し、「漫画に教えられた」こう思う人達が多いのも原点に手塚氏の「化け物」ス
   イッチが作用した結果と思うわけです。
   日本漫画が廃ることが無いのは「この息吹を持っているから」 通常「小説を漫画にすることは簡単」でも日本漫画
   は「小説化も出来るし、ドラマ化も、舞台化も、映画化もできる、さらに絵画としても通用する」
   超パワフルな「化け物」としか言いようが無いでしょう?

 身近な天才達から

   人を見て天賦の才の発掘は無理でも 「振り返れば、天才だった」 凡庸でもこれくらいはして上げれそう。
   見て聞いて育って、「振り返って与える天才」 手塚治虫であったり美空ひばりであったりアイルトンセナであった 
   り、同じ時間を生きた天才達も多い。
   これらの天才を思う時、自然と格言も出来てしまいますよね。やはり「創」を引き連れた輝きです。

   1000人の人間関係を作るより1人の天才に出会うことの方が価値がある。

   命を削る集中と命を懸けた自己主張。

   天才の領域は、一般の奇人変人の領域。接点は作品しかない。

   天才は全てを敬愛すれど、剣先が折れるまで主張は曲げない。

   天才に理解者はいない、作品ごとに孤独が膨らむ。

   凡庸には、死して後しか天賦の才が解らない。天才に批評は無意味である。

 評論家、ジャーナリストは創作発明を助けない。
   
   革新的な事件が起きれば、保守の、保守的な事件が起きれば、革新の立場で物を言う、まるでコウモリみたいな
   世渡り上手をする。もちろん全員ではないが、近代に現れた職業の、そして情報時代の流れに乗った粗製濫造の
   感は否めない。

   ただ、ものを知っている連中の行く末だ。古今東西、評論家、ジャーナリストが世を変えたことも無ければ、風邪ほ
   どの影響を与えたことも無い。「有るとしたら、その評論家、ジャーナリストを逸脱して活動家になった時のみ」だ。
   とは言っても、何処の世界もピンとキリだから、その存在意義に努力を怠ったなら、「こうもりと罵られて」致し方な
   しの職業であると同時に、その矛先が、「弱い者にしか向かない矛に成りかねない事を充分に承知」すべきであ 
   る。

   「大衆に迎合」と言っても大衆味方を名乗れば市民常識レベル。大衆の水先案内人を名乗れば主導者信念レベ
   ル。まあ、どちらにしても大したレベルではない。どちらも、「陰口を言ってコロンブスに卵を立たせた連中だ」パイ
   オニア、創造の慧眼なんか持ち合わせていない。「誰かが迎合したら乗じよう」の頭脳しかない。
   これが、物を知ってるだけの成りの果て。つまり、常識に乗った生き方しか出来ないのである。パイオニア、創造
   者と言う人たちは、非難されながらも「常識を作ってきた人達」これを忘れてはならない。

   かく言うこのHPの、訪問者、問合せ者のほとんどは俗に言う「一般の方々」。世の評論家もジャーナリストも、学者
   も数えるほどもいない。でも、訪れた人達は、理解の扉を開けて、考え方だけは持ち帰って戴いたと自負してい
   る。新しい情報に敏感に反応するのは、残念ながら「一般市民少数」なのです。決して、先端を走ろうなんて意識も
   なければ、走ってもいない、それが評論家、ジャーナリスト、コメンテーターです。
   知ってるとか、知らないとか、調べれば解る事を勝ち誇ったように言う。つまらない世界の人達です。
   生死をかけて、困難をくぐりぬけた立派な方々もいますけど、こうした方達は、肩書きを嫌がる傾向も事実です。

   一部の立派な方を除けば、それは、「常識の正しさ基準」を元に判断しようとする人達。方やパイオニア、創造者
   は「常識の正しさを壊すことから作業する」人達です。
   常識からは「馬鹿な、無謀な、変な」に表現されて来た人達。そもそも、「歩み寄りのあろう筈がない」関係でしょう
   か?これを、「常識と真理の戦い」と読んでいますけど、一見、相対する関係に見えないから不思議です。
   事をやり遂げるには、信念が必要ですが、その信念は利己ではなくて、真理追究の悟りで強さが生まれる。
   パイオニア、創造者には、宗教者にも似た、死をも恐れぬ強さがあって一歩も引きません。そう言えば、弾圧され
   てから市民権を得る、経緯も似ていますね。
   真理を感受してしまえば、評論なんて、「年寄りの冷や水」か「貧乏ゆすり」程度なんでしょうね。

   私も、時代の先頭を走っている人達と思っていません。時勢や人心の形勢に敏感な人達と思っています。時代の
   先端と言うのは、「常識の正しい、間違い」の通用する世界ではありません。未知に挑むことをダイヤモンドとする
   なら常識は、石器。石器ではダイヤを切れもしないし加工も出来ない。ただ、やかましいだけだ。

 オンリーワンの側面

   俗語で言えば「我が道を行く」「俺流でやる」であるが最低条件の創造と発明。カタカナ語を使うといかにもカッコ良
   いスタイルを創造するけど、実際は、親兄弟にまで「変人扱いされる」立場の無い生活を強いられ、「世界中が敵」
   と思うほど「屈辱と窮状」味わう宿命があります。
   つまり、「人に変人と思われるような創造、発明でなければ、程度が低い」と言うことで、「簡単に人に理解されるよ
   うなものは程度が低い」証明だからです。
   では、誰が、その人と作品を見出すか?エジソンの場合は、「母」であったし、モーツァルトの場合は、「父」であっ
   た。こうした「母、父」であっても世間からは「馬鹿な息子に肩入れして!大金使って!」の誹謗中傷が飛び交う。 
   引くに引けない状況もこれまた宿命。
   結局は、「世に出ることは、実力でもなければ運でもない、貫き通すと言う試練を経て神に選ばれる」としか言いよ
   うが無い。
   かく言う私もつくづく思い知らされた。周りの皆々がスーと消え去り、底の無い泥沼に埋没、浮き上がれない。声を
   大きく説けば、更に人がいなくなる。底知れない孤独。夜が明けない暗闇。「解決は解っている」「止〜めた」で全て
   吹っ切れる。でも、できない「真理信念だから」
   こうした葛藤と共に、「死の常備を始める」以降、1年半、「毎日、24時間常備したロープを見つめ、電気コード、タ
   イマーと共に寝ていた」ものだった。
   本来、「真理だ信念だ」といった場合に「神」は薄れるものだが「いざっ死」と言う時に、小さな小さな幸運がコロ、ま
   た「死」と言う時に、またコロと暗示のように現れる。この時に、「足りないものを補充して完璧を目指す」考えが生
   まれ「後は神の試練のままに」に託して「命は救われた」
   540余日、毎日、毎日、いつも耳元で「それで楽になる」と誘われ、フッとのめり込む事もたびたび。よくも発狂しな
   いで済んだものだ。僭越だけど、いま、ゴッホや他の奇行の意味が良く解る気がしています。

   独創や個性の教育が取りざたされている現在ですが、私には、教育がいるのは「世間」だと思えてならないのです
   が。まあ、昔ごとを言えば、どんな世界にも「谷町」がいてバックアップしてくれた。今はいない。
   新しい形のバックアップの体制が出来れば、「必然と独創、個性は生まれ続ける」ものと思います。残念だけど、
   創造、発明に甘えは許されません。多かれ少なかれ、こうした「不遇や悲惨」と言う修行面を経験しないと大成は
   出来るものではありません。「生きるか死ぬかの孤独の刃渡り」が無いと作品に力が着かないんです。

   ここプロシードで創作発明のプロデューサー育成を提唱しても「過保護にするつもりはありません」描いているのは
   「完璧と言う名の元で、何度も何度も谷底に落として這い上がりを待つ」プロデューサーだから常識を解り、常識を
   超えた将来と言う距離を読み取る審美眼、慧眼を持った人間を作って生きたいものです。
   これは現代の「ムリ、ムダ、ムラ排除」経済論に真っ向反する冒険でもあります。平家物語じゃあないけどこの拡
   大経済論は限界が来る。「盛者、必衰のことわりをあらわす、、」
   今のうちに、新経済論を創出しなければなりません。アメリカ拡大経済論に載って札束を数える人はそれで良い。
   「次の時代の経済をまわす機軸は何か?」これを生み出すのは、学者ではない「創造者」と信じているからです。
   皆々切羽詰れば、次のことは考えるでしょうが、平和な今、次の世界を考えるのは、常識教育されていない創造 
   者だ、そう思っての提唱です。

 流行と慣性の法則
   
   客観的などと言っても所詮、誰でも「自分が正しい」意識から思考は出発するものです。私も自分で「自分を普通
   人」と思っていても「どうも違うらしい?」
   「耳には届かないが、変わった人」のレッテルがあるらしいまでは、分かっている。でも「どこが変わっているのか
   が?」本人には分らないものなんですね〜、これが。 
   もっとも、子供と時から、「あいつがその方法で成し遂げたなら、俺は別の方法でやる」そんな意識が強く自覚も
   あったから、本当なら、「いじめの対象」だったでしょう。でもそれが、自分では当たり前だったから、「案外、いじめ
   られても、いじめと思っていなかった」スポーツと同様競い合いだと考えていたように思います。
   小学生の1年くらいで「屁理屈こき」と呼ばれ、伝記物を読み終えて「ニヤニヤしながら散歩に行く」こうして書き出
   してみると、やっぱ変人かな〜。
   答えの無い「理論物理学」が好きで「粒子の衝突実態」「粒子のミラーテレポート」「光子の連続性から構造を考え
   る」要は答えが無いことが好き。
   今も、死んだふり状態で瞑想に入って、ガバッと起きてメモしたり、テレビで国会の中継を見ていて「光子が粒子な
   ら反射した後、どこかに落ちて溜まる?」なんて考えたこともあったな〜。
   現代語で言えば「立派なマニア」か?学問なんてものは、「興味と解決の積み重ね」で最初に学問も無ければ学者
   もない、そもそもボーダーなんてない、と噛み砕いちゃってます。

   で、「何を大事にしているか?」これが、マニア?にとって機軸とするところ。私の場合は、ものの覚え方は、キッチ
   リ覚えません。定理、公式を覚えるだけで、ニュアンス大事。その大事のために、偏見だけは持たないように肝に
   言い聞かせて、情報収集し修正もなしている。例えば、1つの「芝居」を、役者の眼で見たり、脚本家の眼で見た
   り、観客の眼で見たり、監督の眼で見たり、カメラ照明の眼で見たり、もちろんストーリーのテーマを考えたり。
   やっぱりマニアだなあ。 読書は多読よりも繰り返し読本を好んで、解釈の違いを楽しむ。流行なら「流行に乗るを
   良しとせず、流行を作り出すを良しとする」 結論の無い会話は嫌い。ストレスが目いっぱい貯まっちゃいます。

   「流行に流される」が嫌いと言うことも影響してか、「いつも、遠くを見ている」と言う幼馴染いた。そのころから社会
   は「時流と言う電車に乗った旅人達」だと思ったし「流行と言うのは電車の中のゲームの楽しみと思っていた」
   子供でも、大人でも電車に乗れば、窓から流れる風景を見て乗り物を感じるし、楽しさを感じるし、速さを感じる。 
   これこそが「想像から創造」の窓で、楽しくて、解らないとか未知の世界と電車内を結ぶ窓だと思っているわけで
   す。単に私は「窓が好きなだけ」なんです。

   電車内にいて、働いて遊んで寝て、確かにスピードもある生活をしていますが、人間全体は何処に向かっているの
   だろう?の「答えは窓から見た風景で推し量る」が持論。
   中学生の物理「慣性の法則」。時流を生きる以上、慣性の法則にしたがって、「電車内の生活を平和で豊かにしな
   ければなりません」でも、それを満喫して謳歌したとしても「電車は破滅に向かっているかも知れないんです」
   電車に載れば、誰もが「窓の風景を憧れを持って眺めて夢を見て想像する」 そして好きなはず。
   実生活で「夢を見て、想像して、創造することは窓を眺めることと同じ。窓の様子を見て「行き先をコントロールでき
   るんです。「創造とはそんな役割を持っているんです」
   これを「思考視点の慣性の法則」と勝手に名づけて学問しちゃっています。

 「思索を放棄する事は、精神における破産宣告だ」
                               ・・・・・シュバイツァー

   人として生まれた以上、「考える」はお金を持って歩くに等しいことです。しかし情報化時代が開花してくると、本棚
   から見つけてくる、とか教えてもらう、のように考える程度がどんどん低くなっている現状の否めないのです。
   先輩や年寄りが「今のやつらは考えが浅い」って嘆きますけど、便利と言う時代を追及したことから発生している
   のですから、悪いのは、貴方方だ。 何でもかんでも、便利にすりゃァ、良いってもんじゃあないぞ。
   「便利なものが売れる」経済が成り立っていくツケを誰が、補正するのか?責任を追及したいくらいだ。 

   個人的に言って、「精神の破産宣告」も正解と思いますが、「社会の破産宣告」も目に見えている話、何ですけど、
   気付く人は少ない。良い例がTVゲーム。「自分が主体的に中心にいる」ような感覚は持ちますが、実のところ、「ソ
   フト制作者に遊んでもらっている」だけのこと。高い得点をあげてNO,1を言っても、製作者に勝ったとは言えない。
   そもそも、本と同じで読んだか?読まないか?程度の違いしかないのである。全てはソフト制作者の手の平の中 
   で弄ばれているだけです。 こんなアイテムの多い時代ですよね。

   そういう意味では「やつらの考えは浅い」は誠に的確で、異論を挟めません。時代が進んで世紀も進み、社会が高
   度化することは、「思慮深さを犠牲にした成長」を自覚しなければなりません。社会的規模を言うなら、教育内容を
   「広く浅く」から時間を使ってでも「広く深く」が求められると言うことです。
   見てください、この日本「一億総評論家」前にも言ったように「評論家なんぞ実にくだらない」まして、批判評論は誰
   でも出来るつうの!。出来そうで出来ないのが、「たった一人の闘争」。この度胸がなければ評論家はやってはい
   けません。

   ノスタルジーで言うと老婆心。だけど危機は思いますよね。私も、一枝の技術者として育ったつもり。そして創造的
   心構えも教授されながら育ったつもりです。その中に「絶対、完璧を言うな!」があり「出来ない、と言う言葉を吐く
   な」があります。シュバイツァー氏が言われたように、創造や技術に携わるもの、人にものを教える立場の人は
   「出来ない」と言う言葉を吐けば、その時点で「資格なし」かつ「精神における破産宣告」しかも自己破産宣告だ。

   学者、博士が、また教授が、はたまた技術者が、簡単に「出来ない」と言ったら、お役目放棄でしょう?
   出来ないことに挑んで成果を上げるのが開発 。一般の方々であれば、致し方なしでも、「出来ないことに挑む方 
   は、批評の慎み方も判っていなければなりません。
   言わば、「警察官が立場を利用して盗みをやるが如し」の行為に匹敵します。
   第一線に居らせる偉人は「先に批判はしないものです」それは「職業姿勢で最も大切な事」と解っているから。
   でもね〜。TV雑誌で、これらの人は近年決して少なくないですね。この分野も粗製濫造?もう一つ、思慮を深める
   と「貧富の格差が開く時代」ごとく「考えを使っていく人」と「考えを受けていく人」の2極化格差。
   今、物凄く気になっている事の一つです。「勝ち組、負け組み」が言われる時代だがPCゲームを作る人、それに享
   楽する人。この対極を見ると「次第にコンピュータに使われていく人間の漫画」の到来に思えて不快だ。
   
   私は負け惜しみも強く、「出来ない」ことも「今は出来ないだけ」と切り返し、意地でも「出来ない」は言わない。
   批判が先に出るのは「理論の賛否ではなくて思惑か感情」です。その時点で人の上に立つ資格はありません。現
   代は偽者時代でも有ります。 常日頃、わが身を振り返って気をつけましょう。

 豊かな時代の低発想、低理想

   戦後、日本が貧乏のどん底から、這い上がろうとした時代。テレビが普及し始めて、子供にとって「自分の家の貧
   富」を目の当たりに見せられる時代でした。「あ〜もっと金持ちの家に生まれて来れば良かった」でも、子供心で生
   活は厳しいもの、と理解していたのだろう、貧富の差を認めても、うらやむ心が妬み僻みに変わることはなかった
   ものです。
   当時思ったことは「みんなの家が豊かに金持ちになれば、貧富の差を競う事もなくなる」と考えたし、理想とも思っ
   ていた。しかし、現代を見渡してどうだろう?日本全国民、中流意識を持てて尚、貧富差に敏感な反応を示す。
   一家に2台3台のテレビを持ち、車を持っても、満足せず人と張り合う、人間の欲望は、全国民が大富豪になって
   も張り合うことを止めさせてくれないのだろう。

   豊かになって、心のどこかに「これでよい」と思ってしまえば思いと「全てが合わなくなる、機能しなくなる、腐ってし
   まう」のが、時代を流れ行く我らにとって浮き沈みに関わる大事です。
   例えて、体力を失った泳ぎのごとく、羽ばたく力を失った鳥のごとく、「力を持ってしか生きられないのが生命」であ
   り、とりわけ人間はプラス「心と考える」をなくしたら、失速して置いていかれるお荷物になる。
 
   時代とは芝居で言えば「舞台であり、一場面で成り立つ芝居はないのです」時代も同様、場面が変わるたびに、 
   「心と考える」も時代にあったものにしなければならないものなのです。
   豊かな時代は、「考えがなくても、心を引き締めなくても生きれる時代」
   過去、2000年の歴史でも、こんな時代は多々あって、ただ次の時代が奈落の底、の繰り返し。発明風に言うと 
   「必要を思わなければ発想しない」今は、そんな時代。
  
   この豊かな時代を築いた「自由経済とサラリーマン生活」もう、そろそろ終わりと思いませんか?新しいこと、探し
   ませんか? つまらないじゃない。
   たかが「サラリーマンに、会社員になるために、勉強だ!進学だ!」これは、戦後10年の発想だよ。
   勉強、高学問してお金を掛けて、会社や人にに使われようとする姿勢は、学問の冒涜にも思えるし、決して格好の
   良いものではない。
   こんなの豊かな時代の進路発想じゃあないよ。
   仮に、サラリーマンになるために学問学歴がいるとしても、使う側の社長になるためには、学問学歴は無用だ。要
   るのは修行と経験。だったらその場を設けて、育成すればよし。そして、働く一人一人が一国一城の主になるべ
   し。目指すべし。個性教育なら、その到達点を示すべき。サラリーマンの強い個性持ちは、経営者にとっては迷惑
   なだけ!なんです。
   子供も少なく、一人に掛けられる養育費も多いならできるはず。子供をサラリーマンに!なんて発想は貧乏人の
   子沢山的発想だよ。家族で応援して、「甲子園球児からプロ選手に」「暴走族からF1レーサー、は無理でもスタン
   トマンに」笑。
   女性の社会進出が目覚しい現在、男女、席同じゅうしたら、縦割り忠節では男は女性に追い越されるだろう。豊か
   な時代、男子たるもの「一国一城の社長」を目指すべし!

   豊かな時代は、野心も意慾も出ない時代というのは解っているけど、、。






トップへ
トップへ
戻る
戻る




姉妹サイト プロシード創作発明起業室
ことひらを集めて
ことひらを集めて