▲侘 寂 萌 インデックス



子安神社@畑町 ケン坊が

 健忘症―― (by 秋もっちゃん)

 て、まさにその通りのことやらかしたー!

 登山靴を忘れたのに軽井沢で気づいて、いま戻ってきたー! ぎゃー!

 これから松本まで、下道で行ったら夜中になっちまうー!
 往復の余計なガス代と高速代考えたら、軽井沢まで行ってたんなら、松本の山道具屋で安いトレッキングシューズでも買っときゃよかったー!
 ……と、渋滞につかまりながら気づいたけど後の祭り。

 あー、また車で松本まで行って、夜道を安房峠越えるなんて、考えただけでマンドクセー。
 二年間我慢して、ようやく行ける北アルプスだってのに、出発前にすでにガックリ疲れたー。
 考えに考え抜いた綿密な計画が、こんなアホなことで根底からくつがえるとは!
 このまま布団で眠りてー。
 でも、いかないとなー。


(6時間後...)

 うぎゃー!
 今度は靴のインソール忘れたーっ!!!


 ……なんてことに今度はなりませんように。



香取神宮 ヘルシー

 先日のこと。
 懇意にしている野生のヒグマが、北海道の山から出てきましてね。
 それじゃあってんで、美味いものでも食おうと、近所のスーパーに買い出しに行ったんです。

 色々と珍しいものが売っている広ーい売場を見たとたん、奴さんの目の色が変わりましてね。
 それぞれ好きなものを買って、家に戻ってきたんです。

 で、あたしがお勝手で鍋の用意かなんかしていたら、座敷のほうで早速、買い込んだものをツマミに一杯やりはじめていた奴さんが、突然大声を出すんです。

「こ、こりゃあ一体、どういうわけでいっ!」

 ただ事じゃない様子に、あたしは包丁置いて、すっ飛んでいきましたよ。

「そんなにびっくりした声を出して、どうしたんだい、熊さん」
「どっ、どうしたもこうしたもあるかい! これぁなんだい、八っつぁん!」

 ――て、これが書きたかっただけなのだが。

 いや、熊さんが驚いたのは「ヘルシー」ということ。
 パッケージでヘルシーと謳っている美味しそうなものを、「こいつぁいい」と、たくさん買ってきた熊さん。
 熊さんはもちろん、ヘルシーの意味を「栄養たっぷり、高カロリー」だと理解したのですが、よく見れば「糖質50%オフ、低カロリーでヘルシー」とか書いてあるじゃぁありませんか。
 これじゃあ熊さんが怒るのも道理。

 でも現代の常識では、「ヘルシー=低カロリー」。おかしなことに。
 現代の正しいということが、いかに正しくないか、という寓意小話。

 我々は歴史の授業などで、江戸時代の年貢の取り立てだとか、中世ヨーロッパの魔女狩りのことを習うと、昔はなんて酷い時代だったのだと思う。そして、現代に生まれてきてよかったとしみじみ思う。

 現代の異常性に気づかないまま。
 平和とか、平等とか、リサイクルとか、市場経済とかね。
 「21世紀の連中は馬鹿だなあ。あんな酷い時代に生まれなくてよかった」と、未来の小学生に笑われる日が、必ず来るんですよね。

 ていうか、6日分の食料の重さに、とても担ぎきれねえと途方に暮れているおれ。
 なにがヘルシーだ!
 もっと不健康なもの――高カロリーのもんをよこせ!



成田山新勝寺 大本堂 北アへ。

 オレオ買ってキタ━━━(゚∀゚)━━━!!!!
 北へ、ぢゃなくて、北アへいくので。
 北アルプス。日本最後(?)の秘境、錦秋の雲ノ平。あゝ――。
 1年ぶりの幕営山行き。

 オレオが不味いのは分かっちゃいるが(いや、実はそう嫌いでもない)、カロリー、携行性、値段を総合すると行動食ベスト1ともいえるので。まあ、カロリーの半分は油なので、行動食とはいいつつも、行動の役には立たないが。
 でも、少々不味いのも、満腹感につながって逆にメリットだったり。あんまり美味しいと、ますます餓えてしまう。
 でも当然、カントリーマアムとキットカットも持っていく。オレオだけじゃ気が狂うので。

 地図でルートをもう一度確認しながら、登山計画書作って、朝晩の食料と、昼間の行動食をまとめていく。
 牛丼、中華丼、カレー、今回はどのレトルトを持っていこうかと迷ったり、無洗米を一合ずつビニール袋に小分けしたり――じつは、この段階がいちばん楽しかったり。
 実際、山に行くよりもw



成田山参道 オサレは無表情な寒々しい町並み

 ――て、「月は無慈悲な夜の女王」のモジリとか全然わかんねー。

 このあいだ久しぶりに、ひとっ走り成田山まで行ってきた。
 やっぱり成田山はイイ感じ。

 まず、参道の雰囲気がよい。
 細い坂道の両側に土産物屋が並び、その下り坂の先、やや小高くなった緑の丘の上に、成田山の三重塔が見える。
 まるでオープンセットのような、年代不明の世界にタイムスリップしたかのような、非日常的な風景が楽しい。

成田山新勝寺 光明堂と平和大塔とフランス人の姉さん  平日の境内は、もう夕方近かったせいか人も少なくて、やけに外人さんの姿が目立った。
 へそ丸出しのフランス人の姉さん方が、日本人の子ギャルみたいに、ケータイのカメラで境内のあちこちをパシャパシャ。でも、お腹がポッコリ出てて、いまひとつ萌えずorz

 お寺や神社の境内の独自世界は、シンプル、清潔で、とても心地よい。
 まあ、宗教も商売なわけですが――。
 宗教施設というものは、非日常的・異質な空間を創出して、「どうだ、このやろう!」とハッタリかまして、信者・参詣者の財布のヒモをゆるめようという装置(笑)なわけですが、伝統ってのは大したもので、その長年の工夫は確かに効果を発揮していて、無宗教という宗教の熱心な信者である日本人のオレは、そこはかとなく神聖な雰囲気にエリを正さずにはおれなかった。Tシャツだったけど。

千葉ニュータウン  さて――。
 成田山とは別の意味で、最近の住宅街というものも非現実的だ。

 子供のころに感じていたことだが、外人ってのは無表情だな、とオレはよく思ったものだった。

 しかし最近は日本人も無表情である。
 最近というか、テレビで無表情な人間が目立ちはじめたのは、ここ5年10年くらいだろうか。メガネのフレームも細っこいのが流行りだ。
 ファッションとかサブカル系のオサレな世界では、ずっと昔っから無表情。

 マンガやアニメのキャラクターの無表情化も、かなり進んできている。これにはどうも違和感があるが、これはオタク文化のメジャー化とも関係しているのだろう。
 で、エロゲのキャラの、過剰な目の大きさ、タレ目具合というものは、この無表情傾向への、精一杯の抵抗なわけだ。無表情な社会におけるマイノリティであるオタクの。

八千代緑が丘の住宅街  幕張の打瀬地区をはじめとして、千葉県の北西部には、雑誌の「住みたい街アンケート」などでも人気の新しい住宅街がたくさんある。

 散歩がてら、そのほとんどを見て回ったが、そういう人気エリアの住宅街というものは、ことごとく無表情だ。
 こういうところに住んでいる高収入な市民の人たちというのは、無表情が好きということなのだろう。「冬ソナ」で涙を流す一方で。

(これは「無表情ではないこと」にある種の恐怖を感じているせいであろう。そういう「無表情ではない=生命感」というものに、自分に対する殺意を感じる。病気、ウイルス、放射能のような「見えない恐怖」、つまり「死」というものを。――とかなんとか、適当なこと言ってみたりなんかしちゃったりしてえ〜©広川太一郎)

 個人的には、はっきり嫌いだが、まあ無表情なのはいいとしても、チープなのは頂けない。
 住みたい街アンケート第6位! とかいっても、チョトチープだったりするんだよね。
 オレみたいな半端者じゃない、真っ当に働いている人たちが、せっかく手に入れた夢のマイホームを腐すつもりはないが。

 特別ゲームに興味があったわけじゃなくて、本当は建築の勉強がしたかったので、住宅デザインにはいまでも興味あるんですよ。
 日本の一般的な住宅デザインはお粗末と言わざるをえない。一戸建、マンションともに、新しい、安手のものが特にそうだ。

 構造改革が必要なのは、こういう部分だ。
 古い、静かに死につつある業界から、まだまだ人材の薄い、本当に必要な業界への転換が必要である。

 なので、やっぱり純ちゃんガンガレー。
 いや、民主党が政権取っても「無表情な社会」だと思うんで。「市民」だから。



夕焼け@新川・八千代橋 夕焼け

 今日は夕焼けがとても綺麗でした。
 いや、やや正しくないか。

 今日は綺麗な夕焼けを、ちょうど見ることができました。
 夕焼け小焼けで日が暮れて、と歌いながら帰りました。

 家に戻って、ネットサーヒンとかして人生を無駄にしてたら、某所から、3D世界のリアルな問題を突きつけられてしまいました。

 人類の未来とか妄想するのは好きなのに、人並みで真っ当なリアル世界の問題だと、とたんにだらしなくなるおれ。
 狭義のヲタではないが、明らかに本質的にオタクなので。
 てゆうかDNAレベルで変人なので。



富士山 下山道(河口湖口/須走口) 「ファンの声」

 このところワーグナーづいてた。
 ヘッドホンで神々の黄昏を聴きながら仕事したり、ウィンド・シンセでマイスタージンガーを吹いたり。

 ワーグナーは巨大だ。
 作品が巨大なのは言うまでもないが、その生涯を眺めても、借金の額も巨大なら、その借金の堂々たる踏み倒しっぷりも見事だし、後先考えずに他人の女房に手を出す天衣無縫な生き様も天才ならでは。

 さて――。仮にワーグナーが21世紀の現代に生きていたとして、指輪四部作のような気狂いじみた巨大な芸術を物したろうか?
 あるいは、ベートーベンは第九のような大傑作を創り得たろうか?

 否。

 21世紀の今日でも、ワーグナーは間違いなく一流ミュージシャンとして大ヒットを飛ばしていただろう。
 だが、「巨大なもの」は創りえなかったに違いない。
 それは現代の「ファンの声」がそんなものを求めないからだ。
 ベートーベンに関して言えば、ミュージシャンになること(とはつまり生計を立てるということ)すらかなわなかったのではないか。
 ベートーベンのような、重っ苦しいものを求める「ファンの声」など、ほとんどない。
 「冬ソナ」だとか「セカチュー」だとか、「ファンの声」の注文は大体そんなところだ。

 ワーグナーやベートーベンが巨大な作品を創り得たのは「大多数のファンの声」などではなく、限られた極一部の階層である、貴族やブルジョアの声に支えられた、その結果である。

 プロ野球の合併問題では、「大多数のファンの声が――」といった物言いがよくなされる。
 その「ファンの声」が絶対的に正しい、という前提で論が進められる。錦の御旗を振るがごとくに。
 大多数だろうがなんだろうが「ファンの声」なんてものは、ごくごく限られた一面的なものに過ぎない。
 低俗とか、軽薄とか、そういう問題とはまったく別に。
 別段、間違っているとも言い切れないが、特別、正しくもない。

 マスコミというものが、やたらと「特別正しくもない意見」を、さも唯一絶対の正解のように振りかざすのは「金になるから」だと、以前から私は半ば好意的に批判してきた。
 彼らもそれほど愚かなわけではなく、単に保身のために、心にもない主張をしているだけなのだと。「大人の事情」なのだと。
 しかし最近は、どうやら本当に分かっていない(自覚していない)らしい――と思うようになった。嘘。最初から。

 「ファンの声」は正しくない。間違ってもいないが。

 話は変わって、エロゲ屋ケンちゃんたるオレの予定。
 今後100年、1000年、人間はどういう道を選ぶべきなのか――という科学的な問題をベースにした娯楽SFをこれから書く。
 ゲームになるかどうかは「ファンの声」次第(笑)





▲侘 寂 萌 インデックス