そのぬくもりに用がある






 ちょっとあの世界に長居し過ぎちゃったかニャ。
 だからこれは、ちょっとした贖罪よん。
 愛しい、あの子たちへのね。










   一.帰ろう


「――わたし、寝てた?」

 頭がグラグラとして視界が定まらない。ここはどこだ?状況は?
 官姓名、式波・アスカ・ラングレー戦時特務少佐――よし。
 年齢、二十八歳――よし。
 状況は、作戦行動中。敵基地強襲のヤマト作戦を遂行中――よし。
 頭痛は消えない。まるで長らく寝ていなかったかのようだ。彼女――式波・アスカ・ラングレーは、前髪を掻き上げるように右手で額を押さえ、頭を左右にブンブンと振る。
 ぼんやりとした視界が、徐々に戻ってきた。彼女は両の手、両足を順に動かす。
『特に異常はなさそうね』
 続いて右目を瞑る。続いて右目を開けて左目を瞑る。
『視力もOK』
『聴力も……大丈夫』
 そこで彼女は、ハタと気づく。反射的に両腕で自分の胸を抱き、身体を丸めるように両足を折り曲げる。
『なんでわたし、こんな格好なの?』
 彼女はいつもの戦闘服を身に着けておらず、下着一枚にモスグリーンのパーカーを羽織っているだけだった。慌てて再び身体、手足を再確認する。
『やっぱり異常はないわね。拷問の痕もなし』
『じゃ、なんでこの格好?』

 彼女は記憶を辿る。特命を受け、単独での任務だったはずだ。敵基地に侵入し、斥候として情報を得る。そのような任務だった、はずだ。

「っつぅ……」
 彼女は頭を抱える。頭痛が酷い。脳の奥から釘が飛び出てくるようにズキズキと痛む。
 彼女は両手で髪を掻きむしるようにする。
『わからない。なにが起こったの? ここはどこ?』

 彼女は改めて周りを確認する。
 金属製の円筒の中に据えられた座席に、彼女は座っていた。一見戦闘機のコクピットのようだったが、明らかにそれとは異なる。そもそもキャノピーが無い。天井が開かれており、空が見えた。
 そこにいるのは彼女一人だけであることを改めて確認し、彼女は立ち上がる。
「……っと」
 足元がおぼつかず、少しよろけてしまった。自分の身体に違和感を覚える。その感覚はまるで、他人の身体を借りているかのようだ。
 彼女はこめかみを押さえて頭痛を追い払うような仕草を見せ、思考を現実に戻す。
「まずは現状把握。作戦はどうなっているのか」
 本部は彼女の情報を待っているはずだ。
 パーカーの前を閉める。下半身が心許ないが仕方がない。
「よっと」
 彼女は慎重に足場を固め、天井の開口部に手を掛け、姿を見られないようにしながら周囲を慎重に観察した。
『ここは……』
 景色に見覚えがあった。人影はない。そのまま数分間周囲を警戒する。
 動くものを確認できなかった彼女は、身を乗り出し、その筒から這い出るようにして、土の上に降り立った。裸足の足に土が冷たく感じる。
 馴染みのある景色だった。目の前には駅舎跡がある。そこは彼女がしばしば厄介になっていた、彼の住居だった。
『わたしはなぜここにいるの?』
 その理由はまだわからない。彼女は這い出てきたその物を見、スッと触る。金属のような感触でできた円筒状のそれの触覚は冷たく、その姿はミサイルのようにも見えた。そこに記された『13α』の文字に、彼女は暫し、思考を奪われる。その形は記憶になかったが、何故か既視感もある。彼女はじっとそれを見た。
 彼女はふと我に返り、周囲を警戒する。そして慎重に、時折よろけながら、すぐ先にある駅舎跡に向かった。なにしろ丸腰なのだ。身体にも違和感があり、頭の命令が上手く手足に伝わらない感じだ。とにかく状況を確認し、本部に連絡を取らなければならない。
『たぶんいないと思うけど』
 見覚えのあるドアノブに手を掛けて、慎重に回す。予想通り、鍵が掛かっている。
『そうよね。じゃ……』
 アスカは身をかがめながら、裏手に回った。一ヶ所、思い当たる所があった。
 窓ガラスに手を掛けると、それは横にスライドした。彼女は口角を上げると、そこから中に滑り込む。
『悪い、ケンケン』
 世話になった人間の住居にこそ泥のような形で入り込むのは少々心が痛んだが、そうも言っていられない。なにしろ作戦行動中なのだ。
 慎重に中を見渡すと、彼女の記憶とその中の様子に、差異は感じられなかった。この前にここに来たのはいつだっただろうか? 三日前のような気もするし、一ヶ月前だったような気もする。まだ直近の記憶が戻ってこない。
『ここって……』
 ふと彼女は、部屋の隅の一角に意識を奪われた。人が一人、身を横たえることができるくらいのスペースだ。彼女は一瞬、何かがそこにいたような気がした。
「ったく、地縛霊じゃあるまいし」
 その気配を振り切るようにして、更に慎重に、彼女は部屋の中を確認する。部屋の主はやはり留守のようだ。他に人影もない。
「さて……と」
 彼女は再び外に出て、警戒しながら辺りをくまなく確認する。元々、かの住人以外に人が訪れる場所でもなかったが、今も人の気配はまったくない。周辺にあった移動手段は自転車が一台と、燃料切れのバイクが一台。だがこれを使おうにも、どこへ行けば良いのかが思い出せない。確かに作戦行動中だったはずなのだが。
『異常はないけど……どうしようもないわね』
 頭を掻き、彼女は自分が今、できることを考える。
『動きようがない。ケンケンを待つか』
 彼なら何かしらの情報を持っているかもしれない。だが一瞬、暗い予感が脳裏をよぎる。
『大丈夫よ、ケンケンなら』

 部屋の中で物陰に隠れながら、彼女は待った。
 二時間ほどが経った。あの時計が狂っていなければだが。
 ややあって、外からタイヤが土を噛む音が聞こえた。ヒュイーンというモーターの音が止まる。バタンと車のドアが閉まる音がする。
 彼女は入り口扉近くに半身に構え、その様子を窺う。扉を開けて入ってきたのは、間違いなくその彼、相田ケンスケだった。彼女は少し胸を撫で下ろした。しかし警戒は緩めずに対象に向かう。

「ケンケン」
 アスカは身を隠したままに小声で呼び掛ける。ケンスケが腰に手を回し、身構えたのがわかった。ケンスケ以外に同行者はいないようだ。
「わたしよ、アスカ。式波・アスカ・ラングレー」
 その声にケンスケの表情から緊張が緩む。それでも腰に手は回したままだ。
「式波か? どこだ? 他に誰かいるのか?」
 ケンスケは身構えたままに問う。
「わたし一人。ケンケンは?」
 その声にケンスケは、ようやく背筋を伸ばし、警戒を解いた。
「大丈夫、俺も一人だ。式波、どこだ」
 アスカもまた警戒態勢を解き、ケンスケの前に姿を現した。
「ごめん、勝手に入った」
「気にするな。式波が元気そうで何よりだ」
「ケンケン、状況は?」
「ちょっと待て。水でも飲んで落ち着こう」
 ケンスケは、素足むき出しのアスカの姿から、目を逸らすようにして言った。
「それと、その恰好も何とかしないとな」


「戦争は終わったよ。NERVは壊滅したそうだ」
 ケンスケは、アスカが一番知りたかった情報を口にした。アスカはその情報に、表情を固める。そこにあったのは、単に安堵だけではなかった。自分が意識を失っている間になにがあったのか。アスカは困惑した。ケンスケは、そのアスカの様子を見ながら、彼の知り得た情報を彼女に伝える。
「ただ、ヴンダーは沈んだそうだ。艦長も運命を共にした……そうだ」
「大佐が……」
 アスカはまた、表情を強張らせた。アスカが唯一認めていた、ヴンダー艦長である葛城ミサト。彼女はその責務を果たし、ヴンダーと共に散ったのか。自分がなにもできずにいる間に。自分に対する怒りがグツグツと、アスカの胸に沸いてくる。
「脱出したヴンダーの乗務員は第3村にいる。俺はさっきまで話をしてきた」
 ケンスケは、窓の外を一瞬見て、またアスカに視線を戻す。
「式波も合流するか?」

 だが、アスカは結局、元の軍――WILLEには戻らなかった。と言うより戻れなかった。第3村に滞在していた本隊に合流した彼女を待っていたのは、除隊の命だった。
 それからアスカは相田ケンスケの住居に引き籠り、一日のほぼ全てを、空虚な空気とともに過ごしていた。彼女の心に空いた、ポッカリとした大きな空間。その処遇はどうしようもなかった。


 式波・アスカ・ラングレーと相田ケンスケとの出会いは、四年ほど前の彼女の任務によるものだ。彼女は諜報活動の一環として、WILLEの補給組織であるKREDITと第3村とを繋ぐ任も担っていた。
 その中で、第3村の外れに住む相田ケンスケと出会う。
当時二十四歳の彼女は、誰一人として信用していなかった。WILLEの同僚にさえ、心を開くことはなかった。彼女が唯一信用していたのは、ヴンダー艦長だけだった。
 そのような中で、アスカがケンスケに少しずつ心を開いて言ったのは、ケンスケが放った一言がキッカケだった。
「俺は式波中尉を信頼してますから」
 ケンスケが何気なく言ったであろうその一言は、アスカの心を小さく揺らした。
「俺はこう見えて、人を見る目はあるんですよ」
 ケンスケのその言葉は、アスカにとって一つの糧となっていた。それから彼女は、任務の度にケンスケの住居を訪れることになる。

 相田ケンスケは、式波・アスカ・ラングレーを初めて見た時の様子を克明に思い出すことが出来る。彼は便利屋としての自らの役責から、WILLEやKREDITとの情報伝達をすることがある。初めて連絡員として第3村に来た時の彼女は、まるで棘が服を着ているようだった。近寄るものを拒絶し、全てを自己完結する。彼女を敬遠するものは多かったが、ケンスケはどこか、疎遠に出来ないものを感じていた。
 それからの定期的な交流の後、少しずつ彼女の人となりが掴めてきた。交わす言葉は互いに柔らかくなり、阿吽の呼吸のようなものも生まれてきた。それでもケンスケはアスカに対し、その滞在場所を提供すること以上に、関わることはしなかった。そこに引かれた太い一本の線。それは、二人の約束事のようなものだった。

 アスカは、そんな相田ケンスケとの関係が心地良かった。家族でも友人でもない。もちろん恋人でもない。ただその場所を共有する関係。ケンスケが持つその距離感は、アスカが今まで知らなかったものだった。なによりケンスケは、自分を認めてくれていた。ずっと独りで生きてきたアスカは、新たな居場所を提供してくれた相田ケンスケを、彼女なりの親近感を持って「ケンケン」と呼ぶようにもなっていた。


 戦争は終わり、アスカの任も解かれた。『あなたは今日から自由です、何をしてもオッケーです。さぁどうしますか?』そのように突然言われても、生まれたときから親はなく、十歳そこそこから少年兵として育ち、そのまま軍人として生きてきた彼女にとっては、自分をどのように処すればいいのかはまったくわからなかった。胸の中にポッカリと空いた大きな穴は、其れ故だろうと、アスカは思っていた。

 そのうちに何とかなるだろうというぼんやりとした希望。
 わたしにできることは戦争以外に何も無いという諦め。
 それらはない交ぜになり、アスカの心を覆い尽くしていた。
 今のアスカには、行くところはなかった。








   二.名前を呼びたい


 アスカがケンスケの住居に常駐するようになってから、一週間後。二人はケンスケの車でパトロールに出ていた。一通り問題が無いことを確認し、最後に北の湖に向かう。旧NERV施設があったところだ。

「ケンケン、あれ」
 アスカが指差した先の湖畔には、ひとつの人影が倒れていた。動く様子はない。
 遺体が打ち上げられることは、さほど珍しいことではない。それでも確認しなければいけないのがケンスケの責務だ。多少なりとも憂鬱な気分になりながら車を向ける。
 万が一のことを考えてケンスケはアスカを車に残し、単独で、湖畔の波打ち際に倒れている人物に近づいた。ザクザクと砂を踏む自分の足音に注意を払いながら、右手にはナイフを握り、その人物の背後から慎重に近づいていく。倒れているその人物は、近年はとんと見ることがなくなった、スーツのようなものを着ていた。ご丁寧に、ストライプの入ったネクタイまで締めているようだ。うつ伏せに倒れているため、その顔は確認できなかった。
 その姿は倒れたまま、動く様子はない。慎重の上にも慎重を重ね、ケンスケはその人物の背中に回った。
 右手にナイフを構えたまま、左手でその背中を触る。服越しに体温が伝わってくる。
「コイツ、生きてる」
 ケンスケはその肩を叩く。最初は軽く、次第に力を込めて。だが目覚めることはない。
 細心の注意を払いながら、ケンスケはその人物の肩に手を掛け、仰向けに寝かせ直した。
 そこで初めてその人物の顔が見えた。年の頃は二十代半ばといったところか。見る限り大きな外傷はない。ケンスケは首に手を当て、体温と脈拍を確認する。共に異常は無いように思えた。
 ケンスケはため息をついて立ち上がると、その顔を見ながら考え事をするように、暫し立ちすくむ。なにかが気になった。なにかが引っ掛かった。だが、なにもわからなかった。ケンスケは諦めるように小さく首を振った。
「式波、ちょっと来てくれ!」
 ケンスケは車に残したアスカに、その場から大きな声で呼び掛けた。
「ダッシュボードの手錠も持ってきてくれ」


「放っておくわけにも……いかないのよね」
 アスカは後部座席に寝かせたその人物――仮にKと呼ぼう――を振り返りながら、運転席のケンスケに問い掛けた。
「そうだな。『目の前の命は敵味方関係なく助けるもんや』って煩いヤツが友達にいてな」
 ケンスケはミラー越しに、後ろのKの様子を窺った。万が一のことを考え、Kの両手足には手錠が掛けられている。その人物の意識はまだ戻っていない様子だ。
 しかし不自然だ。なぜあの場所に生きたまま倒れていたのか。しかも今どき見かけないスーツ姿だ。Kはどこから来たのか。何のために来たのか。意識が戻った時には聞かなければならないことが多くありそうだ。もっとも、目を覚ませばの話だが。

「悪いな、トウジ。来てもらって」
 白衣姿の鈴原トウジに、ケンスケは礼を言う。
「気にすな。命を救うのは医者の役目や」
 そう言いながら、トウジは一通りの診察を行う。目の前のKは顔色も悪くなく、外傷もなく、はた目にはただ眠っているようだ。
「うーん、問題は無いな。しばらく様子を見るしかないやろう」
 その言葉にケンスケはホッとする。
「そうか、ありがとうな、トウジ」
「ただな……」
 トウジは言葉を濁す。
「わかってるよ。第3村には連れて行かない。しばらくここで様子を見るよ」
「悪いな。助かるで」

「何かあったらすぐ連絡したってな」
 そう言い残し、トウジは去っていった。

「さて、そうは言ってもどうするかな」
 ひとまずは一晩様子を見よう。部屋の隅の毛布の上にKを寝かし、手錠で拘束したその手を鎖で柱に結び、経過観察をすることとした。

 翌朝、いつもより少し早い時間に、アスカは目を覚ました。間借りしているベッドを抜け出し、気掛かりなKの様子を見に行く。
 ケンスケはすでに起きていた。膝立ちになってKを見下ろし、観察しているようだ。
「お、式波か。コイツ、目を覚ますかもしれないぞ」
 見るとKの胸はゆっくりと上下し、まるで熟睡しているように見える。
「ふーん、まぁ、良かったわよね」
 アスカは改めてKの姿を見る。外見からすると東洋人だろう。良く見ると、年の頃は自分と同じくらいだろうか。妙なことにスーツ姿だ。その姿を見ているうちに、アスカはなにやらドロドロした感情を憶えてしまう。
「なんだか、ムカついてきた」
 アスカのその声が聞こえたのだろうか。Kの肩が小さくピクリと動いた。アスカとケンスケが見つめる中、Kの指先がクッと動く。四つの瞳が見守る中、Kはゆっくりとその瞳を開いた。

「おい、大丈夫か」
 懐かしい声――ぼんやりとした意識の中、Kの頭にそれは響いた。
 Kは無意識に目を開けようとする。光が眩しい。少し眉間にしわを寄せ、そしてゆっくりと目を開けた。
 焦点が合わないピントを、意識して目の前の人物に合わせようとする。メガネを掛けた目の前の人物をKは認めた。
『ケンスケ……』
 思わずその言葉を口にしようとした。しかし声が上手く出ない。口が空回りしているうちに、彼は少しずつ状況を把握し始めた。
 Kはケンスケの向こうにいる、もう一人の人物に気づいた。少し苦労して目のピントを合わせ、その人物を確認する。

 白い肌。背中まで伸ばした金髪。眉間にややしわを寄せ、両の碧眼が彼を訝しげに見ている。その姿は彼の記憶よりも大人びていたが、それとて見間違うはずもなかった。
 忘れたくても忘れられないその姿――。
『アスカ……』

 Kの脳裏に、過去の情景が次から次へと蘇る。Kは言葉にすることが出来なかった。想いが溢れ、何を言っていいのかがわからない。名前を呼ぶことすら出来ない。

「おい、大丈夫か」
 再度のその声に、Kはゆっくりと瞬きをする。パクパクと口を開くが、声が上手く出ない。
「声が出ないのか」
 その問いに、Kは頷いて答えた。
「そうか、参ったな」
 膝立ちの姿勢だったケンスケは顔を上げ、考えるような仕草を見せる。
 Kは視線を巡らせ、自分の状況を確認した。殺風景に様々な機材が並ぶ作業部屋のようなところの一角に、彼は寝かされていた。その風景が彼の脳を刺激する。

 突然Kは気づいた。ビクッと身震いし、二人を見る。
『ここは……』
『なぜ僕は……』
 彼の記憶とその風景が、カチリと一致した。
『ここは、あそこか』
 状況はまだわからない。だが、目の前の二人の様子を見る限り、二人の記憶に自分の存在はなさそうだ。緊張したKの身体から、少し力が抜けた。最初に声が出なかった幸運に、Kは感謝する。

 Kは視線を自分の胸のあたりから足元に動かし、自分の姿を確認した。まず気づいたのは後ろ手に回された両手首の拘束。その固さをKは手首に感じた。足首にも同様に、手錠が掛けられていた。
『手錠か……』
「悪く思うなよ。お前が何者だかわからないうちは、それを外すわけにはいかない」
 拘束されている自分に気づいたらしいKの様子に、ケンスケは言う。
「そのまま、寝たままでいい。喋らなくていいから、俺の質問に答えてくれ」
 Kはそのまま頷く。状況を掴みきれていないKだが、今はその指示に従う他はない。
「痛むところはないか」
 コクリと頷くK。
「身体は動きそうか」
 Kは後ろ手に拘束されたままに、上半身を捻ってみる。
「大丈夫みたいだな」
 ケンスケは表情を変えぬままに続けた。
「まだ声は出ないか?」
 ケンスケのその声に、Kは喉の奥から言葉を発しようとする。
「ぁ……ぇっ……と」
「お、少し出るようになったか。よし」
 かすれるようなKの声を聞いたケンスケは、表情を緩めずに続けた。

「じゃ、質問だ。尋問みたいで悪いが、答えてくれ」
 頷いたKに、ケンスケは問う。
「名前は?」
 Kは答えに詰まった。どう答えればいいのだろう。
「名前、わかるか」
 Kは眉間に浅いしわを寄せ、困ったような表情を見せた。
「名前、言えないのか」
 寝かせられたままのKは、そのまま首を振り、かすれる声を振り絞る。
「名前……わかりません」
 そう言うしかなかった。自分の名前を明かすわけにはいかなかった。なぜ自分がここにいるのかはわからなかったが、自分はここにいるべき存在ではないと、Kはそのとき思ったのだ。

 ケンスケは一瞬動きを止めた。だがすぐに動きを取り戻し、続ける。
「名前はわからない。最近の記憶はあるか」
 Kはまた首を振る。そうするほかはない。
「思い出せることはあるか」
 Kは暫く天井を見ていたが、こう言った。そう振る舞うしかなかった。
「なにも……憶えてないです」

 ケンスケはそこで立ち上がり、背後のアスカに顔を向けた。
「と、いうわけだそうだ。ちょっと参ったな」
 ケンスケは考える。見る限りは軍人ではなさそうだ。だが当然油断はできない。ゲリラもスパイも、残党がそこ彼処にいるはずだ。ケンスケはまたKに向き直り、その目を見て言った。
「単刀直入に聞く。お前は敵か? 味方か?」
 その問いに、Kは言葉に詰まった。何と返せばいいのか。驚きと戸惑い。そして淋しさが、Kの心で巡る。
「敵か、味方か。それも言えないのか」
 眼鏡の奥のケンスケの眼光は鋭い。修羅場をくぐってきた男の目だ。Kはその目を見ながら、まだかすれている声で、しかしハッキリと言った。
「僕は、敵じゃない」
 Kのその言葉にケンスケはひとつ頷くと、ニッと笑って言う。
「そうか、なら安心だ。式波、こいつは敵じゃないそうだ」
 その声にアスカは、少し驚いた顔をする。
「ケンケン、甘すぎ。そんなの信用できない」
「そうか? 俺はコイツのことは信用できると思うんだが」
 ケンスケはベストのポケットから鍵を取り出す。そしてKの目をしっかり見ながら言う。
「俺はお前を信用する。だから鍵を外す。もしお前が敵ならば、今晩にでも黙って出て行ってくれ。俺は殺し合いをしたいわけじゃない」
 驚きの表情を見せるKを横目に、ケンスケはまず手の手錠を外し、そして足に掛けられたそれも解除した。
 Kは軽くなった手をさすり、そのまま起き上がろうとする。ケンスケは一歩身を引き、背後のアスカの前に立つ。
 その様子を見ながら、Kはまず膝立ちになり、そうしてゆっくりと立ち上がった。頭が揺れる感じを憶えるK。頭を軽く押さえ、そして二人の方に向き直った。
「ありがとう、信用してくれて。僕も殺し合いは嫌いだ」
 その言葉に口元を緩めるケンスケ。そして右手を差し出す。
「俺は相田ケンスケ。こっちは式波。訳有って同居している。ところでお前のことは何て呼んだらいいんだ?」
 Kは困った表情を見せ、口籠るような仕草を見せる。
「そうか、困ったな。式波、どうする?」
 振り返ったケンスケに、アスカは反射的に答えた。
「ペンペン」
「は?」
「ペンペン。昔飼ってた鳥の名前。それでいいでしょ」
「ははは、ペンペンか。面白いけど、流石にそれは彼に失礼じゃないか?」
「僕はそれでいいです」
 Kは即答する。
「ペンペンって呼んでください」
 Kの顔はなぜか、少し嬉しそうに見えた。

 アスカは少し戸惑っていた。反射的に出たその名前。記憶を探ってみても、鳥を飼っていたことはなかった。なぜその名前を思い付いたのか? 少し考えた結果、アスカは、考えることをやめた。憶えていないものは仕方がない。

「おーい、ペンペン、ちょっといいか?」
 ケンスケが外からKを呼んだ。住居の中で考え事をしていたKは、慌てて外に飛んでいく。
「櫓の梯子が少し痛んでいるんだ。修理したいから、この木の皮を剥いてくれるか」
 地面に置かれた樹皮が付いたままの間伐材を指差し、手にしたナタをKに手渡しながら、ケンスケは続ける。
「それとな」
 後ろ頭に手をやって、照れ隠しをするようにポリポリと頭を掻くケンスケ。
「このペンペンってのはどうにも言いにくいから、ハジメでいいか?」
 このセリフに、Kの脳はチクリと痛みを感じる。
「ハジメって言うのは俺の親父の名前だ。先の戦争のときに死んじまったけどな」
 Kは複雑な感情を隠しつつ、ただ「うん」とだけ言う。
「そうか、助かるよ。俺のことはケンスケと呼んでくれ。じゃ、よろしくな」
 そう言い残して、人好きのする笑顔と共に去っていくケンスケの後姿を見ながら、Kは思いを巡らせずにいられなかった。

 二人の中に、自分の存在はない。自分の願いは叶った。そのはずなのに、Kは、心に空虚さを覚えずにいられなかった。







   三.どこに行ったんだろう、あのバカは


「じゃ、悪いが留守を頼む。滅多に客人は来ないから、心配することはない」
 Kが目覚めた翌日の朝。ケンスケとアスカは連れ立って、ケンスケ愛用の四駆で恒例のパトロールに出掛けて行った。二人を見送った後でKは住居の中に戻り、自然と定位置になった部屋の隅に座る。膝を抱えてこの状況を想う。

 混乱していたKは、昨晩は寝られないだろうと思っていた。しかし予想外に熟睡してしまい、出発直前の二人に起こされることとなった。
『僕って意外と図太いのかも』
 自分自身に思わず苦笑してしまうK。
 Kは、両の手、両の足、身体を順にみる。それは彼の記憶よりひとまわり成長しているようで、他人の身体を借りているような感覚さえある。そしてKは、昨晩に見た窓ガラスに映った自分の顔を思い出した。それは確かに自分の顔であり、そしてまた自分だと認識も出来たが、その顔もまた自分の記憶よりも軽く十歳は年上に見えた。その顔を確かめるように両手で頬を触ってみると、ザラリとした感触があった。
『髭……』
 当時の自分にはなかったそれを、Kは改めて確認する。身体が、まるで眠り続けた日々を取り戻すかのように、その姿を変えたことはやはり間違いないようだ。今までの自分の経験を考えればなにが起こっても不思議はないか、とKは苦笑いを浮かべた。

 Kの記憶は、あのときから途切れ途切れなものになっていた。

 父と対峙したあの場面。
 希望の槍を受け取ったあの場面。
 想いを告げた彼女を送り出したあの場面。
 銀色の髪の少年と再び出会ったあの場面。
 赤い瞳の少女の笑顔を見たあの場面。
 母に送り還されたあの場面。

 そこは、時間も空間も意味を持たない場所だった。それ故に、それらのシーンは断片的な記憶のカードとして今のKの脳裏に記憶されており、あれからどれくらいの時間が経過したのか、そして今いるここがどのような世界なのか、Kはそれを知覚できずにいた。

 Kは二度と、現世に現れるつもりはなかった。あの世界から見護ること、それが自分の責任だと思っていた。だが、まるであのときに巻き戻されたように、Kはここにいる。
 そして彼女だ。Kは彼女を送り出した。この場所に於いて、彼女を彼に託したのだ。だが、その彼女と彼が目の前にいる。まったくの想定外だ。しかも彼女は、Kの記憶と違った姿――恐らく十歳以上は歳を重ねている。
 そして更なる想定外は、二人の姿を見て自分の心が痛んだことだ。二人がそこにいることはKが願ったことだった。Kは改めて、昨日の二人の姿、そして先ほど出ていった二人の姿を思い浮かべた。その姿は棘となり、Kの心をチクチクと意地悪げに刺す。Kにはその棘が何なのかが、わからない。痛みの理由も、わからない。

 立ち上がったKは、改めて部屋の中を見回した。未だその記憶は鮮明だ。作業机の向こうには工具などが几帳面に並べられており、主(あるじ)の性格が窺える。その主がそこで様々な機器を整備する姿が、Kの瞼に浮かぶ。
 彼はその向こうにあるベッドを見る。そこでは、ベッドの上でゲーム機に向かう彼女の姿を、鮮やかに想い出すことができる。
 自分の立つ位置を想う。この場所で彼女はKに――。Kは自分の口元を押さえるように触った。そのときの心の苦さは、今でもありありと蘇ってくる。

『僕はどうしてここにいるんだろう』
 答えはない。応える者もいない。
『この世界はどうなっているんだろう』
 黒い不安がKを覆い尽くす。背筋がゾクリと寒くなる。
 だがKは、改めて想う。
『僕は、見届けなくちゃいけない』
 Kは改めて自分に言い聞かせる。



 車窓に流れる景色を、顎肘をついたアスカはボンヤリと眺める。車内に巻き込む風が彼女の髪を揺らす。外の空気が心地よい。窓の外は、緑の木々が茂っていた。動かなくなって放置された風車が遠くに見える。
 アスカは外を眺めたままに言った。
「ケンケンも物好きよね。わたしだけじゃなくてあんなヤツまで、厄介者をふたりも抱え込むなんてさ」
「俺は式波もハジメも、厄介者だなんて思っていない」
 握ったハンドルをそのままに、ケンスケは正面を見ながら表情を変えずに応える。
「式波やハジメに居場所があればいい。そう思うだけさ」
 少し口元を緩め、チラリと助手席を見て、彼は続けた。
「それにこうやって手伝ってもらっているからな。助かってるよ、式波」

 アスカは、その言葉には直接応えない。異を唱えることもしない。その代わりにKの話を持ち出した。
「それにしても、アイツはなんなの? わたし、アイツを見ているとなんだかイライラするんだけど」
 憎々し気な様子を隠さないアスカ。ケンスケはそのアスカの様子を見て少しの驚きを覚えた。アスカが感情を顕にする姿は、ケンスケの記憶にはなかった。
「まぁそう言うな。まだ自分がわからなくて戸惑っているんだろう。仕方ないさ」
 Kを擁護するケンスケに、アスカは溜息を吐く。
「……それにしても、よくあっさりとアイツを信用したわね。寝首を掻かれると思わなかったの?」
 呆れるとも感心するとも取れる口調で、彼女はケンスケの横顔をジロリと横目で見た。
「直感ってヤツかな。人間の直感って言うのは、意外と侮れないもんだ。散々考えた結果、最初の直感が正しかったことはいくらでもある。俺が生き抜いてこられた秘訣でもある」
 それは、半分自分に言い聞かせるような口ぶりだった。『式波に対してもそうだったしな』とケンスケは自分の行動を確認し、アスカに促すように言った。
「式波にだって経験があるんじゃないか?」
「……そうね」
 想いを巡らしたアスカは、同意を返す。
「でも、もしそうなら、わたしとアイツの相性は最悪ね」
 アスカはKの顔を思い浮かべ、苦々しい気持ちになった。
『なんでこんなにイライラするんだろう』
 答えは見つけられない。だが彼女は、胸につかえているなにかを、無視できなかった。なにかが引っ掛かっていた。その顔、その背格好、その声、その仕草。それは彼女の記憶を探しても見つからないのだが、どこか気になる。癇に障る。心を乱す。
『さっさと出ていってくれればいいのに』
 アスカはそう思わずにいられなかった。


 アスカがWILLEを去ってから十日程が経った。戦争が終わったとはいえ、まだまだ世界は混乱必至である。軍隊は必要だ。アスカとてそのつもりだったのだが、下された命は除隊だった。アスカの行動に失態が有った訳ではない。それは長い間、アスカと縁を持っていたヴンダー艦長の遺言だった。そして艦長の盟友が、アスカにそれを伝えた。十歳そこそこから軍人として行動してきたアスカに、せめて人間らしい生活をして欲しいという願い。それ故の、名誉除隊の命令だった。
 アスカも、それを理解できないほど愚かではない。だが、彼女がそれを有り難く思ったか否かは別の話だ。自分の可能性は無限だ。そのはずではあるが、すぐに切り替えられるほどに、アスカは器用でもなかった。

 そこにKが現れた。Kの姿はアスカの心を揺り動かした。
 アスカは、自分がここで目覚めたときのことを想い出す。
『わたしは、なにをしていたの?』
『わたしは、どうしてここにいたの?』
『わたしはどうして、なにもできなかったの?』
 アスカは次第に、記憶にノイズが乗るように感じてきた。自分の心と身体が分離するような、浮遊感さえ覚えた。それは、自分の姿を上から見ているような感覚だった。
『ちょっとしたストレスよ、よくあることよ』
 アスカはそう思い込もうとする。
 ペンペンのせいだ。アイツを見るとイライラする。そのせいだ。理由はまったくなかったが、アスカはそれに、疑いを持っていなかった。










   四.願い


「ケンスケさん、もしよかったら……今、この世界がどうなっているのかを教えてもらえませんか」
 その夜のこと。夕食後に手持ち機材の整備をしていたケンスケがその手を休めたタイミングを見て、Kは真剣な表情で彼に尋ねた。
「ああ、ハジメが思い出す手助けになるかもしれないな。始まりは十四年前だ。俺は中学生だった」
 ケンスケは遠い記憶を呼び起こすような顔をする。
「世界には二つの国を超えた巨大な勢力があった。NERVとWILLEだ。それが遂に全面戦争を始めたんだ」
「世界中が戦場になった。人間は馬鹿だな。猿でも知っている加減ってものを知らない。最初の一年間で、人口の半分以上が死んだと言われている」
「どっちが良いとか悪いとか、それは歴史学者の仕事だ。俺はWILLEに大義があると思って今まで生きてきた」
 ケンスケのその言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。
「そしてついこの間、そう、ハジメがここに来る直前だな。戦争は終わった。WILLEの旗艦であるヴンダーが、式波もそれに乗っていたんだが、それがNERV本部を強襲して、NERVは遂に白旗を上げたんだ。ヴンダーは艦長もろとも沈んじまったけどな」

 黙って聞いていたKは、初めて口を開く。
「式波さんは……軍人だったんですか」
「そうだ。そして今は、名誉除隊でここにいる」
 ベッドに寝ころんで、その話を聞くでもない様子でいたアスカが口を挟む。
「ケンケン、喋りすぎ。わたしはクビになっただけよ」
 未だ消化できていないことがわかる投げやりな様子で、アスカは言い放った。ケンスケは少し諌めるような口調になる。
「そう卑下することじゃない。式波は今まで十分に戦った」
「わたしにはそれしかなかっただけよ」
 アスカのその言葉に、Kはアスカをちらりと見た。アスカは後ろ頭に腕を組み、足を投げ出して天井を眺めていた。その横顔には、何の感情も浮かんでいないように見えた。
 シンジは改めてケンスケに向かい、頭を軽く下げた。
「ケンスケさん、ありがとうございます。何かを思い出すことは今はないですけど、世の中のことがちょっとわかってよかったです」
「ああ、聞きたいことがあったら何でも聞いてくれ」
 眼鏡を押さえながら、ケンスケはニッと笑みを見せた。
「それとな」
 ケンスケは思い出したように、眉を少し下げて言う。
「そろそろ、その敬語は止めてくれないか。俺の事はケンスケでいい」
 Kは少しだけ戸惑うような顔をするが、次には口元を緩めて言った。
「ありがとう、ケンスケ。そうさせてもらうよ」
 ケンスケは満足気に頷き、目の前の作業に戻った。
 Kはそのケンスケの前から離れて自分の定位置に戻り、腰を下ろして自分の両の掌をじっと見る。

『この世界に、僕の願いは届いていたんだ……』










   五.再生


「第3村?」
 Kがやってきてから四日後の朝のこと。聞き返したKに、ケンスケが言う。
「ああ、少し先にある集落だ。そこに紹介したいやつがいるんだ。ちょっと遠いけど、今から行こう」

 第3村。その言葉を聞いて、Kの脈拍は速まり、指先に力が入った。あの村はどうなっているのか。そこにいる人々は。そして友人たちは。恐怖心がKの心を支配する。
 だがKはまた覚悟を決める。
『これも、僕の責任だ』

 ケンスケはKを連れ、がれ場に近い山道を下り、第3村に向かう。道中は青の空と緑の山が続いていた。Kが知る紅い世界は見当たらず、紅い記号が刻まれた黒い柱も、首のない巨人の姿も、そこにはなかった。Kは少しの安堵を覚える。
 第3村が見えてきた。Kは思わず立ち止まり、目を細めてその様子を眺める。
「ハジメ、どうした? 大丈夫か」
 足を止めたKに気づき、ケンスケは振り返って様子を窺う。
「あ、ごめん。なんでもないよ」
 そう言ってKは、足早に歩き始めた。

「掃除でもするか」
 ケンスケとKを見送った後、アスカは箒を持ち、住居内を回る。
 部屋の隅にあるKの定位置に来て、敷かれているマットをアスカはじっと見た。この前までそこにあった毛布に代えて、Kのためにケンスケが用意したものだ。
 正体不明な円筒形の中で意識を取り戻してから、アスカはこの場所がどうにも気に入らなかった。なにかがそこに残留しているような違和感。アスカが感じるイラつきの原因がそこにあるように感じる。部屋の隅の染みひとつさえ、アスカになにかを訴えているような気がする。
「まったく、なんなのよ、アイツは」
 アスカはマットをボンと足蹴にする。
「っつう……」
 頭痛がアスカを襲う。頭の中でなにかが弾ける。なにかがアスカに伝える。
『ベリー会いたかったよ』

「なに、今の……」
 微かに笑い声が聞こえた気もする。その不気味な感触はすぐに、嫌悪感に変化した。
 アスカは確信した。その嫌悪の対象、それはこの場所と、ここに座るKからすべて生まれている。理由はない。アスカの直感だ。
「全部、アイツのせいだ」

 第3村に入ったところで、Kはまた、思わず足を止めてしまった。
 行き交う人々。若者も、老人も、男も女も、犬も猫も、Kの記憶のようにそこで生活していた。棚田には稲穂が揺れ、畑では野菜が生(な)っている。人々の営みがそこにあった。違うのは、空がすべて青に包まれていること。大地がずっと緑で広がっていること。あの紅い世界はどこにもない。Kの心残りがすうっと消えていく。
『よかった。ほんとうに』
 大きな安堵と共に、Kはまた歩き始めた。

 それからもう少し歩き、到着したのはクリニックの看板のある建物。ケンスケは慣れた様子で、クリニックの扉を開く。そこは、Kも見覚えのある診療所だった。
「トウジ、いるか?」
「あ、相田さん、こんにちは。鈴原先生! 相田さんです」
 助手の女性はケンスケの姿を認め、声を上げた。
「おーちょっと待ってやー」
 奥から声が聞こえた。ややあって、白衣に短髪の男性が奥から姿を現す。
「お、元気みたいやな。ええこっちゃ」
 Kの姿を見るなり、彼はニカッと笑ってKの肩を叩いた。その気さくな様子もKには懐かしく、そして少し淋しく感じる。
「ハジメ、こいつは鈴原トウジ。俺の古くからの親友だ。ここで医者をやっている。お前が眠っている間に診てもらった」
「そうだったんですね。ありがとうございます」
 Kは様々な想いを込めて、深々と頭を下げる。
「ええって。元気になったんならなによりや。それからな、敬語は無しで頼むで」
 トウジはニカッと人の良い笑顔を見せた。その笑顔もまた、Kに郷愁を感じさせた。
「そうや、紹介したるわ。おーい、ヒカリー」
 奥に向かって投げ掛けたトウジの声に、「はーい」と女性の声が応えた。
「委員長、いるのか?」
「ああ、最近はずっと手伝いに来てもろてるんや」
 Kの脳裏には、二人の姿が想い浮かぶ。ひとりは声の主。もうひとりは、紅い瞳のあの少女。
 姿を現した彼女に、ケンスケはKを紹介する。
「コイツは従兄弟のハジメ。ちょっと訳有りで、当面ウチにいることになった」
 Kはペコリと頭を下げる。その様子は少し戸惑い交じりだ。
「そうなの。こんにちは、ハジメさん。鈴原ヒカリです。こっちは娘のツバメ」
 ヒカリは半身を捻り、背負ったツバメをKに見せる。眠っていたツバメはパチリと目を覚まし、クリクリとした瞳をKに向ける。
「あーあーあーあー」
 両手両足をバタバタと動かし、何かを求める仕草をするツバメ。
「あら、珍しい。ツバメが初めての人を怖がらないなんて」
 ヒカリは半歩Kに近寄り、ツバメの顔をKに近付ける。Kの顔に手を伸ばし、キャキャキャと喜ぶツバメ。
「ほんとに珍しいわ。初対面なのにこんなに懐くなんて」
 Kはツバメに顔を触られて微笑みながらも、遠くを見るような、淋しげな顔をしていた。Kの頭をよぎるのは、名前すら持っていなかった、あの少女だった。胸の奥から熱い塊が頭をもたげたが、Kは必死でそれを抑えた。

「どうだ、いいヤツだっただろう」
 帰りの道中でケンスケは、誇るようにKに言う。
「うん、優しそうだね」
「まあ、アイツも色々苦労したからな」
 そしてケンスケは暫く口をつむぎ、歩き続けた。砂利を噛む足音だけが辺りに響く。
 しばしの沈黙の後、Kは少々戸惑いがちに口を開いた。
「……ケンスケ」
「ん? なんだ?」
 顔だけで軽く振り返ったケンスケに、Kは彼の望みを告げる。
「もしできればなんだけど、あの村の手伝いができないかな」
 そのKにケンスケは、頷きながら応える。
「そうだな、確かに人手はいくらあってもいいからな。農作業でも大丈夫か?」
「うん、僕にできるなら」
 Kはしっかりと頷き、そして想う。
『もう少し、あの村を見ていたい』

 翌日からKは第3村の農作業を手伝うことになった。畑を耕し、種を蒔き、雑草を抜き、水を運び、それを撒く。初めての作業。Kはそこに、サードインパクトを止めた男の姿を重ねてみていた。ひとりで畑を耕す彼の姿を、想い浮かべていた。
 そしてKは、あの少女を想う。あの少女もまた、自らの手で畑を耕した。田植えをした。そこで無垢な少女はなにを思ったのだろう。
 心を閉ざしたKのもとを毎日のように訪れた少女の姿を、Kは想い返す。
『――もここで何もしていない。あなたもこの村を守る人なの?』
 Kは空を見て呟いた。
「今度は僕も、仕事をしているよ」


「どうだ、少しは慣れたか」
 Kが畑に出るようになって、一週間ほどが経った。すっかり馴染みになった初老の男性が、Kに声を掛けてきた。
「ええ、お陰様で、少しは慣れました。最初は腰が痛くなりましたけど」
「ははは、そりゃ結構。働くことは生きることだからな」
 男性のその言葉に、Kは小さく笑う。
「そうだ、もしよければ、小さい袋か何か有りませんか?」
「うん、どうするんだ?」
「ちょっと……これを持って帰ろうかと思いまして」

 農作業からの帰り道。Kはふと、眼下に広がる棚田を見た。
 夕日に田の水面がキラキラと反射する。まだ成長途中の稲が揺れる。
 風が吹く。
『土の匂い……』
『ここはやっぱり、いいところだな』

 足を止め、Kは景色に想う。
『でも、そろそろ行かなくちゃ』
『ツバメには会えた』
『稲刈りは……僕も無理だったよ、綾波』

 陽が落ちるまでにはまだ少しある頃。第3村から戻ったKは、作業机で機材と向き合っているケンスケに訊く。
「ケンスケ、釣り竿を貸りたいんだけど、いいかな」
「食料調達か? 俺が釣り竿を持っているってよく知ってたな」
「あ、いや、湖が近くにあるし、あるかなって思って」
 微妙に慌てるK。その様子にケンスケは少しの違和感を覚えるも、あまり頓着することもなく、奥から釣り竿を取り出してくる。
「夕方だから、時間的には丁度いいかもな。頑張れよ、ハジメ」

 自転車を借り、Kはその場所に向かった。心臓が激しく動く。鼓動が速まる。少女の姿が甦る。

 湖が見えた。
 白い廃墟が見えた。
 少女の最期を見送ったそこに着いた。
 その少女を記憶に残すものは、この世界には誰もいない。ただひとり、Kを除いては。
 鼻の奥がツンとする。自分に名前を付けて欲しいと言った少女を想い出す。
『綾波、ごめん。綾波のことはもう、僕しか知らない』
『でも僕だけは、ずっと忘れない』
 Kは、少女が消えたその場所に立つ。
 別れは済ませた。泣くことはもうやめた。
 少女のおかげでKはここにいる。
 Kは天を仰ぐ。
『ありがとう、綾波』

 慣れない手つきで第3村から持ち帰ったミミズを掴み、針に通し、竿を振る。待つ。リールを巻く。待つ。リールを巻く。それを繰り返しながらKは、あのときのことを想い浮かべていた。
『結局、一匹も釣れなかったんだよな』
 今となっては笑い話にでもなりそうな、あの想い出。

 一時間半ほどの後、Kは三匹の釣果を持ち帰った。なかなかに立派なサイズの鱒だ。ブリキ製のバケツの中で身をくねらせているそれを見て、ケンスケは破顔した、
「凄いじゃないか、ハジメ!」
「たぶん、餌が良かったんだよ」
 Kは恥ずかしそうに頭を掻く。あのときできなかったことが今はできた。そのことが嬉しかった。
「早速だから頂こうか。二匹は明日、村に持っていくといい。喜ばれるぞ」
「もしよければ、僕に調理させてもらえないかな」
 生きた魚と第3村から貰った野菜類、米を前に、Kは頭を捻っていた。材料も調味料も乏しい。特別なメニューが頭に浮かぶわけでもない。だがKは、誰かのために料理をすることの喜びを感じていた。久しく忘れていたそれ。十四年ぶりのそれ。悩んだ結果、Kは食材の使い道を決めた。
 一時間と少しの後、Kは鍋を手に、二人の前に現れた。湯気が踊り、仄かな匂いが漂う。
「お待たせ。口に合うといいんだけど」
「おっ、鍋か。いいね、温かいものは久しぶりだ」
 薄い琥珀色のスープの中に浮かぶ大根、玉ねぎ、種類がよくわからないキノコ。加えてシンジが釣ってきた鱒の切り身に白い団子のようなもの。それらはケンスケの頬を綻ばせた。Kが取り分けたお椀を、二人に配る。
「「「いただきます」」」

「おっ、美味いな。薄味だけどいい味だ」
「この団子みたいなものも美味い。これは……米か?」
「きりたんぽっていうものをアレンジしてみたんだけど」
「うん、大したもんだ。出汁も出ている」
「魚があったのが良かったかな。出汁が結構出たみたい」
「今度から料理はハジメ担当だな」

 ワイワイと会話が弾むケンスケとKを前に、アスカは会話に加わらず、その様をじっと傍観していた。手に持つお椀の中のもの。Kの表情。それらはアスカの心に、ツンツンと突付くように信号を送る。アスカは一口、また一口と、お椀の中の物を口に運ぶ。確かにその味は、彼女の身体に染みわたるようだった。久し振りに食事をしたような気分になった。
 こんな場面があったような気がする。だがその記憶はない。アスカは困惑する。
 また一口、お椀の中の物をアスカは口に運んだ。それはアスカの腹の中から、なにかを訴えた。



     ※



 その二日後の夜。Kは、瞼を開いた。時刻は深夜二時を少し過ぎている。横になったままに、Kは二人の様子を窺った。双方から物音はない。どうやらすっかり寝ているようだ。彼は少し安堵したような表情を見せると、もう一度、部屋の中を見渡した。部屋の中には明かりもなく暗闇に包まれていたが、それでもKは、その様子を心に刻むように、ゆっくりと周りを見渡す。うん、と小さく頷くK。そして寝床の毛布を折り目正しく畳むと、足音を立てないように、Kはそろりと外に出た。
 空の雲に月の光は遮られ、辺りはほぼ完全なる闇だ。Kは足元を確かめながら、一歩二歩三歩と踏み出したが、そこで足が動かなくなる。出てきた住居を振り返る。
 また一歩二歩と踏み出し、また歩みを止める。そのままそこに立ち尽くす。Kの足はそこで、地面から生えてきた腕に掴まれたかのように、一歩も前に進まなくなった。
 Kはシンと静まり返る行く先を見た。その先に見えるのは暗闇だけだ。真っ暗な空間が彼を待っている。
 Kは振り返る。出てきた駅舎跡には二人がいる。式波・アスカ・ラングレーと相田ケンスケが。二人の姿がKの目に浮かぶ。
 二つの想いにKは苛まれる。

『ケンスケはいいやつだ。ケンスケなら大丈夫だ』
『僕はアスカの前にいちゃいけないんだ』

 揺れる想い。
 Kは、彼女を彼に託した。それはその通りになっている。Kはそのことに安堵した。
 だがKの中には、違った想いも生まれていた。

 生温い風が吹いた。湿気交じりのそれは、明日の天気を教えていた。
『雨か……』
 明日は農作業も休みかな。ふとKはそう思う。
 Kは自分に言い訳をしながら、身を返し、用を足した振りをして、また寝床に戻った。







   六.わたしはここよ


 最近どうにも体調がおかしい。アスカは自分の不調を自覚していた。風邪などの病気と言うよりは、身体の内面からくるもののように思える。自律神経か、総合失調症か。耳鳴りや幻聴のようなものまで聞こえる。同時に立ちくらみや目眩も頻発する。
『まさか、PTSDってことはないと思うけど』
 思い当たることは両手では足りないほどある。一般的な知識もある。しかし、自分自身の失調となると話は別だ。
 今朝も起き上がろうとしたところで目の前がグルグルと回り、そのまま意識を失うようにベッドに倒れ込んでしまったのだ。身体に力が入らない。目の前が回る。脳が鉛になったように重い。ケンスケには風邪を引いたようだと告げ、パトロールは休ませてもらうことにした。

「ハジメ、式波が風邪をひいたらしい。ちょっと様子を診てやっておいてくれ」
 ケンスケはKにそう告げ、パトロールに出ていった。Kは少し離れたところからそっと、ベッドの中のアスカの様子を窺う。アスカは起きているのか寝ているのかもわからなかったが、身じろぎもせずに毛布にくるまっていた。背中を向けたその様子からは、表情を窺うことはできない。だが、単なる風邪とも、Kには思えなかった。
 心配は尽きないが、かといってKにできることも、何もなかった。Kは極力、アスカを視界に置いておこうと決めた。

 昼前になり、喉の渇きを覚えたアスカは、ノロノロとベッドから這い出し、水場まで歩こうとする。
『あっ、やば……』
 アスカの視界が黒に染まる。力が入らない。意識が遠のいていく。

 ドタン! 住居の外で作業をしていたKは、屋内からなにかが倒れる音を聞いた。急いでそこに向かうと、水場の近くで彼女が前のめりに倒れていた。彼女はピクリとも動かない。Kの頭からすぅっと血の気が引く。
「アスカ!」
 Kは脱兎のごとく駆け寄り、彼女を抱きかかえる。
「アスカ! しっかり!」
 彼女は薄れゆく意識の中で、その声を聞いた。
『アスカ……?』
 アスカはベッドに寝かされている自分に気づいた。額には濡れた手拭いが載せられている。右手でそれを触ると、ベッドの脇に、一人の人物が座っていることに気づいた。
「よかった、気づいた」
 彼――Kは心底安堵したような表情を見せた。その顔に、アスカは一瞬ホッとする。
「わたし……」
「急に倒れたからびっくりしたよ。大丈夫? 痛いところはない?」
 アスカはややヨタヨタと上半身を起こしながらも、気丈に答えようと、Kに向き直る。意図せぬ先程の気持ちを打ち消しながら。
「大丈夫。時々ある貧血よ。問題はないわ」
 アスカは記憶を辿り、自分が倒れたシーンを思い返す。水場に向かったところでフラッとして、誰かに抱きかかえられた。それは目の前のKだ。そしてそのときKは言ったのだ。
「アンタ……わたしの名前を呼ばなかった?」
 Kの表情が一瞬固まったように見えた。しかし彼は取り繕うように口を開く。
「え、どうだったかな? 咄嗟の事だから覚えてないよ」
 曖昧に笑う彼の表情に少しの憤りを感じながら、彼女は疑惑を拭い切れなかった。
『わたしは確かに聞いた。コイツが「アスカ」と呼ぶのを』
『わたしの名前を知らないはずのコイツが』

「手拭い、冷やしてくるよ。もう少し休んでいて」
 アスカから手拭いを受け取り、そそくさとベッドサイドを離れるK。その後姿に、アスカの疑念は大きくなるばかりだった。

 アスカはその後、数日間をベッドの上で過ごすことになった。
 身体が重い。
 耳鳴りがする。
 目が回る。
 誰かが、なにかを囁くような声が聞こえる。



     ※



 数日後のこと。目覚めたときにアスカは、今朝は比較的体調が良いと感じた。動けそうだ。行ってみるかとアスカは思う。
「ケンケン、ちょっと出てくる」
 Kがいつもの農作業のために出発した後、アスカはそう言い残して同じように住居を後にした。アスカはそのままKの後を、気づかれないように注意しながら追う。
 第3村に着いた。あたりの様子を窺うが、見慣れた景色に、どこか違和感を覚える。
 空を、山を、田を、畑を、沢を見た。
 人々の営みを見た。
 平穏に見える暮らしを見た。
 だが、なにかが違う。その違和感はわからない。アスカは空を眺めた。そこには当たり前のように、青い空に白い雲が浮かんでいた。

「っっつぅ……」
 突然、アスカの頭に電流が走る。
『あなたはここにいて、仕事をしないの?』
 なにかがアスカに訴えかける。脳を直接刺激するかのように。いつもの幻聴だとアスカは思い込む。
「しまった、見失っちゃう」
 アスカは我を取り戻し、Kの後を追った。
 日がな一日、アスカは畑から少し離れた丘の上から、Kの姿を追った。丘陵に設けられた段々畑で、Kは鍬を振り、雑草を抜き、水を撒いていた。時には誰かと談笑し、時には協力しあって作業を続けている。遠目にその表情はわからないが、笑っているかのような仕草もあった。Kは自分の仕事をしっかり果たし、周囲にも溶け込んでいるようだ。
『もう、アイツの心配をする必要もないのね』
 ふとそう思ったアスカ。遠く過ぎ去った日々を懐かしむように彼の様子を眺めている自分に、アスカは気づいた。すぐにその想いをアスカは打ち消す。
『なんでわたしが心配しなくちゃいけないのよ』

 アスカはまた、眼下のKの姿を追う。
「わたし、なにやってんだろ」
 虚しいような淋しいような、その気持ちに耐えられなくなったアスカは、第3村を後にした。










   七.長い夢


 最近のアスカは、よく夢を見ていた。それらの夢は鮮明で、目が覚めた後でもその細部までありありと思い出すことができてしまう。
 昨日の夢はまた滑稽だった。そこに登場したアスカは、なんと料理をしていた。一度も包丁を持ったことがない自分が、キッチンで悪戦苦闘をする夢だ。しかもそれは「誰か」のために料理を作っているのだ。手元がぎこちなく、何度も指を切りそうになってしまう。いや、実際に小傷が絶えない様子だった。そしてまた彼女は、その夢の中で「他の誰か」にライバル心を持っているのだ。

 アスカは目覚めた。記憶が混乱する。一瞬、自分が誰だかわからなくなる。
 周りを見る。周囲は明るい。見慣れた住居の中に自分はいた。アスカはようやく思い出した。今日も体調が優れず、一日休ませてもらっていたところだった。
 自分の両手を見る。怪我の痕はない。だがアスカは、右手に包丁の重みが残っているような気がした。
「このわたしが料理、ねぇ」
 自分の行動履歴にあることが想像できないその行為。
「まったく、ここまでリアルだと笑うしかないわね」

 一昨日の夢もまた、アスカはよく覚えている。
 年の頃は中学生位だろうか。アスカは級友たちと一緒に、水族館のようなところにいた。大きな魚が、沢山の魚が水槽の中にいた。そこでアスカは、級友たちと一緒に弁当を食べていた。その味までもが鮮明に想い出せる。期待していなかったそれは、夢中になるほどに美味しかった。
 級友たちの顔は、ぼんやりとしてよくわからなかった。どうやらその弁当は、その中の「誰か」が作ってきたようだった。しかもそこでアスカは、その「誰か」に好意を寄せる「他の誰か」に対し、嫉妬心まで持っているのだ。

 目覚めたアスカはそれらの夢に、少し考え込んでしまった。PTSDの影響が夢に現れることはあるらしい。しかしPTSDとそれらの夢は、関連性がないように思える。それらの夢は、アスカの半生とはまったく無縁の様子だったからだ。ならば何故こんな夢を見る? 夢は記憶の整理だという説もある。しかしそれもまた、整合しない話でしかない。
 気にしても仕方がない。見た夢に殺されることはない。アスカはそう結論づけるしかなかった。

 今朝の夢は、少々様子が違っていた。
 アスカは二階くらいの高さから、その様子を眺めている。幽体離脱というのはこんな感じなのだろうか。眼下にいるのは「アスカ」だ。見慣れぬ紅いウェットスーツのようなものを着ている。しかしそれは所々が破れ、サイズ感も合っていないように見えた。
 その傍らには、同じような青いスーツを着た少年がいる。その少年は膝を抱えて座り、「アスカ」になにかを語りかけた。こともあろうに「アスカ」は、少年の言葉を聞いて赤面し、その身を捩り、少年に背を向けてしまう。恥ずかしくて少年の顔を見られないかのようだ。それを見ている自分も、背中がムズムズし、耳が熱くなってしまう。それは目の前の「アスカ」だけではなく、自分にも投げかけられているのだとわかった。

 その声はこう言った。
『ありがとう、僕を好きだと言ってくれて。僕もアスカが好きだったよ』



     ※



 アスカの疑念は徐々に確信に変わりつつあった。
 アスカはツゥッと指で辿るように記憶を遡る。

 自分が戦っていた相手を。
 自分が護っていたものを。
 自分が好いていた相手を。
 自分の生い立ちを。
 自分の最期を――。

 甦ってきたそれこそが、ほんとうのことだ。いや、なにがほんとうでなにが偽りなのか、そこに真実はないのかもしれない。ある人にとってほんとうのことが、ある人にとっては偽りだったりすることはよくあることだ。見る角度、考える手法によりそれは変わってしまう。真実とはかくも曖昧なものだ。アスカが知覚している「ほんとう」も、それにより追いやられた偽りも、どちらも真実になりうるのかもしれない。どちらを信じるか、信じたいか。それだけなのかもしれない。

『どうせ暇なら、あのときなんでわたしがアンタを殴りたかったのかぐらい、考えてみろ!』
『ガキに必要なのは恋人じゃない。母親よ』
『でも、わたしが先に大人になっちゃった』

 アスカの真実は、記憶の中の彼と共にあった。
 そして今。
 Kの姿を見る度に、アスカのその記憶は呼び戻され、書き換えられていった。
 自分がなぜ彼を気にしていたのか。
 自分がどのように彼を見てきたのか。

 アスカは改めて、左目を触る。その視界を確認する。
 手足を見る。Kがつくった食事の味を想い出す。数多の夢を想い出す。
 胸の奥底に封じておいたそれが、ムクリと頭をもたげた。
 それはもう、アスカ自身にも止められなかった。







   八.もっと近くに - as close as possible -


「それじゃ式波、ハジメ、留守をよろしくな。夕方までには帰る」
「うん、気をつけて」
 出かけていくケンスケを、アスカとKは揃って送り出した。
 ケンスケの車を見送ったあと、アスカはそのまま暫し窓の外を眺める。
 沸々と湧き上がるマグマのような想い。それはKの姿を見る度にその熱量を増し、彼女の頭から、身体から、溢れそうになっていた。

「……ダメ。もう限界」
 アスカは右手を握り締める。
 そして身を返すと、彼の定位置となっている部屋の隅に向かう。
「ペンペン、ちょっといい」
 感情を押し殺したような声で、アスカはKを呼ぶ。その声にKは腰を上げ、一歩二歩とアスカの元へ歩んだ。
「そこに立って、目を瞑って」
 訝しげに思うKだったが、逆らうことが得策ではないことはよく知っている。また無意味なことを彼女はやらないことも、よく知っていた。
「足を開いて、踏ん張って」
 言われた通りにKは足を肩幅に開いた。親指の付け根あたりに力を込める。
「いい、行くわよ。歯を食いしばりなさい」
 え、と思うより先に、彼は床に叩きつけられた。何が起こったのか、数刻わからなかった。床に手と膝を着いて身体を起こす。左の頬が熱いくらいに痛い。血の味がする。
 Kは左手で頬を押さえながら、ゆっくりと振り返った。そこには、震える右手を握り締め、怒りとも悲しみとも形容しがたい形相の、彼女の姿があった。

「ずっと我慢してたけど、もう限界。あのときじゃないけど、ブン殴らないと気が済まない」
「アスカ……?」
「ほら、やっぱりわかってるんでしょ、バカシンジ」
 Kの頭に、全身に、電流が走った。
「アンタ、シンジでしょ。碇シンジ」
 Kは言葉を失ったままに、アスカを見上げる。
「アンタがシンジなら、言っておきたいことがある」
 暫しアスカは、歯をきつく噛み締め、眉間にしわを寄せ、その碧眼でKを睨みつける。そして、喉の奥から絞り出すように、その沸き立つ想いを吐き出した。

「アンタね、わたしのことを勝手にここに飛ばして、勝手に満足してんじゃないわよ!」
「なにが『ケンスケによろしく』よ! アンタ、わたしのこと考えたことあるの!? わたしがどんな想いでいたか、良く考えてみろ! バカシンジ!」

 唖然とした表情のK――碇シンジ。頬を押さえたままに、アスカを見上げる。
「いつから……想い出してたの?」
 シンジのその姿に、アスカは肩で息をしながら必死の形相を向ける。
「最初にアンタを見つけたときは全然わからなかった。でもなにかが、誰かがわたしに囁くのよ」
「何がなんだかわからなくなった。でもいまはわかる。アンタの顔を見るたびに、間違いないと想うようになった」
「わたしは式波・アスカ・ラングレー。エヴァ2号機のパイロットだった。アンタは碇シンジ。エヴァ初号機パイロット」
「わたしのことを忘れたなんて言わせない!」
 アスカの肩は震え、毛は逆立ち、目は見開かれ、口元は食いしばるように歪んでいる。

「あのとき、アンタはわたしを助けてくれなかった。あの娘のことは助けたくせに」
「わたしがどんな想いで宇宙(そら)を見上げていたかわかる!?」
「それなのにアンタは、還ってきたと思ったら綾波、綾波、綾波」
「アンタが動けるようになったのだって初期ロットのおかげ」
「挙句の果てには『僕もアスカが好きだったよ』」
「ふざけんじゃないわよ。アンタの中にわたしはいないくせに!」
 アスカのその形相に、シンジは唖然とするだけだ。
「もう一度聞く。アンタ、あのときなんて言った!」

 シンジは戸惑う。あの紅い海の白い浜辺で、アスカに語り掛けたそのとき。忘れようもないその情景。彼は確かにそう言った。

「僕も、アスカが好きだったよって……」
 その言葉にアスカは、左手で右手首を掴み、握り締められたままの震える右の拳に額をガツンと打ち付ける。
「そうよ、アンタはそう言ったのよ。どうせわたしの記憶には残らないと思ったんでしょ。アンタ、自分の存在はキレイさっぱり消すつもりだったんでしょ」
「お生憎さま! アンタのことなんか忘れてやるもんか! 自分だけ満足して、ケンスケによろしくとか言ってんじゃないわよ!」
 その声には、怒りと涙が入り混じっていた。額を右拳に打ち付けたままに、アスカは心の内を吐露する。
「アンタは前からそうだった。海洋研究所のあのときだって、あの娘のことだけを気にしてた」
「学校にあの娘のお弁当を持っていったりして」
 アスカの脳裏には、綾波レイを気遣うシンジの姿が浮かぶ。そのときの自分の嫉妬心が蘇る。エレベーターの中で対峙した、綾波レイの姿が浮かび上がる。
「アンタは知らないでしょ。あの娘ね、アンタのために料理を特訓して、アンタのパパを食事会に呼ぼうとしてたのよ」
 傷だらけの綾波レイの指を、アスカは想い出す。
「あの娘がアンタのこと、どう想ってたのか、わかる?」
「わたしがどんな想いであの娘に譲ったのか、わかる?」
 それはアスカが今まで、決して漏らさなかった心の内。
「わたしは独りが当たり前だった。孤独は気にならないはずだったのに」
 それは、振り絞るようなアスカの姿。
「それを変えたのはアンタだ」
「知らなくてもよかった気持ちを教えたのはアンタだ」
 こみ上がってくる、苦く、辛く、熱いもの。アスカはそれを止められなかった。
「そのまま十四年」
「全部、アンタのせいだ!」
 アスカは、嗚咽交じりに叫んだ。既にシンジの姿を見ることはできない。積もった想いを、彼女は今、一気に吐き出した。

 アスカのその様に、シンジは言葉を失っていた。アスカの想い。それは彼の想像だにしないものだった。

 アスカが以前から自分を見ていたこと。
 アスカが綾波レイに嫉妬していたこと。
 アスカが自分の想いを閉じ込めようとしていたこと。
 アスカが宇宙(そら)の自分を見上げていたこと。
 アスカの、自分への想い――。
 シンジは言葉を失った。何を言ったらいいのかわからなかった。驚き、戸惑い、自分への怒り、それらはそれぞれが意思を持ったように、彼の心を激しく掻き回す。
 シンジはようやく、気がついた。目の前のアスカの想いと、自分の過ちに。
「アスカ……」

 彼は戸惑う。彼女はなにを望むのか。
 彼は想う。彼女はなにを感じてきたのか。
 彼は苦悩する。自分はなにをすべきなのか。
 彼は迷う。自分が彼女にできることは――。
 彼の内を巡る様々な想いは、彼にひとつの決意を強いた。
 彼が今できることは、自分の気持ちに素直になることだけだった。

 シンジはゆっくりと立ち上がり、小さく震えるアスカの前に立つ。殴られた左の頬が、ズキズキと彼の心を突く。
 シンジは左手で、その頬をすぅっと触る。
 その痛みをもって、シンジはアスカに向かう。

「アスカ……ごめん」
 そのシンジの一言に、アスカは即座に反発した。
「謝らないでよ! アンタは悪くない。そうよ、全部わたしの勝手な想い。そんなことはわかってるっ!」
「全部、わたしが!」
 アスカは震える拳に額を打ち付けたままに、身を震わせて嗚咽を押さえる。

「違うんだ。ごめん、ごめんとしか言えないけど、僕は未だにバカガキだから、ほんとうにそうだから」
 シンジの目の前で俯いて震えるアスカ。それはシンジの罪の形だ。戸惑うシンジは、それでも懸命に言葉を紡ごうとする。
「でも、アスカには嘘は言いたくない。アスカに誤魔化すのはもうやめる。だから聞いて欲しい」
 しかし、シンジのその言葉は、アスカの上を悲しくも通り抜けていく。
「なによ今さら、今さらなにを言うのよ! アンタの言うことなんてわかってる!」
 そしてアスカは、絞り出すような声で。
「アンタは優しいから、わたしのためのウソをつく。わかってるわよ……」
 アスカのその言葉には応えず、シンジは宙を見つめた。そこに浮かぶのは、皆を見送ったあとの、誰もいない砂浜。
「確かに僕は、消えるつもりだった。それが僕の落とし前だと思っていた」
 小さく震えているアスカの肩が、更にビクリと動いた。
「みんなには、エヴァのない世界で生きて欲しいと願った」
 シンジは空(くう)を見て、そこになにかを見つけたように頷く。
「意図せずこの世界に戻ってきちゃったけど、エヴァがない世界を見られて、少しだけ安心した」
 シンジはそこに想いを馳せるように、宙を見つめる。
「よかった、少なくともあの世界よりはいい。そう思ったんだ」
 シンジはその視線を、宙からアスカに戻した。その姿は変わらず、そこで、震える石のようにうずくまっている。
「アスカにも、そうだ」
 顔を伏せたままのアスカの髪が、ピクンと小さく跳ねた。
「アスカにも、エヴァがない世界、僕がいない世界で幸せになって欲しかったんだ」

 あのときの想いを反芻するように、シンジは腹の奥からその言葉を取り出す。
「だから、ここでアスカを見て、ケンスケを見て、安心したんだ」
 シンジは目を閉じて頷く。自分に言い聞かせるように。
 シンジはまた、顔を伏せたままのアスカに向かう。
「でもそれは、アスカの願いじゃなかった。僕にはそれがわからなかった」
 シンジは、自分自身の想いを確かめるように、続けた。
「そうだ。僕がいない世界は、僕の願いだったんだ」
 シンジはその想いを、アスカに吐露する。シンジは、腹の奥から酸の塊がこみ上げてくるように感じた。苦く、熱く、苦しいその想いに、シンジは侵された。
「ほんとうは僕だって、アスカと一緒にいたかった。アスカの笑顔を取り戻したかった」
 シンジは両手をギュッと握り締める。
「お弁当を美味しいと言ってくれたアスカと、もっと一緒にいたかった」
 シンジは歯を食いしばる。
「でも、それは叶わないと想ったんだ」
 シンジの視線は宛もない一点を睨む。
「だから、僕の存在を消して――」
 あのときに身体中で渦を巻いた想いが、シンジに蘇った。
「僕はずっと、外から見ていようと想ったんだ」

 シンジは戸惑う。自分の言葉が届くのだろうかと。
 だが、殴られた頬の熱さは心の痛みとなり、彼の気持ちを後押しした。
 彼は、顔を伏せたままの彼女に向かう。自らの言葉が届くように、願いを込めて。

「僕は、アスカが好きだよ。十四年前からずっと。もちろん今でも」
 シンジはその言葉に想いを込める。
「その気持ちだけは、ほんとうだ」

 頭上から降ってきたその言葉は、アスカの鼓膜を揺らし、身体を震わせ、心の扉に到着する。しかしその言葉はアスカの心を開けない。その扉は固く閉ざされたままだ。
「……どうだか。アンタ、嘘つくの得意じゃない」

 シンジは失意を感じた。届かなかったその言葉。足りなかった想い。シンジは、重ねて想いを伝えようとする。気づいた想いを、全身でアスカに伝えようとする。
「だって、僕がここに現れたのは、アスカに逢いたかったからだよ」
 シンジはその想いを、それは懸命に伝えようとする。
「アスカに逢いたくて、僕はここに現れたんだと思う」
 シンジはアスカの姿に、自分の心を更に掘り下げた。
「僕は確かに消えるつもりだった。でも母さんが僕を送り還してくれた」
 世界の礎になろうとし、そしてユイに護られていたことを知ったシンジ。期せずして還ってきたシンジ。
「でも、またみんなの前に現れるつもりもなかった」
 あのときのシンジは、誰もいない砂浜で、ただ皆に想いを馳せたのだ。
「ずっと独りで、みんなのことを見ていこうと思っていた」
 あの場所ではどれくらいの時がたったのかも、シンジにはわからなかった。次第に世界が、自分が消えていきそうな、そんな感覚に陥っていたことを、シンジは想い出す。そこでシンジはまた視線を上げ、宙を掴むような表情をする。

「でも、マリさんに手を引かれた」
「……ッ!?」
 未だ俯いたままのアスカは、その言葉に、彷徨わせていた瞳の焦点を目の前の一点に結んだ。
『姫、ちっとはスッキリした?』
 その姿が、アスカが結んだ視線の先に甦った。
「マリさんが僕を導いてくれたんだ」
 シンジは三度、視線をアスカに戻す。
「そうして気づいたら、目の前にケンスケと、アスカがいた」
「アスカが、いたんだ」
 確かめるように、シンジは言う。
「僕はバカガキだから、自分のほんとうの気持ちがよくわからない」
「でも、アスカに逢いたかった」
「それだけはほんとうだ」

 そしてシンジは、少し考え込むような表情を見せた。シンジはアスカに向けた視線をそのままに、少し口籠る。
「ごめん。やっぱり僕は、嘘つきだ。僕は嘘をついた」
 左の頬が痛む。シンジはその痛みを噛み締める。それは罪の痛みだ。そのシンジに対しアスカはまた、身体を固く強張らせる。
「アスカとケンスケを見て安心したって……嘘だ」
 シンジは握り締めた両の手を、爪が掌を突き破りそうなほどに、更に強く握り締める。アスカは身体を固くしたままに、シンジが絞り出す言葉を待つ。
「アスカとケンスケを見て、僕は胸が痛くなった」
 シンジはその言葉を、腹の奥から絞り出す。アスカはピクリと頭を揺らした。
「やっとわかった。これが嫉妬だ」

 シンジはアスカを直視できなくなった。彼もまた顔を伏せ、木材が敷き詰められた床に向かい、言葉をそこに吐き出した。まるで懺悔するように。
「嫉妬さえもわからなかった僕は、また消えようと思った。逃げようと思った。夜が来るたびに、何度も、何度も」
 彼の目に浮かぶのは、そのときの真っ暗な辺りの光景。
「でも、それもできなかった」
 シンジはまた、両手を強く強く握り締めた。顔を上げ、顔を伏せたままの目の前のアスカに向かい、自分の熱く苦しい想いの丈を露わにする。
「どうしようもないアスカへの想い。この想いだけは信じて欲しい」

 その言葉に込められた彼の想いと力は、閉ざされたアスカの心の扉を、また叩いた。その音はアスカの心に響いていく。
 扉が少しだけ、キィッと音を立てて開いた。だがそれを、彼女の中の澱が邪魔をする。

 彼女は回顧する。ひとりで生きていくと決めた日々を。
『わたしはひとり。これまでもこれからも。それでいいのよ、アスカ』
 彼女は振り返る。すべてを捨てた日々を。
『ほかにわたしの価値なんてないもの』
 彼女は泣く。求めることを諦めた自分に。
『ほんとうは淋しい。ほんとうはただ、頭を撫でて欲しかっただけなの』

「わたしは、わたしは……」
 アスカは言葉に詰まる。今まで言わなかったこと、言えなかったこと。決して口に出すまいと誓っていたこと。それは自分の存在意義そのもの。アスカは今、それを口にする。
「シンジが何を言ったって、わたしは使い捨てのコマなのよ。ただの部品なのよ。わたしには……」
 アスカの言葉に被せるように、その言葉を最後まで言わせないように、シンジはその想いを告げる。

「いいんだ。アスカはアスカだ。それだけで十分だよ」

 刹那。アスカの心の奥から、その声が聞こえた。その声は内側から、アスカの心の扉を叩く。アスカの心が痛む。それは心傷ではなく、新たに生まれる生の痛み。命の痛み。
 アスカは身体を震わせた。少しずつ、アスカの心の澱が溶けていく。アスカは恐々と扉を開き、外をそろりと覗く。
 硬く凝固したその澱を消し去るには、長い時間が必要だった。だがシンジの想いと力は、丁寧にそれを拭い去っていく。そして遂には、アスカの心の扉はパンッと開かれた。
 アスカは顔を上げ、ようやくシンジの瞳を直視する。

「……シンジだったのね」
 赤く染まったアスカの碧眼を見て、シンジは少し、困ったような顔になる。
「ごめん。僕はアスカのことを知ってしまった」
「だから、それをケンスケに託そうとしたんだ」
「これは僕の独り善がりだ」

 独白のようなシンジの言葉に、アスカは小さく頷く。
「わたし、その声をずっと聞いていた気がする。小さい頃からずっと」
 シンジは眉間にしわを寄せたままに、それでも目尻を少し下げて言う。
「僕がいたあそこは滅茶苦茶だからね。時間とか空間とか」
 シンジは告解する。
「ごめん。でもアスカを見ていたかった」
 アスカはそのシンジを、まっすぐに見る。
「でも、わたしを見てくれていたのね」

 それは彼の罪だった。
 罪を告白し、赦されることにより、人は救済される。
 それは罪人だけではなく、赦す人をも救う。
 シンジの罪をアスカは赦し、それは彼女の心を救っていく。
 アスカは固く強張った口元をようやく緩め、涙が溢れる目尻に笑みを浮かべた。

「まったく、プライバシー侵害もいいところね」
 彼女らしい言葉を、ようやくアスカは口にする。
「シンジには、わたしへの落とし前を付けてもらわないとね」

 シンジはアスカに、淋しそうな、悲しそうな、辛そうな、それでいて少し拗ねたような、複雑な表情を見せた。シンジの脳裏には、あの耐爆隔離室の中で、白いプラグスーツを纏った彼女と期せず交わした、あのときの言葉が甦った。
 アスカがずっと聞きたかったその問いにシンジは応え、そしてアスカはシンジにその言葉を告げて去ったのだ。
「でもさ、アスカだって『あの頃はアンタのこと、好きだったんだと想う』って言ったじゃない。アスカはあのとき、帰ってこないつもりだったでしょ。今はわかる。だからそう言ったんだよね」
 それは間違いなくアスカの遺言だった。それと同時に、アスカ自身の心残りを断ち切るための言葉だった。

 一呼吸置き、シンジは少しばかり目元を緩め、その目に気持ちを乗せて言う。
「でも酷いよ。あんな事言われたら、そしてアスカが帰ってこなかったら、僕だって、アスカのことをずっと忘れられないじゃないか」

 アスカはそのときの自分を回顧する。確かにそうだ。あのときアスカは、自らの想いをシンジに伝えたかった。そこに一欠片の嘘を加えて。
 纏っているのは死裝束。身に宿すのは使徒。自分に未来はなかった。
 それがシンジの重荷になることも知っていた。だが伝えたかった。それは人としてのアスカの想い。自分を彼の中に残したい、アスカの我儘。
 アスカはシンジの眼を見た。その瞳はアスカに、その想いを受け取ったと告げていた。アスカの心の重石が、フワリと浮かんで消えていく。

『ありがとう、シンジ』

 アスカの肩の力は抜けた。心の澱は消えた。光が差し込む。世界が眩しい。
 アスカの呪縛は、ようやく追い払われた。
 アスカは暫し、目の前の瞳を見つめて動かない。
 だがアスカは、その蒼い瞳に悪戯心を浮かべる。

「あらシンジ、わたしのことを忘れるつもり?」
 アスカはそこに、彼女の願いを乗せた。
「あなたが忘れたくても、わたしのこと、一生忘れさせない。それがあなたの、わたしへの落とし前」

 アスカはシンジの瞳をまっすぐに見る。
 口元が緩む。
 頬の緊張が解ける。
 瞼の重しが消える。
 身体中が羽になったように軽くなる。
 そうしてアスカは、そんな自分に気がついた。

『わたし……笑ってる』

 それは十四年ぶりの、あのとき、今まで知らなかった自分を見つけたとき以来の、心安らげる笑みだった。

『そっか、わたし、また笑えるんだ』










   九.愛を止めないで


「アスカ……」
 シンジはそのアスカの、澄み渡る笑みを見た。胸が痛い。いや、違う。胸が熱い。どうしようもなく心が焦がれる。
 それは彼にとって、初めての感情だった。今まで知らなかった、心の奥底から沸き出てくる想いだった。

「シンジ……」
 アスカはそのシンジの戸惑いを見た。胸が痛い。不安がよぎる。彼の僅かな顔つきの変化に反応してしまう。
 それは彼女にとって、固く封じ込めていた感情だった。使徒をその身体に宿して以来、二度と目覚めさせることはないと決めていた想いだった。

 シンジはアスカの瞳を見詰めたままに、そこを動けなかった。初めての感情に翻弄されていた。目の前の彼女に触れたい。抱き締めたい。ぬくもりを感じたい。突然生まれたその感情に弄ばれ、体中が麻痺したようだ。その想いをどのように処すればいいのか。シンジは想いの濁流の中で翻弄される。
 アスカは身じろぎひとつしないシンジに、言いようのない不安を抱いていた。自分を見てくれていた。自分を認めてくれていた。そして自分を好きだと言ってくれた。その感情は渦となり、彼女の心に激しく流れ込む。それ故の不安。愛されることを知らない彼女の不安。喜びと不安は彼女の中で、激しく場所を争う。
 アスカは顔を伏せた。シンジの顔を見ていられなかった。その目、口元、頬の動き、それらを直視できなくなった。

 シンジは伏せられたアスカの顔に、どうしようもない不安を感じる。身体が固まって動かない。
 だが彼は想い出す。彼に差し伸べられたその手を。
『行こう、シンジ君』
 それは新しい世界への手引きだった。彼はその手を取ることができた。手を差し伸べた彼女が見せた、小さな驚きの表情を彼は忘れない。
『僕は、もう怯えない』
 まだ恐怖は彼に残る。しかし他人と触れ合う恐怖に勝る、他人を愛する喜びを、シンジは知るのだ。

 シンジは一歩を踏み出す。笑みを湛えて。
 アスカは頭にシンジの手のぬくもりを感じた。そのぬくもりはそのままに、その手がアスカの頭を、そして頬を、順に包み込んでいく。そのぬくもりは肩を伝い、背中に回される。その手に力が籠ったと思う間もなく、アスカは力強く引き寄せられた。
 俯いたままのアスカの顔が、シンジの首筋に押し付けられた。

 アスカの中の不安が弾け飛んだ。
 包まれる体温が心地よい。その力強さに喜びを感じる。
 アスカは両の手を、シンジの背中に回した。

 シンジは背中に、アスカの手のぬくもりを感じる。
 シンジは全身に、アスカの柔らかさを想う。
 シンジは心に、愛する人の存在を覚える。
 シンジは、おかしくなってしまうのではないかと思うほどの愛おしさを知る。

「愛してる」
 シンジはようやく、愛を知る。

 アスカはその声を聞いた。狂おしいほどのこの想い。
 アスカもようやく、その意味を知る。
「バカ……なんてこというのよ」
 アスカもまた、シンジの背中に回した手に、力を込めた。

「アスカ……」
 シンジは左手でアスカの髪を触りながら、右手で背中を撫でる。その右手は次第に上に移り、首を触り、頬を撫でる。
 少しの名残惜しさを感じつつも、アスカはシンジの胸から離れ、その顔をシンジに向けた。
 シンジは、アスカの蒼い瞳に見惚れた。そしてふと、その状況に気づく。急に顔が熱くなる。
「アスカ、あの……」
 言葉に詰まるシンジ。その様子を見、アスカはまた笑う。
 瞬間、シンジの目が真ん丸に見開かれた。唇が、ぬくもりに包まれた。
 アスカは両手をシンジの首筋に巻き付け、飛びつくように唇を合わせた。

 シンジはアスカの唇の熱を感じた。その柔らかさを知った。溶けて消えてしまいそうな幸せを知った。愛が生まれた意味を知った。シンジは唇を合わせたままに、アスカの背に手を回し、不器用にその身体を撫でる。背を、腰を、横腹を。
 アスカは、触られることに快感を覚えた。それだけで、どうにかなってしまいそうだった。アスカもまた、シンジに巻き付けた手でその身体を愛撫する。
 ふたりの影はひとつになったまま。
『ダメだ。抑えきれない』
『この身体を離したくない』

 ガタン。

 ふたりのその想いを邪魔するように、物音が聞こえた。
 ふたりはピクリと反応し、身を固める。だが、あたりに変化はない。

 ふたりは顔を見合わせる。
 お互いの瞳を見つめ合う。
 ふたりの間に笑みが零れる。
 ふたりを妨げるものは既になにもない。

 ふたりは二十八年を経て、愛すること、愛されることを知った。

 風が窓を叩いた。
 その声が、風に乗って通り抜けていった。

『姫、お達者で』







   十.あなたといきたい


 あの日から一ヶ月。ふたりきりのとき以外では、アスカは変わらずシンジを『ペンペン』と呼び、シンジもアスカを『式波さん』と呼んでいた。それはふたりがこの世界で生きるための、整合性を担保するための契約のように見えた。
 毎日は平凡に過ぎ、稲はその背をますます伸ばしていた。

 アスカは気づいていた。シンジが時折、その両手をじっと見つめていることを。そのときの彼は、達観したような、なにかを諦めたような目をしていた。まるで運命を受け入れたかのような顔だった。だがアスカはシンジのその様を、深く考える事はなかった。アスカは、幸せな明日が変わらずに来ることを、疑っていなかった。

 シンジは気づいていた。残された時間は、そう多くはないことを。たったひとつの願いさえ、叶わないことを。
『これが僕の運命なのか……』
『僕にはなにができるんだろう』

 とある日の夕方。第3村の農作業から帰宅したシンジは、先に帰宅していたアスカと顔を合わせた。太陽はその顔を紅く変え、夕方が始まろうとしていた。
「アスカ、ちょっと景色を見ない?」
 シンジのその提案に、ふたりは並んで見晴らしの良い櫓に登ることにした。この櫓に度々登っていたことを、アスカも今は想い出すことができる。
「なんだか久しぶりに登った気がする」
 アスカは思わず呟いた。去来するのは、楽しいとは言えない記憶の数々。
 アスカは暫し、無言になる。
 シンジは右隣のその様子に、自らの想いも重ねた。右手をスッと開き、アスカの左手をキュッと握る。アスカはシンジの顔を見返さず、そのままその手を握り返す。
 太陽はその存在を紅く主張し、左手の奥には海も見える。緑の大地は紅い夕日に染まろうとしていた。
 その紅は原罪を浄化する色ではなく、また来る明日への約束の色だ。

 シンジは呟くように、アスカに問い掛ける。
「アスカはさ」
「ん?」
 ちらりと視線をシンジに遣るアスカ。
「アスカは、僕のどこを好きになってくれたの?」
「あ、あんたバカァ? なによ今さら!?」
 動揺するアスカの顔を、シンジは優しい目で見つめる。
「うん、でも聞いておきたいんだ」
 シンジは微笑を湛えつつ、真っ直ぐな目でアスカを見た。最近のシンジは、時々こんな顔をする。ふとアスカは思った。
 アスカはまたその目を夕日に戻し、少しだけ考える。
「そうね……理由はないわ」
「え?」
 あまりに意外なアスカの応えに、シンジは間の抜けた顔になった。そのシンジの顔が可笑しかったのだろう、アスカはちらりとシンジを見て、口元に笑みを浮かべる。
「強いて言えば、一番初めにわたしの目についたのが、シンジだったってことね」
「ひどいなぁ、雛の刷り込みみたいじゃないか」
 夕日を眺めながらあっさりとそう言ったアスカに、シンジは口を尖らせながらも、目尻には笑みを浮かべた。
「ま、そんなもんでしょ」
 アスカもまた、楽しそうに笑う。

 夕日を見つめたままのアスカ。その白い肌を、紅い光が染めていく。シンジはそのアスカの横顔を、心に仕舞いこむように眺める。
「でもね」
 アスカは軽く瞼を閉じ、そこに浮かんだ言葉を、呟くように言った。
「でも、それが運命なんだと想う」
 アスカは自分に言い聞かせるように、小さく頷いた。
 瞼を開き、眩しそうに夕日を眺め、アスカは続ける。
「運命の赤い糸なんて言い方は好きじゃないけど、でもそういうことなのかな、って想うんだ」
 またひとつ、アスカは頷く。
「だからね」
 アスカは握られた左手に、力を込めた。
「だから、この手は絶対に離さない」

 暫しそのままでいたふたりだが、アスカは逆襲を試みた。
「そういうシンジはどうなのよ」
「僕?」
「そ、女にだけ言わせるなんて、そんな子に育てた覚えはないぞ?」
 アスカは悪戯っぽくシンジの瞳を覗き込む。
「僕は……」
「僕は?」
 シンジは夕日に目を遣りながら、戸惑うことなく、照れることもなく、気持ちを素直に言葉に乗せる。
「僕は、気づいたらアスカが僕の中で一杯になっていたんだ。アスカに触れたい、抱き締めたい。突然そう想ったんだ。そんなことを想ったのはアスカが初めてで、アスカだけだ。だから、どこと言われても困る」
 シンジは顔をアスカに向け、その目を見つめて想いを紡ぐ。
「アスカの全部が好きだ。怒りっぽいところも、優しいところも、意地っ張りなところも、努力家のところも、素直じゃないところも」
「アスカの目が好きだ。アスカの唇が好きだ。アスカの髪が好きだ。アスカの肌が好きだ。アスカの手が好きだ。アスカの身体が好きだ。アスカのすべてが好きだ」
「アスカのすべてを愛してる」
 正面から予想外の告白をされ、アスカは全身の血が沸騰したように感じる。夕日が顔の色を隠してくれればいいと願う。
 シンジを直視できないアスカは、繋がれた手に視線を向けながら、口籠り気味にボソボソと言う。
「シンジって……時々ずるいわよね」
「ずるい?」
「だってわたし、そんなことを言われたらシンジのことをもっと……」
 アスカはそれ以上、言葉にすることができなかった。

『ありがとう、アスカ。僕はその言葉で十分だ』
 シンジは、アスカの想いを噛み締める。それはシンジに訪れた初めての幸せの形。しかしシンジは、辛く悲しい決意を心に秘める。
『でも僕は、アスカになにを残すことができる?』



     ※



「ケンスケ、ちょっと相談があるんだけど」
「うん? なんだ?」
 シンジとアスカが櫓に登った次の日。シンジはケンスケを捕まえて、ひとつの頼み事をした。
「こんなの……つくれないかな」
 シンジは少しの戸惑い混じりに、手書きの絵をケンスケに見せる。
「これ……そうか。自分で作りたいんだろ?」
「うん」
 ケンスケはシンジの想いを推し量った。眼鏡を押さえ、シンジの顔をじっと見る。
「わかった。ちょっと探してみる」

 小一時間ほどの後、ケンスケは両手に一つの箱を持って現れた。
「ハジメ、これでどうだ。できるんじゃないか」
 ケンスケが取り出したのは、厚みのある直径十五ミリ程の金属パイプと金切り鋸、金属ヤスリ、それに紙ヤスリと磨き剤だった。ケンスケは少し、申し訳無さそうな顔をする。
「ステンレスだから磨けば光ると思う。今はこれで我慢してくれ」
 シンジはパっと破顔する。
「ありがとう、ケンスケ。頑張ってみるよ」
「いいって、友達だからな。頑張れよ、ハジメ」
 ケンスケはニッと口元を緩めた。
 その日から、シンジの小さな格闘が始まった。
『たぶん、もうあまり時間がない』

 シンジの毎日は、変わらず過ぎていった。朝は六時に起床。第3村で農作業をし、夕方前には帰宅。時には湖で釣りをする。
 三人分の食事を作り、アスカやケンスケと他愛のない話をし、安心して眠りにつく。そしてまた朝がやってくる。
 毎日が同じように過ぎていくことの幸せ。

 しかし、そのときは思っていたよりも早く来た。
 シンジはアスカの目を盗み、その作業をしていた。その最中にシンジは突然、全身に痺れを感じた。意識を置き去りにして、身体がずり落ちるように感じる。手から力が抜ける。手にしたヤスリが滑り落ちて、カツーンと金属音がした。
 次には意識も遠のいていく。シンジは必死で身体を押さえ、決して失くさないように、両手でそれを握り締める。
『もう少しだけ、もう少しだけ待ってくれ』

 気づくと自分の姿は戻っていた。シンジは周りを見回す。変化は見当たらない。
 シンジはひとつ、大きく息を吐き出した。落としたヤスリを拾い、シンジはまた、それを削り始める。
『運命の神様も、少しは慈悲があるのかな』

 その翌日は、何事もなく過ぎた。シンジの体調にも異変は生じなかった。
 シンジは自分の調子に安堵する。

「ただいまぁ~」
 アスカの声が聞こえた。その声には明るい表情があった。
 アスカは数週間前から、第3村で勉強を教えるようになっていた。かつては十四歳にして大学まで卒業したアスカだ。その頭脳にブランクという文字は無かった。先生にしては少々言葉が悪いのが玉に瑕だが、それも含めてフランクなアスカは子どもたちにも人気があり、『アスカ先生』と慕われるようになっていた。アスカもその生活に、満ち足りた想いを感じていた。
 アスカは想う。
『子どもをかわいいと思う日が来るなんて、想像もしなかったな』
 アスカはまた、自分たちの将来をも想像する。
 まだ二十八歳だ。可能性は海原のように広がっている。
 自分たちにはどんな未来が待っているのだろう。

 アスカは毎日のように、学校での出来事を報告した。
 どんな子がいるとか、ケンカがあったとか、給食が意外と美味しいとか。クルクルと表情を変えてアスカは、ほぼ一方的に話し続けるのだった。
 シンジは、そんなアスカの話を聞くのが楽しかった。これが幸せなんだろうと想った。その幸せを、噛み締めたいと願った。それが可能な限り。



     ※



 シンジはわかった。そのときは遂に来てしまった。
「なんとか間に合った、かな……」
 深夜に起き出し、月明かりの中で手を動かしていたシンジは、出来上がった「それ」を、小さな箱に収める。
 外は薄っすらと明るくなり始めていた。夜明けが近い。

 シンジは小箱を手に、彼の定位置からスッと立ち上がった。近くの簡易ベッドで眠るケンスケの側に立つ。
『ありがとう、ケンスケ。おかげで間に合ったよ。ほんとうにケンスケには助けてもらってばかりだね』
 シンジにできたのは、頭を下げて感謝を述べることだけだ。それがもどかしくて仕方がない。
『あのとき、僕を信じてくれて、ありがとう』

 そしてシンジは、その奥のベッドへと歩み寄った。暗闇の中で目を凝らし、そこで毛布にくるまるアスカの寝顔を見た。その横顔には暗い影はない。
 シンジは言葉に詰まった。掛けたい気持ちはたくさんあるのに、ひとつも言葉にならない。胸がキュッと締め付けられ、目頭が熱くなるだけだ。
 アスカがひとつ、寝返りを打った。細い肩が毛布から顔を出す。シンジは小さく微笑むと、毛布を引き上げ、アスカの肩に掛け直した。
 シンジはアスカの姿を、その目に焼き付けようとする。この先、彼の身に何が起ころうとも、決して忘れることがないように。
 シンジは強い衝動に駆られた。思わずその手が伸びる。アスカの髪に指を通したい。肌の柔らかさを、ぬくもりを感じたい。だがそれは、すでに叶わぬ望みだ。伸ばした手を、シンジはそのまま宙で握る。
 シンジは小箱をベッドの脇に置くと、スッと身を引き、その場を去った。まるで、自分の存在を消去するかのように。

 外に出たシンジは、大きく息を吸い込んだ。朝が始まる空気。夏に向かう空気。彼はその空気を感じながら、あの場所へと歩く。一歩一歩を踏み締めながら。二度と歩むことのないこの道を。
 辺りは緑に溢れていた。紅く浄化された世界はどこにもない。

 湖畔が見えた。彼はそれを初めて見たときのことを想い出す。心を閉ざし、言葉を失い、しかしアスカに背中を蹴り飛ばされるようにして歩き始めた先に見えたそこ。そこはまた、今のシンジがこの世界に出現した場所でもあった。
 湖畔に残る廃墟に、シンジは足を運ぶ。彼は想う。ここでどれだけの時を過ごしたのだろうか。想いは幾多にも積み重なる。

 やっぱり最後はここがいい。
 かつて、NERV第2支部N109棟と呼ばれていたそこ。北の湖の湖畔に残ったそこ。天井が抜け、崩れそうな三面の壁が残る白い廃墟。目の前には広い湖が広がり、水鳥の声が聞こえていた。
 ここは紅い瞳の少女が、その命を燃やし尽くしたところ。シンジにその想いを伝え、シンジがそれを受け取ったところ。シンジが自らの行く先を決めたところ。
 シンジはそこに腰を下ろし、膝を抱えて湖を眺め、朝日を待った。そのときが来るのを待った。

「式波、ハジメを知らないか?」
 アスカは、ケンスケに声を掛けられて目を覚ました。彼の定位置に目を遣ると、そこには几帳面に折り畳まれた毛布だけが残されていた。
「さっき起きたらいなかったんだ。なにか知らないか」
 アスカに思い当たることはなかった。疑問符を頭に乗せたままに起き上がったアスカは、そこに小さな箱を見つける。
 アスカは訝しげにそれを手に取り、箱を開けた。箱の中にあったもの。箱の裏側に印された言葉。一瞬にして、アスカの顔色が変わる。それを握る右手に力が入る。
「ケンケン! シンジが!」
 アスカは、その小箱の意味を理解した。最近のシンジの様子が頭に浮かぶ。その名前を呼んでしまったことにも、アスカは気づかない。
「あのバカ、消える気だ!」
 そのアスカの剣幕に、ケンスケも顔色を変える。
「式波、どうした」
「シンジを探す!」
 アスカは小箱を手にしたままに、勢いよく立ち上がった。

 アスカは着の身着のままで、ケンスケに告げる。
「ケンケンは第3村の方へ。わたしは北の湖の方へ行ってみる」
「わかった。式波、落ち着いて動けよ」
 ケンスケは只事ではないアスカの様子に、それを鎮めるようにトーンを抑えて言った。アスカはうんと頷くと、右手を握り締める。
「わかってる。でもアイツをもう一度ブン殴らないと気が済まない!」

 アスカは走った。あのときシンジを見守ったその場所へ。それは随分前のことのように思えたが、よく考えてみると半年も経っていない。この半年にどれだけのことが起きたのか。走るアスカの脳裏には、再会してからのシンジとの日々が繰り返し再生される。
 太陽が登り始めた。光が眩しい。辺りは朝の引き締まった空気に満ちていた。その中をアスカは走った。アスカは右手に握り締めた小箱を、それを崩さないようにしっかりと握り直す。久しぶりの怒りが沸騰する。
「あのバカ、一発じゃ足りない!」

 アスカはまた想い出していた。最近のシンジの様子を。
最近の彼は優しかった。それは不自然なほどだった。すべてを包むような優しさに満ちていた。アスカはそれが、自分に対する愛だと思っていた。それは確かに、紛うことなき愛だった。そしてアスカは想い出す。シンジの達観したような眼を。その眼の意味に、自分は気づけなかった。アスカは、その自分に対しても怒りをぶつけた。
「わたしも、バカだ!」

 息を切らし、足をもつれさせながら、アスカは走った。第3村に辿り着く前、紅い大地に堕ちた13号機のエントリープラグの中の彼を引っ張り出した、あのときのように。
 湖畔が見えた。白い廃墟が見えた。息が切れる。だが走れ。彼を消さぬために。
 白い廃墟にアスカは辿り着いた。あの頃のことを想い出す余裕はもう、アスカにはなかった。口を半開きにして息を切らし、肩で息をしながら、アスカはシンジの姿を求めて廃墟に駆け込んだ。
 アスカが求めるその姿は、そこにあった。まるで、彼が心を閉ざしていたときのように、シンジはそこに静かに座っていた。
「バカシンジ……」
 間に合った。アスカはそう思った。

 アスカの声に、その後ろ姿は小さく揺れた。
 その姿は、ゆっくりと立ち上がった。しかしアスカはその姿に、息を呑んだ。
 その姿は、ゆっくりと振り返った。しかしアスカはその姿に、言葉を失った。

 その姿は、確かに碇シンジだった。
 だがその姿は、朝日の中で、ガラス細工のように透(す)いていた。その姿を通して、その向こうの湖畔が透けて見えた。
「シンジ、あんた……」

 シンジのその姿。運命を受け入れたような、達観したような笑みを、シンジは見せる。
「アスカ……」
 聞きたかったその声。だがアスカは言葉を紡げない。
「アスカ、ごめん。僕はもう、ここにはいられないみたいだ。僕の、運命みたいだ」
 シンジは自らの運命を、哀しくも受け入れていた。すべてを解し、それに抗わず、それをアスカに告げる。
「僕はもうすぐ消えてしまう。何も言わずに出てきて、ごめん。何かを言うと、泣いてしまいそうだったから。アスカの前で泣きたくなかったから」
 シンジは消え入りそうな笑顔を見せる。
「カッコつけんじゃないわよ! バカシンジ!」
 シンジのその言葉に、アスカは激昂する。
「泣きなさいよ! 喚きなさいよ! アンタここにいたいんでしょ!? 消えたくないんでしょ!? だったらもっと足掻け! カッコつけるな! このバカシンジ!」

 アスカはシンジのもとに走り、勢いのままにその頬を殴ろうとする。
「――っ!!」
 しかし、その右手は哀しく空を切った。アスカの顔に、絶望が映る。
「ごめん、もうダメみたいだ。アスカ、ごめん」
 その姿はますます薄くなっていく。朝日の中でその存在が昇華してゆき、モザイクのように光を細かく反射していく。
「ふざけんじゃないわよ! アンタ、こんなものを残して消える気? アンタは全然変わってない!」
 アスカは握り締めた小箱からそれを掴み出し、今にも見えなくなりそうなシンジに突きつけた。
 それは、鈍く光る指輪だった。少々不格好で、傷も残り、しかし十分に磨き込まれたリングだった。
 シンジは泣きそうな顔で、それでも笑おうとする。
「僕がアスカに残せるものって、それくらいしか思いつかなかったんだ」
 目を閉じて、そこに想いを乗せて、シンジは告げた。
「それは僕の最期の我儘だ。アスカの重荷になるかもしれない、でもそれを残したかった」
「バカ! バカシンジ! カッコつけるなって言ってるでしょ!」
 アスカはリングを手に泣き喚く。そんなアスカの姿を、シンジは見たことがなかった。

 シンジの中のアスカは。
 いつも凛として。
 いつも偉そうで。
 ときには怖いけれど。
 いつも魅力的で。
 そんなアスカにシンジはいつも心焦がれて。

 なりふり構わず叫ぶアスカ。必死でシンジを現(うつつ)に留めようとするアスカ。そこには隠すものはなにもなかった。それはアスカのすべてだった。アスカは全てを曝け出して、シンジを繋ぎ止めようとしていた。アスカのその姿は、シンジの偽りの覚悟を揺り動かした。アスカの想いを知った。アスカの怒りを知った。アスカの求めているものを知った。
 そのアスカの姿は矢となって、シンジの心臓を射抜いた。アスカの姿を、気持ちを、覚悟を、そこに突き刺す矢だ。その矢は痛烈な痛みを伴ってシンジの血液と反応を起こし、シンジの身体中にアスカの全てを伝えていく。シンジは全身でアスカの想いを受け取る。

 何度目だろうか。シンジは、目眩のような感覚を覚えた。いや、今回のそれは、今までとは比べ物にならないものだった。顔の皮膚が剥がれ、脳が内側から破裂し、心臓が巨大な手で握りつぶされるような、自分が崩壊してしまいそうなその感覚。いっそのこと自分など消えてしまえと思ってしまう、その後悔の念。シンジはやっと、再び犯した自分の過ちに気づいた。自分の罪が目の前のアスカに与えたものを、その重さを、その業を、シンジは今、身体で感じ、そして知った。
 しかしそれは既に、手遅れだった。

『また僕は……!』
 シンジの顔は歪み、悔恨の情が彼を支配する。
 シンジの心が痛む。張り裂けてしまいそうなほどに。
 シンジは想う。バカな心は砕けてしまえばいい。自分が消える前に。

 遠くなりゆくアスカの存在。
 アスカの姿は必死でシンジを求めている。
 しかしその姿は、徐々に色褪せていく。
 今にもツイと消え失せてしまいそうなその姿は、ようやく、シンジにひとつの決意を与えた。
 そう、消える前にやるべきことがある。

 シンジはその運命に、懸命に抗う。今の彼にできることは、その気持ちを、その意志を、全身で訴えることだけだ。彼岸に引き寄せられていく自分の身体。それにシンジは全身で逆らう。右手で、左手で、見えない壁に爪を立てる。奈落に落ちていく自分を懸命に堪える。その先に見えるのはアスカの姿。彼が求めるその姿。
 だがその身体はズルズルと彼方に落ちてゆく。抗(こう)するシンジをあざ笑うように、運命の糸は束となって彼を縛っていく。それでもシンジは絶望しなかった。今の彼にできること。それはアスカを求めること。生きる意志を示すこと。

「アスカ……!」
 シンジの手がアスカを探す。
 シンジの手がアスカを求める。
 シンジの手がアスカへ伸びる。
 シンジの手がアスカを掴もうとする。
 だが、シンジの手は宙に消える。

「シンジ……!」
 アスカの手が宙を彷徨う。
 アスカの手がシンジを求める。
 アスカの手がシンジを呼ぶ。
 アスカの手がシンジを掴もうと開く。
 アスカの手が空(くう)を握る。

 シンジの存在は既に空となり、ふたりの手は哀しく空回りする。
 運命と闘うシンジの意識は、次第に現(うつつ)から遠のいていく。視界からアスカの姿が消えていく。
 懸命にシンジを現に留めようとするアスカの視界からも、彼の姿は消えていく。
 シンジの姿は光の粒となり、朝日の中で、春の終わりの桜の花びらのように、ハラハラとアスカの前に散っていく。

 シンジは足掻く。運命に抗う。
 イヤだ! 消えたくない!
 ここにいたい!
 アスカと生きたい!
 シンジは見えない宙を掴み、僅かに残ったその感覚を、意思を、アスカに向けて放つ。

 アスカは藻掻く。運命を拒む。
 畜生!
 なんでシンジが!
 生きろ! シンジ!
 消えるな! 戻ってこい!
 アスカは残滓のような光の粒を掴み、光の向こうのシンジを呼ぶ。引き寄せる。

 シンジは願った。自らの再生を。
 アスカは願った。シンジの帰還を。
 ふたりは願った。自分たちの未来を。

 ふたりを縛る呪縛を振り切り、その手に未来を掴もうと、足掻く。藻掻く。その願いで、想いで、意思で、ふたりの行く先を、自らその手にするために。

 シンジは叫んだ。
「運命なんて知るか!」
 アスカは号哭(ごうこく)した。
「運命なんていらない!」
 ふたりの意思は言葉になり、宇宙(そら)に届く。

『その言葉を待ってたにゃん』

 あの声が、ふたりの心に響いてきた。

 パシャン。
 
 痛哭(つうこく)するアスカの背後で、水風船がひとつ、弾けるような音がした。
 アスカは背後に、なにかの気配を感じた。
 微かに、ざらりと石の床がこすれる音がした。
 光の燃え滓を掴んだ、アスカの動きが止まった。
 スローモーションのように、瞬きもせず、アスカは振り返る。

「……ンジ」

 そこには、碇シンジが出現していた。

 その願いは昨日から明日へ。
 その希望は明日から昨日へ。
 その意思は今そこに。
 それらは螺旋を描き、繰返しの円環から飛び出していく。
 喪失の連鎖を断ち切り、新しい宇宙(そら)へ舞い上がる。

「シンジ!」
 アスカは倒れ込んだままのシンジのもとに駆け寄り、その胸に飛びついた。
「……ッジ!」
 それはもう、言葉になっていなかった。
 シンジは胸の上で嗚咽を漏らすアスカの背に手を回し、抱き締めようとする。
「ははは、うまく力が入らないよ……」
 それでもシンジは必死に、アスカを包み込もうとした。彼の全力で。
「アスカ……」
 シンジはかすれる声で、胸の上のアスカに呼びかける。
「シンジ……」
 アスカもその声に応え、顔を上げた。
 ふたりが逢えたことの意味。抱き締めあった命のかたち。
 求めあったふたりは、その意思で運命をも散らし、ふたりの未来をその手に掴む。

 ふたりはただ抱き合うだけだった。お互いを感じるには、それで十分だった。
 そうしてシンジは、宇宙(そら)を見て笑う。そこに想いを馳せて。
「マリさんに追い返されちゃった」
「『姫を助けろ! オットコだろ!』だって」

 願いは届く。そこに人の意思がある限り。



     ※



 ――マリさんって、何者なんだろう。
 ――ただのお節介焼きよ。親戚のオバちゃんみたいにね。
 ――アスカぁ、オバちゃんは酷いよ。
 ――いいのよ。このわたしが一番よく知ってるんだから。

 ――ありがとう、コネメガネ……ううん、マリ。
またいつか。







   終.会いに


 それはふたりの意思だったのか、それとも誰かの気紛れだったのか。
 確かなことは、いまそこに、ふたりが存在していること。
 大切ことは、二人がふたりであること。
 時は進む。自ら意思を持っているかのように。

 碇シンジが還って来てから、十日後のこと。ケンスケの帰りを待つふたりは、穏やかなときを共有していた。夜の帳が下りるまでにはもう少し時間が必要な、静かなひとときだった。

 アスカは宙を眺める。
「シンジさ」
「うん?」
 アスカは少しの逡巡の後、向かいに座るシンジの胸のあたりを上目遣いに見て言った。

「ふたりで、暮らさない?」

「ほら、いい加減ケンケンのところに厄介になっているのも悪いし、わたしもアンタも第3村まで通勤しているようなもんだし」
 アスカは畳みかけるように言う。
「第3村でふたりで暮らすの、悪くないと思うんだけど……」
 最後にはシンジから顔を逸らし、アスカは口籠るように言った。
 シンジはアスカの横顔に笑みを乗せ、そして自分の想いを伝え始める。
「うん、そうだね……。僕も、アスカに話があるんだ」
「……なに?」
 アスカの応えには不安が交じる。
「僕、少しの間、ここを離れようと思う」
「え?」

 それはアスカの想定を超えた言葉だった。アスカの頭はその瞬間、思考停止に陥った。
「ここを離れて、世界を見て廻りたい」
「なにを……」
 頭から血がさぁっと消え失せたように、アスカは感じた。

 シンジは少し辛そうに、でもアスカの目を見て、伝えねばならないことを口にする。
「ちょうど、KREDITの調査船が来るんだ。世界中を回っていろいろ調査をしているんだって。ケンスケに頼んで、紹介してもらったんだ。雑用係だけど、人手が必要なんだって」
 そこまで言って、シンジは少し、言葉に詰まる。
 シンジはアスカの向こうを見て、続けた。
「僕はやっぱりバカガキだ。もっと大人になりたい。世界を知りたい。僕ができることなんか高が知れてるけど、アスカにふさわしい男になりたい」
 シンジはまた、アスカの顔を正面から見て、想いを伝える。
「だから、ちょっとの間、待っていて欲しい」

 頭の中が真っ白になりかけたアスカは、それでもそれを堪えて聞く。
「どのくらい?」
「一年とちょっと。来年の稲刈り前には帰ってくると思う」
『一年……』
 その期間は、長くはない。だが決して短くもない。ましてや今このときだ。ようやく二人がふたりになれた、このときだ。
 されどアスカは、そのシンジの気持ちが十二分にわかった。彼は彼として色々と考えている。そのことが嬉しい。自分の事のように。いや、それ以上に。

『一年、か』
 待てない時間ではない。アスカはそう想った。
 なにせ自分は十四年待ったのだ。それに比べれば一年など瞬く間だ。
 アスカは頷く。そして笑う。
 アスカはシンジに向かい、舌を出しそうな笑みを見せる。

「こんなにいい女を置いていくんだ」
「ゴメン、それだけが心残り」
「浮気するかもしれないわよ」
「信じてるから、大丈夫」
「シンジが浮気するかも」
「アスカ以外には興味がないから、絶対大丈夫」
「ケンケンとくっついちゃうかも」
「……それだけは困る。どうしよう……」
 それにはシンジも、少し困った顔をした。なにしろシンジには前科がある。
「ふふふ、冗談よ、冗談。こんなにステキなものをもらっちゃったし、一年くらい我慢してやるか」
 アスカは左薬指で鈍く輝く、そのリングに目を遣った。うん、とアスカは頷く。
「ちょっとだけ、一緒に行こうかとも思ったけど、子どもたちにはアスカ先生も必要だしね」


 シンジの出発まで二週間。
 ふたりは第3村に居を構え、生活基盤を整えた。ふたりに引越し荷物が殆ど無かったのは幸いだった。



     ※



 シンジの出発の時が来た。

 ボストンバッグひとつだけを抱えるシンジ。迷いのない笑みを目尻に浮かべている。
「じゃ、行ってくるよ」
「ああ、気を付けてな、碇」

 その言葉に、シンジとアスカは一瞬言葉を失う。
『ケンスケ……碇って……』
 だがケンスケはそれ以上なにも言わず、男臭い笑みを見せた。アスカは目を伏せて小さく頷き、ケンスケの横顔に笑みを見せる。シンジもまた、想い出したように頷く。そうだ、ケンスケはこういうヤツだった。
 シンジはケンスケと、固い握手を交わした。その二人の様子を見て、アスカはまた、うんと頷く。

 アスカは腕を組み、目元に笑みを、口元に少しの不満を浮かべて言う。
「なんだか、ちょっと腹が立つ」
 そして口角を上げ、アスカはそこにも笑みを乗せる。
「わたしを置いていくなんて、やっぱり生意気」
 アスカは冗談交じりに口を尖らせ、そして笑って送り出す。

 シンジとアスカは、あれからお互いに「シンジ」「アスカ」と誰の前でも呼び合っていた。そう、運命は自分たちで掴むものだから。そこには契約も必要ない。

「シンジ、連絡しなくていいからね。その代わりちゃんと帰ってくるのよ」
 アスカもシンジに手を伸ばし、その気持ちを握った手に込める。
「ちゃんと待ってるからね」

 アスカは想う。再びこの手を繋ぐ日のことを。
 シンジは想う。この手のためならば、どんなことでもできると。
 アスカは全てを解したように頷いて、笑顔で一言だけ告げた。

「いってらっしゃい」

 シンジも固く頷くと、身を返して船に向かう。もう彼は振り返らない。
 アスカもその背中を見送ると、身を返してふたりの家に帰る。もう彼女は迷わない。

 ふたりの往く道は、希望へと続く。















 求めることに夢中だった少年少女は
 やがて大人になった

 ふたりが逢えたことの意味を心に
 運命さえも乗り越えて

 たったひとつの願いを叶えるために















  Good bye, all of EVANGELION.

  Thank you.








   【了】














 <APPENDIX>

 一.帰ろう / 藤井 風
 二.名前を呼びたい / 真心ブラザーズ
 三.どこに行ったんだろう、あのバカは / Chara
 四.願い / Perfume
 五.再生 / Perfume
 六.わたしはここよ / Chara (原題:あたしはここよ)
 七.長い夢 / YUKI
 八.もっと近くに - as close as possible - / オフコース
 九.愛を止めないで / オフコース
 十.あなたといきたい / サンボマスター
 終.会いに / フジファブリック

 そのぬくもりに用がある / サンボマスター


 [[jumpuri:PLAY LIST (Spotify)> https://open.spotify.com/playlist/2g1GK9gOHtNpI9Yitw3N0L?si=360de165ff3d4977]]













 <APPENDIX>

 一.帰ろう / 藤井 風
 二.名前を呼びたい / 真心ブラザーズ
 三.どこに行ったんだろう、あのバカは / Chara
 四.願い / Perfume
 五.再生 / Perfume
 六.わたしはここよ / Chara (原題:あたしはここよ)
 七.長い夢 / YUKI
 八.もっと近くに - as close as possible - / オフコース
 九.愛を止めないで / オフコース
 十.あなたといきたい / サンボマスター
 終.会いに / フジファブリック

 そのぬくもりに用がある / サンボマスター



 PLAY LIST (Spotify)



 Menu