          
 
 
カッコイイ 
 
 つつがなく――でもないけど、今年も一年過ごせたので、来年の抱負。 
 
 ていうか、あらやだ! 入院していて知らないあいだに(笑)、久しぶりの仕事(@ぱんだはうす)が世に出るじゃあないですか。 
 
 すげー。 
 やっぱ、いいもんだねー。 
 やや忘れてたけど(笑)、オレはプロのエロゲ・シナリオライターだったんだよなー。 
 スタッフのみなさん、超乙カレーって感じ。 
 
 いま社会に足りないのは、アダルツ&カッコイイ――ということだよねー。 
 来年はそれを、どんどんやっていきます。 
 
 新作も出るし、来年はがんばるぞー。 
 毎日、こういう肯定的なことが書ける一年でありますように。なむー。 
 
 
          
 
 
普通 
 
 ああ、色々な意味で勉強になった怪我・手術・入院だった。 
 
 病室には普通の社会がありました。 
 同室の入院患者、看護婦さん、ヘルパーのおばさんたち。 
 
 おれがしてきた仕事が普通じゃないのは当然知ってるし、それはいいのだが、普通の社会の雰囲気というものを充分に知っているつもりが、忘れた、もしくはおれは最初から知らなかったかもなと、痛感。 
 
 あと、痛感したのは健康第一という当たり前の事柄。 
 ほんと健康は大切。すごいベタなこと言うようだが。 
 近所の人にはきちんと挨拶をしなさいとか、そういう古臭いこともすごい大切。 
 
 ていうか主治医の先生に「自転車乗れますかね?」とジョークのつもりで聞いたのに真顔で冷静に叱られて、超しょげてる。 
 
 ていうか1月1日の朝8時から診察て――ばかなことやらかしちまったよう〜。 
 
 
          
 
 
ヒジの怪我は… 
 
 やはり骨折だったわけで… 
 複雑骨折だったわけで… 
 
 これからすぐに入院して、明日、全身麻酔をして、緊急手術するわけで… 
 
 手術前には浣腸プレイ、 
 手術後にはオムツプレイもあるわけで… 
 
 ――て、いやーっ! オムツだけは絶対いやーっ! 
 オレの美学がーっ! 
 浣腸はともかく――て、そうなのかよっ! みたいな。 
 
 てなんか、看護婦さんにお風呂に入れてもらうプレイもあるらしいが、うっそー、なにそれ? なんかドキドキーみたいな。 
 
 ていうか、はじめてのにゅういんなので、怖くてやはり足が震えるわけで… 
 オムツだけはやはりどうしても――て結局そこかよっ! 
 でも、これを期に新境地開拓、みたいなw 
 
 
          
 
 
ケガの恐々 
 
 ウクライナ人とイクラの密輸の商談をするのに青春18きっぷで稚内まで行ってきた。 
 
 ――とか、つまらないくすぐりはともかく、北海道に行ってきて、雪道で滑ってモロに肘を打って、腕が1.5倍くらいに膨れてしまった。 
 
 ぎゃーっ! こえー! 
 腕がありえない形になってるー! 肘が曲がらないー! 二の腕がスーパーで50%引きになったアメリカ産牛肉みたいな色になってるー! 指までむくんできて握りづれー! 
 
 医者行くのこわー。生きたくねー、じゃなくて、行きたくねー。 
 アルプス縦走や自転車ツーリングでも一度も怪我なくやってきたのに、一番安全なはずの電車の旅でこんな怪我をするとはー! 
 
 旭川の健康ランドで夜明かしするあいだ(そこまで200円のバス賃を節約するのに5kmの雪道を歩いていて転んだ)、このまま死ぬんじゃないかと本気で心配した。 
 鈍行列車とフェリーを乗り継いで帰ってくるまでも、いいトシして怖くて泣きそうだった。やや大袈裟。 
 
 現代人ていうよりも、オレ自身が、いかに死の恐怖から目を逸らせているか悟ったね。 
 死の恐怖に直面したとたん(ちょっと強く肘打っただけだけどさ)、どうしようもなくうろたえてしまう。 
 
 人生観がコペルニクス的転回を果たしましたわ。(て、ずいぶん軽い人生だな) 
 戦争反対。人の命は地球より重い。世界人類が平和でありますように。 
 いつもと違ってマジで。 
 
 
          
 
 
ジョンの答は如何 
 
Ask John 入門篇 
 
 このジョンという、米国でアニメ販売関連の仕事をしているという外人さんの、米人アニヲタからの質問に対する答えには大いに楽しませてもらった。 
 
 アニメについてやけに詳しいのは、まあ当然だとしても(に、しても詳しい)、日本のアニメをANIMEたらしめている、その背景である日本文化に関する説明・分析など、日本人の俺も勉強になったり。 
 
 で、このジョンなら、「萌えとはなにか」という問いにどう答えるのか興味が湧いた。 
 このひと自身、ANIMEに完全に萌えてしまっているので、萌えについて答えることは不可能だが、ガイジンが自分の萌えをどう自覚・認識しているのか、そこに興味がある。 
 
 それにしても、日本びいきのガイジンを見ると、どうしようもなくうれしくなってしまうという敗戦国の人間の性。 
 
 
          
 
 
「差別」がいけない科学的な理由 
 
 なぜ差別をしてはいけないのか? 
 
 これには科学的な理由がきちんとある。 
 単に「戦争に負けたから」とか、「外人(白人)が言ってるから」とか、「金になるから」というだけではない。 
 
 しかしテレビ、新聞等の論調を見るに、ただ「差別はダメ」と強弁するばかりで、どうも信じがたいが「科学的な理由」を理解していないのではないかと思えるフシがある。 
 本心は差別主義者であるのに、体裁だけで差別反対を叫んでいるのではないかと思えるし、実際、そういう建前だけの平等思想に対する一般の反発は強い。 
 まったく自明のことではあるが、ここで改めて差別が排除さるべき科学的根拠を確認しておくべきかもしれない。 
 
 一言でいえば、多様性を確保するため、である。 
 これが差別をしてはいけない、科学的な理由である。 
 
 生命は、多様性の中で淘汰され、環境に適応した種が残り、それを繰り返して進化してきた。 
 多様性がなければ、淘汰も、適応した種が生まれる余地もなく、環境が変化した時点でその種は絶滅する。 
 
 セックス――オスとメスのペアによる生殖も、まさに多様性を推し進めるシステムであるといえる。 
 中学校でも習ったように、有性生殖においては、まず減数分裂の段階で遺伝子がシャッフルされ、オスとメスの異性の組み合わせにより、親の世代とは違う無限ともいえるバリエーションの中から、新しい世代が生まれる。 
 有性生殖の面白い点は、親自身にも、自分の子供の性質をコントロールできない点である。 
 両親が共に背が高くても、子供もまた背が高いとは限らない。 
 親の意思でもコントロールできないからこそ、多様性が確保されるのである。 
 これはセックスというシステムの核となる重要な特性である。(ひるがえって遺伝子操作というものを考えた場合、それままさに有性生殖に対立する、多様性を打ち消す技術である) 
 
 生命が世代を経て生き残るということは、変化すること、であるといえる。 
 なにが生き残るかは、その時点では誰にもわからない。よって多様性は常に最大限確保されるべきである。 
 中生代、あれほどの繁栄を見せた恐竜が絶滅し、小さなネズミのたぐいが将来ヒトとして万物の霊長たる地位につくと、誰が想像しえたか。 
 多様性を失えば、その種は早晩、必ず滅びる。 
 
 話はやや逸れるが、クローン人間というものも、多様性という観点から見れば、その是非は明らかである。 
 クローン技術により、「親」とまったく同じ「子」を作ることなど、まったく無意味であるばかりでなく、それ以上に、種の滅亡につながる生物学的なテロリズムであるといえる。 
 
 さて、これで「差別」が排除さるべき理由が科学的に納得されただろうか。 
 多様性という観点からは、「優れたもの・劣ったもの」という区別は存在しないのである。「優れたもの」も「劣ったもの」も同価値なのである。 
 種々雑多な個体が混在している状態こそが健全なのである。 
 
 以上、まったく単純な理屈から、差別は排除されるべきなのである。 
 
 
 ――と、いう理屈は、実は違う。 
 わざと、進化の一面のみを取り上げ、差別を否定してみせた。 
 
 物事には常にさまざまなレベルというものがあり、多面性がある。 
 種全体というレベルからいえば上記の通りである。差別は排除されなければならない。 
 ただし、個体レベルでは、話は違ってくる。個体、つまり個人のレベル、である。 
 その時々で、短期的には、「優れたもの・劣ったもの」は確実に存在する。それは個人の趣味により、色々ある。 
 
 マスコミ等の「平等思想」が奇妙に写るのは、自分自身はこういった個体レベルの差別を密かに(むしろ、あからさまに)しているくせに、他者には差別をするなと説いている点である。 
 
 そういう「平等主義者」は、自分はすでに「優れたもの」という立場を確保して安心している(それは科学的には、勘違いなのだが)。 
 そして「劣ったもの」に対して一方的に、差別をするな――劣ったもの同士、多様性を確保していろ、と強要する。 
 
 差別を是認しようが、否認しようが、それはまったく各人の自由なのである。 
 差別をする人間がいて、差別をしない人間がいる。そういう多様性が健全なのである。 
 差別の徹底排除という差別思想は、多様性を失わせる危険思想である。 
 
 私ははっきり、差別主義者ではないが、差別容認主義者、である。 
 
---------------------------------------- 
 
 ――て、我ながら呆れるようなキチガイ文献を物してみたが……。 
 こうやって整理(?)してみると、なぜヲタクが差別されるのか(それも、あからさまに)その理由が、科学的に(?)浮き彫りとなったのではないだろうか。 
  
 ヲタクが差別されるのは、なんぼなんでも、その趣味(二次元女)は、ヒト――ホモ・サピエンスという種の多様性の範疇を外れてるだろ――てことだからです。一般に人々にとっては。 
 
 ヲタクの嗜好(あるいは志向)は、本当に人間の多様性の範疇外なのだろうか? 
 
 この大問題は、オレには本当に皆目わからない。 
 もし、「いや、人間の多様性の範囲内だ」という妥当な説明が可能であるなら、是非拝聴したいところ。 
 
 
           (2)
 
 
女は子宮で... 
 
(1から続く...) 
 
 えー、ヒトとケモノが違うのは「三つの長生き」を理解して文明を興したから、なンですが――。 
 
 女ってヤツはですね、「個体」「子孫」「同胞」の三つの長生きのうち「個体の長生き」しか考慮しない生き物なんです、ええ。恐ろしいことにね。 
 
 女ってヤツぁ、自分自身の長生きしか考えてない。 
 でもね、それでいいんです。女はね。 
 なぜなら、子宮を持っているから。 
 
 女の場合は「個体の長生き」イコール「子孫の長生き」でもありますから。 
 ここが男と違う。 
 女は男と違って、自分のことさえ考えていれば、それが子孫の長生きにつながる。 
 ただし、そのせいで、ケモノから進化したヒトが獲得した、「子孫の長生き」という知恵や、「同胞の長生き」という文明が理解できない。男のようにはね。 
 
 そういう意味でね、女ってヤツぁケモノと一緒なンです、ええ。これは、たとえ話ですよ? 念のためいっときますがね。(笑) 
 
 ですからね、男女平等だの、雇用機会なんとかだのいって、男が築いた文明の、仕事の現場に女がシャシャリ出てくるとタイヘンなんです。 
 
 女ってのは、男の4倍、自分勝手だから。 
 有史以前から、女は少なくとも子供を3人くらい生んできていましたからね。自分プラス3人分で合計4人分、自分勝手なんです、ええ。 
 なにごとにも向き、不向きってものがあるのに女は、郷に入ってもアタシが掟、てなもんですから。これぁ、男は太刀打ちできっこない。 
 
 でもま、それでいいんです。そういう女を守るのが男の文明の役割ですから。 
 
 ただですね――最近はまた、ずいぶん少子化が進んで、合計特殊出生率――つまり、ひとりの女が一生のうちに生む子供の数が、東京なんかじゃ1を割ってるってンでしょう? 
 
 アタシなんかは、だったら自分勝手も、その分抑えろと――は、言えませんね、はい。 
 
 
           (1)
 
 
江戸っ子の―― 
 
 生まれぞこない、銭をため――なんて古い川柳がありますが――。 
 
 あー、最近の世相――ですがね。 
 物騒な事件やら、気味の悪い犯罪やら、不愉快なことやらが、どうも年々増えているような具合ですが。 
 んー、世相というやつが、どうしてこんな風にスサんでいるのか、その理由がわかりますかね? 
 
 ひと言でいえば、ヤボ――ってことなんです、ええ。 
 野暮。粋ってことが分かってない。 
 どうにも鬱陶しい事件が増えたのは要するに野暮天が増えたってことなンです、ええ。 
 どんな場合にも軽やかに洒落のめす――という、江戸っ子の持っていた余裕がない。 
 
 ――なんてぇことをいっても、野暮な人間には通じませんから(笑)、もう少し科学的に言いますとね――。 
 過剰防衛なんです、ええ。自己のね。過剰自己防衛。 
 競走馬が自分の影に驚いて斜行するようなものでね。それで本命馬のジョッキーが落馬して死んでしまった、みたいなね。――と、かえって分かりづらいね。(笑) 
 
 人間ってのはね、生きるために生きてるんです。長生きするためにね。当たり前ですけどね。 
 ただし、この「長生き」には三つの意味があるんです。わかりますか? 
 野暮ってのはね、このうち、ひとつしか知らない連中なんです。わかりますかね? 
 
 長生きのひとつめは「個体の長生き」。個体――つまり、自分。 
 これぁ、まあ当然のことですが、ただ、長生きってことは、これだけじゃない。 
 人間――に限らず、生命ってやつぁ、自分の誕生日に突然ぽっと、饅頭でも作るみたいに出来たわけじゃありませんから。 
 親から生まれて、成人して今度は自分が子供を作って、歳をとって死んでと――こういうことを35億年だか40億年前からずーっと続けてきたわけでね。 
 個体だけが長生きしたって意味がないんです。子供や孫のことを考えないといけない。 
 
 そこで、長生きの二つめは、つまり「子孫の長生き」。 
 これは簡単な話、ちゃんと躾をして、世間様に迷惑をかけないようにしっかり育てる、とそういうことですよ。人様に後ろ指さされるようじゃ、家系ってものは続かない。 
 世間体なんて、いまどきはなかなかいいませんがねぇ……。 
 自分さえよければいい。「迷惑かけなければ、なにしたっていいでしょ!」ってなもんです。 
 自由ってやつ。馬鹿な連中が、カサにかかって自由を振り回す。 
 自分さえよければいい。個体の長生きしか考えない。 
 馬鹿な話ですよ。長生きするってことは、ちゃぁんと子孫の長生きを考えなけりゃぁ、無意味なんです。 
 
 さて、長生きの最後のひとつ。これは「同胞の長生き」ってことです。 
 自分の直系の子孫だけでなく、地域の人間、同郷の人間、同じ国に生きる人間の長生き――これも考えないといけない。 
 これは、同胞の人間も、自分と遺伝子の一部を共通していますから、同胞の人間の長生きは間接的に自分が――自分の遺伝子が、長生きするってわけです。 
 
 いいですか、ここが、ヒトとケモノの違いなんです。 
 人間は、他人の長生きが自分の長生きにつながるという知恵を持っている。これがつまり文明なんです。 
 
 原始時代。ロクに獲物も獲れないダメな男が、そこらに転がっている石をいじり回しているうちに石器というものを発明した。 
 石を割ったり、磨いたりと、獲物を捕らえることとはまったく関係がない、と思われた遊びのような技術が、間接的に、しかし劇的に、獲物を捕らえる効率をアップさせた。 
 
 これが文明ってやつですよ。ひとりの知恵が、同胞の人間すべての長生きにつながる。 
 原始時代までは、運動神経のいい男ばかりがモテたわけですが、文明というやつが興って、知恵の回るヤツがモテるようになった。 
 
 と、話がそれてしまいましたが――、自分以外の同胞の長生きもまた、同じように、自分自身の長生きにつながるンです。 
 だから、かつて特攻を命じられた若者は死ねたンですよ。あれは無駄死にじゃないンです。 
 自分が死ぬことで、同胞の命を救い、間接的に、自分の生を得たんです、立派に。 
 
 最近の世相というやつを見ていますと、まあ……どいつもこいつも、個体の長生きしか考えていないように見えるンですねえ。 
 しかしですね、そういう馬鹿なヤツは、早晩、死んでしまうんですよ。 
 
 いや、違うンですね。 
 馬鹿なヤツは死んで欲しい。死ぬべきなンですが、どうもそうじゃなさそうだ……と、みんなが思いはじめてきた。それが、このところの荒れた世相の原因でしょう? 
 だったら、こっちも好き勝手やらなきゃ、どんな汚い手を使ってでもいい目を見なきゃソンだと。正直者が馬鹿を見ると――。 
 
 イヤな世の中ですよ。 
 だったらどうすればいいか? 
 それぁまあ簡単な話で、そういう連中をこry 
 
 
          
 
 
写真と現実と理屈 
 
(朗読:古屋和雄アナ) 
 
 趣味――というほどのものでもないが、手慰みに写真を物する。 
 
 あらたまって撮影に出かけるようなこともしないが、近所を出歩く折などにも大抵カメラを持って家を出る。 
 ふと目にとまった物や光景を、そのカメラで、ただ見たまま、写し取る。 
 なにがしか作品を物にしようという気も技量もないので、カメラはごく安価な、小さなデジタルカメラである。 
 
 ただし、焦点距離――にはこだわりがある。 
 カメラのレンズには焦点距離という性質がある。これは視野の広さに相当する。 
 焦点距離が長いほど、カメラの視野は狭くなり、短いほど広くなる。 
 人間の肉眼の視野に相当する焦点距離は一般に、35mm版のカメラで50mmとも35mmとも言われるが、自分の目に違和感なく感じられるのは、やや広く28mmあたりのようである。 
 よって撮影はもっぱら28mmの焦点距離ということになる。 
 
 もっとも――言うまでもなく、人間の目というものは極めて自由自在な性能を有する。 
 撮影した写真を、肉眼が捉えた光景を思い返しながら眺めてみれば、その当たり前のことを改めて強く感じさせられる。 
 
 人間の目は、カメラにおける露出を適宜調節し、自由自在にズームを駆使し、なおかつ余計な部分は切り取って、うまい具合に構図を按排する。 
 ただ漫然と眺めているようでも、人間の目は常に休むことなく、自分の見たいと思うように、網膜に映った光景を「校正」している。 
 ただ見たまま――と冒頭で書いたが、このように自在な人間の目と同じように写真を写すことは到底叶わぬというものである。 
 
 写真を撮ってみれば、すぐにそのことを思い知らされる。 
 そこで工夫をすることになる。カメラのレンズに都合のいい光景――というものを探して写真を撮るのである。 
 ここで、カメラを使うたれもが感ずることであろうが、ひとつのジレンマが生まれる。 
 風景を眺め楽しむのに、肉眼を優先するか、それともカメラを優先させるか――カメラを携行して悩ましいのはこの点である。 
 
 理屈――というものもちょうど、こんな写真のようなものではないだろうか。 
 この世の有様を、ありのまま理屈に押し込めようとしても、それは理論としてはどうも不恰好なものとならざるをえない。 
 理論として洗練させるには、見栄えの悪い部分をばっさりと断ち切る必要がある。 
 そうして出来上がった理論はしかし、外見は良くなったかもしれないが、現実とはかけ離れたものとなるであろう。 
 だが往々にして、このような「写りのいい理屈」というものが一般に浸透し、なにごとか正しいものとして信じられるようになるのである。 
 
 写真としてうまく写し取ることのできない、カメラの視野の外側に追いやられてしまい勝ちな光景というものは、やはり自分自身の目で直に見るしかないようである。 
 
 
          
 
 
歴史の重み 
 
 阿川弘之著「井上成美」読了。 
 「山本五十六」「米内光政」に続く海軍大将三部作を、これでようやく読み終えた。 
 太平洋戦争は対米戦争ではなく、対陸軍、対世論の戦いであったというべきかもしらん。 
 
 歴史、面白い。 
 中学、高校時代を通じて、もっとも嫌いな学科が歴史だったが(年代暗記のばかばかしさ!)、ここ何年か急に興味がわいて歴史づいてる。 
 わかりやすいところで、壬申の乱、明治維新、大東亜戦争あたりの本などを読んでいるが実に面白い。 
 学校で習った、あのつまらない「歴史」はなんだったのか。 
 
 で、ひとつわかったのは、いつの時代も世論ってものが厄介だってこと。 
 いまのところ(まだ)、2ちゃんには世論のような厄介な性質は薄い。 
 
 
          
 
 
超ウルトラ... 
 
 天皇の男系継承を死守するグッド・アイデアを思いついた。 
 
 愛子内親王は実は、性同一性障害だった(ということにする)。 
 つまり、ホントは男。 
 
 で、同じく性同一性障害の男と結婚する。 
 つまり、男だけど、ホントは女。 
 
 物理的にはともかく、これで男系継承の理念(?)は守られるってぇことで――んな馬鹿な。 
 
 
          
 
 
壬申の乱、の・ようなもの 
 
 記者会見でおおっぴらに兄夫婦に苦言を呈した秋篠宮の発言は全面的に正しい。 
 
 秋篠宮の敢えての発言は、単に雅子妃の「人格否定」問題ひとつに対するものではなく、もっと踏み込んで、(皇室典範を改正しての)女帝など決して認めさせないという決意表明でもあるのだと推察される。 
 
 愛子内親王が天皇になることはともかく、真の問題はその後、「愛子天皇」の旦那だ。 
 この旦那の家系は濡れ手に粟で、神話につながる天皇家の地位――平安時代の藤原氏以上(?)の地位を手に入れるも同然だ。 
 これは歴史的な大問題だ。 
 そんな重い地位を、単にほんの60年前の敗戦による似非リベラル世相の現在、棚ボタ式に容認するなど、1400年以上守られてきた天皇制をぶち壊すにも等しい愚行だ。 
 
 いったいどんな魑魅魍魎が、その地位を狙って日本中から群がってくることか。 
 後醍醐天皇の末裔だの、密かに続いていた南朝の正統だの、誰それの御落胤だの、卑弥呼の生まれ変わりだの、蘇我氏の直系だの、蘇った平将門だの――。 
 世代を経るごとにそんな「ネオ天皇家」が生まれた日には、南北朝どころか、「倭国乱、相攻伐歴年」の邪馬台国時代の再来だ。(そうなったら女帝でこそ丸く治まるか?(笑)) 
 
 女帝容認は日本にとって、渡来人(弥生人)による縄文・日本の侵略(?)や、大国主命の国譲りにも匹敵する大事件。 
 足利義満や織田信長ですら実現できなかった、とんでもない大革命だ。 
 
 個人的には、どちらかといえば秋篠宮よりも皇太子のほうに好感を持っているのだが、今回の発言は尤も至極。大々正論。 
 どんなウルトラCを使ってでも(離縁再婚,側室,人工授精,クローン等々)後継男子を作らなければ、女帝容認決定時にクーデターが起こるは必定。 
 もちろん俺も楠木正成の怨霊と共に蹶起する。 
 今回も南朝は分が悪いが――って、どっちが南朝だろか。 
 
 
 |