日本初の謝冰心研究書--書評『謝冰心の研究』
*『現代中国』84号(日本現代中国学会 2010.9.30)原載
瀬戸宏(摂南大学)
萩野脩二『謝冰心の研究』が2009年9月に朋友書店から刊行された。日
本で最初の謝冰心に関する研究書である。著者の萩野脩二氏は1941年生ま
れ、関西大学文学部教授で、中国現代文学の研究家として知られる。『謝冰心
の研究』は、1992年から2009年まで、17年にわたって萩野氏が執筆
した謝冰心に関する論文を一冊にまとめたものである。あとがき、人名索引も
含め400ページを超す大著となっている。(以下、文中では本書とする。ま
た、本書では謝冰心と冰心が混用されているが、本書評では題名にもなってい
る謝冰心を用いる。)
萩野氏には、これまで『中国文学最新事情:文革そして自由化の中で』(竹
内実氏と共編著、サイマル出版会 1987)、『中国“新時期文学”論考』
(関西大学出版会 1995)、『中国文学の改革開放』(朋友書店 1987)など
の著書がある。私には、どちらかといえば中華人民共和国建国後の「当代文
学」「新時期文学」研究者という印象が強かった。しかし、今回の著書の論述
対象である謝冰心は、そうではない。
謝冰心は1900年生まれ、五四時期から創作を始めた女流作家である。萩
野氏は「冰心は二〇年代には、魯迅をもしのぐ人気があった」と指摘してい
る。本書の内容も、五四時期の彼女の文学とその背景の分析が、主内容になっ
ている。
謝冰心は五四時期以後も執筆意欲は衰えず、長寿を保ちながら1990年代
まで文章を発表し続けた。1946年から51年まで夫の呉文藻と共に来日
し、東京大学で中国文学を講じてもいる。その後も、たびたび短期来日してい
る。そのため、日本では謝冰心の名は早くから知られていた。それにもかかわ
らず、これまで日本では謝冰心に対する評価は決して高くはなかった。二十世
紀後半の日本の中国現代文学研究状況については、本誌75号に掲載された阪
口直樹「現代中国文学研究の五〇年」が体系的に整理している(1)。阪口氏
はこの中で各種の文献目録を用いて、戦後二七年の作家別論文数ベスト二〇、
文革後一〇年の研究対象ベスト二〇、九〇年代研究対象ベスト一五をそれぞれ
まとめている。それをみると、どの時期にも謝冰心の名は出てこない。
萩野氏は、おそらくこの情況を念頭に置いて、こう述べている。小説は「作
者のもの、具体的に言えば思いや夢を描く文学作品であることが、社会的に定
着する時期として、一九二〇年代はあったようだ。だから、一九二〇年代は文
学というものがわかり始めた時期だといってもいい。そのための力となった作
家に、魯迅だけでなく冰心もいるぞ」(p7)という事実を日本人に向かって明
らかにすることが、「拙文のさらなる目的のひとつでもある。」
この引用から、萩野氏は二つの研究上の問題意識を持って本書収録の諸論文
を執筆したことがわかる。
第一は、謝冰心は、中国で作者個人の思いや感情を描くことが執筆目的とな
る文学が生まれるために、別の言葉を使えば、中国で新文学あるいは近代
(modern)文学が成立するために、魯迅と共に重要な役割を果たした作家だと
いうことである。
第二に、そのような重要な作家であるにもかかわらず、これまで日本では謝
冰心に対する評価は不当に低かったのではないか、ということである。
第一の点について、初期の代表作「超人」(『小説月報』第12巻4号、1
921年4月)という小説がある。ごく短い作品だが、謝冰心が作家としての
名声を確立した作品である。
主人公の何彬は、世の中の一切は虚無だという人生観の持ち主である。禄児
という召使いの少年が怪我をしたので、治療代を与えた。禄児を哀れんだので
はなく、呻き声で自分が眠れなかったからである。転居が決まった夜、禄児は
花籠と手紙を置いていき、その手紙に何彬は感動して、禄児宛の置き手紙をし
て去っていく。禄児と何彬の手紙が、作品の中で重要な役割を果たしている。
萩野氏は、まず「超人」が当時の読者に強い印象を与えたことを指摘し、
「その理由の一半は、やはり『超人』が文学作品として存在したからである」
(p46)と述べる。「超人」が「文学作品として存在した」とはどういうこと
か。萩野氏によれば「文章のもつ詩的イメージが読者に伝わった」のである。
これを、萩野氏はこう表現する。
ひとは、どんなに忙しくても、夕陽の美しさに感動し、時間の推移に
ハッとさせられることがある。また、中天の青き月に引き込まれるよう
な思いにとらわれ、宇宙と自己が一体化した感じを持つこともある。そ
ういう自然の一瞬に赤裸な自己の姿を感じるものを生存感というならば、
そういう人間の生存感を伝達するものとして小説はあるのだということ
を、冰心の作品は教えている。(p46)
「超人」を解説する萩野氏の文章も、謝冰心と同様に美しい。そして、この
詩的イメージの背景に、謝冰心の「愛の哲学」が存在しているのである。
第二の謝冰心に対する日本での評価の低さはどうか。
この状況は、中国でも同様であった。萩野氏は「解放後の文学の主流であ
る、階級闘争を下敷きにする『人民文学』からは、冰心の作品ははじき出され
ることとなり、彼女及び彼女の作品は、現実の発展に合わなくなった過去のも
のとして評価される。冰心はわずかに児童文学の面に認められるにすぎなかっ
た」(p17)と整理する。なぜか。それは謝冰心の表現の核が「愛の哲学」に
あったからである。ここでいう「愛」は男女間の愛ではなく、もっと抽象的な
人間愛である。
中華人民共和国建国後の思想状況と「愛」の関係と言えば、毛沢東「延安文
学芸術座談会での講話」の「いわゆる“人類の愛”に至っては、人類が階級に
分化して以降、このような統一的な愛はなくなった。・・・階級が消滅した後
は、このような全体的な愛があるだろう。しかし、現在はまだないのだ」とい
う一節がただちに思い浮かぶ。毛沢東思想や「階級闘争」が絶対化された思想
・社会状況の下では、「階級闘争」を語らない建国以前の謝冰心作品があまり
高く評価されなかったのは、ある意味では当然かもしれない。
だが謝冰心に対する中国での評価は、文革終結後から変化し始めた。萩野氏
は唐?主編『現代中国文学史』(1979)などを引いてこの変化を説明して
いる。文革終結初期のものはまだ「階級観点や文学に直接的功利性を求める観
点から脱却していない」ながらも、「なるべく作品に即して、冰心のプラス面
を評価しようとする」ものであった。そのため、従来から冰心の特徴とみなさ
れてきた抽象的な「愛の哲学」だけでなく、祖国愛、労働人民への愛が冰心作
品に存在していることが強調されている。また、多くの作家、芸術家が謝冰心
に序文を書くことを要請したことも、萩野氏は指摘している。
謝冰心再評価の動きは1980年代後半になるとますます進む。萩野氏は、
1987年に発表された李沢厚「二十世紀文芸一瞥」が、謝冰心の「母の愛」
を伝統倫理にのっとったものではなく、“新世代の知識者”の“心の声”であ
ったと述べたことを紹介する。萩野氏によれば、「この九十歳を越えた作家
を、やっと八十年代後半になって、まともに評価するようになった」(p26)
のである。
謝冰心は1999年に99歳で逝去するが、その後も中国での評価は上昇を
続けている。中国政府教育部が2002年に定めた「全日制義務教育語文課程
標準」附録の課外読物指定書目には、謝冰心の詩集『繁星・春水』が入ってい
る。中国の児童が義務教育終了(初中生卒業)までに読むべき作品に指定され
たのである。中国文学のその他の作品は、『成語故事』『中国古代寓言故事』
『小学生必背古詩70篇』『初中生必背古詩文50篇』『西遊記』『水滸伝』
『朝花夕拾』『駱駝祥子』『芙蓉鎮』である。(このほか「普通高中語文課程
標準」指定書目には、現代文学では『吶喊』『魯迅雑文精選』『子夜』『家』
『茶館』『辺城』『雷雨』『女神』『朱自清散文精選』が入っている。
(2))政府機関による作品必読指定を過大評価することはできないが、その
役割を無視することもできまい。謝冰心の作品は、魯迅、茅盾、巴金、老舎、
曹禺、郭沫若、沈従文、朱自清らと並んで、21世紀中国人の感性源泉の一つ
となっていくに違いない。
このほかにも、本書には重要な指摘がいくつもあるが、紙幅の関係もあり、
以下本書の各節タイトルを紹介しそれを簡単に解説することで紹介に代えた
い。
本書は十節、結語と付録三節に分かれる。一節「冰心のこころ−大海」は本
書の約四分の一を占め、本書の中核をなす部分である。主に五四時期の謝冰心
作品とその評価の変遷を分析している。その主内容はすでに述べたので、繰り
返さない。
二節「父親」、三節「煙台海軍学校」、四節「家塾−伝統」は、謝冰心の父
親、父親の勤務先であり彼女が三歳から十一歳までの童年期をすごした煙台、
謝冰心の幼少期の教育環境の研究である。謝冰心文学が生まれた背景を分析し
ている。
五節「一片の冰心」は、謝冰心の児童文学の検討である。二十年代の「小さ
き読者へ」(《寄小読者》)の分析を冒頭に置いた後、1951年謝冰心夫妻
の帰国後の情況に飛ぶ。この時期の謝冰心は上述のようにもっぱら児童文学作
家とみなされていたからである。しかし、この節は五十年代の極めて複雑な政
治、社会状況の中で謝冰心がいかに対処してきたかを明らかにするものとなっ
た。夫の呉文藻が右派分子にされたからである。六節「したたかさ」も同じ時
期を扱ったものだが、題名にも伺えるように、決して単純ではない謝冰心ひい
てはこの時期の中国知識人の生き方が分析されている。
七節「国際性」は、「小さき読者へ」とその背景となったアメリカ留学が内
容である。この文を書くために、萩野氏は謝冰心の留学先であったアメリカ・
マサチューセッツ州のウエズリー・カレッジを訪問している。八節「スチュア
ート」は、謝冰心の出身校でありまたアメリカ留学帰国後の勤務先であった燕
京大学の学長であり、後にアメリカ駐中国大使となったジョン・レイトン・ス
チュアートと謝冰心の関係を考察している。謝冰心とキリスト教の関係が、初
歩的ではあるが分析されている。
九節「日本への紹介」および十節「プリミティブの強さ」は、主に戦前日本
の謝冰心紹介についての研究である。ここでも重要な指摘がある。たとえば、
次の文である。
冰心の脆弱というのはプリミティブな情感のことである。・・・この感
情は損得利害を脱した人間のプリミティブな情感、すなわち人間の社会的
存在を云々する以前の一個人として生きている生活感情である。・・・あ
まりにも原初的発露であったから脆弱と言わざるをえない。しかし殆どの
思考や情感が弾圧の対象とされる時代にあっては、却ってプリミティブで
あることが強さを発揮した。(p326)
これは、飯塚朗の謝冰心紹介について述べたものだが、謝冰心文学の特徴がよ
くとらえられているのと同時に、飯塚朗の時代に対処する姿勢の分析にもなり
えているのである。
「結語」では「愛とは、別れ、消え去る人生のうちに咲く花であるが、その
花も、別れ、消え去るものである。だから、愛は時間でもあり、人生そのもの
でもあるという覚悟が冰心には確固として横たわっていた」という萩野氏の謝
冰心研究の結論が述べられている。
附録のうち一「ある出会い」、二「二つの教会」はごく短いもので、一は謝
冰心のアメリカ留学中のアメリカ学生との交流、二は謝冰心の故郷である福建
省長楽市訪問記である。三の「澤村幸夫について」はやや長い。今日では忘れ
られてしまった戦前の謝冰心紹介者の生涯と仕事を掘り起こした貴重な研究で
ある。
上述のように、萩野氏は謝冰心を中国で新文学をうみだした創始者の一人と
考える。そして本書の方法論も、作家と作品は直接の関連を持つとみなし、作
家の伝記的事実を明らかにする作業を通して作品の意義を解明していくという
ものである。近代(Modern)文学研究の、最も伝統的なものと言ってよい。本
書の中に研究上の方法論に対する声高な言及があるわけではない。それだけ
に、本書の記述には素朴さ、あるいはプリミティブの魅力にあふれている。萩
野氏が、真に謝冰心作品を愛していることが、読者に十分伝わるのである。謝
冰心作品の解釈、分析という面では、今後異なった内容の研究が別の研究者に
よって書かれるかもしれない。伝記的事実についても、新たな発掘がなされる
かもしれない。そうであっても、本書は日本の謝冰心研究の重要な基礎作業と
して、後世に長く記憶されていくに違いない。
と同時に、本書にはいくつか不十分な点もある、と私には感じられた。
最も大きな問題は、伝記的事実の分析が事実上文革以前で終わり、文革期、
文革終結後の改革開放期の謝冰心についての考察が欠落していることであろ
う。謝冰心は1999年まで生き、その間には文革での下放と復活(謝冰心は既成
作家の中で最も早く復活した一人である)、六四天安門事件への対応など、当
時も注目を集め、その後の謝冰心を考える上で欠かすことのできない事実もあ
る。上述のように、萩野氏には「新時期文学」についても多くの業績があるだ
けに、萩野氏による文革以後の謝冰心論を読みたいと思った。
実は萩野氏には『家族への手紙--謝冰心の文革』(関西大学出版部 2008)
という文革期に湖北省に下放していた謝冰心の手紙の翻訳があり(牧野格子氏
と共訳)、そこには萩野氏による「解題」という名称での充実した文革期謝冰
心論が付されている。萩野氏が本書にこの「解題」を収録しなかったのは出版
時期が近すぎたからであろうが、本書が謝冰心の総合的研究を目指しているだ
けに、やはり収録すべきだったと思われる。
日本最初の謝冰心の総合的研究書という点から言えば、本書に謝冰心年譜、
謝冰心作品目録、研究文献目録(特に日本語文献)がないのも、やはり物足り
なさを感じる。日本最初の専門研究書であるだけに、このような工具書の要素
も持たせれば、本書の価値はいっそう高まったのではないか。
巻末の人名索引で岩崎菜子氏のような日本人謝冰心研究家の名前がみあたら
ないのも、残念なことである。
このほかにも、細部のミスで気がついたこともあるが、ここでは省略した
い。
もちろん、一人の作家について最初の研究書を刊行する時、さまざまな不十
分点が生じるのはやむを得ないことである。一冊の本にまとめて初めて問題に
気がつくというのも、よくあることである。本書の刊行を機に、日本の謝冰心
研究の水準がいっそう向上することを期待したい。
最後に、書誌情報をしるしておく。
萩野脩二『謝冰心の研究』 朋友書店 2009年8月1日第一刷発行 406ページ
定価6、667円 ISBN978-4-89281-122-7
C3098
注
1.後に阪口直樹『中国現代文学の系譜』(東方書店 2004)に収録。
2.このリストは発表後異議が寄せられたが、2010年現在も変更されていない。
異議の主なものは、《“語文新課標”引発争議》(中国文化報
2003.7.24)、《上海学者質疑中小学“新課標”語文課外推薦書目》(中華読
書報 2003.8.21)などで紹介されている。