世界が終わる夜に 於:US作戦前夜
彼女は星を観ていた。
地上の光の多くが消え失せたため、夜空は星の光が渦巻いていた。
それまでの彼女にとって天体とは、あくまでも作戦行動中に自分の位置を知るためのツールでしかなかった。それ自体を愛でるなどということは、彼女の行動様式にはなかった。
しかし今、彼女は星を眺めている。
それはあの時からだ。
※
「ここは……」
不意に、彼女の意識が戻った。
「わたしは確か、3号機の中で……」
ボンヤリと視界が戻ってくる。密閉された棺のようなカプセルの中に自分がいることを、彼女は確認する。
体の自由が利かないと思ったら、両手足は拘束されていた。首にもなにかが括りついているような違和感を感じる。そして左目に強烈な異物感を覚える。身体にはなにも纏っていない。
「話せますか?」
まだ少女のあどけなさが残る女性が、カプセルに嵌め込まれたガラスの向こうから、彼女の顔を覗きこんでいた。彼女は口を開き、声を出そうとする。
「ここは……どこ?」
「自分の名前はわかりますか?」
彼女の問いには答えずに、ガラスの向こうの女性はアスカに問う。
「わたしは、式波・アスカ・ラングレー」
なにを当たり前な、と言わんばかりに、彼女は答えた。
すると、ガラスに一人の少女の画像が映し出される。
「これは誰ですか?」
その瞬間、彼女は自分の状況を理解した。目の前の女性は、「わたし」が「アスカ」であることを確認しているのだ。
彼女はその女性が満足するように、言葉に確信を乗せて答える。
「これはわたし。式波・アスカ・ラングレー」
彼女は、その女性の表情が緩んだことを確認する。カプセルを覗きこむようにしていたその女性は、背中を伸ばして小さく頷く。
「自己認識も大丈夫みたいですね。少し待ってください。艦長と副長を呼びますから」
程なくして、二人の女性が彼女の前に姿を現した。二人のことは、彼女は良く知っていた。しかしその風貌は、アスカの記憶とは違っていた。
彼女――式波・アスカ・ラングレーのかつての保護者でもあった、艦長と呼ばれた葛城ミサトは、時間を掛けて丁寧に、事の顛末をアスカに伝えた。そうしてアスカは、自分の身に起こったことを知る。世界の有様を知る。
アスカとて、その状況を飲み込むことは容易ではなかった。
まずはアスカの身の上に起こったことを。
エヴァ3号機の起動実験中に、アスカが第9使徒に蝕まれたこと。
アスカの身体は、使徒と同一化してしまったこと。
アスカの中の使徒を封印するために、封印柱が左目に埋め込まれていること。
アスカの首に巻きついている、人類への保険としてのDSSチョーカーのこと。
次にこの世界に起こったこと。
碇シンジが綾波レイを救うために、結果としてニア・サードインパクトを起こしてしまったこと。
次に起こったサードインパクトにより、地上の殆どがコア化されてしまったこと。
同時に人類の殆どは、インフィニティ化してしまったこと。
ミサトらが加持の遺志を継ぎ、WILLEを決起させたこと。
WILLEが体制を整え、2号機を復活させるまでに八年を要したこと。
そうしてアスカは、2号機パイロットとして目覚めさせられたことを知る。左目に封印柱、首にDSSチョーカーを刻まれて。人々の畏怖と共に。
流石のアスカもその情報の渦に溺れていた。完全に処理容量を超えていた。いや、頭では理解できていた。しかし心がついて来なかった。そしてミサトは、大切なことをひとつ、はぐらかしていた。
アスカはそれを問う。
「ミサト、バカシンジは……」
ミサトは目を伏せ、言葉を濁す。
「シンジ君は……」
逡巡の後、ミサトは空を指差した。
「シンジ君と初号機は、宇宙にいるわ」
「初号機が……宇宙にいる?」
言葉に詰まっているミサトに代わり、副長である赤木リツコは、アスカの言葉にいつものように淡々と告げた。
「ええ、上空約四百キロメートル。衛星軌道を周回しているわ」
「なんで……」
「NERVとSEELEの利害が一致した、と言うところかしら」
まだ状況をうまく呑み込めないアスカに、リツコは答えた。
「バカシンジは……生きているの?」
そのアスカの問いは、艦長と副長の表情を僅かに曇らせる。
そこから切り出したのは、やはりリツコだった。
「初号機パイロットと零号機パイロットの生死は不明。今はなにもわからないわ」
「悔しいけど、今のわたしたちには手の出しようがない。でも必ず奪還する」
それはミサトの想い、そして決意。
※
それからだ。式波・アスカ・ラングレーが星を観るようになったのは。
目覚めてからの六年間。それはアスカにとって短くて長い六年間だった。
なにもできず、八年間も眠り続けていた自分への憤り。
変わり果てた世界への悲しみと、そこで自分が果たすべきものへの渇望。
世界の必要悪として自分に浴びせられる視線には、すぐに慣れてしまった。
六年間は瞬く間に過ぎたが、その六年間はアスカの生き様を変えるには、十分な時間だった。
「いよいよ明日、か」
時刻はあと十数分で日付を跨ぐ頃。打上げ基地内にある宿舎の屋上で、アスカは寝転んで星を観ていた。
「ひーめー。こんなトコで寝ていると風邪ひくよー?」
能天気な声が頭上から降ってくる。
「アンタ、それ嫌味? わたしが風邪なんかひくわけないじゃない」
『使徒なんだから』
アスカは出掛かったその言葉を飲み込む。
「なにをおっしゃいます、お姫さま。わたしゃ姫のことが心配で心配で」
アスカの視界に、その能天気な声の主――真希波・マリ・イラストリアスの顔が入ってきた。その顔はいつものように軽い笑みを湛え、その表情の裏側は決して読めなかった。
アスカはハァ、と一息つく。
「まあいいわ。それよりいい加減その“姫”ってのやめてくれない?」
「それは譲れないにゃー。姫はいつまでも私の姫だからね」
マリはアスカの脇にしゃがみ込み、その顔を上から見つめる。髪が伸びたな、とマリは思った。
アスカは想う。こいつはなにを考えているのだろう。アスカにとってもマリは、未だに正体不明、理解不能だった。唯一確かなのは、マリに対する信頼。彼女だけはアスカを裏切らないというそれ。アスカにとってマリは、それだけで十分な存在だった。逆に言えば、それ以外は大した意味を持っていなかった。
アスカは自分を覗きこむマリの姿を認めた。アスカと同じように、マリもプラグスーツ姿だった。
「どうでもいいけど、アンタもこんな時間までプラグスーツなのね。バカなことしてないで脱げばいいのに。わたしへの気遣いなんか要らないわ」
棘交じりのアスカの言葉にも動じず、マリはニッと笑う。
「んー、私は姫とお揃いが嬉しいんだにゃ」
マリは膝を抱えてアスカを覗きこんだまま、身体を前後にユラユラと揺らした。
マリに視線を合わせないアスカ。マリは何やら楽しそうな表情をする。そのまま身をよじって寝ころんだままのアスカと並んで腰を下ろし、アスカに倣うように星空を見上げる。
「いよいよ明日はワンコくんとご対面だにゃ」
アスカに話しかけるでもなく、マリは星空に向かって言った。
「どう? ドキドキする?」
今度は明らかに、アスカに向かっての問いだ。アスカはフン、と鼻を鳴らす。
「別に。バカシンジのことなんて、今更どうでもいいわ」
アスカはさも当然のこととして、機械的に口に出す。
「わたしたちに必要なのは初号機と、フォースを起こさせないための初号機パイロットの措置でしょ」
そう言い放ったアスカだが、しかしその実、アスカは自分の心を切り離すことはできていなかった。アスカは想像せずにいられなかった。それはこの作戦が決まってから今まで、止むことなくずっと。
あのバカに再会したら、自分はどうするだろうか。
綾波レイを救うためにニアサーまで起こしたあのバカを見て、自分はどうなるだろうか。
怒るだろうか。憐れむだろうか。バカにするだろうか。もしかしたら喜べるだろうか。
そしてあのバカはわたしをみて、どんな顔をするだろうか。
あのバカは、綾波レイがもういないと聞いて、どうなってしまうのだろうか。
この世界の有様と成り立ちを知って、あのバカは正気でいられるのだろうか。
背中がゾクリとした。
マリは、アスカの胸中を見透かしたかのように言う。
「ワンコくんは、姫に逢ったらどんな顔をするのかにゃ?」
その問いは、アスカの心を突き刺す。
「……知らない。興味ない」
努めて冷静に、アスカは言葉を吐き出した。
「ほほー、大人のお姫さまはお子様ワンコくんにはもう興味が無い、と」
マリの言葉はいつものように調子がいい。その調子の良さは卑怯だ、とアスカは思う。だからアスカはこう答える。
「あんなバカに構っている暇はないのよ、わたしには」
その言葉にも、マリの表情は変わらない。アスカはやはり、マリの真意が掴めずにいた。ただ単に茶化したいのか、それ以外の意図があるのか。
マリの声色が、少し変わる。
「ワンコくんはさ」
そこまで言って、マリは一呼吸置いた。
「ワンコくんは、なにも知らないんだよね。ワンコくんがなにをしでかしたのか。この世界がどうなっているのか。そして姫がどう想っているのか」
アスカはチラリとマリの様子を伺う。マリはいつの間にかアスカの方を向き、聖母像のような慈悲に満ちた表情をアスカに向けていた。
「姫、頑張んなよ」
アスカは戸惑う。やはりコイツは掴めない。卑怯者だ。だがアスカのことを誰よりも考えているだろうことも、アスカは解していた。
マリの言葉にアスカは想う。自分が演じる役がそこにあるのかと。
だからアスカもこう応えた。
「わたしが頑張れることなんて、なにもないわよ」
マリは笑ったまま、なにも応えない。
マリはまた、空を見上げた。ふたりは暫し、なにも言わずに星空を眺めた。昼間は熱風のような風が吹くが、夜半の風は爽やかで心地が良い。毎晩暇を持て余しているアスカは、こうして夜空を眺めることが日課のようになっていた。
マリが、息を吸い込む音が聞こえた。
アスカはチラリと、右目の動きだけでマリを見る。
「姫は怖くないの?」
「怖い? なにが?」
マリの問いに、アスカは空を見たままに応える。マリはまるで、他人事のように、さも面白いことのようにポンポンと言った。
「だって、いかにもセコハンのロケットだにょ? それにエヴァを括り付けて打ち上げて、衛星軌道から初号機を強奪して大気圏に再突入。そんな作戦を今のWILLEでマトモにできるのかにゃ?」
マリは星空を見上げたままに、ゴシップ記事を宣う野次馬のような口調で言う。
「物資もない、人材も乏しい、時間もない。ないない尽くしのWILLEだにゃん」
淀みなくマリは続ける。
「ロケットが爆発するかもよ? 運よくロケットが飛んでも高度が足りなくてそのまま堕ちるかも。いくらエヴァでも、ロケットが爆発したり、大気圏突入に失敗したりしたら、あっけなくジ・エンドだにゃ」
マリの台詞に、アスカは口角を上げ、不敵に笑う。
「ふん、怖いなんて感情はリリンと一緒に捨てたわ。怖いのは作戦が失敗することだけよ」
マリは少しだけ頭を捻り、アスカの方を向く。
「さすが、姫は強いにゃあ」
柔らかく微笑むマリに対し、アスカはなにも応えない。マリはまた、暫し無言になる。
アスカは、衛星軌道への打上げのため、風防を被せられ、背中と足下にロケットを装着された2号機の姿を脳裏に浮かべた。その機体はアスカの相棒でも分身でもない。アスカそのものだった。その機体に乗ることと生きることは同義だった。アスカが処分もされずに生かされてきたのは、2号機があったからだ。2号機が不動だった八年間においてアスカが封印されたままであったことは、世界におけるアスカ自身の存在理由を、更に確かなものにした。
アスカは自嘲する。
『いつどうなるかわからないイレギュラーな危険分子は、エヴァに乗れなくちゃ生かされることもないのよ』
マリは夜空を見上げてアスカに問い掛ける。
「姫はなんのために戦っているのかにゃ?」
「愚問ね。世界を救うためよ」
アスカは即答する。
「そのために姫のすべてを犠牲にするのかにゃ?」
「わたしにはそれしかないだけよ」
それはアスカの真意ではある。左目の眼帯の下のものと、首を緩やかに締付けるもの。それらはアスカの呪縛であり、同時にアスカが生きるための証でもあった。
そのアスカの心の内を知ってか知らずか、マリはまた、アスカの顔をふわっと見る。
「そっか、私のお姫さまはやっぱり強いにゃあ」
マリは、表情を変えないアスカに眼差しを向けて、包み込むような笑顔を見せた。
かつて同居していた少年から同じ質問を受けたことを、アスカは想い出した。
あれは三人のチルドレンによる、初めての共同作戦の日の晩のことだった。
「あの、アスカは、どうしてエヴァに」
その少年はそう問うた。
その時のアスカにとって、その質問自体が理解できなかった。アスカにとってその答えは必然だった。
「自分のためよ、エヴァに乗るのは」
それ以外に戦う目的などありはしない。アスカはそう思っていた。しかし、その少年は違った。
「アンタはどうなのよ」とのアスカの問いに、その少年はこう答えたのだ。
「よく、わからない。父さんに、褒めて欲しいのかな。今日、初めて褒めてくれたんだ。初めて褒められるのが嬉しいと思った。父さん、もう僕のこと認めてくれたのかな。ミサトさんの言ってた通りかもしれない」
少年が紡いだその想い。アスカはその時なにを想ったのか。
「アンタって、本当にバカね」
少年の言葉は、アスカの心になにかを刻んだ。その時のアスカの表情は、それを物語っていた。
アスカは、自分の生い立ちを振り返る。
『人に嫌われても、悪口を言われても、エヴァに乗れれば関係ない』
『ほかにわたしの価値なんてないもの』
『誰も必要としない、強い心を持つの』
それがアスカを形作っていた。アスカにとって他人とは、わかりやすく敵味方と言った利害だけだった。その殆どが敵だった。
アスカはまた、その少年に初めて逢った時のことを想い出す。
『冴えないヤツ。こんなヤツが初号機パイロット?』
憎しみさえ覚えた。2号機パイロットとしての自分の存在意義を消してしまう存在に思えた。はっきり言えば「敵」だった。
しかし、なにかがアスカの心に入り込んでいく。
それは些細なことだ。
毎日の食事だったり、弁当のことだったり、級友に冷やかされることだったり。それらは新鮮な刺激となり、アスカの心に色彩を加えていった。
それはアスカにとって、十四年間の半生で初めての他人との触れ合いだった。敵味方でもなく、利害関係でもなく。
その少年は、初めての他人をアスカに意識させた。
その少年は、アスカの心に初めての感情を芽生えさせた。
アスカは初めて、他人といるのもいいなと想った。
少年との共同生活の記憶はアスカにとって、唯一捨て切れないものだった。
そこで芽生えたそれがどのような感情だったのか、一言で言ってしまえば簡単なのだが、アスカはそれを、心の奥に仕舞いこむ。
『大丈夫。わたしはもともと独り。今までも、これからも』
『あれは一時の幻』
『わたしは昔からなにも変わっていない。そう、これからも変わらない』
『それでいいのよ、アスカ』
あれは一時の魂の休暇だったのだ。アスカはそう想い込む。アスカの無彩色の半生において、その僅かな期間だけが、鮮やかな彩りに溢れている。
『今のわたしには、そんなものは邪魔なだけよ』
ムクリと顔をもたげそうになる感情に蓋をすることを、アスカはこの六年間で覚えた。
抑え込まれたそれはまた、負の念に姿を変え、澱となってアスカの心に沈殿していく。
『わたしはもう、あの頃のわたしじゃない』
『わたしはもう、知ってしまった』
『わたしはもう、笑うことなんてない』
今の自分は既に、あの頃とは全く違うのだ。
ヒトだった自分は捨てた。自分はもうリリンではない。戦いに挑む頭脳と身体があればいい。アスカは自分をそう定義づけた。
『あなたには、エヴァに乗らない幸せがある』
紅い瞳のあの少女の声を、アスカは拒絶する。
『……ダメよ。わたしはもう、エヴァに乗るしかない。それ以外に生きられない』
『わたしが人形だと言っていた、あの娘と同じね』
アスカは自嘲するしかない。
『違うのは、わたしを見てくれる人は誰もいないこと。でもそれでいいのよ、アスカ』
アスカの脳裏に、紅い瞳の少女と対峙した時の自分の姿が蘇る。
「ひとつだけ聞くわ。あのバカをどう想っているの」
「バカと言えばバカシンジでしょ。どうなの」
「それって、好きってことじゃん!」
その言葉は、そのままアスカ自身に跳ね返ってきた。
その晩。アスカがまだヒトだった頃。アスカは決意する。
少年がいつも見ていたのはその少女だ。アスカは碇シンジと言う少年が、綾波レイと言う少女を常に気にしていることを、よく見ていた。よく知っていた。少年のために自分が出来ることは――。
アスカはその晩、3号機起動実験のパイロットとして、志願をした。
そうして、今のアスカが、ここにいる。
アスカは天を向いたまま、想いを巡らせる。その瞳には既に、星は映っていない。
『アスカは、なんのために戦っているの?』
少年の声が聞こえた気がする。
『……自分のためよ。わたしにはもう、戦うしかないのよ』
少年は続ける。
『じゃあ、戦いが終わったらどうするの?』
『さあ、どうするのかしらね。考えたこともないわ』
きっと、自分はその時は生きていないだろう。漠然とアスカはそう想う。アスカには未来が見えなかった。でもそれでいい。自分はそのためにある。戦いの中でそれを全うすれば十分だ。未練などない。
虚空を見るアスカは、自分の存在がふわりと宙に浮かび、そのままユラユラと浮遊しているような感覚に陥る。
『アイツはどう想っているんだろう』
アスカは封じ込めたはずの心の奥底で、ヒトとしてのたったひとつの小さな願いを、その少年にかける。それは小さな小さな願い事。
自分のことを忘れずにいて欲しい――。ただそれだけの願い事。
『姫、頑張んなよ』
マリのその言葉が、アスカの耳に残っていた。しかしアスカは、その想いにまた蓋をした。
アスカは何度も、少年のことを想う。自分には似合わない贈り物をくれた、その少年のことを。
そしてアスカは、ひとつの決意をした。
『あのバカを、必ず連れて帰る』
そのアスカの回顧と決意を、マリは黙って見守っていた。
「私は戻るけど、姫はどうする?」
アスカの思考が止まった頃を見計らったように、マリは声を掛けた。
「わたしはもう少しここにいる。心配しなくても大丈夫よ。ちゃんと戻るから」
「らじゃ! じゃ、先に戻ってるにゃん」
「よろしく」
マリはピョンと小さく跳ねるように立ち上がった。そして二歩三歩と歩み始めたところで、ふと立ち止まる。
「あ、そうだ」
忘れ物を想い出したかのように振り返り、マリはアスカに告げた。
「姫にはさ、エヴァに乗らない幸せだってあると思うよ? 今のドンパチにケリが付いたら、それを探せばいいよ」
思いもよらないマリのセリフに、アスカは一瞬、言葉に詰まる。やっぱりコイツはずるい。卑怯者だ。どうしてそんなことを今言うのだ。
アスカは精一杯に強がるしかない。
「なにバカなこと言ってんのよ。さっさと戻れ、コネメガネ」
ひらひらと手を振りながら去っていくマリの背中を、アスカは視線だけで追う。
『エヴァに乗らない幸せ、ね……』
あの娘と同じことを言う。今のアスカには、そんな自分は想像だに出来なかった。
『そんなもの、わたしにあるわけないじゃない』
式波・アスカ・ラングレーと言う人物は、極めてアンバランスだった。その才能・能力に反するように、自己肯定力が極めて低い。出自によるそれ。それ故の危うさを、アスカは常に内包していた。
運命は自ら切り開くもの。未来は自ら掴み取るもの。言葉にすれば簡単なそれ。だが運命を仕組まれたチルドレンには、その言葉は哀しく響く。
アスカは自然と右手を伸ばし、宇宙(そら)を掴む仕草をする。
「待ってなさいよ、バカシンジ」
それは、アスカの未来を拓くのだろうか。
時は止まらない。転がり始めた物語は加速していく。
作戦開始まで、十二時間を切っていた。
アスカは再び、星空を眺めた。煌めきが良く見える。明日も天気は良さそうだ。打上げには問題は無いだろう。
アスカはまた、紅い機体に想いを馳せる。
「明日は頼むわよ。あのバカの顔を見るまでは死ねないからね」
アスカはゆっくりと身を起こして立ち上がると、大きく息をひとつ。そして背伸びをひとつ。
そうしてアスカはふと想う。
「プラグスーツ、変えていくか」
そんな感傷に浸るなど自分らしくないと自嘲するも、兵士がゲン担ぎをすることは悪いことではない、と自分を納得させる。果たしてゲン担ぎになるのかはアスカ自身もわからなかったが、それには素直に従おうと、アスカは思った。
※
翌朝。作戦開始まであと六時間。
世界の有様は変わっても、太陽だけは同じように登ってくる。紅く染められた海と大地を、その朝焼けの色は更に紅く色付けていく。
アスカは、懐かしささえ覚える古いプラグスーツを手にしていた。しげしげとそれを眺める。覚えのない補修跡がやや気になったが、眠っていた八年間になにかがあったのだろうと、思い込むことにした。
流石のアスカも、感傷を覚えずにはいられなかった。
だがアスカは、自らの意思でそれを振り切る。
「あの頃に戻りたいわけじゃない」
「これは決別。あの頃のわたしと、あのバカと」
「だから、行くわよ、アスカ」
「あのバカだけは、絶対に死なせない」
幕は、再び上がった。
アスカは、その舞台に飛び込んでいく。
その姿は、眩く、儚く、美しく。
せめて彼女に、一欠片の希望があらんことを。
【了】
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